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  江戸東京博物館

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  • 東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図
    歌川広重/画
    天保期(1830〜1844)

     河川と人工の堀が縦横にめぐらされた江戸には、大小多くの橋があった。その中でも、各地につながる五街道の起点とされ、多くの人々が行き交った日本橋は、格別の存在だった。橋の上からは、富士山や江戸城を見渡すことができ、一帯は船で運び込まれた荷物が陸揚げされる商業の中心地だった。
     日本橋の北側、本船町(ほんふなちょう)から本小田原町付近は「魚河岸」と呼ばれ、毎朝、生きのいい魚が荷揚げされていた。作品中央に描かれた日本橋川をみると、酒樽や米俵を積み上げて往来する多くの船に交じって、細長い船形の押送舟(おしおくりぶね)と呼ばれた鮮魚専用の高速運搬船が描かれている。
     題名にある魚市は画面下方で、運び込まれた鮮魚を仲買商人たちが売買している。サイズの大きい鯛などの上等魚は、公儀御用として江戸城に上納された。残った鮮魚は棒手振(ぼてふり)たちによって江戸市中に売りだされ、庶民の胃袋を満たした。
     町々を区切る木戸や高い梯子が備え付けられた「自身番」と呼ばれる番屋も丁寧に描き込まれていて、高い写実性も見所のひとつである。
    (資料番号:90207421〜23)

  • 江戸府内絵本風俗往来 下巻
    菊池貴一郎/著
    1905年(明治38年)

     江戸の町に、自身番屋という施設があったことをご存じだろうか。自身番屋とは、町奉行所からの法令を伝達し、町内の治安維持・防火対策などの実務処理や寄合(会合)を町人が行うため、各町の出入口の木戸際に設けられた施設のこと。町の自治において、とても重要な役割を果たした施設である。
     本図は、「江戸府内絵本風俗往来」上・下巻のうち、下巻に掲載されている挿絵で、自身番屋の様子が描かれている。
     作者・菊池貴一郎は、嘉永2年(1849年)生まれで、四代歌川広重を名乗った浮世絵師。幕末から明治を生きた貴一郎が、少年の頃に見聞きした江戸の年中行事や、市井の様々な事柄を文にし、挿絵を加えたものだ。
     右下に「自身番のはるづめ(春詰)」と書かれており、描かれているのは正月15日の小正月前日の様子だとわかる。さしたる仕事がないのか、自身番屋に集まった者たちは読書をしたり、将棋に興じたりしている。
     窓の外の軒桁から下がっているものは、木の枝を花のように削った小正月の飾り「削り掛け」だ。屋内の天井からは、見廻りに使う提灯がたたまれて吊るされ、壁には消防活動に使った鳶口が見える。
    (資料番号:89201873)

  • 正受院の奪衣婆
    歌川芳虎/画
    江戸末期(1842〜1867)

     雲の上に座っている人物は、内藤新宿(現新宿区)の正受院(しょうじゅいん)に祀られた奪衣婆(だつえば)で、江戸の流行神を代表するものの一つである。流行神とは、噂話や語りが伝えられていくうちに次第に信仰と結びつき、祀りあげられた対象のこと。この奪衣婆も、何事も願いを叶えてくれるという評判が広まり、嘉永元年から翌年(1848〜49年)にかけて正受院は突如として参詣者でにぎわったという。
     奪衣婆は、この世とあの世の境界である三途の川にいて、川の渡り賃の代わりに死者から衣服を奪う老婆として知られていた。いつしか咳止めの祈願にもご利益があるといわれるようになり、人々の信仰を得て神とみなされた奪衣婆は数多くの像が造られた。特に正受院の奪衣婆は、祈願者が頭に綿をかぶせたことから「綿のおばば」とも呼ばれていた。
     本図を見ると、白い綿をかぶる奪衣婆に向かって10人の男女が口々に何かを訴えているのがわかる。これこそ各人の願い事であり、「自分の好みの恋人や結婚相手を授けてください」「出ている頬を引っ込めてほしい」など、思うがままに願をかけている。現代の私たちも思わず願ってしまうような、ざっくばらんな願望が多くを占める。千差万別の願いが記された出版物を手にした当時の人々は、こんな願いも叶えてくれるのかと、新たな参詣客になったことだろう。著名な絵師に依頼して制作した、版元の期待が見え隠れする。
    (資料番号:95201520)

  • 江戸名所百人美女の内 御茶の水
    歌川豊国(三代)・歌川国久(二代)/画
    1857年(安政4年)

     江戸名所百人美女は、多様な身分や職種の女性を描いた、百枚に及ぶシリーズ版画だ。美女を描いたのは三代豊国。豊国にとっては晩年の作品で、上部には門人である二代国久が手がけたコマ絵が配置されている。
     本図は、そのうちの「御茶の水」の題がついた一枚。御茶の水は、江戸初期に神田川の放水路として掘割が作られ、現在にも見られる渓谷のような地形が形成された。川に臨む高い崖には木が茂って、茗渓や小赤壁とも呼ばれ、風光明媚な江戸名所の一つであった。
     ここでは、川で洗濯する女性の姿が描かれている。江戸時代の洗濯は、川の水やたらいにためた井戸水を使う「手もみ洗い」と、縫い目を一度ほどいて洗う「洗い張り」の二つが主流だった。まだ洗剤はなく、汚れを落とすには、灰を溶かした水の上澄みを集めた灰汁(あく)や米のとぎ汁を使っていた。
     また、この女性の着物は「中形染め」、その裾からのぞいているのは「有松絞り」という当時流行の絞り染めで、どちらも江戸の庶民に好まれていた。これらは木綿地に藍で染めたものが代表的、木綿の丈夫さや経済性に、藍との相性の良さが加わって日常着として普及した。洗濯の光景という日常を描いた中に見える、生地の柄や藍の色合いなどの細かいこだわりにも注目してほしい。
    (資料番号:91220137)

  • 絵葉書「(南)凌雲閣ヨリ浅草公園及ビ蔵前方面ヲ望ム」
    明治40年代

     かつて浅草にあった凌雲閣からの眺めを写した絵葉書。上部には記念のスタンプが押されている。凌雲閣は1890年(明治23年)、浅草寺の北西に開業したレンガ造りの展望塔で、「浅草十二階」とも呼ばれた。開業当時の報道では高さ220尺(約67メートル)とされ、11,12階の展望所からは東京の街が一望できた。
     この一枚は、展望所から東西南北の眺めを写した4枚セットの絵葉書のうち、南の方角を写したもの。眼下に「瓢箪池」と呼ばれた池が広がり、幟が並ぶ池沿いの道を人々がそぞろ歩いている。凌雲閣の南は、寄席や芝居小屋が軒を連ねる興行地で、瓢箪池を開削した土で造成された。84年(明治17年)に浅草公園が区分けされた際に、第六区画が興行地に指定されたため、浅草観音堂裏の奥山の見世物小屋が移転して盛り場「六区」が形成された。
     六区は1903年(明治36年)、日本初の活動写真常設館「電気館」の開設をきっかけに、さらなる変貌を遂げた。派手な外観の活動写真館が次々と開業し、日本随一の映画街へと発展したのである。この絵葉書の右手中央には、08年(明治41年)に玉乗りの見世物小屋から活動写真館にくら替えし、10年に改築した「大勝館」が工事中の状態で写っている。2012年(平成24年)10月、浅草最後の映画館が閉館し、六区映画街はその歴史に幕を引いたが、この絵葉書は「六区」移り変わりを伝えてくれる。
    (資料番号:88132881)

  • 疎開先で使用したアコーディオン
    トンボ楽器製作所/製
    1944年(昭和19年)頃

     太平洋戦争の戦局が日に日に悪化していった1944年(昭和19年)6月30日。政府は、国民学校の3年生から6年生までの学童の疎開を強く促進することを閣議で決定し、都も9月末までのわずかな間に学童の集団疎開を完了させた。
     今回のアコーディオンは、ハーモニカの製造で知られるトンボ楽器製作所が製作し、世田谷区の八幡国民学校(現在の世田谷区立八幡小学校)5年の女子児童が、長野県の疎開先で使っていたものだ。
     この児童が、長野県飯田市内の旅館に集団疎開したのは44年8月。疎開先では、地元の丸山国民学校(現在の飯田市立丸山小学校)に通う一方、薪拾いなどの手伝いもしなければならなかった。拾った薪はひもで背中にくくりつけて寮まで運ぶが、途中でくくりつけたはずの薪が崩れ、背中にあたり辛かったという。
     そうした日々の暮らしに楽しさを添えるため、面会に来た母が家から持参したのがこのアコーディオンだった。友人たちと小学唱歌や軍歌を歌ったり、演芸会などで使用されたという。
     女子児童は、疎開先で45年8月に終戦を迎えた後、11月に帰京した。疎開先で苦楽を共にしたアコーディオンはその後も大切に保管され、当時の記憶を今に伝えている。
    (資料番号:91005633)

  • 自動式電気釜ER-5型
    東京芝浦電気株式会社/製
    1955年(昭和30年)

     電気の力で米を炊く、という考えは大正時代から実用化が試みられ、いくつかの製品が誕生していたが、自動ではなかったため普及しなかった。その自動化を初めて実現したのが、今回紹介する「自動式電気釜」である。
     電気釜誕生のきっかけは1950年(昭和25年)、東芝社内で行われた会議の席上だった。当時、同社内には、あらゆる電気器具を作り、電気店の店頭を東芝製品で満たそうという機運があり、電気釜は、その開発予定製品の一つとなった。背景には、「アメリカの電化生活へのあこがれ」と「家事労働の軽減」がある。
     製品化にあたっては、既存の製品の構造を確認するとともに、「米が炊ける」仕組みの科学的な検証が行われた。その結果、わかったのが「98度以上の熱を加えると約20分で炊ける」という事実。米を炊く釜のほかに、20分で蒸発する分量の水を入れる釜を用意し、その水が蒸発し釜の底の温度が上がるのを感知してスイッチが切れるという、自動式電気釜が完成した。
    各地で実演販売が繰り返され、これが功を奏して、最盛期には月15万個製造しても需要に追いつかないほどの大ヒット商品となった。
    (資料番号:91001636)

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