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  • 『新東京百景』より≪東京駅≫
    恩地孝四郎 
    1931年
    18×24.2cm
    木版

    創作版画『新東京百景』は、8人の版画家、恩地孝四郎(1891-1955)、諏訪兼紀(1897-1932)、平塚運一(1895-1997)、川上澄生(1895-1972)、深沢索一(1896-1947)、藤森静雄(1891-1943)、逸見亨(1895-1944)、前川千帆(1888-1960)による100枚一組の版画集である。1929年から32年まで中島重太郎の主宰する創作版画倶楽部より4期にわたって会員頒布された。限定50部。明治末期より昭和初期にかけておこった創作版画の運動は、自分で絵を描き(自画)、自分で彫り(自彫)、自分でする(自刷)ことを基本として、作家の個性を重んじ、版画独自の表現のうちに創作の意義を認めるものとして芸術としての版画の正統的な位置づけを求めたものであった。1918年には、こうした版画の地位向上と普及を意図した「日本創作版画協会」が創立され、いずれの作家もこれに加わっている。本版画集は、この目的に沿いつつも、関東大震災後の復興から近代都市へと変貌をとげる東京の姿を後世に残すため企画された。根底にあるのは、北斎や広重ら江戸の名所風物を描いた浮世絵の書策より連なる風景版画の伝統であると同時に、刻一刻と変化する東京の姿を作家自らがあらたに見つめ、板の上に創作しようと協力し合った作家たちの強い意識であろう。

  • 初年兵哀歌 歩哨
    浜田知明
    1954年
    エッチング、アクアチント/紙
    23.8x16.3cm

    1917 熊本県に生まれる
    1939 東京美術学校油画科を卒業
    1940 召集、中国大陸へ派遣される
    1953 最初の個展(東京、フォルム画廊)
    1956 「第4回ルガノ国際版画展」入賞
    1979 個展(熊本県立美術館、アルベルティーナ国立美術館)
    1980 個展(神奈川県立近代美術館)
    1993 個展(大英博物館日本ギャラリー)
    熊本県在住

    銃口を口にあて、銃の引き金に左足のゆびをあて、まさに死のうとしている、ひとつ星が襟に光る初年兵。美術大学を卒業してすぐに軍隊に召集され中国に送られ、その戦争の遂行目的自体に疑問をいだき、非人間的な軍隊の生活の中で神経をすりへらした作家が死にその救いをもとめたのは当然であった。若い日にモンドリアンとアルプにひかれていたという作者は、白から黒までの階調の中に、単純化すべきところは大胆に省略化し、反面、初年兵のよれよれの服は現実感をもって描き込んでいる。すでに骸骨のように見える初年兵の頬を流れ落ちる一滴の涙は我々に彼の悲しみをひしひしと伝えてくる。この作品が描かれたのが1954年であり作者の実際の戦争体験から10年以上たっているという事実を考える時、作品とするにはそれだけの年月が必要であったのであろうという感慨を我々もいだくのである。

  • シーラカンス
    毛利武士郎
    1953年
    石膏
    107x133x55cm

    毛利武士郎(1923-2004)は、1950年代から一躍その名が知られるようになった作家である。そのきっかけを作ったのが、1954年の「第6回読売アンでパンダン展」に出品したこの《シーラカンス》である。「読売アンデパンダン展」は、新聞社主催の無審査自由出品制の展覧会で、ここから多くの新人が発掘された。彼もそうした作家の一人であった。《シーラカンス》というタイトルは、当時マダガスカル島近海で発見された古代そのままの魚に想を得ている。ただし、一見して明らかなように、その魚の姿をそのままに象ったものではない。作家が「シーラカンス」という言葉を通して伝えたかったのは、現代に生きる古代的な存在とでも言うべきものである。石膏を用いて作り出された形は、何かの生き物であることを思わせつつ、ごつごつとした質感や重々しい重量感、どことなくユーモラスな感じ見る者に伝える。それは特定の生き物の姿ではなく、おおらかな原初的生命そのものの姿なのである。毛利の彫刻は、この作品に見られるような有機的な形態をとるものと、現代社会を厳しく見据えて作り出された幾何学的な抽象彫刻の二つの方向性を持っている。相反するともいえる二つの傾向がせめぎあい、そのどちらにも安易に流れないことがこの作家の特質であり、また評価されている点である。

    毛利武士郎
    1923年 東京生まれ
    1943年 東京美術学校彫刻科彫塑部卒業
    1952年 二人展(タケミヤ画廊、東京)
    1954年 「第6回読売アンデパンダン展」に出品
    1959年 「第5回サンパウロビエンナーレ」出品
    1999年 「毛利武士郎展」(富山県立近代美術館)
    2004年 富山県黒部市にて死去

  • 奴隷系図(貨幣による)
    菊畑茂久馬
    1961年(1983年再制作)
    布,5円硬貨,ろうそく,木他
    高113cm
    撮影:木奥恵三

    1935 長崎県に生まれる
    1953 福岡県立中央高校卒業
    1957 九州派に参加
        最初の個展(福岡市岩田屋百貨店)
    1958 「第10回読売アンデパンダン展」に出品
       福岡県在住

    菊畑茂久馬が前衛美術の集団、九州派の一員として活動していた頃の作品。作
    者にとっても、また日本の現代美術にとってもその表現の特異さにおいて1960年前
    後の反芸術的傾向を代表する1点となっている。陰陽のシンボルを持つ2本の丸
    太が御神体のように置かれ、その片方には5円硬貨が竜のウロコのようにびっしりと
    打ちつけられている。スポットライトに照らされると2本の丸太は黄金のように輝き、
    ろうそくが儀式的な雰囲気を盛り上げる。この作品はもともと1961年に国立近代美
    術館の「現代美術の実験展」に出品されたものである。展覧会終了後、作者が5
    円玉を数え直してみると元の10万円分以上あり、10円玉の「お寒銭」も混じってい
    たという。古くからの日本人の習俗をあえて現代美術のモティーフとし、東京で展
    示するための作品として生まれた≪奴隷系図≫は、オリンピックに向け高度成長の道
    を走り始めた日本が忘れようとする反近代的世界への鎮魂歌と考えられる。なお、
    現在の作品は東京都美術館での「1960年代展」出品のために再制作されたもの。

  • ロッキング・マンモス,M・ザ・ナイト
    ヤノベケンジ
     
    ≪ロッキング・マンモス≫
    2005年
    鉄,機械部品,他 
    370×190×450cm 

    ≪M・ザ・ナイト≫
    2006年
    ガスマスク,鉄,真鍮,他 
    h.240cm



    1965年生まれのヤノベケンジは、日本が高度経済成長期にあった時代に育ち、漫画、テレビアニメ、SF映画に囲まれて世界観を築いてきた。彼の作品にはこうした少年時代のサブカルチャー体験が、色濃く反映されている。初期に発表された巨大プラモデルのような彫刻作品には、鑑賞者が装着できたり、乗って動かせるユニークな機能が付いていたが、それはまた未来の地球で生き残るための装置「サヴァイヴァル・マシーン」でもあった。そうしたヤノベの意識に変化が訪れるのは日本を離れて、チェルノブイリを訪れた1997年である。ヤノベは自作の放射能防御服《アトム・スーツ》を身につけ汚染地帯に乗り込んだが、廃墟と化したチェルノブイリで再び生活を始めた住民の姿を発見することになる。それ以来、ヤノベの創作テーマは、自分だけが生き延びる「サヴァイヴァル」から、他者とともに再び生き直すことを目指す「リヴァイヴァル」へとシフトし、生に対するポジティブな要素が加味されるようになった。2004年には愛知万博のために「マンモス・プロジェクト」を立ち上げ、工業廃材で作ったマンモスをシベリアに埋めて未来に掘り起こす壮大な計画を提案した。このプロジェクトは万博では実現を見なかったが、その後、若い世代の賛同を得て引き継がれ、その過程で作られたのが《ロッキング・マンモス》である。車を解体して作られたこのマンモスは、ユーモラスな形をしているが、排気ガスで環境を汚し、進退きわまる20世紀の象徴でもある。このように既成のアートの枠組みを超えるヤノベの活動は、現実に対するわれわれの覚醒を絶えず促し、時代や社会に対する鋭い批評となっている。


    ヤノベケンジ
    1965 大阪生まれ
    1991 京都市立芸術大学大学院美術研究科修了
    1994−97 ベルリン在住
    1997 チェルノブイリを訪ねる
    2003 個展(国立国際美術館、大阪)
    2005 個展(豊田市美術館、愛知)
    2006 個展(霧島アートの森、鹿児島)
    2009 個展(豊田市美術館、愛知)
       大阪在住

  • ふくいちライブカメラを指差す
    指差し作業員
    2011年
    シングル・チャンネル・ヴィデオ

    2011年8月のある日、福島第一原発の現況をネット上でリアルタイムで伝えてきたライブカメラの前に、一人の作業員が立ち、およそ20分間にわたってこちらを指差すという出来事がありました。この人物は数日後にネット上で、政府や東京電力に対し、労働環境などについての提言を行い、さらに自分の行為が、ヴィト・アコンチが25分間にわたって画面の中心を指差し続ける映像作品《センターズ》(1971)を引用したパフォーマンスであったことを明かしました。
     「現場」の中心からこちらを指差す行為は、見る/見られるという視線と映像をめぐる一方通行の関係を反転させます。同時に彼は、スマートフォンで自身の姿を確認しながら、自分をも指差しており、メディア上で情報を発信する際に起こりうる、閉じたナルシシズムにも批評の目を向けているようです。
    その映像の録画である本作品は、後に、竹内公太(1982-)の個展「公然の秘密」で音声を加えて発表されました。諸状況から竹内はこの作業員本人ではないかと推察されるにも関わらず、それを認めません。映像だけからはその同一性を安易に確定すべきでないと主張するのです。様々なものが可視化されているはずのネット社会にも関わらず、見えないことにされるもの。「公然の秘密」。そこに、不可視の放射能によって置き去りにされる明確な「現場」を比喩的に重ね合わせてみることもできるかもしれません。

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