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  • 七世松本幸四郎の助六 梨園の華
    山村耕花/画
    1920年(大正9年)

    にらみが効いた眼差(まなざ)しと、への字に結んだ口元。歌舞伎狂言「助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の主人公・助六を描いた役者絵である。
    歌舞伎十八番のひとつに数えられる現行の形式は、2代目市川団十郎が演じて完成させた。助六の紋として用いるのは市川家の鮮やかな杏葉牡丹(ぎょうようぼたん)である。助六は江戸っ子を体現したキャラクターで、江戸紫の鉢巻とすっきりとした黒羽二重姿、むきみ隈(ぐま)と呼ばれる隈取りが特徴。江戸っ子の誇りと美意識、血気盛んな若々しさと正義感を表現している。演じる七代目松本幸四郎(1870〜1949)は、歌舞伎役者の顔を持つ一方、先頭を切って近代的な演劇活動を行っていた当代の名優であった。
    作者の山村耕花(1886〜1942)は品川に生まれ、院展に日本画を出品していた画家。尾形月耕に学び、東京美術学校(現・東京芸術大)で日本画を修めた。浮世絵の復興をめざした板元・渡辺庄三郎から版画作品を刊行したことを皮切りに、版画家としても活躍するようになる。
    本作品は歌舞伎役者を題材にしたシリーズの一つ。作品にあるサイン「豊成(とよなり)」は耕花の別号である。雲母を使ったキラ刷りや立体感のある空刷りなど往年の浮世絵技法を駆使し、描き尽くされたヒーロー像を同時代によみがえらせることを試みている。
    (資料番号:08200005)

  • 里すゞめねぐらの仮宿
    歌川国芳/画
    1846年(弘化3年)

    にぎやかな鳴き声が聞こえてきそうな雀たちのお宿。これは、吉原遊郭の仮宅(かりたく)を宣伝した大判3枚続きの錦絵だ。
    1845年(弘化2)12月5日、吉原は火事で焼失した。翌年9月に再建するまでの間、遊郭は、浅草周辺や深川などへ分散し仮営業を行った。この仮宅は遊興費も安く、便利だったため、それなりに繁盛した。画中でも、遊女のほか、客、駕籠(かご)かき、花簪(かんざし)売り、遊郭のガイドブックを販売する細見(さいけん)売り等で、活気に満ちている。
     当時、42年(天保13)6月出版統制令で、遊女を題材にした絵は禁じられていた。このため絵師の国芳は、「吉原に通じた客」を意味する「吉原雀」にちなんで人の顔を雀に描きかえた。
    細かく見ると、しゃれを利かせた文様が随所に描き込まれている。格子をつかんでいる遊女の小袖は、ふくら雀と籠目(かごめ)文様。籠目は、子供遊びの歌「かごめかごめ」を暗示している。その遊女と見合っている武士の羽織には、文字散らし文様で「舌きりすずめおやどはどこだ」とある。また客の衣装に蛤(はまぐり)文様。これは「雀海中(かいちゅう)に入って蛤となる」という中国の故事にちなんでいる。そのほか、仕出し料理を運ぶ男の半纏(はんてん)に鳴き声「チウチウ」の名札などが見てとれる。
    この中に、出版検閲を行う改掛(あらためかかり)の名主、渡辺庄右衛門の改印「渡」が羽織の紋に見立てて各1枚ずつに押されている。これが問題となり、渡辺は南町奉行の遠山景元に46年閏5月、改掛を免職された。
    (資料番号:11200033)

  • ペリー提督日本遠征記(初版)
    ホークス 
    1856〜58年(安政3〜5年)

    浦賀沖に現れた4隻からなるペリー艦隊は、フィルモア大統領の親書を手渡すことを要求し、幕府は久里浜で応接することを決めた。1853年(嘉永6年)6月9日(西暦7月14日)、ペリーは初めて日本に上陸し、幕府の応接掛に米国大統領の親書を渡した。
     翌54年(嘉永7年)に再来日を果たしたペリーは交渉の結果、下田・函館の開港、船の燃料と食料の補給、米国遭難者の保護などを約し、日米和親条約を締結した。この経過をまとめたのが、この「ペリー艦隊日本遠征記」である。
     ペリー自身の日記や公文書を中心に、艦隊指揮官アダムス中佐、通訳官ウィリアムズらの航海記や日記・報告書なども加え、牧師のフランシス・L・ホークスによって公式記録として編集されたもの。第1巻は遠征記の本文、第2巻は動植物など調査報告書、第3巻は天体観測と水路図から構成されている。この大判の全3巻は、各地の風景や風物を描いた石版画の挿絵や地図をふんだんに掲載した、およそ1500ページにもおよぶ大著であったが、約3万4000部も刷られたと言われている。
     ペリーは帰国後、日本人の知的好奇心の高さを評価し、明治維新後の日本の発展を予言するような次の言葉を残している。「他国民の物質的進歩の成果を学び取ろうとする日本人の好奇心と、それをすぐに自分たちの用途に適用させようとする進取性をもってすれば、鎖国政策がゆるめられれば、日本人の技術はすぐに世界の水準にまで達するだろう。」
    (資料番号:84200019)

  • 世の中五用心
    歌川芳虎/画
    1947年(弘化4年)〜1852年(嘉永5年)作製

    出版文化の発達した江戸では、色鮮やかな錦絵をはじめ実に多くの印刷物が流通していた。本資料は、罫線(けいせん)によって細長く区切られた中に狂歌と押画を配した短冊見立ての刷物(すりもの)の一つである。
     表題に「身の用心」、「戸締まりの用心」、「火の用心」、「暑さ・寒さの用心」、「お尻の用心」と書かれている。順に見てみると、最初に身を入れて日々稼ぐと、結果として裕福なれること(勤勉性の効用)、次に玄関や戸などを自身で見廻って戸締まりすること(防犯)、そして就寝前に竃(かまど)や煙草(たばこ)などの火の始末を確認すること(防火)、続いて寒暑の厳しい時期に蚊帳や炬燵(こたつ)などを用いたりして、健康に留意することを説いている。
     では、最後の「お尻」とは何のことだろう。書かれている狂歌を読むと、「尻が来て、始末のならぬ五節句も、大晦日(おおみそか)には払う用心」とある。ここでは、「お尻」を「年末」の意味に用いていて、大みそかにツケを支払うよう、用心することを説いている。生活する上での日常規範が、ユーモアをまじえて書かれているのが面白い。
     危機管理の強調される今日ではあるが、こうした江戸に暮らした人々の知恵や工夫にも学びたいものである。
    (資料番号:90200576)

  • 神明恵和合取組
    歌川国貞(3代)/画
    1890年(明治23年)

    たびたび火災に見舞われた大都市江戸では、18世紀の初めに町火消が成立。「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華」といわれるとおり、火消たちは世間の注目を集めていた。なかでも、1805年(文化2年)2月、芝神明宮(港区・芝大神宮)での勧進相撲がきっかけとなって起きた「め組の喧嘩」は、多くの人の知るところとなった。神明町を受け持ち地域とする「め組」の辰五郎らと、武家の抱えである力士たちとの間で起こった立ち回りは、江戸ッ子に格好の話題を提供し、後年になって何度も芝居に脚色されている。本図は、竹柴其水(きすい)作の狂言「神明恵和合取組」が1890年(明治23年)に上演された際の錦絵。3代国貞描く辰五郎は、刺子半纏(はんてん)を両肌(もろはだ)脱ぎにし、鳶口(とびぐち)を構えて、勢いのある姿を見せつけている。其水は、江戸庶民の生活を活写することで知られた河竹黙阿弥(もくあみ)の弟子で、「神明恵和合取組」にも、師の得意とする七五調のセリフが随所に散りばめられている。とりわけ黙阿弥自身が手を加えたという三幕目には、辰五郎が啖呵(たんか)を切る次のようなセリフがあり、秀逸だ。

    日本橋からくらべりゃア芝の土地は場末だが、水道の水に変わりはねえ、命を惜しんでこの儘に、指をくわえて引っ込むものか

    江戸の地下には、木樋(もくひ)を流れる水道網が張り巡らされており、水道の水で産湯を浴びることは、江戸ッ子自慢の一つとされていた。辰五郎を演じた五世尾上菊五郎は、め組ゆかりの人たちから火消の動作や道具の詳細を聴き、演出にも生かしたという。人々の江戸への郷愁は明治に入ってからも、こうした作品を生み出す下地となっていた。
    (資料番号:90207366)

  • ウルユス看板
    江戸末期

    ここに紹介するのは、幕末の頃のものとされる1枚の看板。本邦初の西洋風商品名を掲げた謎の蘭方薬(らんぽうやく)ウルユスの看板である。書かれる文字も漢字や平仮名が主流であった時代。そんななか、耳慣れない商品名に加え、謎めいたローマ字(看板中のVLOYM VAN MITTRとは、痰(たん)の特効薬をオランダ語風に表現したもの)を記した異国情緒あふれる看板は、江戸の町で一際異彩を放つ存在であったに違いない。
    ウルユスの発売は、江戸時代後期、明和・天明年間(1764〜89年)とも文化9年(1812年)ともいわれる。その由来については、オランダ医師ヘストル直伝の処方という説が一般的だが、ロシアから伝わったとする説に加え、実際は日本で生み出された薬(実は漢方薬?)であったという説まで存在する。「ウルユス」という商品名自体が洋風を気取った造語で、「体毒を排する」という意味の「空(むなしう)ス」をもじったもの、すなわち漢字の「空」の字画を分解して「ウルユ」とし、末尾に「ス」を付けただけの洒落だというから驚きだ。
    庶民が読めるはずもないオランダ語を掲げ、洒落を用いてまで異国情緒を演出するウルユス看板は、現代の私たちにはとても奇妙で、こっけいですらある。しかし看板は、人の世を映す鏡。そこには、江戸の庶民が思い描いた奇妙な異国イメージの一端が映し込まれている。
    看板の効果もあってか、ウルユスは大いに売れた。これ以降、ホルトスやテルメルなどウルユスをまねた奇抜な横文字看板が大いに流行する。その隆盛ぶりは、ついに町奉行所をして取り締まりに乗り出させるほどであったという。
    (資料番号:90361901)

  • 東海道五拾三次之内 御油旅人留女 
    歌川広重/画 
    1833〜36年(天保4〜7年)頃

    世界に名所絵で知られた歌川広重の出世作、保永堂版「東海道五拾三次」は、伊勢参りの流行や、「弥次さん喜多さん」でおなじみの『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』の出版などによる東海道の旅ブームを受けて、1833年(天保4年)頃から刊行されたといわれる。東海道の宿駅53に出発地・日本橋と終点・京師(京都)を加えた55枚である。
     図は御油(ごゆ)の宿(愛知県豊川市)。旅人を引きこもうとする客引きの留女は、荷物ごと引っ張る強引さだ。弥次さんがつかまりかけて必死で逃げた「膝栗毛」の話をベースにしたといわれる。右手の旅籠(はたご)の壁には、講札(こうふだ)に見立てた「東海道続画」「彫工治郎兵ヱ」「摺師平兵衛」「一立斎図」の札が掛かる。「東海道続画」とはこの版画が揃い物であることを示す。奥に書かれた「竹之内(版)」は、版元の保永堂(ほえいどう)・竹内孫八をさす。保永堂版「五拾三次」には、こうした広告が随所に描かれており、広重自身や版元をちゃっかり宣伝している。なかでもこの御油が一番目を引く。左の旅籠に目をやると、障子や下げ看板に「大当屋」とある。なんとこのシリーズの大ヒットまでアピールしているのだ。
    (資料番号:08100036)

  • 流行ねこのおんせん

    擬人化された猫たちが1階の湯船につかり、くつろいだ表情を浮かべている。階段を上った2階の広間では、風呂上がりの客同士が談笑する楽しげなひとときが描かれている。戦後自宅に風呂場が普及するまで、地域の銭湯は生活の疲れを癒すと共に市民の交流の場であった。
    2階建ての銭湯は、江戸時代中期には始まっており、東京市内でほぼ廃止される1882年(明治15年)頃まで、江戸・東京地域特有の風俗だった。ただし2階が利用できたのは男湯の客のみ。2階で荷物を預けて脱衣し、1階の風呂に入った後、2階に戻って休憩する。給仕の娘が出す茶を飲んだり囲碁や将棋を楽しんで、さながらサロンの様相を呈していた。
    しかし、ここに描かれているのは女湯。細部を見るとガス灯やランプ、湯船脇の壁には温度計が取り付けられている。娘の猫が頭にリボンのおしゃれをし、明治時代の新しい風俗が表されている。
    この版画は、江戸時代後期から明治時代にかけて多く刷られて流行った、子供のおもちゃとして描かれた浮世絵の一種である。元来、猫は風呂に入るのを嫌うものだが、猫たちの表情は、ほころんで和やかそのもの。建物の内装は暖かいピンクの配色で、子供も見て楽しんだことだろう。
    (資料番号:91200151)

  • 太田道灌初テ歌道ヲ志ス図
    大蘇芳年/画
    1887年(明治20年)

    画面の右側の女性が、地に伏して、一枚の花を献じる。対する左側には笠をかぶり、太刀をはいて立つ武士がいる。この武士は扇子をほおにあて、いかにも困惑した表情を浮かべている。献じられた一枝の花は山吹の花だった。
     ある日、タカ狩りに出かけた1人の武士が途中で雨に降られた。雨具を借りたいと1軒の家を訪ねる。その家で、みのを所望したが、その家の娘は何も言わずただ山吹の花の一枝を差し出すだけであった。これがこの画題となった場面である。
     この行動は「七重八重花は咲けども山吹のみ(実)のひとつだになきぞかなしき」という有名な古歌を踏まえたもので、「我が家はみのひとつもないほど貧乏なのです」と応えたものだった。武士はその意味を解せずたちすくんでしまった。この武士こそが太田道灌であり、著名は「山吹の里」伝説の場面である。
     帰城後に家臣に意図するところを告げられ、道灌は自らを恥じて歌を学ぶようになったという。その結果であろうか、太田道灌は戦国時代の東国では有数の文化人として評価されている。
     江戸は幕府の中心地となる。その起源にかかわった太田道灌を顕彰することはさまざまな形で行われた。この伝説もそのような背景の中から生み出されたのであろう。東京のなりたちにかかわる逸話として伝説は明治になっても引きつかれたのだった。
    (資料番号:91210091)

  • 関東醤油造番付
    1853年(嘉永6年)

    日本を代表する調味料はと尋ねられれば「醤油」を挙げる方が多いのではないだろうか。「Soy sauce」として海外でも人気が高く、現在では関東地方が日本における生産の中心になっている。
     しかし、江戸時代中期までは、関西が中心で、上方からのいわゆる下り物の代表的な産物であった。醤油の種類に違いはあるものの、1726年時点では、江戸へ入る醤油量の4分の3以上が関西産であったという。
     一方、関東では17世紀半ば、醤油醸造が本格化し、原料である大豆や小麦の供給に適し、水運による輸送にも秀でた現在の千葉県の銚子や野田がその中心地となっていった。その後、関東各地で醸造が行われるようになり、1821年(文政4年)には江戸で使用される醤油のほとんどが関東産となった。
     本資料は、醤油の生産が関東中心になった江戸時代後期のもので、相撲の番付けに見立てた関東における醤油醸造元の一覧である。中央に行司役や差し添えとして当時でも有数の醸造元を配し、東西の番付部分には大関を筆頭に関脇以下の順位がつけられている。各役には醸造元の地名、商標、屋号が記されており、その数は112か所にのぼる。地名をみると、銚子や野田をはじめ、佐原、水海道、江戸崎といった関東東部の地名が多く見られる。また現在にも残るなじみの商標も見られるのでじっくりとご覧いただきたい。
    (資料番号:98200390)

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