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  • 梅の枝を活ける女性
    下岡蓮杖
    1863-76年
    鶏卵紙

    東京都写真美術館には150点におよぶ名刺判写真(鶏卵紙・鶏卵紙に手彩色)を収蔵する。
    蓮杖の名刺判写真には、裏面にスタンプが押されているものと押されていないものがあるが、敷物や屏風など写り込む小道具によって蓮杖の作品であることが判明する。この作品にはスタンプが押されている。

    下岡蓮杖(1823-1914)
    江戸時代末期、開港とともに夜明けを迎えた日本の初期写真史において、最も重要な写真師の一人。日本人初の営業写真師としては鵜飼玉川*1 がわずかに早いものの、「写真開祖」の一人として日本写真界の第1世代を築いた人物です。同時期に活躍した長崎の上野彦馬*2 に対し、東の蓮杖とうたわれ、横山松三郎、臼井秀三郎、鈴木真一など、後の日本写真史を継承する多くの優れた弟子を輩出しました。

    *1 鵜飼玉川(うかいぎょくせん)…1807−1887年 写真師
    日本で最古の商業写真家とされる。下岡蓮杖よりもわずかに1年ほど早い1861年に肖像写真を撮影したとされる記録が福井松平藩の御用日誌にも残る。

    *2 上野彦馬(うえのひこま)…1838−1904年 写真師、蘭学者
    長崎医学伝習所に入所し、化学を学ぶなかで写真術と出会い、写真技法の研究に着手する。
    日本初の写真技法書をふくむ『舎密局必携』を記したことでも有名。

  • 下岡蓮杖像
    制作者不詳
    1911年頃
    ゼラチン・シルバー・プリント

    1844年、蓮杖は絵師としての生活のなかで1枚の写真(ダゲレオタイプ)に出会います。
    「毛筆の及ばざる所世此の妙技あり、(中略)筆を折り、刷毛を砕き茫然たるもの数日ついに之を学ばんと決意す」とその衝撃を後年に語るように、この写真との出会いから写真師・下岡蓮杖が誕生します。写真技術の習得を志して人脈を求めた蓮杖は、横浜の開港を機にジュリア(のちのラウダ夫人)と共にアメリカ人写真師・ウィルソンに写真を学びました。ウィルソンの離日にともない、写真機材一式を譲り受けて1862年に写真館を開業させます。当初は技術的な面や薬剤の調合などが難しく、苦労します。
    やがて技術と経営が安定すると、日本の風俗、風景、人物をモチーフとした名刺判写真が訪日外国人に人気を博しました。1863年初頭までに横浜・弁天通りへ写場を移転し、写真師・蓮杖の名を広めていきました。その後、1876年頃まで第一線で活躍します。

    下岡蓮杖(1823-1914)
    江戸時代末期、開港とともに夜明けを迎えた日本の初期写真史において、最も重要な写真師の一人。日本人初の営業写真師としては鵜飼玉川*1 がわずかに早いものの、「写真開祖」の一人として日本写真界の第1世代を築いた人物です。同時期に活躍した長崎の上野彦馬*2 に対し、東の蓮杖とうたわれ、横山松三郎、臼井秀三郎、鈴木真一など、後の日本写真史を継承する多くの優れた弟子を輩出しました。

    *1 鵜飼玉川(うかいぎょくせん)…1807−1887年 写真師
    日本で最古の商業写真家とされる。下岡蓮杖よりもわずかに1年ほど早い1861年に肖像写真を撮影したとされる記録が福井松平藩の御用日誌にも残る。

    *2 上野彦馬(うえのひこま)…1838−1904年 写真師、蘭学者
    長崎医学伝習所に入所し、化学を学ぶなかで写真術と出会い、写真技法の研究に着手する。
    日本初の写真技法書をふくむ『舎密局必携』を記したことでも有名。

  • 閏で囲碁を打つ二人
    下岡蓮杖
    1863−1876年
    鶏卵紙

    下岡蓮杖(1823-1914)
    江戸時代末期、開港とともに夜明けを迎えた日本の初期写真史において、最も重要な写真師の一人。日本人初の営業写真師としては鵜飼玉川*1 がわずかに早いものの、「写真開祖」の一人として日本写真界の第1世代を築いた人物です。同時期に活躍した長崎の上野彦馬*2 に対し、東の蓮杖とうたわれ、横山松三郎、臼井秀三郎、鈴木真一など、後の日本写真史を継承する多くの優れた弟子を輩出しました。

    *1 鵜飼玉川(うかいぎょくせん)…1807−1887年 写真師
    日本で最古の商業写真家とされる。下岡蓮杖よりもわずかに1年ほど早い1861年に肖像写真を撮影したとされる記録が福井松平藩の御用日誌にも残る。

    *2 上野彦馬(うえのひこま)…1838−1904年 写真師、蘭学者
    長崎医学伝習所に入所し、化学を学ぶなかで写真術と出会い、写真技法の研究に着手する。
    日本初の写真技法書をふくむ『舎密局必携』を記したことでも有名。

  • 糸つむぎ
    下岡蓮杖
    1863-1876年
    鶏卵紙に手彩色

    下岡蓮杖(1823-1914)
    江戸時代末期、開港とともに夜明けを迎えた日本の初期写真史において、最も重要な写真師の一人。日本人初の営業写真師としては鵜飼玉川*1 がわずかに早いものの、「写真開祖」の一人として日本写真界の第1世代を築いた人物です。同時期に活躍した長崎の上野彦馬*2 に対し、東の蓮杖とうたわれ、横山松三郎、臼井秀三郎、鈴木真一など、後の日本写真史を継承する多くの優れた弟子を輩出しました。

    *1 鵜飼玉川(うかいぎょくせん)…1807−1887年 写真師
    日本で最古の商業写真家とされる。下岡蓮杖よりもわずかに1年ほど早い1861年に肖像写真を撮影したとされる記録が福井松平藩の御用日誌にも残る。

    *2 上野彦馬(うえのひこま)…1838−1904年 写真師、蘭学者
    長崎医学伝習所に入所し、化学を学ぶなかで写真術と出会い、写真技法の研究に着手する。
    日本初の写真技法書をふくむ『舎密局必携』を記したことでも有名。

  • 雲晴れる槍ヶ岳、槍ヶ岳肩より
    穂苅三寿雄
    1924-1941年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    穂苅三寿雄は明治24(1891)年、現在の長野県松本市に生まれ、幼い頃から山に親しみ、明治40(1907)年に初めて上高地に入り、大正3(1914)年には初めて槍ヶ岳に登ります。上高地・槍ヶ岳一帯の登山道の整備を機に、山小屋建設を決意、大正6(1917)年に槍沢小屋を開設しました。この頃から独学で写真を学び、松本市内に写真館を開業して山岳絵はがきを販売するかたわら、山岳写真を撮り始め、地の利を活かした秀作を数多く撮影、大正末期の積雪期の作品など先駆的な業績を数多く残しました。

    穂苅三寿雄(1891-1966)
    大正6(1917)年10月、槍沢のババ平に北アルプスで2番目の営業小屋となる槍沢小屋を建設、大正10(1921)年に大槍小屋、大正15(1926)年に肩の小屋をそれぞれ建設。大正初期から写真家としても活躍、昭和14(1939)年には東京山岳写真会(現・日本山岳写真協会)の創立会員として参加。播隆上人研究家としても知られ、昭和38(1963)年『槍ヶ岳開祖 播隆』を出版。

  • 大正池の枯れ木と焼岳
    穂苅三寿雄
    1924-1941年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    穂苅三寿雄は明治24(1891)年、現在の長野県松本市に生まれ、幼い頃から山に親しみ、明治40(1907)年に初めて上高地に入り、大正3(1914)年には初めて槍ヶ岳に登ります。上高地・槍ヶ岳一帯の登山道の整備を機に、山小屋建設を決意、大正6(1917)年に槍沢小屋を開設しました。この頃から独学で写真を学び、松本市内に写真館を開業して山岳絵はがきを販売するかたわら、山岳写真を撮り始め、地の利を活かした秀作を数多く撮影、大正末期の積雪期の作品など先駆的な業績を数多く残しました。

    穂苅三寿雄(1891-1966)
    大正6(1917)年10月、槍沢のババ平に北アルプスで2番目の営業小屋となる槍沢小屋を建設、大正10(1921)年に大槍小屋、大正15(1926)年に肩の小屋をそれぞれ建設。大正初期から写真家としても活躍、昭和14(1939)年には東京山岳写真会(現・日本山岳写真協会)の創立会員として参加。播隆上人研究家としても知られ、昭和38(1963)年『槍ヶ岳開祖 播隆』を出版。

  • コナシの花と穂高岳
    穂苅三寿雄
    1924-1941年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    穂苅三寿雄は明治24(1891)年、現在の長野県松本市に生まれ、幼い頃から山に親しみ、明治40(1907)年に初めて上高地に入り、大正3(1914)年には初めて槍ヶ岳に登ります。上高地・槍ヶ岳一帯の登山道の整備を機に、山小屋建設を決意、大正6(1917)年に槍沢小屋を開設しました。この頃から独学で写真を学び、松本市内に写真館を開業して山岳絵はがきを販売するかたわら、山岳写真を撮り始め、地の利を活かした秀作を数多く撮影、大正末期の積雪期の作品など先駆的な業績を数多く残しました。

    穂苅三寿雄(1891-1966)
    大正6(1917)年10月、槍沢のババ平に北アルプスで2番目の営業小屋となる槍沢小屋を建設、大正10(1921)年に大槍小屋、大正15(1926)年に肩の小屋をそれぞれ建設。大正初期から写真家としても活躍、昭和14(1939)年には東京山岳写真会(現・日本山岳写真協会)の創立会員として参加。播隆上人研究家としても知られ、昭和38(1963)年『槍ヶ岳開祖 播隆』を出版。

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