注目のコレクション

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  • (野々村忠実像)
    C.D.フレデリックス
    1860年
    ダゲレオタイプ

    安政5(1858)年に結ばれた日米修好通商条約の条約書交換のため、副使村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)の従者として安政7(1860)年アメリカへ渡る。忠実が記したとされる遣米使節の航海記録が現在に残る。

  • (小島柳蛙とその家族)
    小島柳蛙
    1873年頃
    アンブロタイプ

    小島柳蛙(1820-1882)は、叔父である大垣の蘭方医飯沼慾斎のもとで化学や写真を学んだ。明治3(1870)年ごろ郷里の岐阜で開業し、この地方の写真館の草分けとなる。本作は複数の画像を合成して一枚とした実験的な性質の作品。自写像である《小島柳蛙像》や妹を撮影した《小島とを像》を含め、開業前に制作された実験的作品であると考えられる。

  • 小島柳蛙像
    小島柳蛙
    1865-68年頃
    アンブロタイプ

    小島柳蛙(1820-1882)は、叔父である大垣の蘭方医飯沼慾斎のもとで化学や写真を学び、研究した。明治3(1870)年ごろ郷里の岐阜で開業し、この地方の写真館の草分けとなる。本作や妹を撮影した《小島とを像》などを含め、開業前に制作された実験的作品であると考えられる。

  • 小島とを像
    小島柳蛙
    1865-68年頃
    アンブロタイプ

    小島柳蛙(1820-1882)は、叔父である大垣の蘭方医飯沼慾斎のもとで化学や写真を学び、研究した。明治3(1870)年ごろ郷里の岐阜で開業し、この地方の写真館の草分けとなる。本作は妹を撮影した作品や自写像である《小島柳蛙像》などを含め、開業前に制作された実験的作品であると考えられる。

  • 多田吉甄像
    堀与兵衛
    1868年
    アンブロタイプ

    多田吉甄(1845-1903)は、佐賀藩(現・佐賀県と長崎県の一部)の侍。戊辰戦争に出征したが、家督継承者であったため、戦場に至るまでに帰藩したという伝承が残っている。特徴のある敷物から京都の堀与兵衛の撮影であることがわかる。刀が大きく感じられることから矮躯な人物であるように見えるが、六尺(約180センチ)の人物で、佩いている刀も大太刀であったことが伝えられている。

  • (徳大寺公弘とひとりの男性)
    江崎禮二
    1876年
    アンブロタイプ

    江崎禮二(1845-1910)は、岐阜県の出身で柳川春三の『写真鏡図説』から独学で写真術を学び、明治3(1870)年に東京に出て、写真術を下岡蓮杖その他に学んだ。明治6(1873)年浅草公園にこの写場(スタジオ)を開いた。明治16(1883)年に輸入したゼラチン乾板を用いて、日本ではじめて短艇競争や水雷の爆発を瞬間撮影し、自らを「早取写真師」と称した。明治31(1898)年には東京市議会議員に選ばれ、浅草凌雲閣の社長も務めた。なお、本作は明治7年の年記があるアンブロタイプで、開業してまもなくの作例で、乾板で名を馳せた江崎禮二によるアンブロタイプはきわめて珍しい。

  • 『日清戦争実況写真 第一号』より
    鹿島清兵衛
    1894-95年頃
    鶏卵紙

    鹿島清兵衛(1866-1924)は、「写真大尽」と呼ばれた人物。酒問屋の莫大な資産を背景に歌舞伎座での大掛かりな照明による撮影や、富士山の巨大なプリントを制作して宮内庁に献上するなど、贅を極めた写真制作を行った。しかし、晩年は養家から離縁され、困窮の中で死去した。

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