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  • 題不詳(椅子)
    福原路草
    制作年不詳
    ゼラチン・シルバー・プリント

    撮影地は不明だが、おそらくどこかの避暑地で撮影されたものであろう。カメラを地面に置き、ポツンと置かれた椅子を撮影したこの作品には、作者のユーモアが感じられる。
    兄の信三と比べて、モダンな感覚が一段と研ぎ澄まされた作者の表現は、近代的な写真表現「新興写真」に通底するものがある。しかし、その眼差しが“モノそのもの”に向かうことはなく、俳諧的な自然観照の態度が揺らぐことはない。

    福原路草(1892-1946年)
    資生堂に創立者の四男として東京に生まれる。福原信三は兄。慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、新聞記者を目指すが、父の反対に遭い頓挫する。信三や音楽評論家の大田黒元雄らとともに「写真芸術社」を設立。この頃、大田黒と京都に撮影旅行をして、写真を本格的に始めた。1922年の欧州旅行で刺激を受けたE・O・ホッペらの作品を招聘、日本で「巨匠写真展覧会」を開催した。役員として家業の仕事を行いながら、資生堂ギャラリーで個展も開催した。山や樹木などをモチーフとした作品が多く、兄・信三の提唱した「光と其諧調」の考え方を基調としながらも、その空間表現は近代的な造形意識がうかがえる。

  • ひと叢の雑草
    福原路草
    1936年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    「第二回福原路草写真展覧会」(資生堂ギャラリー、1937年3月)に出品された作品。なんの変哲もない雑草をストレートに撮影したこの作品には、対象に対する作者の刹那的な感興が凝縮されている。俳句を好んで詠んだ作者の文学的な素養がうかがわれる。その点で西洋的なロマンティシズムというより、日本的な趣味に立脚しているのだが、近代という同時代性も矛盾なく同居している。

    福原路草(1892-1946年)
    資生堂に創立者の四男として東京に生まれる。福原信三は兄。慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、新聞記者を目指すが、父の反対に遭い頓挫する。信三や音楽評論家の大田黒元雄らとともに「写真芸術社」を設立。この頃、大田黒と京都に撮影旅行をして、写真を本格的に始めた。1922年の欧州旅行で刺激を受けたE・O・ホッペらの作品を招聘、日本で「巨匠写真展覧会」を開催した。役員として家業の仕事を行いながら、資生堂ギャラリーで個展も開催した。山や樹木などをモチーフとした作品が多く、兄・信三の提唱した「光と其諧調」の考え方を基調としながらも、その空間表現は近代的な造形意識がうかがえる。

  • ヌード
    永江博
    1921年
    ゴム印画

    大正時代のピグメント印画法によるヌードというと、野島康三による身体表現がつとに有名だが、この作品は野島のそれとは対照的に、典型的な「絵画主義」志向が見てとれる。柔らかな光が差し込む室内で、長椅子に腰かけ、壁に立てかけられた絵画を見つめる構図は、まさに「外光派」の絵画作品を想起させる。ここではそうした絵画の様式と構図が、忠実に踏襲されている。

    永江博(1886-1963年)
    東京に生まれる。小学生の時から写真に興味を持ち、専門学生卒業後に司法省に勤務するが写真を撮り続ける。1915年に小西本店(現・コニカミノルタ)に入り、感光乳剤や印画紙などを研究。また「東京写真研究会」の会員として研展を中心に活動。同会の幹事や審査員なども歴任。17年に文部省の委嘱により法隆寺の壁画を行う。33年頃、全国の国宝や美術館を学術的に撮影する「郷土写真社」を設立するなど、幅広い活動を行った。

  • 椿
    島村逢紅
    1930-40年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    作者の静物表現の特徴は、レンズの鮮鋭な描写を生かして、伝統的なモチーフをモダンな感覚で構成した点にある。
    当時、「路草の白、逢紅の黒」と評されたとおり、この作品も作者独自の漆黒とその諧調表現によって、椿の花が空間にくっきりと浮かび上がっている。そこには凄烈な緊張感と静寂が漂っており、対象を凝視する彼特有の美的世界が広がっている。

    島村逢紅(1890-1944年)
    和歌山県の酒造業の家に生まれる。若い頃から洋画に興味を持ち、上京して慶應義塾大学に入学するがすぐに中退。1904年に和歌山で「明光写友会」を結成し、アマチュア写真家として活動を始める。12年に同会を発展的に解消して「木国写友会」を結成し、年に一回の定期展を開催するなど旺盛に活動した。写真雑誌の月例や日本写真美術展などの公募展で入賞、入選を重ね、評価を確立した。26年に全日本写真連盟の結成と同時に関西本部委員に就任。30年には福原信三を中心とする「日本写真会」の同人にも推挙され、指導者としても活動を始める。39年に初めての個展を東京の資生堂ギャラリーで開催し、高い評価を受けた。

  • 筍 其一
    島村逢紅
    1930-40年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    筍のふてぶてしいまでの存在感が、見る者を圧倒する。そこに交錯する光と影があやなす空間からは、「光と其諧調」に共感した作者の姿勢が伝わってくる。
    近代的は写真表現が目指した即物的な表現をささえる眼差しと、従来からのピクトリアリズムの美意識と重ね合わせた表現は、1930年代の日本のピクトリアリズムの特徴ともいうべきもので、この作品はその典型を示している。

    島村逢紅(1890-1944年)
    和歌山県の酒造業の家に生まれる。若い頃から洋画に興味を持ち、上京して慶應義塾大学に入学するがすぐに中退。1904年に和歌山で「明光写友会」を結成し、アマチュア写真家として活動を始める。12年に同会を発展的に解消して「木国写友会」を結成し、年に一回の定期展を開催するなど旺盛に活動した。写真雑誌の月例や日本写真美術展などの公募展で入賞、入選を重ね、評価を確立した。26年に全日本写真連盟の結成と同時に関西本部委員に就任。30年には福原信三を中心とする「日本写真会」の同人にも推挙され、指導者としても活動を始める。39年に初めての個展を東京の資生堂ギャラリーで開催し、高い評価を受けた。

  • 仏手柑
    島村逢紅
    1930-40年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    ピクトリアリズムを標榜する日本の「芸術写真」は、明治以降の近代化のなかで獲得されてきた様々な美意識を、並列的に受け入れて展開してきたと言える。
    1930年代に制作されたこの作品も、構成や対象描写、空間表現などの様々な表現要素を、ひとつの様式美に集約するのではなく、モダニティという器に並列的に取り込んでいると、とらえるべきではないだろうか。

    島村逢紅(1890-1944年)
    和歌山県の酒造業の家に生まれる。若い頃から洋画に興味を持ち、上京して慶應義塾大学に入学するがすぐに中退。1904年に和歌山で「明光写友会」を結成し、アマチュア写真家として活動を始める。12年に同会を発展的に解消して「木国写友会」を結成し、年に一回の定期展を開催するなど旺盛に活動した。写真雑誌の月例や日本写真美術展などの公募展で入賞、入選を重ね、評価を確立した。26年に全日本写真連盟の結成と同時に関西本部委員に就任。30年には福原信三を中心とする「日本写真会」の同人にも推挙され、指導者としても活動を始める。39年に初めての個展を東京の資生堂ギャラリーで開催し、高い評価を受けた。

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