注目のコレクション

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  • フルーリー街76番地、シャペル大通り
    ジャン・ウジェーヌ・オーギュスト・アジェ
    1921年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    街並みの写真はたくさん撮影しているが、アジェはこのころ既に出回っていた小型カメラを使わず(マン・レイが使うことを勧めて彼のカメラを貸したこともあった)、旧式の大型カメラで撮影し続けた。この写真は左の人物が長い露出時間に耐えられなかったのか、わずかにぶれてしまっている。


    ジャン・ウジェーヌ・オーギュスト・アジェ(1857-1927)
    19世紀末から20世紀初頭にかけて30年間にパリとその郊外を撮影し、およそ8,000枚の貴重な写真を残した孤高の写真家。アジェは歴史的建造物、教会、古い街並、中庭、店先、室内、庭園、街角の人々など、失われゆく「古きパリ」を、大型暗箱カメラを用いて克明に記録しました。アジェの記録に徹した透明な眼差しは、当時流行した絵画主義写真とは全く異なる、写真だけがもちえる世界を提示するものとして高く評価され、近代写真の先駆者の一人として位置づけられています。
    アジェは1857年にフランスのボルドーの近くのリブルヌに生まれ、幼くして両親を亡くして孤児となり、母方の祖父母に引きとられる。神学校を退学後、外国航路の給仕を経て、地方まわりの役者となったが、喉の病気のため演劇会を去り、画家を志しますが、すぐに写真家に転向します。1898年から「古きパリ、失われゆくパリ」の写真による収集を始めたのはアジェが41歳の時でした。
    1925年、マン・レイの助手ベレニス・アボットと出会う。アボットはアジェの写真に感銘を受け、その保存にあたっては大きな役割を担うことになる。
    1927年のアジェの死後、遺された作品はアボットらの尽力によって散逸を免れ、1930年に初の写真集『アジェ―パリの写真家』(序文ピエール・マッコルラン)として、フランスとアメリカで出版され、同時にドイツ語版も刊行された。1968年、ニューヨーク近代美術館がそのコレクションを収蔵した。

  • ドダン館、リシュリュー街21番地
    ジャン・ウジェーヌ・オーギュスト・アジェ
    1904年
    鶏卵紙

    同じモチーフの作品をたくさん残しているが、この作品は階段の手すりの装飾を撮影した一群の一部である、アジェは古いパリに執着しており、エッフェル塔といった近代的は建物やモチーフは一切撮影していない。


    ジャン・ウジェーヌ・オーギュスト・アジェ(1857-1927)
    19世紀末から20世紀初頭にかけて30年間にパリとその郊外を撮影し、およそ8,000枚の貴重な写真を残した孤高の写真家。アジェは歴史的建造物、教会、古い街並、中庭、店先、室内、庭園、街角の人々など、失われゆく「古きパリ」を、大型暗箱カメラを用いて克明に記録しました。アジェの記録に徹した透明な眼差しは、当時流行した絵画主義写真とは全く異なる、写真だけがもちえる世界を提示するものとして高く評価され、近代写真の先駆者の一人として位置づけられています。
    アジェは1857年にフランスのボルドーの近くのリブルヌに生まれ、幼くして両親を亡くして孤児となり、母方の祖父母に引きとられる。神学校を退学後、外国航路の給仕を経て、地方まわりの役者となったが、喉の病気のため演劇会を去り、画家を志しますが、すぐに写真家に転向します。1898年から「古きパリ、失われゆくパリ」の写真による収集を始めたのはアジェが41歳の時でした。
    1925年、マン・レイの助手ベレニス・アボットと出会う。アボットはアジェの写真に感銘を受け、その保存にあたっては大きな役割を担うことになる。
    1927年のアジェの死後、遺された作品はアボットらの尽力によって散逸を免れ、1930年に初の写真集『アジェ―パリの写真家』(序文ピエール・マッコルラン)として、フランスとアメリカで出版され、同時にドイツ語版も刊行された。1968年、ニューヨーク近代美術館がそのコレクションを収蔵した。

  • 野幌橋
    武林盛一
    c.1871-1880年
    鶏卵紙

    武林は北海道の「開拓使」に命じられてこれら鉄道や炭坑、港などを撮影した。このような写真師はほかに田本研造、佐久間範造、紺野治重がいる。また、スティルフリードも北海道を撮影しており、この撮影旅行の助手を武林が務めている。


    武林盛一(1842-1908)
    1842年、弘前に生まれた武林盛一は、文久年間に函館に移り外国船舶の検閲係として働き、写真に興味をいだく。1872年函館で開業し、73年に札幌に移転。同時に開拓使に雇われ、北海道開拓の記録撮影に携わる。

  • 札幌駅
    武林盛一
    c.1871-1880年
    鶏卵紙

    この作品は札幌駅に停車中の蒸気機関車羅夫号と客車等を写したものであり、職員と思われる人も写っている。端正な画面の中に貫かれるドキュメント精神は、北海道開拓写真と称される写真群に共通するものである。


    武林盛一(1842-1908)
    1842年、弘前に生まれた武林盛一は、文久年間に函館に移り外国船舶の検閲係として働き、写真に興味をいだく。1872年函館で開業し、73年に札幌に移転。同時に開拓使に雇われ、北海道開拓の記録撮影に携わる。

  • (農作業)
    日下部金兵衛
    c.1880年
    鶏卵紙

    金兵衛はフェリーチェ・ベアトの助手であったこともあり、来日外国人を相手にアルバム等を販売し、KIMBEIの名で欧米に知られていた。しかし、日本では近年まで埋もれていた写真師といっていい、フェリーチェ・ベアトとスティルフリードに比べて、淡調な色彩である。


    日下部金兵衛(1841-1934)
    甲府生まれ。1859年頃横浜に出る。63年頃、フェリーチェ・ベアトの下で写真術を学び、助手となる。77年ベアトが写真館を手放した後、81年までには横浜弁天通に写真館を開業し、「金幣(KIMBEI)」の商号を使用する。明治20年代には隆盛を極め、外国人旅行者向けの土産物として日本の風物を紹介した横浜写真を多数制作、輸出販売した。

  • 新緑の大阪城
    小石清
    c.1931-1934年
    ゼラチン・シルバー・プリント

    小石の自宅近くの大阪城を撮影したもの。この写真とほぼ同じ構図のもので国際観光局の日本紹介懸賞の首席に入選している。


    小石 清(1908-1957)
    大阪市生まれ。1928年(昭和3年)浪華写真倶楽部に入会。以降マン・レイ、モホイ=ナジらの影響を受け、フォトグラム、ソラリゼーション、赤外線写真など多彩な写真技法を駆使して前衛写真の騎手となる。1932年(昭和7年)に第21回浪展に代表作《初夏神経》を出品。36年(昭和11年)、特殊技法の参考書である『撮影・作画の新技法』を刊行。40年(昭和15年)、中国での写真を素材にした10枚組の代表作《半世界》を発表した。

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