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  • 朝鮮通信使行列図絵巻(部分)
    小野等林(おのとうりん)/筆
    1682年(天和2年)

     鎖国下の江戸時代にあっても、お隣の国の朝鮮は日本にとって唯一、正式な国交のある「信(よしみ)を通わす」国だった。朝鮮通信使は朝鮮国王が徳川将軍の代替わりの節目などに派遣してきた400から500人規模の大外交使節団で、江戸時代を通じて12回、来日した。対馬に上陸した一行は、日本側が用意した従者や警固の侍に付き添われながら、総勢2千人余りの大行列を組んで、瀬戸内海、京都、東海道と行列を進め、江戸城で将軍に謁見(えっけん)した。
     数か月にのぼる使節の滞在中、街道筋には様子を一目見ようとする人々が詰めかけ、宿所には学者や文人が書画や詩、筆談を通じての交歓を求めて訪れ、通信使の一行は休む間もなかったという。
     この絵巻は、1682年(天和2年)に五代将軍、徳川綱吉の就任の慶賀に来日した使節を描いており、現存する行列図絵巻としては最も古いものの一つ。振り返って景色を眺める者、馬上でうつらうつらと居眠りをする者、傍らの日本人と言葉を交わす者と、様々な姿が描写され、いかめしい雰囲気は全くない。一人ひとりの穏やかな表情から、道中での格式ばらない和やかな交流が想像される。
     朝鮮通信使は、両国の威信をかけた国家行事だったが、文化面での交流は庶民にいたるまで広がりを見せ、江戸時代の日朝両国の善隣関係を象徴するものだった。
    (資料番号:93200884)

  • 浜御殿惣絵図
    1732年(享保17年)〜1741年(寛保元年)

     築地の中央卸売市場の南に、約7万5千坪に及ぶ広大な緑地がある。現在、浜離宮恩賜庭園と呼ばれているその敷地は、かつて徳川将軍家の別邸「浜御殿」があった場所だ。建物は失われたが、将軍や皇室からの使者が遊んだ庭園は、往時の面影を今なお良好に残し、国の特別史跡、特別名勝に指定されている。
     浜御殿は、もともと1652年(承応元年)に甲府藩徳川家へ与えられた江戸屋敷で、二代藩主綱豊(家宣)が五代将軍綱吉の世継ぎとなったことから1707年(宝永4年)に将軍家の別邸となった。
     この絵図は、八代将軍吉宗時代の様子を描いたもの。浜御殿は、庭好きだった十一代将軍家斉によって改修工事が行われ、現在の姿となったため、この図面は改修前の景観を示している。
     上方(南)には、庭園の中核である池が広がり、中央には五代、六代将軍の側室3人の御殿がある。池の水は、江戸湾の海水を取り入れ、汐の干満によって庭の風情が変化するという臨海都市・江戸ならではの趣向が凝らされていた。
     興味深いのは、側室たちの御殿の右にある「象部屋」の存在だ。1728年(享保13)にベトナムから渡来した象の小屋で、吉宗の上覧を経た後、ここで飼育された。
     しかし、餌(えさ)代など膨大な費用がかかったほか、災害時に江戸市中へ逃亡する危険もあったことから、1741年(寛保元年)に中野村の源助という者に払い下げられて見世物にされ、翌年、栄養失調で、あえなく病死する。「珍獣」と持てはやされた動物の哀れな末路といえよう。
    (資料番号:91212234)

  • 東都両国夕涼之図
    歌川貞房/画
    19世紀前半

     本図は、江戸時代の両国で繰り広げられた花火の様子を描いたもの。ここで描かれる混雑はただ事ではない。
     画面下半分を埋め尽くす人々は、両国橋の上で花火見物に興じる群衆を描いている。画面中程が隅田川の川面になるが、そこもまた大小の船で埋め尽くされている。そして星がまたたく夜空には、まるで生き物のように花火の赤い軌跡がくるくると描かれる。強烈な印象で思わずめまいを起こしそうだ。
     しかしこの錦絵は、丁寧に見ていくとなかなか面白い。たとえば橋の手前にいる人たちは画面の外を見ており、後ろ半分の人々が画面の中の花火を見るような形に描き分けられている。橋の両側で花火が上がっているためだ。こちら側に顔を見せる手前の人々は、実に表情が豊か。もみくちゃになりながらも、口を開けて上を見ている人が何人もいるのがほほえましい。また雑踏の中にスイカを一切れ持った人がいるが、今ならさしずめアイスクリーム片手に花火見物、といったところであろうか。
     川に目をやれば、赤い提灯を連ねて中央に浮かぶ、花火船に目が行く。「玉」と書かれた白い提灯があるので、両国広小路に店があった有名な花火師、玉屋市兵衛の船だろう。そばに同じ提灯を掲げた、花火職人の船も控えている。また、花火見物の屋形船の豪華さもさることながら、それらの客に物を売る「ウロ船」の様子にも心惹かれる。ウロ船の上には、スイカやウリが山積みだ。
     画面左上の川の中では、提灯をかかげて大山詣でに出向く「大山講(おおやまこう)」の人々が、長い納め太刀とともに身を清めるため水垢離(ごり)をしている。花火とは直接関係ない人々ではあるが、夏の隅田川の風物詩として親しまれた風景だ。
     このように見ていくと、人々の生活ぶりや息づかいが、画面からじかに伝わってくる。題名の「夕涼」というさわやかな言葉とは裏腹に、江戸の夏がパワー全開といった印象だ。
    (資料番号:91210425〜91210427)

  • 向ふ島ほたるかりの図
    歌川国明/画
    1859年(安政6年)

     花火や船遊びと並ぶ夏の夜ならではの娯楽に、蛍狩りがあった。上流社会では、平安時代より蛍を鑑賞する風習があったが、庶民の遊びとして広まったのは江戸時代に入ってからである。時期は、立夏からひと月ぐらいまでだった。江戸では、隅田川沿岸、王子、谷中、落合、根岸などが有名であった。現在の東京からは想像がつかないが、江戸の水辺には蛍が生息しており、夏の風物詩として人々に愛されていた。
     本図は、浮世絵師歌川国貞(三代豊国)の門人である国明による3枚続きの錦絵で、向島界隈の隅田川岸辺で蛍狩りを楽しむ様子を描く。子供たちが笹竹やうちわを持ち、闇をほのかに照らす蛍を捕まえようとしている。画面右の女の子は、捕えた蛍をそっと竹細工の虫籠にいれている。たゆたう川には小舟が行き交い、夜空には見事な満月が浮かぶ。心地よい川風に涼み、蛍の光を追い眺める人々の表情が生き生きと描かれている。
     蛍が飛び交う隅田川の情景は、日常生活の中に自然が与えてくれる美を楽しんでいた頃の、夏の夜の原風景である。
    (資料番号:94202539〜94202541)

  • 無尽灯(むじんとう)
    [田中儀左衛門]/製造
    1863年(文久3年)ごろ


     江戸時代の灯油はおもに菜種油で、石油に比べると粘着性が強く、灯心を伝って油が容易に昇らないため光が弱かった。幕末になると、これを改良して、より明るく、安定した明かりを得ようと、数種類の「無尽灯」が開発された。この無尽灯は最もよく知られている田中久重系統のもので、高さは約76センチ。空気ポンプによってできる圧搾空気で発砲する気砲(空気銃の一種)の原理を応用している。無尽灯の光度は小ろうそくの10倍ほどで、油を補給しなくても一晩は明かりが持続し、灯心も10日はもつ画期的な灯火具だった。
     田中久重(1799〜1881)は九州の久留米出身で、当時の在来技術のなかで数少ない機械・機構技術である「からくり」に興味を持ち、からくり人形や気砲を製作して「からくり儀右衛門」の異名をとった。最新の知識や技術を求めて上方へ渡り、京都に「機巧堂(からくりどう)」という店を構えて時計仕掛けの人形や鳥、雲竜水(手押し消火器)などのからくり商品を製作・販売した。そのなかの一つが無尽灯であった。この無尽灯は平心を繰り出すネジやガラスの受け金具の形状などから、弟子の儀左衛門の1863年(文久3年)ごろの作と見られる。
     1850年(嘉永3年)ごろに刷られた儀左衛門の店の価格表によれば、このタイプの商品名は「大平心」で、代金は2両3分(1両が現在の10万円とすると30万円弱)とかなり高価だったため、上方や江戸など都市部の限られた階層が用いるにとどまった。また、明治期に石油ランプが登場すると、無尽灯は次第に使われなくなっていった。
    (資料番号:90362601)

  • 氷冷蔵庫
    ミヤコ冷蔵庫/製造
    1952年(昭和27年)

     現在、「冷蔵庫」と言って思い浮かべるのは電気冷蔵庫のことで、それ以外のものを指すことはまずない。電気を利用して冷やすということもおよそ意識されず、「電気冷蔵庫」というまわりくどい呼び方を聞くことは珍しくなった。それほどまでに電気冷蔵庫は生活に根付いていると言えるだろう。
     電気冷蔵庫という呼称には、それまで主流だった「氷冷蔵庫」との違いを強調する意図が見受けられる。木製のこの氷冷蔵庫は、上の扉を開くと冷却用の氷を入れる氷室、下は食品庫になっている。容量は氷室に入れる氷の量で示されていて、これには3貫目(約11kg)の氷が必要だった。
     この氷冷蔵庫を製造した「ミヤコ冷蔵庫」は、もともと建具業が本業だった。建具業者であるにもかかわらず冷蔵庫を作り始めたのは、氷の重さと湿気に耐えうる木組みには、木工の技術や知識が不可欠だったからだ。ブリキ張りの内部は、近所の板金屋の手になるものである。
     かつて夏場に食物を冷やして貯蔵するのは大変なことだった。魚を井戸の中につるして傷みを防ぐなど、人々はわずかな涼も見逃さず知恵を尽くした。氷で冷やす素朴な仕組みの製品も、盛んに作られていた昭和20から30年代ごろまでは、大変なあこがれだったと言える。その氷冷蔵庫も電気冷蔵庫に取って代わられ、昭和30年代前半ごろから生産が減少。現在はほとんど製造されなくなった。
     電力でガーッと冷やす現代の冷蔵庫は便利だ。だがこの素朴でスローな冷蔵庫に、氷のやわらかな涼しさを見つけてみるのもいい。
    (資料番号:03000638)

  • 凌雲閣機絵双六(りょううんかくからくりえすごろく)
    歌川国貞(三代)/画
    1890年(明治23年)

     5年前東京スカイツリーが開業した。タワーとして世界一の高さに驚く人々の様子が連日報道されたが、明治時代の人々が、かつて浅草にあった凌雲閣に感じた驚きも似たようなものだったであろう。
     凌雲閣、通称・浅草十二階は1890年(明治23年)、浅草公園六区の北側に開業したれんが造りの展望塔である。高さには諸説あるが、開業当時の新聞などでは220尺(約67メートル)と報じられている。
     江戸東京博物館には凌雲閣の10分の1の模型があるが、さらにその内部の様子を知るために格好の資料となるのがこの絵双六である。
     「凌雲閣機絵双六」は、れんが造りの外壁を開いて中をのぞける仕組みになっており、11、12階には展望所、下層階には、休憩所や諸国物産を並べた「勧工場(かんこうば)」があったことがわかる。
     また、一見するとわからないが、3階と7階の商店部分をめくり上げると、客を乗せたエレベーターが現れる。これは、日本初の電動式エレベーターで、1階から8階の間を運転していた。しかし、呼び物だったこのエレベーターは、故障が頻発、開業半年にして停止を命じられ、再開したのは1914年(大正3年)になってからだった。
     れんがや電気といった新しい資材や動力を使い、未知の眺望を人々に供して文明の進化を印象づけた凌雲閣。まさに明治時代における東京スカイツリーのような存在だったのだろう。
    (資料番号:87102202)

  • 東京百花美人鏡
    小川一眞(かずま)/撮影
    1891年(明治24年)

     1890年(明治23年)浅草に開業した凌雲閣は、レンガ造りの高層展望塔で、日本初のエレベーターが設置されたことで話題を呼んだ。しかし、度重なる不具合により、開業から半年で、エレベーターは運転を停止した。最大の呼びものを失った凌雲閣の運営会社は、「百美人」というイベントを企画して、客離れを防ごうとした。
     「百美人」とは、当時東京で人気があった100人の芸妓(げいぎ)の肖像写真を場内に飾り、来場者による人気投票を行うというもの。芸妓の肖像は、12階建ての塔を階段で上る楽しみを持てるように、4階から7階までの中層階に展示された。撮影は、写真師の小川一眞に依頼し、100人が等しい条件で評価されるよう、特設のセットを組んだスタジオで行われた。
     「百美人」は人気の企画となり、1891年(明治24年)7月の初回から、度々催された。やがて、人気が高じて「百美人」の写真帖や石版画まで発行された。本資料もそのような人気の中で発行された印刷物の一つで、丸窓の肖像写真の下には、芸妓が属した街の名と源氏名が記されている。
     ちなみに、初回の「百美人」では、得票数上位5人に、ダイヤモンドのネックレスと丸帯が贈られたという。だが、参加者は賞品よりも、自らの名を上げる絶好の機会として、このイベントを捉えていた事であろう。

    (資料番号:87104012)

  • 軍事郵便 タカノヨシエチャン宛
    高野一郎/筆
    1943年(昭和18年)〜1944年(昭和19年)ごろ

     「ヨシエチヤン、ニュウガク、オメデタウ、ソノゴゲンキデ、オリマスカ、オバアチヤンヤ、オカアチヤン、ミンナ、ジョウブデオリマスカ」
     2013年(平成25年)に亡くなった作家の北原亞以子(本名・高野美枝(よしえ))さんが、戦地の父親から受け取った葉書である。全文カタカナ書きで、ランドセルを背負った少女のイラストが添えられている。
     父親の高野一郎氏は、東京・芝で家具職人をしていた。1941年(昭和16年)、北原さんが数え年4歳の時に出征し、長らくビルマ(現ミャンマー)に派遣されていた。出征先から一郎氏は、家族に170通近くの葉書を送っている。幼い娘への葉書は70数通に及ぶ。娘が読めるようカタカナ書きで、時に現地で見聞したものがユーモラスなイラストで描かれている。
     写真の一枚は、北原さんの国民学校入学を祝ったもの。娘が帽子をかぶることが好きだったのを思い出してか、イラストの少女も青い帽子をかぶっている。
     「ヨシエチヤンモ、ケフカラ一ネンセイデスネ、ウレシイデセウ、シッカリベンキョウ、イタシマショウ、ソシテ、カラダヲ、ジョウブニ、イタシマセウ」
     一郎氏は1945年(昭和20年)にビルマで戦死し、娘の成長を見守ることはかなわなかった。
     当館はご遺族からの寄贈により、一郎氏の葉書を所蔵している。戦火を逃れ、戦後72年という時間を超えて大切に保管されてきたものだ。戦争に行ったのが、誰かの愛する父であり、夫であり、息子であったことを痛切に伝える資料である。
    (資料番号:13000875)

  • 風船爆弾用紙製表彰状
    1945年(昭和20年)

     偏西風に乗って、気球で日本からアメリカ大陸まで太平洋を横断する。ロマンチックな冒険物語のようであるが、そこに積まれていたものが爆弾、焼夷弾(しょういだん)となると、話が違ってくる。太平洋戦争末期、日本軍はアメリカ本土を直接攻撃するための気球を開発した。「ふ」号兵器、通称風船爆弾と呼ばれるものである。
     気球本体には和紙が使用された。コウゾを原料とし、薄く、しかも縦横の強度を均一にすることが求められた。手すきのこの和紙は、生紙(きがみ)と呼ばれた。
     薄い生紙の張り合わせには、こんにゃく糊(のり)が使われたが、糊には防腐剤と青い色素も加えられた。色は、糊が生紙の全面に塗られているか、濃淡はないかを検査するために必要であった。風船爆弾の製造に携わった人には、風船が青かったという記憶を持つ人もいると思うが、このためである。こうして張り合わせたものを原紙という。
     風船爆弾製造には、多くの勤労動員の学生たちが従事した。この資料は、現在の北区にあった東京陸軍第一造兵廠で生紙の張り合わせ作業をした上野高等女学校の生徒が、作業終了にあたってもらった表彰状だが、青い紙が使われている。これはつまり風船爆弾の原紙である。当時は紙不足だったので、反古(ほご)になった原紙を使ったのか、それとも作業に従事したことを記念する意味だったのかは分からない。
     結局、風船爆弾は9千個余りが空に放たれ、そのうち300個弱がアメリカ大陸に到達。オレゴン州で六人が犠牲になったことが報告されている。
    (資料番号:98004481)

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