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  • 「第2回幕府遣欧使節団」より
    ナダール
    1890年
    鶏卵紙

    第2回遣欧使節団がパリを訪れた際に残された写真のうちの1枚。ナポレオン3世の依頼により、パリのナダールスタジオで撮影された。

    ナダール(ガスパール=フェリックス・トゥールナション)(1820-1910)
    ナダールは、裕福な起業家の息子として生まれたが、父の破産と死で若くして負の遺産を背負うことになる。しかし演劇ジャーナリストをステップとして、編集業へと進む。1854年に初めてのスタジオを建て、同時に著名人300人の戯画を集約して描いた「ル・パンテオン・ナダール」で風刺画家として名を不動のものとした。

  • ジャコモ・メイヤービルの肖像
    ナダール
    1854年
    単塩紙

    1854年にパリのサン・ラザール通りにスタジオを構えて精力的に活動した。芸術家をはじめ、当時、名声を得た人々はこぞって彼に肖像写真を依頼した。のちに、ナダールのスタジオの2階を使って印象派が第1回の展覧会を開催する。

    ナダール(ガスパール=フェリックス・トゥールナション)(1820-1910)
    ナダールは、裕福な起業家の息子として生まれたが、父の破産と死で若くして負の遺産を背負うことになる。しかし演劇ジャーナリストをステップとして、編集業へと進む。1854年に初めてのスタジオを建て、同時に著名人300人の戯画を集約して描いた「ル・パンテオン・ナダール」で風刺画家として名を不動のものとした。

  • 興福寺 天燈鬼
    小川一真
    1888〜1889年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    1888(明治21)年に宮内省、内務省、文部省によって行われた近畿宝物調査の際に撮影された作品。

    小川一真(1849-1914)
    1860年、武州(現、埼玉県)生まれ。
    熊谷の吉原秀雄写場で湿板写真術を習得し、1877年、群馬県富岡で撮影業を開始するが、写真術研究のため渡米。写真のみならず印刷術、乾板製造などを学び帰国する。86年には臨時全国宝物取調局に委嘱され、全国各地の重要社寺宝物を詳細に撮影して歩くなど、我が国の文化財の記録、調査に大きく寄与した。
    背景をぼかし、真横から撮影したこの作品からは、確かな技術と高い芸術性が感じられる。

  • 100年を生きる術
    ナダール、フェリックス&ポール
    1886年
    鶏卵紙

    『ル・ジュルナル・イリュストレ』誌に掲載された世界初のインタビュー写真。100歳の誕生日を迎えた科学者ミシェル・ウジェーヌ・シュヴルールにフェリックスが質問をし、ポールが撮影した。この時、ゼラチン乾板が使用され露光時間は120分の1秒だったという。

  • (女性像)名刺判写真より
    ディスデリ, アンドレ・アドルフ・ウジェーヌ
    1854-80年頃
    鶏卵紙

    コストを下げるため、ディスデリの1枚のプレートから8〜12枚の写真を作り出すという方法を考えついた。そして名刺判写真と名付けた。カード型の写真が登場することによって、肖像写真は一気に普及率を高めた。

    ディスデリ,アンドレ・アドルフ・ウジェーヌ(1819-1889)
    1854年、ディスデリは1枚のプレートから8〜12枚の写真を作り出すという方法を考えだした。その方法は一部分だけ露光するという比較的簡易な構造だったため、瞬く間に世界中へ広まり、画像は小さいものの、飛躍的なコストダウンがはかれたのである。名刺判写真は、これまでとは異なる一般の人々へも写真を普及させたのである。

  • (女性像)名刺判写真より
    ディスデリ, アンドレ・アドルフ・ウジェーヌ
    1854-80年頃
    鶏卵紙

    コストを下げるため、ディスデリの1枚のプレートから8〜12枚の写真を作り出すという方法を考えついた。そして名刺判写真と名付けた。カード型の写真が登場することによって、肖像写真は一気に普及率を高めた。

    ディスデリ,アンドレ・アドルフ・ウジェーヌ(1819-1889)
    1854年、ディスデリは1枚のプレートから8〜12枚の写真を作り出すという方法を考えだした。その方法は一部分だけ露光するという比較的簡易な構造だったため、瞬く間に世界中へ広まり、画像は小さいものの、飛躍的なコストダウンがはかれたのである。名刺判写真は、これまでとは異なる一般の人々へも写真を普及させたのである。

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