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  • 創作版画「新版画」第14号 松竹座にて
    清水正博 
    1932年(昭和7年)

    この版画は浅草松竹座の2階席から場内を見下ろした風景である。しゃれた照明や壁の花飾り装飾から、華やかな様子がうかがえる。
     レビュー全盛期の当時、浅草松竹座はレビュースターとして大活躍したエノケンこと榎木健一が率いる劇団の主要拠点であった。
     この劇場を会場に1934年(昭和9年)9月29日から10月29日まで、エノケン劇団のレビュー公演にあわせて、若手版画家グループ「新版画集団」が、「エノケン一座をめぐる版画展」を開催した。
     新版画集団は大衆化をめざして結成され、団員の多くはもともと素人ではあったが、新しい版画創作と普及に燃え、劇場をギャラリーに見立てて版画の新たな探求を試みた。
     同一作品を複数製作できる版画の特徴を生かし、松竹座の1階と2階に同じ作品を1点ずつ12作品、計24点を陳列して同時展覧とした。
     浅草松竹座を選んだのも、エノケン一座の人気が高かったからで、版画の大衆化を旗印に活動する新版画集団にとって、観客数の多い劇場は作品を見てもらう絶好の会場だった。そして、それ以上に、団員たち自身がエノケン一座の芸術性を認め、その一座とその観客層なら、自分たちの版画の芸術性を理解してくれると考えたのだろう。
     展示された作品は、9月後期に公演したばかりの演目「巴里のヨタ者」を題材として取り上げたニュース速報的なものや、近く封切りが予定されていた映画と同名の「エノケン魔術師」、舞台の袖で出番を待つ歌手を描いた「出を待つ永井智子」などがあった。
    (資料番号:99200028)

  • 東京府金龍山浅草寺 五重塔修復之図
    歌川国政(4代)/画
    1886年(明治19年)

    塔に組まれた足場に、たくさんの人が上っている。しかし、何か作業をしているような様子はない。半纏(はんてん)を着た職人風の男性もいるが、額に手をかざし、辺りを見渡している。羽織を着けた旦那や、子供を連れた女性もいる。足場に上った人々は、眼下に広がる景色を楽しんでいるのである。
     この塔は、浅草寺(現・台東区)の五重塔。浅草寺の塔は、今まで数度の倒壊、炎上に見舞われている。現在の塔は、1945年3月10日の東京大空襲で焼失した後、73年に再建されたものである。その昭和の塔の先代にあたるのがここに描かれている慶安年間に建てられた塔だ。慶安の塔は、1642年(寛永19年)の焼失を受け、48年(慶安元年)に幕府の命により建立された。浅草寺本堂の西南にある現在の塔と違い、本堂東南に建っていた。
     明治時代になり、仲見世がレンガ造りに変わった1885年(明治18年)のその翌年、修繕が行われ、この時1人1銭の下足代を取って人々を足場に上らせたところ、大変な評判を呼んだという。これを機に、浅草では、富士山縦覧場や凌雲閣といった高所からの眺めを楽しむ施設が次々と作られた。眺望という新しい娯楽の形態ができたのである。
     東京スカイツリー(634メートル)が開業して2年が経った。慶安の塔は高さ約33メートル。その20倍の高さからの眺めを、私たちは今楽しんでいる。
    (資料番号:87102115)

  • 興行チラシ「元祖生人形細工」
    1875年頃
    郵政報知新聞 第623号
    月岡芳年 1875年(明治8年)

    江戸時代から明治・大正にかけて楽しまれた見世物のひとつに生人形(いきにんぎょう)があった。木組みに紙で成形し、胡粉で仕上げた本体に、人毛を埋め込み、ガラス製の目玉をはめ込んだ人形細工だ。生きているようだと評判で、舞台と組み合わせた、ろう人形館のような方式で展示された。「元祖生人形細工」は、生人形の見世物を宣伝したチラシである。すごろくのように、複数の画面を配置して、内容を知らせている。表題に興行の名称と作者を載せ、欄外に開催地と時期。舞台を描いた画面を7種類載せている。
     作者の安本亀八親子は、生人形細工の第一人者。浅草奥山は、当時有数の盛り場である。舞台に登場する、弥次喜多、宮本武蔵などの生人形は、物語世界の疑似的体験を狙ったものといえ、子供を背負う女性などは、普段目にする光景を再現することで細工の精巧さを強調したものといえるだろう。
     紙面左下に、「新聞山中の場」という表題の画面がある。2人の女性が木に縛られ野犬が足にかみついている。残酷な光景がなぜ生人形にされたのだろうか。
     実はこの画面、「郵便報知新聞 第623号」と同一の構図を取っている。月岡芳年が描く凄惨な光景は、当時の人々に大きな衝撃を与えた。チラシの表題から考えても、生人形の素材に、この刷物が引用されたといって間違いない。世間の話題が、すばやく生人形に取り入れられたというわけだ。
     出版物で話題となったニュースを、見世物というイベントが取り上げ、チラシの宣伝でそれがまた評判を呼ぶという、情報伝達の循環が、2つの資料から見ることができる。
    (資料番号:87102653)

  • 押絵羽子板 フランソワ
    押絵羽子板 ロザリヤ姫
    1935年(昭和10年)

    写真は1935年の松竹少女歌劇団公演で人気の高かった「ロザリヤ姫」の役者羽子板。この年の暮れに浅草寺境内の羽子板市で売られたものと思われる。
    ロザリヤ姫役は長谷川蘭子、主役の王子フランソワ役は、当時、「男装の麗人」と騒がれたターキーこと水の江滝子であった。宝塚少女歌劇団は、1927年に国内で初めて「レビュー」と銘打つ公演「モン・パリ」を宝塚大劇場で成功させた。
     これを受け、その翌年には、松竹少女歌劇団の前身にあたる東京松竹楽劇部が浅草松竹座3階のけいこ場を本拠地として発足。さらに翌29年に無声映画「ムーラン・ルージュ」の公開などによって本場のレビューが伝えられると、日本でも浅草水族館でエノケンこと榎本健一が参加する「カジノ・フォーリー」が旗揚げするなど、レビュー・ブームとなった。
    松竹楽劇部の生徒も、1期生はターキーを入れて17人だったが、2年後には100人を超える大劇団に成長し、2組編成で浅草と新宿の松竹座へ交互に出演した。1931年、本格的レビュー劇場として改築された浅草松竹座公演で、男装のサッカー選手を好演して以来ターキーの人気は高まり、一躍トップスターに躍り出た。
     一方、エノケンは1932年から松竹専属となり、その一座「ピエル・ブリヤント」は、松竹楽劇部とともにレビュー・ファンの人気を二分した。一座の人気脚本家菊谷榮が、大劇場でのレビュー研究のため、一時、松竹少女歌劇部に移籍した。また、ターキーらが起こしたいわゆるレビュー争議がもとで松竹専属の楽団が解雇されたのをきっかけに、エノケンが当代一のジャズ・プレーヤーを集めて専属バンドを結成するなど、ターキーとエノケン一座のつながりは深い。
    (資料番号:88207021)

  • 家建地割用具(いえたてちわりようぐ)
    1855年(安政2年)

    火事が多発し、時に大火に見舞われた江戸は、焼失と再建を繰り返した町である。江戸に限ったことではないが、人が集住し、木造住宅が密集した当時の都市では火事は必然的に発生する災厄だった。焼失による痛手は大きかったが、火事は新たな都市建設を促したことも事実で、火事に対する思いは悲喜交々(ひきこもごも)といったところであろうか。
     この家建地割用具は、家屋建築で必要となる設計図の作成道具である。碁盤目状になっている地割の板(右上)に各種の部屋を示す小板(右下)を組み合わせて建物の平面設計を行うもので、縮尺600分の1で規格化されていることから、縮尺計算を必要とせずに作図できた。
     地割の板1枚は、1枡を1坪として100坪の敷地を示す。部屋割の小板は表面にその坪数と各辺の寸法、裏面に畳の枚数を書き記し、部屋以外にも廊下や、便所、流し場を表現した板、塀を示す棒など約190個の部材が残る。
     もともとは、河島という人が所有したもので、用具収納箱のふた裏(左上)に、1855年(安政2年)9月に製作された旨が記されている。1877年(明治10年)に内田安兵衛氏が河島氏より譲りうけ、その子孫の建築家内田祥三氏が受け継いで、氏の没後に当館へ寄贈された。製作年、所有者のはっきりした貴重な歴史資料といえよう。
     製作された1か月後江戸にマグニチュード6.9の安政大地震が発生する。町屋全壊率約10%、焼失区域約2.2平方km、死者約1万人に及ぶ大惨事であった。この道具の初仕事は、あるいはその震災復興であったかもしれない。
    (資料番号:89000068)

  • 東都名所両国回向院境内全図
    歌川広重/画
    1842年(天保13年)

    墨田区両国2丁目にある回向院の起こりは、1657年(明暦3年)の江戸大火で犠牲となった無縁仏を弔うために、4代将軍徳川家綱より与えられた隅田川東岸の地に、堂宇をたてたこととされる。のちに境内が勧進相撲の開催場所の一つとして定着し、盛り場両国のにぎわいの中心となっていった。
     絵は、その勧進相撲が、毎年2回の定場所興行となった頃の様子を、俯瞰して描いた3枚続きの錦絵だ。回向院の位置は創建時より変わらないため、現在との比較が出来て興味深い。右下に描かれた表門は、現在では北に向けて京葉道路沿いに建つが、当時は隅田川がある西に向けて建っていた。本所方面を訪ねる人々にとって、両国橋を渡ると回向院が正面で迎えてくれるという体裁になる。橋は現在よりやや下流に架かっていた。
     本堂前を占拠する中ほどに描かれた丸い施設は相撲の仮小屋である。土俵周囲の4本柱の上に葺いた屋根が中央に出っ張って見え、よしず張りの観客席がそれを囲む。興行日数は1778年(安永7年)以降、1場所につき晴天10日間と定められ、雨天の場合は順延された。相撲興行は、寺社の建立や修築の資金調達を目的とする勧進が名目だったが、強い力士が人気者になるなど歌舞伎と並んで一大娯楽でもあった。
    (資料番号:89212324)

  • 大豹蛮虎戯
    歌川芳豊/画
    1860年(万延元年)

    1860年(万延元年)夏、両国橋西詰の広小路(現在の中央区東日本橋)では、オランダ商人によって海外から持ちこまれた「豹」を「虎」と称して見世物にした興行が華々しく行われた。
     この錦絵は、評判だったその興行を諷(ふう)したもの。擬人化された虎と豹が、滑らかな七五調で身の上を語っている。日増しに物情騒然としていく幕末期であったが、ちまたの空気とは裏腹に豹のみならず、虎、象、ラクダなどの渡来動物を見世物にした興行が江戸では人気を博していた。
     絵の動物たちの台詞は、歌謡曲「お富さん」でもお馴染みの歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」をパロディ化したもの。中央の虎は刀傷が売りの与三郎、煙管を手にした右の豹はお富、左の虎は蝙蝠安(こうもりやす)だ。中央の虎は、虎と豹の二つの名前で呼ばれている境遇を語りつつ、今回の興行大入りについて「お釈迦様でもかなうめえ」と著名な文句をもじりながら評している。見物客には、虎として見せられている動物の正体が豹だとは周知の事実だった。このことは、斎藤月岑(げつしん)の編んだ『武江年表』などでも指摘されている。虎と押し通せると考えていたのは、専ら興行側だけだったようだ。なお、動物たちの顔はその役を演じた歌舞伎役者の似顔絵となっている点も興味深い。
    (資料番号:93201585)

  • 鎮西八郎為朝大明神両国ニテ御開帳子供御逆之図
    鎮西八郎為朝大明神両国ニテ御開帳子供御逆之図(ちんぜいはちろうためともだいみょうじんりょうごくにてごかいちょうこどもおさからいのず)
    歌川国芳/画 住吉屋政五郎/版
    1851年(嘉永4年)

    場所は両国・回向院。1851年(嘉永4年)5月5日から60日間にわたり、八丈島小島の為朝神社から来た為朝神像の出開帳が行われた。その際に、みこしを中心に子供の行列が繰り出した様子を描いている。
     開帳とは、ふだんは見ることのできない秘仏などを公開し、人々に結縁の機会を与えること。なかでも他の所に出向いて公開することを出開帳といい、遠方にある寺院の仏との貴重な出会いの場だった。
     鎮西八郎こと原為朝は、弓術に優れていたとされる平安時代末期の武将で、配流先の八丈島で疱瘡神(ほうそうがみ)を追い払ったとの伝説がある。疫神を退治し、以後島民は疱瘡(天然痘)にかかる者がでなかった、というものである。そのため、為朝の姿は疱瘡除けのお守りなどにたびたび描かれた。
     江戸時代、疱瘡は有効な治療法がなく、「伝染性が強く、死亡率が高い病気」として恐れられていた。特に子供は患いやすかったため、様々なまじないによって子供を守ろうという試みがなされた。その多くに共通しているのが「赤色」というキーワードだ。赤い色は疱瘡除けに効き目があると信じられ、赤い着物や玩具など身近に赤を置く慣習があった。
     本資料でも赤色がアクセントとなっている。為朝神像の周りには赤い手拭いを頭に巻いた子供たちが集まり、さらに疱瘡除けの代表的玩具だった赤いダルマやミミズクを掲げて、そのご利益を得ようとしている。
     当時は、疱瘡などの流行病で社会が大きな不安に包まれており、人々は考えられる手立てを尽くして災厄を祓おうとしていた。その中で行われた為朝神像の出開帳は、人々にとって得難い機会となった。
    (資料番号:95201339)

  • 東京名勝図会ホテル館庭上の図
    歌川広重(3代)/画
    1868年(明治元年)

    1868年11月築地(現・築地市場内)に開業した外国人旅館(通称・築地ホテル館)を描いた錦絵である。幕府と諸外国の修好通商条約によって横浜などの開港が決まり、江戸でも交易が始まることとなった。これを受けて築地居留地内に外国人向けのホテルが建てられた。
     設計は、新橋駅の設計で知られる米国人建築家のR・ブリジェンス。工事は清水屋(現・清水建設)の二代目清水喜助が請け負った。政情が不安定な中で工事は進み、新政府下で開業した。
     築地ホテル館は、塔を備えた西洋建築だったが、外壁になまこ壁を張り巡らせるなど伝統的な和風の要素も取り入れられ、擬洋風と呼ばれる建築様式だった。当時の英字新聞で「YEDO(江戸)HOTEL」と紹介され、客室からの富士山の眺望や東京湾に面する日本庭園が名物だった。ホテルを描いた錦絵は100種類を超え、中には豪華なものもあったが、本資料は開業と同時に世に出た、庶民でも手にしやすい安価な1枚物の錦絵だった。
     しかし、築地居留地は貿易港を抱える横浜ほど繁盛せず、やがてホテルは経営難に陥った。休業と再開を繰り返した後に海軍に売却され、残念ながら1872年2月の「銀座の大火」で全焼してしまった。
     同年5月には新橋・横浜間に日本初の鉄道が仮開業。銀座にレンガ街が完成するなど、その後、この一帯は短期間で大きな変貌を遂げていく。こういった新名所を描いた錦絵は次々と出回るようになり、人々に楽しまれた。
    (資料番号:95202788)

  • はとバスオープンカー
    1964年(昭和39年)

    観光バスが登場したのは、第一次世界大戦の後、欧州で案内人を乗せ「戦跡めぐり」をしたのが最初だという。その後、パリ、ロンドンなどの都市を案内する観光が盛んになった。同じころ、日本でも人力車や馬車などによる東京見物がはやり始めた。
     関東大震災を機に乗合自動車と呼ばれていたバスは、本格的な交通機関として社会的に認知された。震災から2年後1925年(大正14年)には、東京に初めて定期観光バスが開設されている。
     東京市は32年(昭和7年)、15区から35区へと、現在の23区とほぼ同じ範囲に拡張され、「大東京」として発展していく。復興から繁栄へと躍進する東京を一巡する観光バスは人気を博した。当時名物であった丸ビルを一望できるように、天井をガラス張りにしたバスも登場した。
     だが、東京の隆盛と名所巡りも長くは続かず、40年、戦局の悪化に伴うガソリン節約のため、観光バス事業に中止命令が出された。戦後の復興と共に、定期観光バスは49年に再出発することになる。
     神武、岩戸景気を経て東京オリンピックへと向かう日本は好況に沸き、国民総レジャー時代を迎えた。オリンピックを契機に、大幅に改造された東京を観光する目玉としてオープンスタイルのバスが現れた。
     写真はちょうど国立競技場付近を通過するところ。車体上部を切断してシート数も減らし、ゆったり気分が味わえる観光バスは、高速道路も取り入れて「新東京」を巡った。東京の興隆を目の当たりにしながら、都市の空気や天候も体感できたのだろうか。
    (資料番号:99850169)

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