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  • 江戸幕府所持船図巻(部分図)
    江戸後期(1746〜1841年)

     本図巻には江戸幕府の持ち船のうち、浅草丸、麒麟丸、永寿丸、住吉丸、延宝丸などが描かれている。これらの船の多くを管掌しているのが船手頭(ふなてがしら)向井将監(しょうげん)である。向井家初代忠勝は大坂冬の陣のとき水軍の将として出陣した。忠勝以降も向井家は船手頭にあり、2400石を領し、左近衛将監を世襲し「向井将監」として江戸湾の警護や幕府水軍の維持に努めた。その役宅である船手番所は霊岸島にあった。
     この図巻の最後に描かれているのが、将軍専用の御召船(御座船ともいう)天地丸である。天地丸は1630年(寛永7)3代将軍徳川家光の時代に建造され、廃船に至る幕末まで約230年、将軍の御座船の地位にあった。大きさは500石積、76挺立で船体、総矢倉、屋形などすべてが朱の漆塗りで、随所に金銅の金具をつけた豪華な装飾が施され、将軍の御座船にふさわしい外観をしていた。船体の中央に立つ円錐状のものが天地丸の船印である金の槌、船尾に掲げられた紺地に白抜きの「む」の幟は向井将監の旗印である。
     代々の将軍はこの天地丸に乗って隅田川での遊興を楽しんだ。1826年(文政9)11代将軍徳川家斉が舟遊びをした時の詳しい記録が残っている。この日は家斉と御台所寔子(ただこ)は共に外出したが、夫婦別行動で、家斉は天地丸に乗って隅田川で漁師による漁撈の様子を見物した後、清水家別邸(浜御庭の先にある)に出かけた。寔子は夫の船出を見送ったあと、浜御庭(現在の浜離宮)に向かい、自ら釣りに興じる。家斉が乗った天地丸が浜御庭の前を横切って清水邸に向かう時も、その帰りも浜御庭の茶屋に集まって送迎した。
    (資料番号:96200109)

  • 楽宮下向絵巻(さざのみやげこうえまき)(部分図)
    青木正忠/画
    1804年(文化元年冬)

     12代将軍徳川家慶の正室(御台所)となる楽宮(さざのみや)の江戸下向の道中行列を描いたものである。楽宮(喬子(たかこ)・浄観院)は有栖川宮織仁(おりひと)親王の王女として、1795年(寛政7)6月15日に誕生した。妹に吉子(水戸藩主徳川斉昭正室、15代将軍徳川慶喜母)がいる。1803年(享和3)12月に当時将軍世子であった家慶と縁組をし、1804年(文化元)9月21日に江戸に到着し、江戸城西丸へ入った。
     わずか10歳(数え年)の楽宮一行は中山道を江戸に向かい、どこかの本陣に到着する直前である。到着を待つ本陣の様子から始まり、行列に従う諸役人や楽宮の荷物が描かれていく。楽宮の乗り物は描かず緋傘を描き、「御」と書くことでその位置を象徴している。
     供奉する役人の内、名前が記されているのは「松浦越前守」「東條信濃守」「土屋帯刀」「石野新左衛門」「石尾喜左衛門」「宮本三次郎」で、松浦が留守居でこの行列の責任者、東條は広敷用人、土屋が目付で、石野が使番、石尾と宮本が広敷番之頭である。
     この場面は行列を見物する人々を描いているが、楽宮の駕籠はすでに通り過ぎた後で、立ち上がっている者もいる。また女や子供の姿が目立つのは女性の行列だからであろう。楽宮は9月21日に江戸に着いているが、「甲子年冬日 青木正忠画」とあることから、描いたのはその年の冬といえる。
     その5年後の1809年(文化6) 12月1日に2人の婚礼式が執行され、婚儀が盛大に行われた。夫婦仲は良好で、楽宮は3度出産するが、いずれも夭逝してしまう。1837年(天保8)4月、家慶の将軍就任に伴い本丸大奥に入り御台所と称される。3年後に46歳で死去する。
    (資料番号:13200210)

  • 美濃大垣藩主戸田氏正奥方種姫
    安井顕真堂/撮影

     この写真の女性は、美濃大垣藩主戸田氏正(うじまさ)の夫人種姫(しなひめ、親姫ともいう)である。撮影した安井顕真堂は肥後熊本の写真館である。
     種姫は薩摩藩主島津重豪(しげひで)の娘で、生母は関金蔵の娘、1814年(文化11) 8月に生まれた。種姫の姉には11将軍家斉の御台所(みだいどころ)となった寔子(ただこ)がおり、美人であったと伝えられている。生母が異なるため単純な比較はできないが、寔子の容姿を伺い知る術とはなりうる。重豪は子沢山で知られ、寔子以外の兄弟姉妹も大勢いた。
     種姫は江戸の薩摩藩邸から大垣藩の上屋敷へ引き移り、戸田氏正と婚礼を挙げた。大垣藩の上屋敷は氏正が家督を継いだ1841年(天保12)に常盤橋から赤坂溜池に移っている。戸田家は美濃大垣を領する10万石の大名で、氏正の祖父氏教(うじのり)は老中を勤めた人物である。
     1814年生まれの種姫は1868年(明治元)には54歳で、1885年(明治18)に71歳で亡くなっている。正確な撮影年月日はわからないが、写真の種姫は50歳代後半から60歳代であろう。なぜ熊本で撮ったのかはわからないが、同時期にとられたと思われるもう一枚の写真では、御付女中千静・三起と一緒に撮っている。
     氏正の4男で戸田家を継いだ氏共(うじたか)の夫人極子(きわこ)は鹿鳴館の華とうたわれ、数多くの写真が残されている。また、幕末明治期に藩主夫人や姫たちを写した写真も意外と多く発見されている。そのうち、種姫と同じ和装で江戸時代の藩主夫人の格式でおさまっている写真としては、佐賀藩主鍋島直正の娘で川越藩主松平直侯(なおよし)と結婚した貢姫(みつひめ、健子・慈貞院)のものがよく知られている。
    (資料番号:02650113)

  • 草木錦葉集
    水野忠暁/著 大岡雲峰・関根雲停/画
    1829年(文政12年)

     水野忠暁(1767〜1834)(ただよし)は10人扶持で小普請組に属する幕臣で、通称を宗次郎といった。忠暁の水野家は500石の旗本として召し抱えられ書院番などをつとめていたが、4代前の当主近久が狂気のため、領地を没収され没落した。忠暁は1789年(寛政元)23歳で家督を継ぐが、役職に就くことなく生涯を終えた。
     忠暁は幼少より草木の栽培を好み、温室(唐むろ)の考案者である朝比奈に師事し、奇品家の中心人物として活躍するようになる。奇品とは高度に品種改良を繰り返した結果出現した斑入り葉植物のことである。その後、江戸の奇品家とその作品を紹介した版本「草木奇品家雅見」(1827年(文政10)版行)に参画する。掲載された作者160名の約4割に当たる65名が武士であり、四谷・千駄ヶ谷近辺を住まいとする者が多くみられる。忠暁の住まいも四谷大番町(現在:東京都新宿区)で620坪もの敷地面積があった。この広さは本来の家格500石に見合うものである。広大な屋敷地と有り余る時間が、忠暁を鉢植栽培に没頭させたといえる。奇品趣味では四谷・千駄ヶ谷の幕臣が発信源の一つとして存在していた。
     「草木奇品家雅見」の出版から2年後に忠暁が単独で版行したのが本書「草木錦葉集」である。長年かけて収集、栽培した約1000種の斑入植物を掲載した一大図譜である。生態のことや育て方、「胡麻布」「虎布」といった葉の模様の用語などを解説している。写生の大半は関根雲停が担当しており、いろは順に斑入り、変わり葉植物を描いている。本図にはバラの葉が中央の葉脈を境に色分けされる切斑が描かれている。
    (資料番号:90207691)

  • 泥絵 松平因幡守江戸屋敷
    江戸末期(1842〜67年)

     泥絵とは泥絵具といわれる安い絵具で紙に描いた絵画のことをいう。その明確な特徴は西洋から入ってきた遠近法を駆使していることにある。泥絵が描かれたのは幕末のごく短い期間であるが、年紀は全くといっていいほど記されていない。絵師については一部に落款が見られるが、名前の上に「芝」「司馬口」を関しているのは地名と考えられ、版元として芝神明前の老舗和泉屋市兵衛の印が押されたものがあった。
     泥絵の主題は、先ず地域を見ると江戸が大部分であり、その半数が武家屋敷のある景観を描いている。浮世絵では武家屋敷を主題とした作品はまれであることからも、当時の大名屋敷の外観を知ることができる貴重な資料といえる。
     画面いっぱいに描かれているのが、鳥取藩池田家の上屋敷表門である。上屋敷は八代洲河岸と呼ばれる江戸城の近くにあり、現在の帝国劇場を含む一帯が屋敷地であった。表門は堀端(現在の日比谷通り)から直角に曲がった南西側道路に面していた。
     池田家の表門は、国持ち大名が焼失後に建てる形式の冠木門で、両脇に唐破風(からはふ)屋根の出番所を設け、すべて黒塗りである。設計段階で作成された起し絵図も現存し、泥絵の形と一致することから、正確に描かれていることがわかる。手前を歩く人たちとの対比でその大きさがきわだっている。
    (資料番号:89210006)

  • 泥絵 霞が関 浅野家上屋敷・黒田家上屋敷
    江戸末期(1842〜67年)

     泥絵とは泥絵具といわれる安い絵具で紙に描いた絵画のことをいう。その明確な特徴は西洋から入ってきた遠近法を駆使していることにある。遠近法を使っているだけでなく、左右裏返しに風景が描かれているものもある。この裏返しの絵は浮絵とか眼鏡絵と呼ばれ、凸レンズを通すと正対で見えるようにできている。
     泥絵の主題は、先ず地域を見ると江戸が大部分であり、その半数が武家屋敷のある景観を描いている。武家屋敷の中でも、霞が関にあった黒田家上屋敷と浅野家上屋敷を左右に描いた構図のものがもっとも数多く残されている。江戸東京博物館が所蔵する本画もその一つである。
     向かって左が福岡藩52万石の黒田家上屋敷、右が広島藩42万6千石の浅野家上屋敷で、正面に位置する間の道が霞が関坂と呼ばれた。黒田家の表門は黒塗りで二本の角柱の上部に横木を渡し、扉をつけた冠木門に切妻屋根の出番所を設ける。石垣の上に建てられた海鼠壁をもつ白漆喰塗二階建ての表長屋が長く続く。黒田家は表門側の長屋に窓を開けなかったことで有名であった。
     浅野家の門は朱色に塗られており、将軍息女末姫が輿入れした時に建てられた御住居の門といわれる。門の形式は長屋門で朱塗りに黒金具をつけた扉の両側には向唐破風の屋根をもつ出番所が付属する。
     本絵では両家の門が半分しか描かれておらず切れているようにも見えるが、門全体を描いたものや、左右裏返しの絵も残っている。
    (資料番号:90200705)

  • 陶製ガス七輪
    昭和初期(1926〜31年)

     この灰色のガスコンロは陶でできている。すぐに壊れそうで、あつかいづらそうなこのシロモノは一体何のために造られたのだろう。
     1937年(昭和12)に勃発した日中戦争は、当初の予想をはるかに超える総力戦となった。大量消費される軍需物資を充足するため、商工省は翌年からあらゆる生活物資の供給制限をはじめた。そこで必然的に生じる物資不足への対策として登場したのが、このコンロのように本来の材質とは別のもので作られた代用品である。代用品は、綿のかわりに化繊を用いたもの、鉄のかわりに陶や木でできたもの、牛革のかわりに他の動物の皮革でできたものなどに大別される。
     綿は少し意外の感もするが、外資獲得のために主要輸出品である綿製品の国内需要分を海外輸出にまわしたことによる。鉄や牛革は、いうまでもなく重要軍需物資だ。スフ(ステープルファイバーの略)製の衣料に陶製のアイロンやコンセント、鮫皮の鞄などその種類、用途は多岐にわたる。流通こそしなかったが敗戦間際には、陶製の硬貨まで生産された。
     1938年に評論家大宅壮一は、代用品を「国民の保存と発展のため…天が日本民族に与えた一つの大きな試練」と評した。戦時下の国民は、戦争から国を「保存」するため、ある部分文明に逆行するような労苦を甘受した。しかし、代用品を単純に戦争とのかかわりから捉えるのではなく、資源問題の観点から再評価すべきではないだろうか。
    (資料番号:91225455)

  • 立退先広告看板
    水天宮社務所/作
    1923年(大正12年)9月3日

     1923年(大正12)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災では、火災の被害が深刻だった。火は東京市内の家屋32万戸を焼き、死者、行方不明者計約6万人を出したとされている。ほとんどの新聞社や出版社が被災し、情報が途絶したため、人々は各所に尋ね人の札をはったり、焼け跡に避難先を書いた看板を立てたりして、家族や知人の安否を確認しようとした。
     この看板の表には「水天宮社務所」とあり、裏には水天宮の社殿が焼失したこと、末社やご神体は無事だったことと合わせ、ご神体が浅草橋場町(現台東区橋場)の有馬邸に立ち退いたことが記されている。看板は、震災後の境内に立てられたものと考えられている。水天宮がある日本橋蠣殻町の一帯は焼失したが、幸いなことに近くの新大橋は、鉄橋だったためにほぼ無傷だった。警官たちが通行人の荷物を捨てさせる努力をして交通を確保し、1万人余りが新大橋を通って避難した。
     新大橋の傍らに残る碑によれば、ご神体は避難民に礼拝されながらこの橋を渡った。浅草までの詳しい避難経路は不明だが、火を逃れるため、いったん隅田川を渡ったらしい。火に追われ、川に阻まれた避難民にとって、橋上のご神体は水難除けのご威光を発するものと映ったのだろう。
     安産と水難除けの御利益で信仰を集める水天宮は1818年(文政元)に久留米藩主だった有馬家によって芝の藩邸に勧請され、1871年(明治4)に赤坂の有馬家私邸、72年に現在地へと移り、庶民の信仰を集めた。大震災後の立ち退き先は、その縁を頼ってのことだろう。
     日付から9月3日に製作されたとみられるこの看板には、5日から同所に遥拝所を設置することも記されており、震災発生から間もない時期にも参拝者がいたことが推察される。
    (資料番号:03000428)

  • 腕くらべ
    永井荷風/著
    1917年(大正6年) 

     明治政府の高官の長男として生まれた作家永井荷風(1897−1959年)は、アメリカ、フランスに遊学したのち、日本の表面的な近代化に嫌悪感を抱き、江戸趣味的な生活に憧れを抱くようになった。1915年(大正4)には、築地に住まいを移し、清元に熱中する日々を送ることになる。
     やがて知人たちと趣味的な雑誌「文明」を創刊、新橋芸者を主人公とした作品「腕くらべ」を発表した。「腕くらべ」は、人気役者をめぐって新橋芸者の腕くらべが繰り広げられる物語で、主人公の駒代には別れた妻八重次の姿を見ることができる。
     新橋の花柳界は、江戸の文化を内在させた特別な土地であるとともに、新時代の紳士たちが羽振りをきかせることで、明治に入って柳橋に代わる隆盛を遂げた場所であった。新橋のこの二重性が、作品の舞台として格好の場であることに荷風は目を留めていたのであった。
     私家版は、知友に配布するために公刊に先立って50部限定で刊行されたもので、近代日本文学の稀覯本のひとつとされている。装幀は荷風自らの意匠によるもので、内容は「文明」掲載のものを改稿、流布本にはない濃艶な描写で知られている。
    (資料番号:92201110)

  • テープレコーダー H型
    1951年(昭和26年)

     一見、旅行カバンのように見えるが、ふたを開けると中身はテープレコーダー。これは、東京通信工業株式会社が製造販売した普及型のテープレコーダーである。この前年、同社は日本で最初のテープレコーダーである「G型」を世に出した。G型は据え置き型の業務用として作られ、主に官公庁に納入された。
     G型が発売されたのち、販売促進のために様々な場所へ機械を持ち込み、デモンストレーションを行った。テープレコーダーを使うと、自分の話し声や歌声が聴けるという目新しさが受けて評判は上々であったが、重さが35キログラムと重たいうえに値段も高額であったので、売り上げは伸びなかった。そこでもっとポータブルなものを、ということで完成したのがこのH型で、重量は13キログラムと減量化に成功し、見た目も機械とは思えないしゃれたものとなった。
     H型は、主に学校での視聴覚教育用の機材として受け入れられた。その背景には、製作会社側が、学校での視聴覚教育の重要性について説明し、その機材としてテープレコーダーはどれだけ有用であるかといったことを熱心にアピールしたことがある。
     のちにソニー株式会社となるこの会社は、H型誕生から28年後にポータブルなカセットプレーヤー「ウォークマン」を発表する。しかし、今やそのカセットテープすら見たことがないという若者が増え、視聴の媒体はCDから、現在はデジタルへと変貌を遂げた。
    (資料番号:93007750)

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