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  • 大宮村から見た富士山 
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 函館の眺め 
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 中禅寺湖と男体山、日光
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 不忍池、上野、東京
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 片瀬の寺(龍口寺)、江ノ島近辺 
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 江ノ島の通り
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなどs、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 富士屋ホテル、宮ノ下 
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 大地獄または大沸騰泉 
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 白糸の滝、富士山
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 有馬の眺め 
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 阿弥陀橋、長崎
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 野菜の行商人 
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 籠、旅行用の乗り物 
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 日本の旅人 
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 富士登山の巡礼
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

  • 切腹 
    日下部金兵衛
    1880-1890年
    「日下部金兵衛アルバム」より

     幕末の日本は、開国と攘夷に揺れる激動の時代である。そして写真術が渡来しそれが日本の中に定着し始める時代でもある。激動の日本を訪れた写真家たちは、日本に於ける写真の黎明に少なからぬ影響を与えた。中国や他のアジア諸国においてもヨーロッパからの旅行写真家が、現地の写真の黎明に関わらなかったわけではないが、日本の場合は植民地化されなかったゆえであろうか、彼らが触媒となって日本人写真家の輩出を促し、世界写真史の中でもユニークな歴史を持つ国を生み出したといえよう。
     明治へと時代が変わると日本を訪れる外国人観光客は増加の一途をたどってゆく。彼らを相手にしてお土産として作られたのが、1970年代になって「横浜写真」と称されるようになる手彩色による写真群である。豪華な蒔絵細工の表紙をもつ「横浜写真」のアルバムに収められた手彩色写真は、カラー写真と見まがうほどである。この手彩色の歴史は、写真術の発明された頃にまで遡ることができ、オリエントで製作された写真にも見いだされる。だがそれらは、決してカラー写真と見まがうものではない。「横浜写真」のそれは焼き付けられた印画紙の画像と染料がなじみ、それまでの彩色技術とは異質な効果を生み出している。
     「横浜写真」に見られるまなざしは、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった西洋人が抱く日本のイメージを確立させたものといわれるが、そういった側面だけではなく明治の日本の現実を記録したものでもあることを見逃してはならないだろう。確かに過剰な演出により失われた風俗を再現した写真は、旅行者の好奇心をストレートに反映するものといえなくもない。だがそのような写真でも、細部へと目をこらせば写真であるがゆえの記録性が浮かびあがってくる。


    日下部金兵衛(1841-1934)
     山梨県甲府の生まれ。1859(安政6)年頃に横浜に出、1863(文久3)頃にフェリーチェ・ベアトの助手となり技術を学ぶ。1867(慶応3)年頃にベアトと上海に渡り写真撮影を行う。1877(明治10)にベアトが写真館を手放した後から1881年までには横浜弁天通で写真館を開業する。その後、横浜・東京に支店を出すなど明治20年代には隆盛を極める。「横浜写真」の主流を占めたばかりではなく、ガラス板の幻灯写真も多数製作し、輸出・販売する。また、アメリカやヨーロッパのカメラや感光材料等の輸入販売だけでなく、1896(明治29)年には活動写真を輸入する。1895年の第4回内国勧業博覧会に彩色写真を、1904年のセントルイス万国博覧会には写真工芸品を出品するなど、その技量は内外で高く評価された。1910年横浜写真業組合副理事長に就任、1914年(大正3)に写真業を廃業する。日本画を描いて余生を送ったと言われる。

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