注目のコレクション

  江戸東京博物館

go東京都写真美術館   go東京都現代美術館   バックナンバー

  • 吉野山蒔絵 文台・硯箱
    19世紀

     花見の名所である吉野山(奈良県)をテーマにした高蒔絵(たかまきえ)が施された文台(ぶんだい)と硯(すずり)箱のセット。文台とは、書物や硯箱、歌会などで用いる懐紙や短冊を載せるために用いた小さな机で、硯箱は、硯、筆、墨などを入れる箱である。文台と硯箱は一組として作られることが多かった。江戸時代、蒔絵などを施した装飾豊かな文台と硯箱は、多く大名家などで利用されていた。
     文台が入っていた外箱には「桃齢院(とうれいいん)様御遺物」と記された貼り紙があり、薩摩藩8代藩主であった島津重豪(しげひで)の娘貢子(こうこ)が所用していた道具であることがわかる。貢子は、出羽新庄藩(現山形県新庄市)の10代藩主戸沢正令(まさよし)に嫁いだ人物。若くして夫を亡くし落飾して、桃齢院と称する。その後、11代藩主となった幼い正実(まさざね)の後ろ盾として、新庄藩の政治に大きな影響を与えた。
     ところで、この文台と硯箱は桃齢院の実家島津家に伝来していたものである。戸沢家に嫁いだ桃齢院の持ち物がなぜ島津家にあったのか。外箱の貼り紙には明治24年(1891年)3月にこの文台と硯箱が島津家に到来した旨が記されている。恐らく同年1月に死去した桃齢院の形見分けの品としてもたらされ、同家に伝わることとなったのであろう。その伝来とともにこの美しい大名夫人所用の品を楽しんでいただきたい。
    (資料番号:08200027)

  • 台徳院霊廟奉納 銅製燈籠一対
    台徳院霊廟奉納 銅製燈籠一対(たいとくいんれいびょうほうのう どうせいとうろういっつい)
    1632年(寛永9年)7月24日

    世界遺産が東京の中心にあったかもしれない。空襲で焼ける前の徳川将軍家の霊廟群のモノクロ写真を見ると、そう思う。2代将軍徳川秀忠、同夫人、6代家宣、7代家継らの霊廟が、港区芝のかつての増上寺の境内にあった。
     霊廟建築は城郭建築とならび江戸時代の武家にかかわる代表建築である。徳川将軍家の霊廟であることから、増上寺の霊廟群は時代の粋を集めた建築であったであろう。日光東照宮を思わせる、内部装飾の豊かな建物が立っていたかと思うと、空襲で焼失したことが返す返す惜しまれる。
     このなかでも中核だったのが秀忠の台徳院霊廟だった。秀忠は1632年(寛永9年)正月に没した。霊廟造立は翌月に開始され、7月には本殿の上棟式が行われた。その場所は現在の芝公園付近にあたる。日比谷通りに面して惣門(国指定重要文化財)が残っているが、かつてはこの門から霊廟にむけて一直線に参道があり、その両側に奉納された石燈籠が林立していた。
     秀忠の墓所である宝塔は、さらに奥にあった。当時の絵図を見ると、宝塔のある奥院にも燈籠が奉納されていたが、奥院の燈籠は石燈籠ではなく銅製。数多く奉納された銅製燈籠のうちの一対が、写真の燈籠である。
     両基ともに台徳院霊廟に奉納された旨が記され、奉納者蒲生忠知の名前が「従四位下行侍従松平中務太輔源忠知」と刻まれている。忠知の母は家康の娘であったために、秀忠の宝塔に近いこのような位置に、銅製燈籠を寄進できたのであろう。燈籠の表面に残る金色の輝きは、かつての荘厳な台徳院霊廟を物語っている。
    この銅製燈籠は、近年になって江戸東京博物館に収蔵された。
    (資料番号:09200091 09200092)

  • 浅草寺境内ニテ フランス大曲馬
    歌川広重(3代)・歌川重増/画
    明治4年(1871年)

     江戸時代より浅草寺(せんそうじ)の参詣(さんけい)客を迎えて栄えた浅草は、明治のはじめにも奥山(おくやま)と呼ばれる地域を中心に、見世物(みせもの)や大道芸(だいどうげい)で賑(にぎ)わいを見せていた。明治6年(1873年)、境内(けいだい)は公園地に指定され、やがて奥山の見世物小屋は公園第6区に移転する。これらは、のちに活動写真館(現在の映画館)となり、人気を集めた。
     現在は遊園地として知られる「花屋敷(はなやしき)」は、文字どおり花を観賞(かんしょう)する場所であった。明治期には、従来の生人形(いきにんぎょう)などに加え、山雀(やまがら)曲芸、骸骨踊りといった興行が行われている。この他にも、玉乗りの芸や芝居小屋が、盛り場・浅草の大きな魅力であった。
     さまざまな見世物興行が行われていたこの地に、フランスのスリエ曲馬団(きょくばだん)が現れたのは明治5年(1872年)のこと。西洋曲馬や軽業(かるわざ)の見世物は、幕末から明治のはじめにかけて、海を渡った曲馬師たちによって、しばしば行われた。写真の「浅草寺境内ニテ フランス大曲馬」は、改印(あらためいん)(出版検閲印)の「辛未(かのとひつじ)」から、興行に先立って明治4年に描かれたことがわかる。当時こうした版画は、広告的な役割を果たすことも多かったのだ。鮮やかな色彩は、人々の西洋に対する憧(あこが)れの心を刺激したに違いない。
    (資料番号:87102125)

  • 鼠短檠(ねずみたんけい)
    江戸後期

    猫が行灯(あんどん)の油をなめるというのは、怪談話にも出てくるが、鼠(ねずみ)も油好きだったらしい。
     短い軸棒の先に鼠の作り物を付けている写真の道具は、「鼠短檠(ねずみたんけい)」と呼ばれている江戸時代の照明器具。短檠とは、軸棒の途中に灯油皿をすえた背の低い灯台を言う。
     鼠の視線の先には油皿があり、油をねらっているという格好だ。この油皿に灯心を添えてあかりを灯(とも)すのだが、油皿の油が燃焼によって少なくなると、鼠の口から自動的に給油されるという精巧な作りになっている。江戸の知恵がうかがえる優れものだ。
     仕組みは図のように、まず鼠とそれに続く細長い管を軸から抜き取り、逆さにして、管の先端から漏斗(じょうご)を使って油を注ぎ込む。鼠の口から空気が入らないように気を付けつつ軸に戻すと、空気圧で油が油皿に注がれ、油面が鼠に続く空気管の斜めに切断された部分より高くなると、給油が停止するという仕組みだ。
     油皿と軸は管でつながっているので、燃焼で油が減ると、斜めの切断部分から空気が鼠型の中に入り込み、空気圧で油が押し出され、再び給油が始まる。この繰り返しが、鼠型の油槽の油がなくなるまで続く。
     コンピューター制御も何もない、あったのは自然の原理と知恵だけの時代だった。
    (資料番号:89208355)

  • 七福人宝之入船
    歌川房種/画
    1885年(明治18年)

    笛や太鼓の演奏を楽しむ7人の神々。見晴らしの良い部屋からは遠くに富士山を望み、羽ばたく鶴やこちらに向かっている宝船も見える。大きな松や梅の花などいかにもおめでたいモチーフと、色彩の鮮やかさが雰囲気を盛り上げる。
     福をもたらす神仏として現代でも人々に親しまれている七福神は、室町時代に成立したといわれる。恵比寿・大黒天・弁財天・毘沙門天・寿老人・福禄寿・布袋といった、それぞれ古くから信仰を得てきた福神たちの集団である。七福神の信仰は、江戸時代、庶民の間で盛んとなり、七福神巡りが行われるなど広く受け入れられた。7人の福神が集まれば、その効果も合わせて7倍といったことだろうか。
     そして、七福神と宝船は正月の初夢の縁起物として知られる。初夢は、その1年の吉凶を占うといった意味合いを持つ。そこで、良い夢を見られるようにという願いを込め、七福神と宝船が描かれた絵を枕の下に敷いて寝たという。笑顔で描かれた七福神と宝船の組み合わせは、いかにも幸福を招いてくれそうな図柄である。
     本年も残すところあとわずか。年内の無事を願うとともに、新しい1年が幸多き年となるように祈りたい。
    (資料番号:90200157)

  • 東都高輪泉岳寺開帳群衆の図
    三代歌川豊国/画・恵比寿屋庄七/版
    1848年(嘉永元年)

    赤穂義士が眠る泉岳寺は、1612年(慶長17年)創建の古刹(こさつ)で、1641年(寛永18年)の火災により江戸城近くの外桜田から現在の高輪の地に移ってきたとされる。
     この絵は、泉岳寺の開帳に多くの人々が集まるなかに、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の登場人物、すなわち歌舞伎役者も参詣しているといった仕立てとなっている。開帳とは、普段見ることの出来ない寺社の宝物を一定期間公開することをいう。
     この絵の出版に関しては、いくつかの事実が判明している。1つは、1848年(嘉永元年)2月29日より実際に泉岳寺で開帳がなされ、大盛況であったこと。2つ目は、同年の3月15日より、江戸の中村座において「忠臣蔵」の上演がなされたこと。3つ目は、同年にこの開帳と歌舞伎の上演をねらって、「忠臣蔵」の錦絵が数多く出されたことである。
     2番目と3番目は、「藤岡屋日記」などの当時の記録によると、「不入」、「何れも当らず」とあって、歌舞伎も、錦絵も全くふるわなかったという。この絵もその1つなのか。
     では、開帳だけが期待通りの大入りだったのかというと、「釈迦八相」という寺宝が目玉として公開されていたのだが、先の「藤岡屋日記」には、「高輪開帳大評判、釈迦八相は脇のけにて、義士の木像へ参詣し」とあり、興行者の思惑とは違った展開になっていたことが知れる。この開帳にあわせて、歌舞伎、錦絵のそれぞれが相乗効果を狙ってみたが、庶民の心理をしっかりとつかむことは難しかったようだ。
    (資料番号:90207417)

  • 和装西洋男女図
    作者不詳
    明治期前半ごろ

     江戸東京博物館の収蔵品には、一人の収集家によって集められたコレクションをそのまま引き継いだものがある。今回紹介するのは、その中のひとつ赤木清士氏のコレクションだ。このコレクションは、日本の近代化を象徴するような科学技術に関するモノ資料や紙資料で構成されており、時代的には幕末から明治のものが中心となる。
     ここで紹介するのは、西洋の男女の和装姿を描いた一対の絵。どちらも絹地に美しい色彩で描かれている。背景はどこかの水辺で、男性の背後には富士山も描かれている。日本情緒あふれる画面であるが、よくみると陰影がほどこされており、伝統的な日本画というより西洋画風の写実的な印象が強い。
     これは、幕末に導入された写真技術や油彩画に影響を受けて、五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)(1827〜1892)らによって量産されたとされる「横浜絵」の一種だ。和洋折衷の画面は、現代の私たちから見るといささか違和感を覚えるが、居留地の外国人には日本土産として人気があったという。
     類似品がいくつか現存するが、パターン化した姿形から推察すると、顔だけ依頼者に似せて描いていた可能性もある。今で言えば、観光名所によくある、顔の部分だけくり抜いた記念撮影用の絵看板か、簡単に変身して写真が残せるプリクラのようなものだろうか。
     当館所蔵のものは、背景が丁寧に描かれており、金泥(きんでい)が用いられた着物の絵柄はかなり豪華で細かい仕上げとなっている。しかも、男女とも葵(あおい)の紋を付けており、通常のものより力を入れて制作されたもののように見受けられる。
    (資料番号:90362501)

  • 山王祭礼駿河町 付祭行列図
    歌川国芳/画
    江戸末期

    大江戸では、山王権現の祭礼と神田明神の祭礼をはじめとし、美々しい山車や練り物で彩られた祭が催された。山王祭と神田祭は、ともに江戸城で将軍の上覧に供したことから「天下祭」と称された。山王祭は6月15日、神田祭は9月15日に、原則として隔年で祭礼の行列が江戸城内に入った。日本橋川を境として、北東は神田明神、南西は山王権現の氏子だった。
     山王祭では160の町が競い合い、豪華な山車の数は40台を越えた。山車や神輿(みこし)、練り物の見物に多くの人々が繰り出し、大きなにぎわいを見せた。山王社が江戸城鎮守の神とされたことから、その祭礼も幕府の手厚い保護を受けた。文化・文政期には金100両が補助され、ますます壮麗な光景が繰り広げられた。
    この絵巻は、駿河町が仕立てた山王祭の行列を描く。駿河町は富士が向こう正面に見えることからこの町名になったといわれる。当番の町が臨時で仕立てた出し物を「付祭(つけまつり)」といい、踊屋台(おどりやたい)、地走り踊り、練り物の3種があった。この絵巻にも趣向が凝らされた踊屋台や、三味線を持った囃子(はやし)方などが描かれている。大胆な構図で知られた幕末の浮世絵師の歌川国芳による、天保期から万延期ごろの肉筆画だ。
    (資料番号:91210022)

  • 十二支見立職人づくし
    歌川国芳/画
    江戸末期

     「干支(えと)の動物」が、江戸の職人にふんして天職に精を出す様子を描いた浮世絵である。
     まず干支の一番目、「子(ね)」には「金(かな)あミ師」があてられている。ただし、2匹のネズミが忙しくつくっているのは、ネズミの侵入除(よ)けとなる金網である。次の「丑(うし)」には「車匠(くるまし)」。こちらもウシが牽(ひ)く荷車を、ウシ自らが斧(おの)をふるってつくるという滑稽さがある。ほかにも猿股(さるまた)を縫う「もゝ引(ひき)したて」の「申(さる)」や、猪肉の異名にちなんで「牡丹(ぼたん)」の造花に励む「亥(い)」、鳴き声そのままに「椀師(わんし)」となった「戌(いぬ)」など、どの動物の真面目な顔で黙々と働いていて、くすりと笑わせるユーモアにあふれている。
    (資料番号:91220038)

  • 東照宮御鎮座之記
    烏丸(からすまる)光広/筆
    1617年(元和3年)

     1616年(元和2年)4月17日、徳川家康は75年の生涯を閉じた。2代将軍秀忠は、家康の遺言に従い亡骸(なきがら)を久能山(静岡市)に葬り、翌年には久能山から日光へとその亡骸を遷座した。この時の記録はいくつか残されているが、そのうちの一つが、同行した公家の烏丸光広が著した本状である。
     光広は寛永の三筆に並ぶ書の名人として知られている。また、朝廷と幕府との連絡調整役として京と江戸とを度々往来するなど、公家の中でも特に幕府との関係が深かった人物であった。
     本状から遷座の行程を見てみると、3月15日に久能山を発した一行は、その日のうちに吉原(静岡県富士市)に着き、以後三島、小田原、中原(神奈川県平塚市)、府中、仙波(埼玉県川越市)、忍(おし)(同県行田市)、佐野、鹿沼の各所に泊まり、4月4日に日光に着座している。都合18泊19日。家康の側近だった天海が住持を務める仙波の喜多院と、日光手前の鹿沼でそれぞれ4泊した以外は、実に淡々とした旅程であった。
     また、本状では、和歌を織り込みつつ道のりや宿所の風景にも触れるなど、光広の公家らしい姿がみてとれる。そして本状は、後に幕府の正史である『東照宮御実紀(ごじっき)』の底本ともなるなど、幕府にとっても貴重な資料となった。
    (資料番号:95201798)

ページTOPへ▲