注目のコレクション

  東京都写真美術館

go江戸東京博物館   go東京都現代美術館   バックナンバー

  • 夜明けと日没
    ヘンリー・ピーチ・ロビンソン
    1885年
    ゼラチン・シルバー・プリント
    ロビンソンはまず下絵を描き、それに沿って人物や背景を別々に撮影する。それを切り抜いて、貼り合わせ、継ぎ目をきれいにレタッチ(修整)する。合成された印画をもう一度撮影し直し、最終的なプリントをつくった。

    ヘンリー・ピーチ・ロビンソン 1830-1901年
    イギリスのピクトリアリズムの代表的な写真家で、オスカー・
    ギュスターヴ・レイランダー(1813-1875年)とともに、写真を芸術と認めさせるために、絵画を模したような作品をつくろうとし、当時正当な絵画のスタイルであった寓意的な物語を、合成印画とよばれるプリントやネガを張り合わせる方法で写真をつくりだした。
    ロビンソンは1858年に最初の合成印画による作品「臨終(消えゆく命)」を発表し、ヴィクトリア女王が買い上げた。1885年に展覧会に出品された「夜明けと日没」は5枚の写真を継ぎはぎして作った写真である。
    ロビンソンは写真の制作だけではなく、理論的なリーダーの役割を果たし、1869年に『写真における絵画的効果―写真家のための構図法および明暗法の心得』は版を重ね、フランス語、ドイツ語に翻訳された。彼のこの本の普及によりイギリスのみならず、ヨーロッパ各地にピクトリアリズムの写真がつくられるようになった。

  • キャロリング1887
    ヘンリー・ピーチ・ロビンソン
    1887年
    ゼラチン・シルバー・プリント(後年のプリント)
    ロビンソンはまず下絵を描き、それに沿って人物や背景を別々に撮影する。それを切り抜いて、貼り合わせ、継ぎ目をきれいにレタッチ(修整)する。合成された印画をもう一度撮影し直し、最終的なプリントをつくった。

    ヘンリー・ピーチ・ロビンソン 1830-1901年
    イギリスのピクトリアリズムの代表的な写真家で、オスカー・
    ギュスターヴ・レイランダー(1813-1875年)とともに、写真を芸術と認めさせるために、絵画を模したような作品をつくろうとし、当時正当(・・)な絵画のスタイルであった寓意的な物語を、合成印画とよばれるプリントやネガを張り合わせる方法で写真をつくりだした。
    ロビンソンは1858年に最初の合成印画による作品「臨終(消えゆく命)」を発表し、ヴィクトリア女王が買い上げた。1885年に展覧会に出品された「夜明けと日没」は5枚の写真を継ぎはぎして作った写真である。
    ロビンソンは写真の制作だけではなく、理論的なリーダーの役割を果たし、1869年に『写真における絵画的効果―写真家のための構図法および明暗法の心得』は版を重ね、フランス語、ドイツ語に翻訳された。彼のこの本の普及によりイギリスのみならず、ヨーロッパ各地にピクトリアリズムの写真がつくられるようになった。

  • 薬罐
    福原路草
    1941年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    福原路草 1892-1946年
    資生堂に創立者の四男として東京に生まれる。福原信三は兄。慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、新聞記者を目指すが、父の反対に遭い頓挫する。信三や音楽評論家の大田黒元雄らとともに「写真芸術社」を設立。この頃、大田黒と京都に撮影旅行をして、写真を本格的に始めた。1922年の欧州旅行で刺激を受けたE・O・ホッペらの作品を招聘、日本で「巨匠写真展覧会」を開催した。役員として家業の仕事を行いながら、資生堂ギャラリーで個展も開催した。山や樹木などをモチーフとした作品が多く、兄・信三の提唱した「光と其諧調」の考え方を基調としながらも、その空間表現は近代的な造形意識がうかがえる。

  • The Autumnal Shower (A)
    福 光太郎
    1934年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    福 光太郎 1898-1965年
    1922年頃、種牛の買いつけのため渡米。30年代にシアトルで乾物商を営むかたわら、シアトル写真協会の中心メンバーとして活躍。欧米のサロンで入選を繰り返し高い評価を得る。36年帰国。東京で個展を開催。
    40年頃から日本大学写真学科の講師を一時務める。戦後は東京・京橋で写真館を営む。

  • 非常時風景
    大久保好六
    1933年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    大久保好六 1900-1936年
    栃木県に生まれる。15歳で東京の伊東写真館に入門。小林写真館を経て、1921年に朝日新聞社に入社し、初めは新聞写真を撮影していたが、23年に同新聞社のグラフ雑誌『アサヒグラフ』が創刊されると、そのスタッフ・カメラマンとなる。26年に矢野嘉一郎らと「黎光会」を結成し、ブロムオイルによるピクトリアリズムの写真を制作、写真雑誌などに投稿して高い評価を得る。一方、1930年代に入ると『アサヒグラフ』に都市の情景を描写したルポルタージュ写真やロシア構成主義の影響を思わせる風刺的なフォト・モンタージュなどを発表した。36年に満州国を紹介する英文写真集『Manchu Kou: A Pictorial Record』のために満州に派遣される。しかし同地で腎臓を患い、帰国後の36年に死去。

ページTOPへ▲