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  • 川村清雄宛マルティン・リーコ書簡
    1881年(明治14年)10月7日

    本資料は、生涯をかけて日本独自の洋画を追及した洋画家・川村清雄(きよお)の原点がうかがえる書簡である。
     清雄は、黒船来航前夜の1852年(嘉永5年)、幕臣の家に生まれ、明治維新で江戸を追われた徳川家達(いえさと)に従って静岡に移住した。1871年(明治4年)に徳川家の派遣留学生としてアメリカへ渡ると、その後はフランスとイタリアで10年余り、本格的な油彩画を学んだ。
    西洋絵画の本場イタリアでは、ベネチアのアッカデミア美術学校に通い、ここで大蔵省の官費留学生になった。学年末試験で一等賞を受賞するなど、順風満帆な留学生活だったようだ。
     当時、欧州ではジャポニスムが流行し、1878年(明治11年)のパリ万博でその熱狂は頂点に達した。日本の美術工芸品の価額は高騰し、欧州の芸術家にも多大な影響を与えた。清雄は友人のスペイン人画家マルティン・リーコらジャポニスムに心酔する画家とパリ万博を訪れ、遠い異国の地で改めて故国の美を再発見した。まさに清雄が自身の進むべき方向性を見いだした瞬間だった。
     書簡は、帰国直前の清雄がリーコから送られたものである。その中でリーコは、パリ万博で特有の魅力を放っていた日本の美術工芸品の光景を反すうしながら、帰国しても日本人の良さを忘れないでほしい、と清雄に助言している。
    (資料番号:01002036)

  • 映画「藤原義江のふるさと」ポスター
    神田日活館/製作
    1930年(昭和5年)3月

    かつて、映画といえば、音声のないサイレント作品の時代があった。映画館には「弁士」と呼ばれる日本独自の解説者がおり、語りと様々な声色によって内容を巧みに解説する彼らの名調子は、観客を大いに楽しませた。しかし昭和に入ると、アメリカで音声のついたトーキー作品がヒットし、日本でもトーキー製作に向けての試行錯誤が行われるようになった。
     本資料は、日本活動写真株式会社(日活)初のフィルム式トーキー映画として製作された「ふるさと」のポスターである。ポスター右下に「神田日活館」の記載があることから、神田神保町にあった日活直営の映画館・神田日活館で宣伝用として刷られた館オリジナルのものであると思われる。
    「満天下待望の日活発声映画」の文字が躍り、日活がトーキーに寄せた強い期待がうかがえる。内容は、当時人気を集めていたオペラ歌手の藤原義江を主役に、藤原演じる主人公が海外より帰国し、歌手として成功するまでの物語。監督は若き日の溝口健二で、藤原の歌を劇中で活かした意欲作だった。実際には、「パートトーキー」という部分的に音声を流す仕様ではあったが、目新しさもあり、公開時にはそれなりの評判を得た。日本映画がトーキー化していく過程を示す貴重な資料である。
    (資料番号:09200100)

  • 東京真画名所図解 新橋ステーション夜
    井上安治/画
    1882〜87年(明治15〜20年)

     墨を流したような暗闇にたたずむ洋館。窓からは煌々とした明かり。存在自体がパースペクティブ(遠近法による遠近感)を明示する建築と、立体感を表す陰影は、江戸時代に西洋の遠近法を部分的に取り入れた浮世絵とは違う。むしろ、ヨーロッパ版画が光と影を白と黒に置き換えて、3次元を表しているのに近い表現である。当時、この様な強烈な陰影と遠近法を伴ったスタイルは、「光線面」と呼ばれた。
     作者。井上安治(1864〜89)は「光線画」で人気を博した小林清親の弟子に若くしてなった。早くに父を亡くした境遇の共通点のためか、清親は安治の面倒をよく見たという。
     なぜ、2人は「光線画」で、従来の錦絵とは違う陰影や立体感を描いたのだろうか。清親はイギリス人画家ワーグマンに師事したとも考えられている。だとしたら、清親、安治ともに、ヨーロッパ絵画技法を直接、間接に学んだと言える。
     文明開化で変わった日本の風景も、2人へ影響を及ぼしているのだろう。モチーフとしてしばしば取り上げられている洋館やガス灯は、まさに文明開化の象徴である。同時に、石やレンガで出来た建築物の量感や、ガス灯が照らし出す陰影は、立体表現と影の密接な関係を、容易に理解させたであろう。ルネサンス期以来、ヨーロッパで、立体表現の研究に建築の素描が重要な役割を果たしたようだ。
    (資料番号:85200830)

  • 薩摩藩年府銀渡通(ねんぷぎんわたしかよい)
    薩州役所
    1834〜1871年(天保5年12月〜明治4年)

    明治維新の30年ほど前、薩摩藩は歳入が14万両しかないのに、借入が500万両という債務超過に陥っていた。この難局を打開したのが家老の調所笑左衛門(ずしょしょうざえもん)だ。
     調所の財政改革がなければ、幕末の薩摩藩の活躍は考えられない。調所のとった手段は全債務者に対し、無利息で250年賦で返済するという乱暴なもの。つまり500万両の返済を年2万両で済まそうというわけだ。あくまでも債務放棄を強要するものではないが、多くの商人らが「被害」を受けた。
     本資料は被害者の一人大阪の寒天問屋大根屋(だいこんや)小兵衛宛ての債務返済通帳の冒頭部分。これによると、薩摩藩が借りた銀610貫余を毎年銀5貫弱、のちには銀3貫500匁(もんめ)弱ずつ返済するというものだ。年賦(償還年限)にすると、250年より短い124〜170年になる。通帳の発給日次と、返済開始は1834年(天保5年)12月。
     通説では大阪・京の商人に対しては2年後の天保7年に250年賦が実施されたとなっており、償還開始時期の早いことや、年賦年限が短いことから、薩摩藩と大根屋との間の特別な関係がうかがえる。この通帳には、薩摩藩が廃藩置県のあった1871年(明治4年)まで毎年、律儀に借銀を返済していることが記載されている。
    (資料番号:87000762)

  • 富士山御絵図
    歌川芳盛(2代)/画
    1887年(明治20年)

    明治中期の浅草は、世界を俯瞰的に見る遊覧施設が次々と生まれた場所であった。1885年(明治18年)、浅草寺五重塔を修復する際、組んだ足場に人々を上らせたところ好評を博した。これに目をつけた興行主が明治20年に開業したのが、富士山縦覧場だ。高さ約36メートル、周囲には螺旋(らせん)の登山路が付けられ、多くの人で賑わった。しかし、木骨モルタルという粗末な造りであったために、この「浅草富士」は暴風雨によって、わずか2年足らずで倒壊してしまう。
    富士山縦覧場の跡地に現れたのは「日本パノラマ館」。1890年(明治23年)に誕生したこの施設は、内部が巨大な円形ドームとなっており、見物人は、中央の観覧台から周囲に展開する光景を一望することができた。人形やペンキ絵、照明と遠近法によって迫真(はくしん)の効果を挙げたという。「パノラマ館」のような、世界をパノラマ的に俯瞰するという視線は、同じ年に開業した凌雲閣にも引き継がれることになる。「浅草十二階」の名で親しまれた凌雲閣は、高さ約67メートル、日本一の高搭として、関東大震災で倒壊するまで、浅草のシンボルとして知られた存在であった。10階までは八角形の総煉瓦造り、11階から上は木造で、日本で初めてのエレベーターが備え付けられた。凌雲閣の内部には、世界各国の土産物を売る店があり、美術品の陳列も行われたが、世界を見ようとする視点は、これだけにとどまらない。眺望室には望遠鏡が備えられ、人々に高所から周囲を見下ろす新しい視線を提供したのだ。
     眺望を目的とした登高遊覧施設を誇った浅草は、新しい愉しみが生まれる場でもあった。
    (資料番号:87102623)

  • 東海名所改正道中記―日本橋伝言局
    歌川広重(3代)/画
    1875年(明治8年)

     日本橋を描いた絵といえば、歌川広重の代表作のひとつ「東海道五十三次 日本橋」がよく知られている。その一方で、1911年(明治44年)に完成した、石造の日本橋に愛着を持つ人も多いだろう。
    石造の橋が登場するまで、実は木造の日本橋は何度も架け替えられ、修理されてきた。その歴史の中で、文明開化の一時期、顔を出した面白い日本橋があったことは、あまり知られていない。それは車道と歩道を区別する、現在のガードレールのようなものを設置した日本橋だ。
    本資料の中心に、黒々と描かれた柵がそれだ。左側の柵は橋そのものの欄干で、右側のものがガードレールにあたる。記録によれば1873年(明治6年)、架け替えの際に、この柵が造られた。1882年(明治15年)の鉄道馬車開通のころにはすでに撤去されていたようだが、当時の人々の耳目を集めたものらしく、この柵を誇張気味に描いた錦絵がいくつか残されている。
    日本橋のたもとには魚河岸があり、橋の周辺地域も多種多様な商工業の中心だった。人々の往来に加え、荷車や人力車の通りも激しかったことだろう。画期的な発想だ。
    (資料番号:88200010)

  • 東都名所二丁町芝居繁栄之図
    歌川広重/画 蔦屋吉蔵/版
    1830〜35年(天保前期)

    かすみ雲の上からのぞくように描かれているこの絵は、現在の中央区日本橋人形町あたりにあったというにぎやかな芝居町の様子。入堀の東堀留川に架かる親父橋の上空付近から北側を見下ろしたという構図だ。堀は戦後に埋め立てられ、同時に橋もなくなった。川岸に対して直角に延びる通りには、市村座が立つ葺屋町(西側・左)と中村座が立つ堺町(東側・右)が隣り合い、ひとまとめに二丁町とも呼ばれた。
     歌舞伎の興行は幕府の許可を得た特定の座元にのみ認められており、1714年(正徳4年)以降の江戸では木挽町(中央区銀座)の森田座を含んだ三座だけであった。
     市村座と中村座の入口上には官許の標である四角い櫓が見える。それぞれの座紋を染め抜いた幕を張りめぐらし、櫓の下には看板がびっしりと並んでいる。小屋に隣接しているのは、歌舞伎見物の客を世話する芝居茶屋。小屋と同様に軒下に水引暖簾と赤い提灯がかけられている。通りの両脇には屋根よりも高いのぼりが立ち、繁盛する芝居町を一層引き立てている。
     二丁町は市村座と中村座を中心にして、人形浄瑠璃や見世物の小屋、料理屋に各種の茶屋、雑貨屋などの店、そして役者をはじめとした芝居関係者の住居があった。この地は天保の改革により歌舞伎小屋がまとめて浅草の地に強制移住させられるまでの200年ほどの間、悪所の一つに挙げられた江戸最大の歓楽街であった。
    (資料番号:91210399)

  • 江の嶋弁才天 開帳参詣群衆之図
    歌川国郷/画
    1856年(安政3年)

    びっしりと店が立ち並んだにぎやかな大通りを楽しげに行き交う多数の老若男女。
     この3枚続きの錦絵は、安政3年8月9日から深川の永代寺で行われた相洲江の島本宮岩屋弁才天の出開帳の様子を描いている。
     開帳とは、寺社が信者たちに対し秘仏を特定の期間に限り公開するもの。当地で行う居開帳に対し、人々が集まる江戸などへ出向き、拝観させる出開帳がある。
     奥には竿先に紙垂(しで)や常緑樹の葉が飾られた奉納の幟旗に混じり、壁面がムシロの仮小屋、カラフルな幟看板も見える。これらは臨時に寺社の境内や門前での興行を許可された宮地芝居や見世物である。
     永代寺は本所の回向院に次いで出開帳の宿寺となることが多かった。
     一方、学問と芸術の神、弁才天をまつった江の島への参詣は、芸事を愛でた江戸庶民にとって信仰を兼ねた身近な行楽だった。この開帳は人気の裸の女神様を拝める機会だったが、「武江年表」によると「詣人少し」「大雨風に仮家潰れて」とあり、どうやら人出と天候には恵まれなかったようだ。この絵は評判をあてこんで出版されたのだろう。
     永代寺は明治政府の神仏分離で廃されるまで富岡八幡宮の別当。幕府より恩賜された6万余坪の寺城の一部は現在、江東区立深川公園となっている。
    (資料番号:93200253)

  • 東京電車双六
    毎夕新聞社/発行
    1910年(明治43年)

     これは東京市内の電車をテーマにした双六で、マスにある赤い雪輪文の枠内に書かれているのは、電車が走っていた町名や停留所名。中央付近の「九段」のマスに小さく電車がみえる。
     この双六が明治43年に発行されていることから、ここでいう電車は東京鉄道株式会社のものだとわかる。実際この双六の裏面には、「東鉄路線図」(東鉄は東京鉄道株式会社の略称)が地図のように丁寧に描かれている。表の双六は、裏面の地図のような正確さはない。しかし、各マスの情報は、当時の東京の姿を伝えてくれる。
     例えば一番下中央には、人力車製造で有名な銀座の秋葉大助の店が描かれている。その左側にはビールや時計の店が描かれ、当時の最先端の雰囲気も伝わってくる。
     このようなテーマは、実は双六の伝統にのっとったものだ。名所を巡ってマスにコマを進めていく構成や、マスに有名な商店やその地域の名物を当てはめて親しみやすくする発想は、江戸時代にも好まれたもの。
     しかし、終点(上がり)に向かってひとつひとつ停留所(マス)を進んでいく電車は、そもそも双六に近い性格持つ。見方を変えれば、東京を走る東鉄の路線そのものが、都市の中に埋め込まれた巨大な双六のようにみえてくる。
    (資料番号:96201173)

  • 市川団十郎口演 清醒丸引札(せいせいがんひきふだ)
    歌川国貞/画 
    江戸後期

    トレードマークの大きな目を見開いた、町人姿の7代目市川団十郎(1791〜1859)が膝を正して口上を述べている。芝居の途中という想定だが、説くのは演目紹介でもなければ配役披露でもない。漢方薬の説明だ。
     現在でも、はやりのタレントによる商品広告が盛んだが、江戸時代にも歌舞伎役者の人気にあやかった商法が存在していた。憧れのスターについつい釣られて財布の紐を緩めてしまうという、ファン心理を突いた類いの広告である。
     歌舞伎十八番の制定で知られる当代屈指のスター7代目団十郎が、やむを得ず依頼されたと言い訳しつつ推薦しているのが、浜町晩翠堂(はまちょうばんすいどう)の清醒丸。これは一体いかなる薬なのか。画中右下の三方に重ねて載せられた袋がそれであろう。
     口上によれば、毒消し、食傷、霍乱(日射病)、特に酒毒、二日酔いに効く妙薬だそうだ。団十郎は続けて「付き合い酒だの勤め酒だのと、とかく大酒遊びをするお方にご用意していただきたい」と勧め、自分も日頃から愛飲していて、その効能をよく知っているとまで力説する。ただ、薬の成分などは省かれているのが、いかにもうさん臭くて、それがまた面白い。描いた歌川国貞(1786〜1865)は役者絵や美人画で活躍した浮世絵師である。
    (資料番号:99200274)

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