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  江戸東京博物館

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  • 夜商内六夏撰(麦湯売り)
    歌川豊国(3代)/画
    1847〜1852年(弘化4年〜嘉永5年)

    今も昔も寝苦しい夏の夜。江戸には、涼を売る様々な商売があった。
    この錦絵は、そうした商売を集めた見立てのひとつで、3代目岩井粂三郎ふんする女性が、屋台で麦湯を売る様子を描いている。麦湯とは、焙煎した大麦をせんじた飲み物のこと。つまりは麦茶。麦湯自体は古くから親しまれた飲み物であったが、露天の麦湯店が現れるのは、19世紀に入ってからのようだ。盆と茶碗、客の座る緑台を並べた簡易な店で、「麦湯」と書かれた行灯が目印となった。
     夏の夜の往来には、闇を彩るその行灯がそこかしこに見られ、夜風を受けながら麦湯を楽しむ人びとで夜遅くまで賑わった。給仕をするのは決まって若い女性で、それを目当てに通う男性も少なくなかった。供されるのは熱い麦湯であったが、浴衣姿の涼やかな女性と、露天の風情が何よりの涼を呼んだのだろう。
     こうして夏の風物詩となった麦湯店だったが、店が増えると、年若い女性を雇い深夜まで営業するという業態が問題視され、嘉永年間には営業停止や時間の短縮を求める御触れが度々出された。
    しかし、その後の錦絵にも夏の名物として描かれていることから、取り締まりに負けないほど、江戸っ子たちには愛されていたようだ。
    明治期以降になると、店で提供されることは少なくなり、家庭で飲む機会が増えた。昭和30年代以降になると、冷蔵庫で冷やして飲むことが一般化。現在の我々にも変わらず涼を与えてくれる。

    (資料番号:1020016)

  • 東京名所 両国川開き之光景
    黒木半之助/画
    1909年(明治42年8月4日)

    年に一度開催される隅田川花火大会。毎年100万人もの人出で賑わうこの催しは、かつて「両国川開きの花火」として親しまれた。
     1733年(享保18年) 5月28日の川開きの日に、両国橋付近で前年の飢饉や疫病の流行による死者の冥福を祈って「川施餓鬼」が行われた。その際、鎮魂の花火を打ち上げたのがはじまりといわれる。
     本資料は明治末期の両国の花火を題材にした石版画だ。夜空には色鮮やかな花火が広がり、画面左には「川開」という文字の仕掛け花火が描かれている。明治時代には、江戸時代よりもはるかに明るく、色彩に富んだ花火が作られるようになり、両国の花火は質・量ともに華やかさを増した。
     中央にあるのは両国橋。1897年(明治30年)の花火の際、見物客が橋の端に押し寄せ、当時木製だった橋の欄干が崩壊する事故が起きた。描かれているのは、この事故を機に1904年に架け替えられた鉄橋だ。
     両国川開きの花火は幕末期の混乱や戦争、交通事情の悪化を理由に数度中断したが、1978年(昭和53年)、会場を両国より上流に移し、「隅田川花火大会」の名称で再開した。一昨年は東日本大震災の影響で、通常より1か月延期され、8月に開催されている。災害や事故で得た教訓を風化させないために、そうした事実を思い出しながら今年も夜空を見上げたい。

    (資料番号:87102359)

  • 玩具セルロイド製吊し風車
    昭和初期

    今から50、60年前、うれしそうに笑っているベッドの赤ちゃんの上には、きまってオルゴールの音とともにカラフルな房や花飾りがクルクル回るメリーがあった。現在のメリーは小さな人形や玩具が吊られ、昔の華やかさはない。
     オルゴール付きで回転するメリーは、1941年(昭和16年)ごろ商品化された。生産のピークは49年から50年代後半でその6割はアメリカなどに輸出した。本資料のメリーは赤、黄、緑の色鮮やかな風車のついたセルロイド製。1932年ごろ作られた。オルゴールや動く仕掛けはなく、風によって風車とカラフルな房がそよぎ、銀色のビーズがキラキラ反射する。国産セルロイド製メリーの初期のものだ。
     セルロイド生地の日本初輸入は、1877年(明治10年)。燃えやすいため国産化に時間がかかったが、1900年ごろには玩具の生産も可能となる。主原料の樟脳(しょうのう)が台湾から安価に入手でき、加工も容易であった。そのうえ色付けが自由で美しく、軽量で水洗いができるという特性は、玩具に絶好の素材だった。伝統的玩具の張り子や紙風車、木や土の人形、ブリキのガラガラは、たちまちセルロイド製品取って代わられた。
     第一次世界大戦によるヨーロッパの玩具生産の停滞で、日本の玩具輸出は飛躍的に増加した。1927〜28年にはセルロイド玩具生産額が世界一位となり、国産輸出玩具の首位の座を占めるまでになる。しかし、1954年、最大輸出先のアメリカでセルロイドの可燃性が問題になり、ニューヨーク市消防長官による日本製品の不買警告が報道された。日本国内でも撤去する店が相次ぎ、生産は頭打ちとなった。代わって登場したのが、今日でも生産されている不燃性のソフトビニール製の玩具である。
    素朴で暖かい色合いのセルロイド玩具は、あわただしい現代社会の癒しにふさわしい優しさを持つ。

    (資料番号:89000956)

  • アイスクリーム製造器
    明治30年代から昭和初期

    夏の楽しみのひとつがアイスクリーム。しかし、初期のアイスクリームは高根の花で、誰でも食べられるお菓子ではなかった。
     国内で最初に製造、販売されたのは、1865年(慶応元年)。横浜の外国人居留地(現在の横浜・山下町)でアメリカ人リズレーがアイスクリームサロンを開業したのがはじまりである。1869年(明治2年)には、横浜の馬車道で日本人、町田房造が氷水店を開店し、「あいすくりん」という名称で販売を始めた。そのころは外国人相手のものであった。1902年(明治35年)、資生堂が銀座の薬局内で「ソーダファウンテン」を開設、アイスクリームとソーダ水を売り始め、評判になった。主な顧客は新橋の芸者衆だったという。この店が、1928年(昭和3年)に「資生堂アイスクリームパーラー」として新装開店、後の「資生堂パーラー」に発展する。
     大正時代になると一般家庭にも手の届くものとなっていく。写真のアイスクリーム製造器は家庭用として制作され、輸入・販売されたもの。木製の桶と中筒の間に氷と食塩を入れて、中筒には牛乳と生クリームを入れて手回し式のハンドルを回してかくはんさせ、空気を送り込む。昭和初期の宣伝広告文を引用すると、「涼しいアイスクリームの味に家庭團欒の楽しみは湧きます。お客様用のおもてなしにも格好なもので殊に急の間に合せることの出来る至って便利なものです」とある。第2次世界大戦後、アイスクリームの工業生産と消費は大幅に伸びた。現在では家庭で作るほうがぜいたくなことかもしれない。

    (資料番号:89220138)

  • 明暦大火罹災市街の図
    1657年3月4日火事にあった江戸市街の図(明暦大火罹災市街の図)

    江戸参府オランダ使節団員/画
    1657年(明暦3年頃)

    明暦3年(1657年)正月18日、本郷丸山の本妙寺から出火した火事は、強い北西風にあおられ、湯島、駿河台、神田から日本橋方面へと広がった。火勢は、茅場町、八丁堀、さらには佃島、石川島にも及んだ。
     翌日も小石川新鷹匠町から出火。竹橋付近で江戸城へと燃え広がり、天守、本丸、二の丸が炎上した。飯田町、市谷、番町などの旗本屋敷が焼失し、京橋、新橋あたりまで類焼した。また麹町を火元とする火勢は、外桜田、西の丸下などの大名屋敷を焼失させて芝口まで燃え広がった。
     江戸の町が焦土と化した、いわゆる明暦の大火である。十万人以上もの死者が出たという。
     明暦の大火後、都市改造により江戸の町の様相は大きく変わった。江戸城の天守は再建されることなく、町屋、大名屋敷、寺院が郊外に移転され、市街地は周辺へと拡大していった。市内各所には広小路や空き地がつくられた。
     江戸の町を大きく変えたこの歴史的な火事に遭遇した外国人がいた。江戸参府のため在府していた長崎のオランダ商館長ワゲナール一行である。明暦の大火罹災市街の図は、このオランダ使節団の一員が描いたものとみられる。浅草橋付近から江戸城方面を俯瞰した構図で、正方形の町割りの上に、大火後のなまなましい状況が描かれている。

    (資料番号:90208022)

  • 今様職人尽歌合 上
    銕廼屋大門/他編 鍬形紹真/画
    1841年(天保12年)改訂版
    初版は1825年(文政8年)刊

    上・下巻合わせて72種類の江戸の職種をテーマに、四方歌垣(北川真顔)、六樹園(石川雅望)らが狂歌を詠んだ。2人は天明末期に頭光(つぶりのひかる)、銭屋金埒らとともに狂歌四天王と称された。挿絵は江戸後期に活躍した浮世絵師北尾政美(鍬形恵斎紹真)が描いた。
     写真は江戸の物売りのひとつ、「虫売り」を紹介した頁。虫売りは、魚売りや豆腐売りのように路地を歩いて物を売るのとは違い、屋台を道端に据え置いて虫を売った。季節商売でもあり、初夏から秋にかけて屋台を出した。屋台の軒先や屋根の上に並んだ虫籠は、四角や丸形を基本形としながら、舟形の手の込んだもの。売れ筋はホタルで、続いてコオロギやスズムシ、マツムシ、クツワムシなど音色を聴かせる虫が売れた。現代と違い、夜に闇と静寂が訪れた江戸では、ほのかな明るさと心地よい音色を聴かせてくれる虫は、風流な娯楽の対象だった。
    江戸にはホタルの名所や「虫聴き」の名所もあった。JR西日暮里駅一帯は道灌山と言われ、かつては薬草が採れ、草むらに多くの虫が生息したためか、江戸時代から明治の半ばまで多くの人が虫聴きに訪れた。
    江戸各地の名所を挿絵入りで紹介した「江戸名所図会」には「道灌山の虫聴き」という項がある。道灌山では「松虫」「機織虫」「蟋蟀(コオロギ)」などの虫の音色が聴かれ、詩人は美しい音色を楽しみながら夜明けを待ったという。

    (資料番号:91220711)

  • 駱駝之図
    歌川国安/画
    1821年(文政4年)

    駱駝が江戸東京博物館の近くの両国広小路で見世物になっていたのは、1824年(文政7年)のこと。江戸の町の様子などが書かれた肥前平戸藩主松浦静山の筆『甲子夜話』には、「今年駱駝、長崎よりこの都に来れり。両国橋向かいの広地に見せ物にして、人群湊して観る」とある。
    この図は、その駱駝を紹介した刷物である。名前や年、体の大きさなどを書いた説明文では駱駝の特徴である背中のこぶを「肉峯」と表現している。また、若葉、笹などを食べるものの、好んで食べるのはダイコンで、一度飽きるまで食べさせると4、5日は食べないとあり、より珍しい見世物に仕立てるためか、水脈を知り山野で地を掻けば必ず清水がでるといった、まゆつばな情報も含まれている。
    この駱駝は、1821年(文政4年)将軍家に献上するためにオランダ船で持ち込まれた一対のヒトコブラクダであった。献上を断られたため、駱駝は見世物師の手に渡る。諸説あるが、出島のオランダ商館長(カピタン)のブロムホフが引き取り、なじみの遊女、糸萩に与えたといわれている。
    やがて糸萩の手を離れ、見世物となった駱駝は、江戸のほか、大阪、京都などで見世物興行に使われた。各地で人気を博し、戯作や唄、おもちゃなどの題材となった。2頭一緒の興行だったため、2人連れで歩くことをさして「駱駝」と言いはやすこともはやったという。

    (資料番号:93200935)

  • 高輪大木戸の大山講と富士講
    歌川国芳/画
    天保年間

    画面中央には、背中や腕に彫り物をした威勢のいい大山講の者たちが道をふさいでいる。手拭を被り、赤い己張り提灯を提げて向い合っている。当時のエピソードを絵にしたという説もあるが、詳細は不明だ。画面の左右手前には、白装束に菅笠姿の富士講の者たちが、困り果てた顔をしながら江戸市中へと向かっている。東海道は高輪の様子が描かれた錦絵だ。
     画面右下や茶屋には、御神酒枠と称する小さな運搬具があり、大山からお神酒あるいは神水をもらい受けて肩に担いで持ち帰る。よく見ると大山講の者たちの腰には木太刀も見える。新しい木太刀を山に持参し、古いものと交換して帰る。山に行けなかった人がこれをまたいだり、触れることで除災招幅のご利益があると信じられた。
    富士講・大山講による庶民の登山、参拝が盛んになるのは、江戸の経済、都市の発達が進む18世紀に入ってから。江戸では火伏せ(火事封じ)、現世利益を期待して、鳶や職人、火消しらが講を組織して多く参拝した。富士講の白装束に対して、大山講は職人風のスタイルそのままだ。大山へは、大山寺本尊の不動明王の縁日にあたる28日の初山を目指し、旧暦6月25日ごろから出かける人が増える。7月14日から17日は盆山と称した。江戸時代の決算期が盆と暮れだったため、借金取りから逃げる人たちも加わり、お盆前後の大山は盛り場の様相をみせたという。
     一方、富士山へは5月末から6月朔日の山開きに始まり、ほぼ1か月の間に登拝が集中する。この時期「懺悔(ざんげ)懺悔、六根清浄(ろつこんしょうじょう)」と罪や汚れを祓い清めるかけ声が、山々で聞かれる。

    (資料番号:94201357)

  • 中天竺新渡舶来大象之図
    了古/画
    1863年(文久3年4月)

    江戸時代には、豹や虎、駱駝、驢馬、孔雀、山嵐、そして象など、舶来の珍しい動物が人々の人気を博した。その多くは、江戸屈指の盛り場、両国広小路で見世物とされ、瓦版や絵ビラなどの刷物を通して広く紹介されている。
    ここに揚げた象の絵もまた、1863年(文久3年)に西両国にやって来た3歳のメスのインド象を描いたもので、今でいう宣伝ポスターだ。タイトルにある中天竺は、象が生まれたインド中央部をさす言葉。新渡舶来は、1728年(享保13年)に日本に来たオス、メス2頭の象に次ぐ再来という意味で、今回は開港間もない横浜港に上陸した。享保の時は、山王祭りに象の作り物が出るなど一大ブームとなったが、錦絵・刷物の数では文久の時のほうが圧倒した。
    本図は、板張りの舞台の上に、丸太の柱を使って檻状にし、男が象にわらを与えている。一段下がった土間では、あっけにとられて上を向いている観客の顔の様子が面白い。
    右側の図には、高さ1丈2尺(約3.6メートル)、鼻の長さ8尺(約2.4メートル)重さ2800貫(約10.5トン)、爪は鼈甲に似ていると記されている。このほか、「これを見る人七難を滅し、七福を生ず。諸君子競ふて一覧あるべし」と、仮名垣魯文の賛を記した刷物もある。
    幕末の政情不安の中、流行をあおっているといえなくもないが、象に乗って滅罪延命を説く普賢菩薩にあやかって、巨像を幅神にみなそうとする当時の人々の願いも、評判に拍車をかけていたのかもしれない。

    (資料番号:94201761)

  • 練鵲図
    徳川綱吉/筆
    江戸時代中期

    徳川綱吉(1646〜1709)は、3代将軍家光の4男に生まれ、上野国館林城主(25万石)となる。ところが、1680年(延宝8年)に兄である4代将軍家綱の死去に伴い、一大名から思いかけず5代将軍となる。綱吉は当初、意欲的に政治をおこない、賞罰厳明を軸とした「天和の治」を展開する。しかし元禄期をすぎると、柳沢吉保らを重用して側用人政治を展開、「生類憐みの令」など人心教化の傾向が強まり、乱発された法令が人々を苦しめ「犬公方」と称される。
    賞罰厳明、人心教化を目指した綱吉政治なればこそ、例えば、1701年(元禄14年)3月14日、江戸城松の廊下で浅野長矩が吉良義央へ刃傷におよんだ事件に際して、長矩の切腹という厳しい裁定が下されたといえよう。しかし、綱吉の人柄そのものにせまる資料は意外と少ない。
     この資料は、その手がかりとなるもので、綱吉の直筆と思われる「練鵲図」である。練鵲は、異国種の尾の長い鳥。左端に「綱吉筆」と独特の書体で署名がなされ、「大樹綱吉公御筆御画 練鵲」と記された蒔絵の箱に収納されていた。出来栄えはともかく、署名の筆致や画面構成から綱吉の人柄がしのばれる重要な資料といえよう。

    (資料番号:97200020)

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