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  • 《リフレクション》
    スゥ・ドーホー
    2004/2007年 ナイロン、ステンレススチール管
    Suh Do-Ho, Reflection, 2004/2007, Nylon, Stainless steel, New Acquisition in 2006

    この作品は、画家である作家の父が韓国の伝統建築を調査し再現した自宅の門をかたどったものである。そして、ナイロンで作られた門には、作家の指示で職人が仕上げた細かな刺繍が施されている。韓国の伝統的な建築を基に制作された作品には、作家自身のアイデンティティが反映されているといえる。そして、帰るべき場所としての家の門は水面に映る影のように儚いたたずまいを見せ、美しい水色に満たされた空間が作り上げられている。作品は下から鑑賞するだけでなく、階段を上がりながら、そして3階では上からも眺められるように考えられており、視点や外光の変化でそれぞれに異なる表情を見ることができる。2004年に東京・銀座のメゾンエルメスの個展で発表された作品だが、現代美術館で収蔵するにあたり、作家は水平部分の布を常設展示室アトリウムの広さに合わせたサイズに作り直した。

    スゥ・ドーホー (1962- )  Suh Do-Ho 
    韓国・ソウルに生まれ、現在は、ニューヨークを拠点に国際的な活動をするアーティストである。アメリカのロードアイランド・デザイン学校を卒業後、エール大学大学院で彫刻を学ぶ。2001年にはヴェネチア・ビエンナーレの韓国館に出品、高い評価を得た。絹やナイロンといったファブリック(布)を使用して、作家自身が住むニューヨークのアパートメントを実物と同じサイズで再現する作品や、パラシュートで降下する人などを制作している。
    写真_ 上野則宏

  • Little Trouble Girl

    森千裕
    2010
    120×178cm  
    水彩紙、透明水彩、鉛筆、木製パネルにマウント

    懐中電灯を持ち、暗闇の中を何かを探す様子で歩く少女。周りに浮かぶのは、プロ野球チーム、自動車会社、幼いころの記憶にあるマークなど、都市に散りばめられた記号の数々である。この少女は、都市を徘徊しイメージに反応する画家の分身ともとれるだろう。紙に水彩を染み込ませる様式は、多彩なバリエーションをほこる森千裕の作品のなかで、ひとつの大きな系譜をなしている。日本画に多くを学んだというこの技法は、作家によると、「都市の湿った感じ」やそこに住む「人間の皮膚感」を表現するのに適しているという。  
    1978年生まれの森千裕は、都市生活に氾濫する記号、映画、マンガ、広告などのイメージ群、あるいは日用品や廃品を再構成し、自らを取り巻く環境をユニークな視点から変換する絵画や立体作品で、早くから注目を集めてきた。自らが育ってきた「昭和のイメージ」に興味があるというその作品は、共同体の記憶を喚起するとともに、その奥に潜む神仏や民話などの土着的な欲動に言及する広がりを持っている。

    森千裕

    1978 大阪府生まれ
    2005 京都市立芸術大学大学院修士課程美術研究科絵画専攻修了
    2007 「夏への扉-マイクロポップの時代」 水戸芸術館(茨城)
    2010 「絵画の庭─ゼロ年代日本の地平から」 国立国際美術館(大阪)
    2011 「Attempt 3」カスヤの森現代美術館(神奈川)
      「VOCA展2011」(東京)
      「中之島コレクションズ」 国立国際美術館
    2012 個展「ピンク色の闇」 無人島プロダクション(東京)
      個展「カラフルなヌカルミ」 CAPSULE(東京)

  • Notice - Forest: Madison Avenue
    照屋勇賢
    2011年
    紙袋、糊
    15x28x9cm、21.5x30x12cm、12x24x9cm、15.2x33x10cm、12x24x9cm、18x24.5x12cm(6点組)


    照屋勇賢(1973- )は、沖縄に生まれ、現在はニューヨークを拠点に活動しています。1995年は、彼にとっては個展を開催するなど、活動の最初期に当たる記憶に残る年だったと言います。身の回りの世界へのささやかな介入によって、社会の機構に対する批評的なまなざしと、卓越した造形性を併せ持つ作品を制作してきた照屋の代表的なシリーズの一つが、この〈告知−森〉と題された作品群です。世界中にあるハンバーガー店の袋の中をのぞくと、豊かな枝葉を持った一本の木がすっくと立っています。これは、作家が自らの生活圏で実際に出会った木をモデルにしていると言います。個人的な体験から出発し、紙はかつて木であったのだというシンプルな暗示を行うことから、グローバルな資本主義社会、都市と自然といった大きな問題系へと鑑賞者の意識を導いていく照屋の作品は、視点の転換によって世界を全く別の方向から眺めるための、ひとつの作法を示しているようです。

  • ふくいちライブカメラを指差す
    指差し作業員
    2011年
    シングル・チャンネル・ヴィデオ

    2011年8月のある日、福島第一原発の現況をネット上でリアルタイムで伝えてきたライブカメラの前に、一人の作業員が立ち、およそ20分間にわたってこちらを指差すという出来事がありました。この人物は数日後にネット上で、政府や東京電力に対し、労働環境などについての提言を行い、さらに自分の行為が、ヴィト・アコンチが25分間にわたって画面の中心を指差し続ける映像作品《センターズ》(1971)を引用したパフォーマンスであったことを明かしました。
     「現場」の中心からこちらを指差す行為は、見る/見られるという視線と映像をめぐる一方通行の関係を反転させます。同時に彼は、スマートフォンで自身の姿を確認しながら、自分をも指差しており、メディア上で情報を発信する際に起こりうる、閉じたナルシシズムにも批評の目を向けているようです。
    その映像の録画である本作品は、後に、竹内公太(1982-)の個展「公然の秘密」で音声を加えて発表されました。諸状況から竹内はこの作業員本人ではないかと推察されるにも関わらず、それを認めません。映像だけからはその同一性を安易に確定すべきでないと主張するのです。様々なものが可視化されているはずのネット社会にも関わらず、見えないことにされるもの。「公然の秘密」。そこに、不可視の放射能によって置き去りにされる明確な「現場」を比喩的に重ね合わせてみることもできるかもしれません。

  • ≪自画像≫
    松本俊介
    1942年
    鉛筆/紙


    松本俊介は戦中戦後の過酷な時代状況のもとで生き、活動した画家として知られる。病気で聴覚を失ったこともあり画家を志すようになった彼は、少年時代を過ごした岩手から17歳で上京したのち、36歳の若さで急逝するまで、静謐な抒情性をもつ都市風景を中心に独自の絵画を探求した。また俊介は当時の国家による文化統制に異議をとなえ、自画像や人物構想画にたくして芸術の自由な創造性と人間の自立性を訴えたことから、のちの時代に「抵抗の画家」と呼ばれた。当館収蔵の素描約60点には《ニコライ堂》、《鉄橋近く》、《Y市の橋》などの、1941年頃から集中して描かれた東京・横浜近辺の風景が多数含まれており、俊介の緻密な制作プロセスを知る手がかりともなっている。1点の完成作品を得るために、彼は現場での多数のスケッチを基に、アトリエでさらに素描をまとめ直し、油彩画や素描作品のためのカルトン(原寸大下絵)を制作した。ハトロン紙に描かれた下絵は、輪郭線をカンヴァスや画用紙に正確に転写し、ねらい通りの画面構成をつくり出すためのものである。こうした準備段階で俊介は、ある風景を別の場所や人物モティーフと組み合わせ、大きさや形を変えるなど現実を自由に再構成し、次第に線を強く明確なものに仕上げていった。戦局悪化のなかで俊介は東京にとどまりひたすら目前の風景と対峙した。描かれた都市風景は、細部にいたるまで写実的でありながら、時に孤独や不安、幻想味を帯びた心象風景となった。

     1912 東京に生まれる
     1914 家族とともに岩手県に移る
     1929 盛岡中学校を退学、上京する
     1940 最初の個展(東京、日動画廊)
     1943 麻生三郎、井上長三郎らと新人画会を結成
     1948 東京にて死去
     1986 回顧展(東京国立近代美術館他)
     1998 回顧展(練馬区立美術館他)

  • 母子
    1948年
    麻生三郎
    油彩/カンヴァス
    91.0×60.5cm

    1913 東京に生れる
    1930−33 太平洋美術学校で学ぶ
    1935 初の個展(紀伊国屋画廊、東京)
    1952−81 武蔵野美術学校(武蔵野美術大学)教授
    1959 「第五回日本国際美術展」優秀賞受賞
    1963 芸術選奨文部大臣賞受賞
    1979 回顧展(東京都美術館)
    1981 東京にて死去
    1994−95 回顧展(神奈川県立近代美術館)

    日本的フォーヴィスムが主流であった昭和前半期の美術界において、麻生三郎は近代絵画の持つ色彩主義に背を向け、独特の明暗処理法と量感表現により人間の内的心情の表出を試みた画家である。本作品は麻生が敗戦以後に取り組んだ母子像のシリーズのひとつであるが、幾重にも塗り重ねられた暗色のマテイエールの中から浮かび上がる母子の姿は、戦後の混乱と窮乏のもとで生きなければならない庶民の不安感を漂わせている。このような印象は、明暗法の原則に反して背景と対象の明暗のコントラストを弱め、線を用いず面により量感を表す彼独特の手法によるものである。1960年代以降、麻生はこの画風をしりぞけ、デフォルメされた人間像や肉塊などが、晦渋なマテイエールの背景と等価値に描かれた抽象的な画面構成を展開した。

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