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  • 関ヶ原合戦絵巻
    1847年(弘化4年)

     石田三成、島津義弘、宇喜多秀家の軍勢が布陣し、遠くの山には小早川秀秋の陣も見える。美濃国関ヶ原で今にも合戦が始まらんとする様子が描かれている。関ヶ原の合戦を描いた絵巻物の一シーンである。
     全体では豊臣家大老・奉行の評定に始まり、伏見城攻め、岐阜攻め、真田家の上田城攻め、そして関ヶ原の戦場が描かれている。合戦に至る経過が描かれた作品である。
     合戦は、1600年(慶長5年)9月15日に美濃国であった。この合戦に勝利した徳川家康は江戸幕府への道を大きく切り開くことになる。まさに天下分け目の合戦であった。
     関ヶ原合戦絵巻は、多数の写本が伝えられている。残念ながら原本は発見されていないが、いずれも江戸時代後半に書写されたもので、おそらくは各地の大名家で所蔵されたものと思われる。作品によっては自らの家に関わる記事を加えているものもある。制作の契機は不明であるが、同じ内容の絵巻物が各所で制作され、所蔵されたことを考えると、江戸時代の後期に関ヶ原の合戦を顕彰し、さらに祖先の活躍を伝えようとした動きが思い浮かぶ。
    (資料番号:96200017)

  • 東海道中膝栗毛
    十返舎一九/作・画
    1802年(享和2年)〜1822年(文政5年)

     弥次郎兵衛と喜多八の通称「弥次・喜多」二人組が、わけあって江戸をたち、東海道を旅する様子を記した滑稽本である。膝栗毛とは、自分の膝を栗毛馬代わりに使う徒歩の旅を意味し、伊勢参りに出かけた二人が旅の途中で巻き起こす失敗や、遭遇した事件の数々が挿絵を交えてつづられている。
     江戸中期以降、庶民の間に広まった旅の流行を背景に大人気を得た「弥次・喜多」は、当初の目的だった伊勢参りを終えた後も京都・大坂へと足をのばした。1802年(享和2年)の初編刊行から最後に加えられた旅の発端編までに13年を要しただけでなく、続編も合わせると完結まで通算21年に及ぶ一大長編作となった。
     作者の十返舎一九は駿河国の武家に生まれ、一度は町奉行に仕えるも浄瑠璃作者に弟子入りした人物。版元の蔦屋重三郎に見出されて戯作者として活動をはじめた。「東海道中膝栗毛」の執筆開始時は38歳で、挿絵も自ら描いている。文筆業のみを生業にしたといわれ、1831年(天保2年)に67歳で世を去るまで、500を超える著作を残した。
     「東海道中膝栗毛」は文学史における滑稽本の始まりであり、代表作と位置づけられる。寛政の改革による取り締まりで閉塞感が漂う出版界を再び盛り上げたのは、面白おかしさに徹したこの滑稽本だった。江戸の浮世に笑いで風穴を開けた「弥次・喜多」珍道中は今日も映画やテレビ、漫画など様々なメディアに展開し、時代と世代を超えて愛され続けている。
    (資料番号:86200139〜86200161)

  • 見立番付「諸国名所附」
    江戸後期(1746〜1841)

     当館のある両国ではその場所柄、大相撲が開催される時期になると相撲の番付をよく目にする。番付とは力士の順位表のことで、東西に分かれた表組のなかで、強い力士ほど上段右側に並び、太字で表されるため、一目で順位がわかる印刷物である。
     この相撲番付にならい、さまざまなテーマを順位づけしたものが見立番付である。今回紹介する「諸国名所附」もその一つで、表題の通り日本国中の名所をランキングしている。行司の松島や天橋立をはじめ、東の方の上位には信濃の更科、江戸の隅田川、西の方では大和の吉野里、山城の大炊川(大櫃川)といった現在でも知られる地名などが見え、江戸時代の人びとが選んだ名所がわかる。これを見ると、江戸の人びとが日本全国の名所について知識を持っていたようだ。
     見立番付が盛んに出版されるようになったのは江戸時代後期の文化・文政期頃からとされる。特に江戸では、ペリーが来航した頃から明治初期頃にかけて数多く制作された。手に入りやすかった見立番付は庶民の楽しみの一つであり、重要な情報源ともなっていた。
    (資料番号:98200408)

  • 官板実測日本地図のうち畿内・東海・東山・北陸道
    1867年(慶応3年)

     江戸時代末期、国内外の情勢が緊迫する中、西洋の学問を調査・研究・教育する機関の設立が幕府に求められた。これを受けて1856年(安政3年)、九段下に蕃書調所が設置された。以後その活動は多様化していき62年(文久2年)には一ツ橋門外へ移し洋書調所と改称、その翌年にはさらに拡大して開成所と改められ、幕府の教育機関の中でも最も重要な位置を占めることとなった。
     この開成所から刊行されたのが、今回紹介する地図である。この地図は21年(文政4年)に完成した伊能忠敬の「大日本沿海輿(よ)地全図」のうち「小図」といわれる地図をもとに製作されたものである。
     伊能忠敬は、1745年(延享2年)に上総国山辺郡(現在の千葉県九十九里町)で生まれた。17歳の時に下総国香取郡佐原村(同香取市佐原)の旧家、伊能家の婿養子となった。50歳で隠居し江戸深川黒江町(現在の江東区門前仲町)に居を構え、幕府天文方の高橋至時(よしとき)に弟子入りし、最新の西洋の暦法や測量技術を習得、55歳で初めて蝦夷地と奥州街道を測量した。以後、計10回にわたり日本各地を実測し「大日本沿海輿地全図」の作製を行ったが、その完成を見ることなく1818年(文政元年)に73歳の生涯を閉じた。
     この労作をほぼそのまま木版刷したのが本図である。
    (資料番号:91221131)

  • 東京名勝図絵 ホテル館庭上の図
    歌川広重(三代)/画
    1868年(明治元年)

     1868年11月に築地に開業した外国人旅館(通称・築地ホテル館)を描いた錦絵である。幕府と諸外国の修好通商条約によって横浜などの開港が決まり、江戸でも交易が始まることとなった。これを受けて築地居留地内に外国人向けのホテルが建てられた。
     設計は、新橋駅の設計で知られる米国人建築家のR・ブリジェンス。工事は清水屋(現・清水建設)の二代目清水喜助が請け負った。政情が不安定な中で工事は進み、新政府下で開業した。
     築地ホテル館は、塔を備えた西洋建築だったが、外壁になまこ壁を張り巡らせるなど伝統的な和風の要素も取り入れられ、擬洋風と呼ばれる建築様式だった。当時の英字新聞で「Yedo Hotel」と紹介され、客室からの富士山の眺望や東京湾に面する日本庭園が名物だった。ホテルを描いた錦絵は100種を超え、中には豪華なものもあったが、本資料は開業と同時に世に出た、庶民でも手にしやすい安価な一枚物の錦絵だった。
     しかし、築地居留地は貿易港を抱える横浜ほど繁盛せず、やがてホテルは経営難に陥った。休業と再開を繰り返した後に海軍に売却され、残念ながら1872年(明治5年)2月の「銀座の大火」で全焼してしまった。
     同年5月には新橋・横浜間に日本初の鉄道が仮開業。銀座にレンガ街が完成するなど、その後、この一帯は短期間で大きな変貌を遂げていく。こういった新名所を描いた錦絵は次々と出回るようになり、人々に楽しまれた。
    (資料番号:95202788)

  • 大正大震災双六
    山村耕花/画
    1924年(大正13年)頃

     この資料は、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災を題材にした双六である。振り出しをもじった「ゆり出し」で始まり、震災後の様子を描いたマスを辿って、上がりの「生命・財産・安全」を目指す。
     各マスには、サイの目に応じた移動先が書かれ、それに従って進む。最初に出た目で「家の中」か「避難所」のどちらに行くかが決まる。「避難所」からは、実際の避難場所であった日比谷公園や丸の内、浅草公園、上野公園などのマスに移動する。そこにはバラックやテント、青空理髪、スイトン、牛丼などの屋台、皇居のお壕での水浴などが描かれ、避難生活の様子を詳細に表現している。
     各避難場所からは、運次第で様々なルートを辿る。最もゴールが難しいのは「遭難」のマスに進んだ場合で、2分の1の確率で死亡し、「ゆり出し」に戻ってしまう。けがをしたり病気になったりして「赤十字外各救護班」に行ったり、迷子になったりすることもある。
     マスの中には出会い、蘇生、出産のほか、住宅の修繕が決まる「御目出度(おめでた)」などもあり、サイの目によってはゴールへのルートが開かれる。
     双六という遊戯で被災の様子を辿ることに抵抗はある。しかし、やすやすと上がることができない設定だからこそ、当時の人びとの苦労の大きさと再生への強い思いが伝わってくる。
    (資料番号:88200433)

  • 富士銀行貯金箱ギリシャのボクちゃん
    1964年(昭和39年)

     真ん丸い黒目に、ぷくっと膨らんだ頬、ニコッとこちらに笑顔を向ける男の子は、「ボクちゃん」と名付けられた人形型の貯金箱。「個人預金増強」を目標に掲げた富士銀行(現みずほ銀行)が、6月と12月のボーナスの時期に合わせ、景品として店頭配布したものだ。
     同銀行の資料によると、当時の広報担当者が自宅で1歳になったばかりの子供を見ていた時に思いついたデザインという。1962年からの7年間で、世界各地の衣装をまとった計16体のボクちゃんが誕生した。
     写真は64年6月に登場した、古代ギリシャ風の衣装をイメージした貯金箱。東京五輪が開催されたこの年は、日本選手団の赤いジャケットに白い帽子を手に持ったパターンも作られた。同年12月には、次の開催地であるメキシコの衣装を着たボクちゃんも登場。愛くるしい見た目もさることながら、帽子や手に持つアイテムが着脱できる種類もあり、新作を待ちわびる人びとの期待に応えようとする製作者の姿が想像できる。
     次の衣装を選ぶため、アラビアン・ナイト風とイギリスの近衛兵、闘牛士の計3体の人気投票が行われたこともある。最終的に全てのボクちゃんが日の目を見ることになったが、投票のため窓口に足を運ぶことで、「気軽に来店できる銀行」というイメージを定着させようとする広報戦略もうかがえる。
    (資料番号:97001330)

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