注目のコレクション

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  • 愛知・一色黒沢
    土田ヒロミ

    俗神 -過去に繋がる私- 1969-74
    1960年代終わりから写真家として本格的な活動を開始した土田ヒロミは、日本の土俗的な文化、ヒロシマ、高度経済成長、バブル経済などのテーマを通して、変貌する日本の姿を撮り続けています。土田の視点はつねにユニークで、作品ごとに明確なコンセプトを持ち、日本という国に対する問題意識を実験的ともいえるアプローチで表現してきました。
    「自己表現」と「徹底的な記録」の両面を行き来することで進化を遂げてきたこの作家の作品からは、社会性と時代性を背後に日本が抱える問題を汲み取ることができます。
    「注目のコレクション」では12月15日から2008年2月20日まで東京都写真美術館で開催中の「土田ヒロミのニッポン」から土田ヒロミの作品を紹介します。混沌とした世相のなか、土田作品は日本と自己の関係を見直す何らかのヒントをくれることでしょう。

    「愛知・一色黒沢」1969年
    1968年から1975年に、日本各地を撮影取材。1971年、フリーランスになる際、自分自身を検証するために、まず日本文化に対峙する必要性から生まれた作品である。日本の古い宗教的な空間や祭りの空間、富士山、伊勢神宮、吉野、青森など土俗的かつ時代をまたいで継承した文化、人々を捉えた。

  • 青森・岩木山
    土田ヒロミ

    俗神 -過去に繋がる私- 1969-74
    1960年代終わりから写真家として本格的な活動を開始した土田ヒロミは、日本の土俗的な文化、ヒロシマ、高度経済成長、バブル経済などのテーマを通して、変貌する日本の姿を撮り続けています。土田の視点はつねにユニークで、作品ごとに明確なコンセプトを持ち、日本という国に対する問題意識を実験的ともいえるアプローチで表現してきました。
    「自己表現」と「徹底的な記録」の両面を行き来することで進化を遂げてきたこの作家の作品からは、社会性と時代性を背後に日本が抱える問題を汲み取ることができます。
    「注目のコレクション」では12月15日から2008年2月20日まで東京都写真美術館で開催中の「土田ヒロミのニッポン」から土田ヒロミの作品を紹介します。混沌とした世相のなか、土田作品は日本と自己の関係を見直す何らかのヒントをくれることでしょう。

    「青森・岩木山」1970年

  • 青森・弘前
    土田ヒロミ

    俗神 -過去に繋がる私- 1969-74
    1960年代終わりから写真家として本格的な活動を開始した土田ヒロミは、日本の土俗的な文化、ヒロシマ、高度経済成長、バブル経済などのテーマを通して、変貌する日本の姿を撮り続けています。土田の視点はつねにユニークで、作品ごとに明確なコンセプトを持ち、日本という国に対する問題意識を実験的ともいえるアプローチで表現してきました。
    「自己表現」と「徹底的な記録」の両面を行き来することで進化を遂げてきたこの作家の作品からは、社会性と時代性を背後に日本が抱える問題を汲み取ることができます。
    「注目のコレクション」では12月15日から2008年2月20日まで東京都写真美術館で開催中の「土田ヒロミのニッポン」から土田ヒロミの作品を紹介します。混沌とした世相のなか、土田作品は日本と自己の関係を見直す何らかのヒントをくれることでしょう。

    「青森・弘前」1972年

  • 青森・砂子瀬
    土田ヒロミ

    俗神 -過去に繋がる私- 1969-74
    1960年代終わりから写真家として本格的な活動を開始した土田ヒロミは、日本の土俗的な文化、ヒロシマ、高度経済成長、バブル経済などのテーマを通して、変貌する日本の姿を撮り続けています。土田の視点はつねにユニークで、作品ごとに明確なコンセプトを持ち、日本という国に対する問題意識を実験的ともいえるアプローチで表現してきました。
    「自己表現」と「徹底的な記録」の両面を行き来することで進化を遂げてきたこの作家の作品からは、社会性と時代性を背後に日本が抱える問題を汲み取ることができます。
    「注目のコレクション」では12月15日から2008年2月20日まで東京都写真美術館で開催中の「土田ヒロミのニッポン」から土田ヒロミの作品を紹介します。混沌とした世相のなか、土田作品は日本と自己の関係を見直す何らかのヒントをくれることでしょう。

    「青森・砂子瀬」1970年

  • 東京・浅草、素人の芸人
    土田ヒロミ

    俗神 -過去に繋がる私- 1969-74
    1960年代終わりから写真家として本格的な活動を開始した土田ヒロミは、日本の土俗的な文化、ヒロシマ、高度経済成長、バブル経済などのテーマを通して、変貌する日本の姿を撮り続けています。土田の視点はつねにユニークで、作品ごとに明確なコンセプトを持ち、日本という国に対する問題意識を実験的ともいえるアプローチで表現してきました。
    「自己表現」と「徹底的な記録」の両面を行き来することで進化を遂げてきたこの作家の作品からは、社会性と時代性を背後に日本が抱える問題を汲み取ることができます。
    「注目のコレクション」では12月15日から2008年2月20日まで東京都写真美術館で開催中の「土田ヒロミのニッポン」から土田ヒロミの作品を紹介します。混沌とした世相のなか、土田作品は日本と自己の関係を見直す何らかのヒントをくれることでしょう。

    「東京・浅草、素人の芸人」1974年

  • 二重橋前、千代田区
    土田ヒロミ

    「砂を数える」 -高度成長 都市化する私-(1975-1989)
    1975年から1985年までに日本各地で撮影された日本人の群集としての姿。「俗神」が一段落した1975年から、ほぼ10年間にわたって、首都圏を中心に撮りためたシリーズで、福井の山村を離れ、都市化していく自分自身の存在のありようを対象化する試みから進められた。「お祭り(初詣・花見を含む)」、「レジャー・行楽(遊園地・海水浴・博覧会など)」、「天皇行事」、「街頭・公園」、「学校儀式」、「戦争被災者慰霊」、「メーデー」、「スポーツ・ギャンブル」。日本人が、1980年代前後の時期、どのような機会に「群集」を成しているのか見て取ることができる。

    「二重橋前、千代田区」1976年

  • 上野公園、上野
    土田ヒロミ

    「砂を数える」 -高度成長 都市化する私-(1975-1989)
    1975年から1985年までに日本各地で撮影された日本人の群集としての姿。「俗神」が一段落した1975年から、ほぼ10年間にわたって、首都圏を中心に撮りためたシリーズで、福井の山村を離れ、都市化していく自分自身の存在のありようを対象化する試みから進められた。「お祭り(初詣・花見を含む)」、「レジャー・行楽(遊園地・海水浴・博覧会など)」、「天皇行事」、「街頭・公園」、「学校儀式」、「戦争被災者慰霊」、「メーデー」、「スポーツ・ギャンブル」。日本人が、1980年代前後の時期、どのような機会に「群集」を成しているのか見て取ることができる。

    「上野公園、上野」1978年

  • 天皇誕生日、千代田区
    土田ヒロミ

    「砂を数える」 -高度成長 都市化する私-(1975-1989)
    1975年から1985年までに日本各地で撮影された日本人の群集としての姿。「俗神」が一段落した1975年から、ほぼ10年間にわたって、首都圏を中心に撮りためたシリーズで、福井の山村を離れ、都市化していく自分自身の存在のありようを対象化する試みから進められた。「お祭り(初詣・花見を含む)」、「レジャー・行楽(遊園地・海水浴・博覧会など)」、「天皇行事」、「街頭・公園」、「学校儀式」、「戦争被災者慰霊」、「メーデー」、「スポーツ・ギャンブル」。日本人が、1980年代前後の時期、どのような機会に「群集」を成しているのか見て取ることができる。

    「天皇誕生日、千代田区」1981年

  • 初詣、鎌倉
    土田ヒロミ

    「砂を数える」 -高度成長 都市化する私-(1975-1989)
    1975年から1985年までに日本各地で撮影された日本人の群集としての姿。「俗神」が一段落した1975年から、ほぼ10年間にわたって、首都圏を中心に撮りためたシリーズで、福井の山村を離れ、都市化していく自分自身の存在のありようを対象化する試みから進められた。「お祭り(初詣・花見を含む)」、「レジャー・行楽(遊園地・海水浴・博覧会など)」、「天皇行事」、「街頭・公園」、「学校儀式」、「戦争被災者慰霊」、「メーデー」、「スポーツ・ギャンブル」。日本人が、1980年代前後の時期、どのような機会に「群集」を成しているのか見て取ることができる。

    「初詣、鎌倉」1981年

  • 大学の卒業式、横浜
    土田ヒロミ

    「砂を数える」 -高度成長 都市化する私-(1975-1989)
    1975年から1985年までに日本各地で撮影された日本人の群集としての姿。「俗神」が一段落した1975年から、ほぼ10年間にわたって、首都圏を中心に撮りためたシリーズで、福井の山村を離れ、都市化していく自分自身の存在のありようを対象化する試みから進められた。「お祭り(初詣・花見を含む)」、「レジャー・行楽(遊園地・海水浴・博覧会など)」、「天皇行事」、「街頭・公園」、「学校儀式」、「戦争被災者慰霊」、「メーデー」、「スポーツ・ギャンブル」。日本人が、1980年代前後の時期、どのような機会に「群集」を成しているのか見て取ることができる。

    「大学の卒業式、横浜」1975年

  • 見本市の日、晴海
    土田ヒロミ 

    「砂を数える」 -高度成長 都市化する私-(1975-1989)
    1975年から1985年までに日本各地で撮影された日本人の群集としての姿。「俗神」が一段落した1975年から、ほぼ10年間にわたって、首都圏を中心に撮りためたシリーズで、福井の山村を離れ、都市化していく自分自身の存在のありようを対象化する試みから進められた。「お祭り(初詣・花見を含む)」、「レジャー・行楽(遊園地・海水浴・博覧会など)」、「天皇行事」、「街頭・公園」、「学校儀式」、「戦争被災者慰霊」、「メーデー」、「スポーツ・ギャンブル」。日本人が、1980年代前後の時期、どのような機会に「群集」を成しているのか見て取ることができる。
          
    「見本市の日、晴海」1979年

  • 埴生富美子 41歳
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ1945-1979」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「埴生富美子 41歳」1976年
    被爆当時:小学校2年生、市電の中で被爆(1,500m)、母(死亡)
    撮影時:広島、無職、独身

  • 原田 浩 39歳
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ1945-1979」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「原田 浩 39歳」1976年
    被爆当時:満5歳、プラットフォームで被爆(2,000m)、父、母、姉(被爆)
    撮影時:広島、市役所職員、妻、子ども2人

  • 寺迫(和田)登貴子 38歳

    土田ヒロミ
    「ヒロシマ1945-1979」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「寺迫(和田)登貴子 38歳」1976年
    被爆当時:満5歳、自宅の中で被爆(1,200m)、祖父(死亡)、祖母、父、母(被爆)
    撮影時:広島、主婦、パン屋経営、夫、子ども3人

  • 拒否
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ1945-1979」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「拒否」1976年

  • 煙突、原田旅館、十日市(一)町、700m
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ・モニュメント」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「煙突、原田旅館、十日市(一)町、700m」1979年

  • 橋、荒神町、1,800m
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ・モニュメント」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「橋、荒神町、1,800m」1979年

  • 建物、広島市役所、国泰寺(一)町、1,000m
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ・モニュメント」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    建物、広島市役所、国泰寺(一)町、1,000m」1979年

  • 建物、広島電鉄車庫、東千田(一)町、2000m
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ・モニュメント」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「建物、広島電鉄車庫、東千田(一)町、2000m」1979年

  • 建物、原爆ドーム(元・産業奨励館)平和記念公園、200m
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ・モニュメント」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「建物、原爆ドーム(元・産業奨励館)平和記念公園、200m」1979年

  • ワンピース
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ・コレクション」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「ワンピース」1979年
    寄贈:1974年1月30日 寄贈者:羽生テル子(小川節子さんの姉)
    小川節子さん(当時21歳)は第5指令団本部(800m)で朝の体操中に被爆。絶景園の逃げたが、火の勢いが強いため、京橋川に浸っているところを、兵隊に助けられて指令団本部に収容される。9日似島に転送されたが11日に死亡。このワンピースは、モンペと上着の下に着けていたもの。

  • 弁当箱
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ・コレクション」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「弁当箱」1979年
    寄贈:1970年6月25日 寄贈者:渡辺茂(渡辺玲子さんの父親)
    渡辺玲子さん(当時高女1年)は、学徒動員として材木町(爆心地から500m)で建物疎開作業中に被爆。数日後、誓願寺南側の倒れた土壁の下から学校側が掘り出したもの。エンドウ豆の煮物に白米という当時としてはぜいたくな弁当だが、完全に炭化している。遺体は行方不明。

  • 学生服
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ・コレクション」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「学生服」1976-94年
    寄贈:1970年9月29日 寄贈者:佃恒子(佃昭夫君の母親)
    佃昭夫君(当時中学1年生)は、動員学徒として、中島新町(600m)の建物疎開作業中に被爆。8月8日、父親が同君の行方を捜し歩いた際、木の枝にひっかかっていたこの服を発見し、持ち帰ったもの。遺体は行方不明。

  • 双眼鏡
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ・コレクション」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「双眼鏡」1979年
    寄贈:1978年11月22日 寄贈者:土屋政枝(土屋正美さんの母親)
    陸軍少尉土屋正美さん(当時25歳)は、第一陸軍病院(900m)に盲腸炎で入院中に被爆。翌7日、看護兵が一部白骨化した正美さんの遺体を発見。手にしていた日本手ぬぐいの名前から本人が確認された。同7日、退院の予定であったという。

  • 眼鏡
    土田ヒロミ

    「ヒロシマ・コレクション」
    1973年頃より関りはじめた3部作によるシリーズ。ドキュメンタリストを自認する者として、フリーランサーになった71年頃より、原爆の惨事を記録する仕事をすべきだという思いから広島へ模索の旅に出る。実際に方法論を決定し、撮りだしたのは1976年。被爆体験記「原爆の子」(1951、岩波書店)に出会ってから、数年かけて30-40代になった原爆の子の消息をたどり107人に取材した「ヒロシマ1945〜1979」。さらに1979年、原爆遺跡を記録した「ヒロシマ・モニュメント」。1980年に広島平和記念資料館の遺品、原爆資料の記録した「ヒロシマ・コレクション」へと続く。

    「眼鏡」1979年
    寄贈:1968年3月14日 寄贈者:佐伯敏子(茂曽呂モトさんの四女)
    茂曽呂モトさん(当時54歳)は、広瀬北町(1,500m)で被爆。遺体は行方不明であったが、9月6日に現場付近で焼け残った頭部が発見される。焼け残った頭部の眼窩についていたもの。

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