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  • 徳川家康像

     徳川家康は、慶長5年(1600年)の関ケ原合戦に勝利し、同8年に朝廷から征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開く。その後、慶長20年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、元和2年(1616年)4月、75歳で死去する。その際、家康は「八州の鎮守」として自身を祀る(まつる)ように遺言し、翌3年、朝廷から「東照大権現」の神号を贈られ、神として祀られた。
     以後、日光東照宮をはじめとして、神格化された家康を祀る東照宮が江戸時代を通じて各地に建てられていく。そこでは家康を神として描いた肖像画が祀られたが、本図はそうした神像のうちの一つである。
     中央に繧繝縁(うんげんべり)の上畳に座す束帯姿の家康が描かれている。右手に笏(しゃく)を持ち、左手は腰に佩用する太刀が添えられている。頭上には御簾(みす)と帳(とばり)が描かれ、前面には高欄がめぐり一対の狛犬が据えられている。神格化された家康の典型的な構図である。
     ただし本図は、素朴な描写となっていて写し崩れも見られるため、絵師たちによる転写を重ねた後世の作と推定される。こうした神像は、各地の東照宮のみならず様々な地域において祀られていくが、本図はその中で作成されたものの一つなのだろう。
    (資料番号:85975327)

  • 徳川家康書状
    徳川家康/筆
    1595年(文禄4年)4月4日

     1595年3月28日、京都の徳川家康邸では、豊臣秀吉の御成りがあった。主君を自らの邸宅に招くことは、大名家の晴れの舞台。豊臣家の重臣であった家康にとっても名誉なことだった。家康はそのことを手紙の後半で報告している。
     宛先は大和中納言と呼ばれた豊臣秀保。豊臣秀吉の弟・秀長の養子で、関白となった秀吉の甥・豊臣秀次の実弟でもあった。天正19年(1591年)、わずか13歳で家督を継ぎ、文禄・慶長の役でも肥前名護屋に赴いた。秀吉は、中国や朝鮮を征服した後、秀保を日本の関白職に任命することも考えていたといい、周囲も豊臣家の将来を担う人物として期待していた。この書状が出された時、秀保は病気を治療するため、湯治に赴いていた。家康は書状の前半でお見舞いを述べ、病状を案じている。
    家康は豊臣政権下において、秀吉の没後に国政を任されるほどの重鎮であった。しかし石田三成や宇喜多秀家、上杉景勝らとは一線を画していた。いつの時代でも政権内の派閥争いはつきもので、結果として関ケ原の合戦で反対派閥を一掃するが、家康の政権内での地位は決して盤石ではなかった。
    家康は秀保に宛てた書状で、御成りという大きな行事の成功を共に喜んでもらい、病気からの全快を心から祈っているとの思いを託したにちがいない。しかし、家康の願いも虚しく、書状を出した12日後、秀保はわずか17歳で他界してしまう。
    (資料番号:10200247)

  • 高島おひさ
    喜多川歌麿/画
    1793年(寛政5年)頃

     <愛嬌も茶もこほれつゝさめぬ成りよいはつ夢のたかしまやとて>
     これは、本図左上の短冊に記されている狂歌。水茶屋の看板娘、おひさの人柄を表した一句である。
     溌剌とした眼差しを向け、誰かに声がけしている愛らしい口元。未婚の女性が結った燈籠鬢島田髷の流れるような髪型。17歳前後の年頃。彼女目当てにどれだけの江戸っ子が訪ねただろうか。
     おひさは、江戸両国薬研堀米沢町2丁目(現在の中央区東日本橋2丁目あたり)の煎餅屋、高島長兵衛の娘。家業の水茶屋を手伝っており、手に持つ団扇の三ツ柏紋は、高島屋の印である。錦絵に遊女以外の女性の名を記すことが寛政5年に禁止されており、団扇の家紋と狂歌によって、おひさであることを示している。
     寛政4、5年の江戸の街では幾人かの女性が人々の話題を集めていた。水茶屋の看板娘の評判に的を当てた刷り物も出ており、なかでもおひさは、浅草随身門脇の難波屋おきたと人気を二分した市井のアイドルであった。これに吉原玉村屋抱えの芸者、富本豊雛(一説に芝神明前の菊本おはん)を加え「寛政の三美人」ともたたえられた。
    喜多川歌麿は、本図の「高島おひさ」と対になる「難波屋おきた」も描いている。顔の表情を微妙に描き分け、個性を浮き彫りにした歌麿の描く美人は、大きな評判を呼んだ。
    (資料番号:16200004)

  • 第三回内国勧業博覧会組上絵
    歌川国利/画
    1890年(明治23年)

     組上絵は、子供向けにつくられた「おもちゃ絵」の一種。現代のペーパークラフトの源流ともいえるが、消耗品であるため残されたものは少ない。本資料は貴重な作品である。
     江戸時代から明治にかけて活動した文人・斎藤月岑(げっしん)が記した「武江年表」には、「児輩(じはい)の玩ぶ切組燈籠絵は上方下りの物なり」と記述がある。組上絵の発祥は上方で、お盆に作る燈籠を玩具化したものがルーツとされる。「立版子(たてばんこ)」「切組」「組上燈籠」と呼ばれることもある。
     組上絵は、絵が描かれた和紙に裏打ちを行い、糊しろを貼り、組み立てて作る。本資料は3枚続きで1組となっているが、最小限の説明と完成図が余白部分に書かれているのみだ。限られた紙面に、どれだけ無駄なくパーツを配置するかは絵師の腕の見せ所で、本資料を描いた歌川国利は組上絵を得意としていた。
     本資料の題材である内国勧業博覧会は、殖産興業が本来の目的あった。政府は物見遊山で訪れることを戒め、娯楽性を排除しようとしていたが、「見世物」としての性格を打ち消すことは難しかったようだ。組上絵の題材に選ばれたのも、博覧会が人を魅きつける「見世物」ととらえられたからかもしれない。
     出来上がりを想像しながら、画面いっぱいに使った構図の妙と人々を魅了した博覧会の雰囲気を感じ取っていただきたい。
    (資料番号:88202855〜88202857)

  • 合名会社三井呉服店より株式会社三越呉服店へ営業譲渡の挨拶状
    合名会社三井呉服店、株式会社三越呉服店/発行
    1904年(明治37年)

     三井越後屋呉服店は、江戸の名所絵にも描かれるほど繁盛したが、幕末の急激な物価高騰や、幕藩体制の崩壊により、深刻な経営危機に陥った。
     そこで1872年(明治5年)、井上馨ら明治新政府の首脳は、三井家に銀行設立に専心させるため、不振の呉服店を三井家から分離するよう勧告。家業だった呉服店の分離をしぶしぶ受託した三井家は、三井の「三」と越後屋の「越」の字をとって三越家を創設し、三井家から呉服事業を三越家に譲渡することになった。
     その後、86年に洋服部を新設して政府高官の洋装化に対応し、翌年には政府の群馬県新町紡績所の払い下げを受けるなど新たな需要に応え、経営を改善していった。そして93年には、三越家は三井姓に復姓することが認められ、三越は三井家の家業に戻り、合名会社三井呉服店が誕生する。
     ところが1904年(明治37年)、三井銀行、三井物産、三井鉱山と比べて、事業規模の小さい三井呉服店は、三井家の事業再編の過程で、再び三井家から分離されることになり、株式会社三越呉服店として独立した。このような経緯で三井から三越に営業譲渡されたことを顧客や取引先に伝えたのが、今回ここで紹介した資料だ。
     米国で行われている新業態であるデパートメントの実現を打ち出したこの挨拶状は、日本初の「デパートメントストア宣言」として歴史に名を残した。
    (資料番号:89205569)

  • 東京案内パンフレット「帝国ホテル」

     日本に建てられた幾多のホテルの中で、屈指の名建築はどれか?
     そう聞かれたら、多くの人が帝国ホテルをあげるだろう。
     アメリカが生んだ天才建築家、フランク・ロイド・ライト(1867〜1959)。帝国ホテルは、ライトが日本に残した不朽の名作である。当時、公私にわたる問題を抱え、仕事を失い困窮の中にあったライトは、帝国ホテルの支配人・林愛作(はやしあいさく)の依頼を受け、全力でとりくんだ。家具から食器にいたるまでライトがデザインした帝国ホテルは、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の当日にオープンした。
     大地に根を下ろしたような強い水平性、大谷石とスクラッチタイルという斬新な素材、建築内外の豊穣な装飾。日比谷公園の向かいに忽然と立ち現れた未知の建築表現は、日本の建築家に圧倒的な衝撃を与え、「ライト式建築」と呼ばれる多くの模倣を生み出した。
     関東大震災で多数の建物が倒壊する中で、帝国ホテルは軽微な被害にとどまった。ライトは再び名声をとり戻し、カウフマン邸/落水荘(1936年)、グッゲンハイム美術館(1959年)といった名作を生み出していく。
     彼がアメリカ以外で唯一作品を遺した日本、その首都・東京に建った帝国ホテルは、67年(昭和42年)、営業上の理由から取り壊された。正面玄関部は博物館明治村(愛知県)に移築されたとはいえ、ライトの魔術的空間に宿泊することはもうできない。
    (資料番号:89211229)

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