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  • 物類品隲(ぶつるいひんしつ)
    平賀源内(ひらがげんない)/編画 田村藍水(たむららんすい)/鑑定 
    1763年(宝暦13年7月)

    マルチ人間、多芸多才、天才、奇才、非常の人…。平賀源内(1728〜79)という人物は多くの言葉で表現される。事実、源内の興味や活動範囲はとどまることを知らない。その多種多様な足跡の中で、ある意味で最も源内らしい活動の集大成のひとつが「物類品隲」(全6巻)である。
    1756年(宝暦6年)、江戸に出てきた源内は、本草学者の田村藍水に師事。翌年、藍水に薬品会(やくひんえ)の開催をすすめた。薬品会とは、薬種や物産などの展示・品評を行う、一種の博覧会のようなもの。7月に湯島で我が国初のこの会が開かれた。1759年(宝暦9)の第3回薬品会からは、源内が主催者となった。
    その後、源内は大阪で江戸を上回る規模の「薬物会」が開かれたことに刺激を受け、1762年に「東都薬品会」という大規模な物産会を開催する。
    こうした薬品会の出品物の中から360種を厳選して取りまとめたのが「物類品隲」である。ただの出品目録ではなく、分類し、解説を加え山地や3段階の品質等級なども記載している。全6巻のうち1巻は産物図絵と称する押絵の巻でこれが売りの1つでもあり、見ていて飽きない。
    図絵は細密な花鳥画で知られる宋紫石の筆による。その写実的な表現はヨンストンの「動物図説」など、海外の博物図譜の影響といわれる。「物類品隲」は好評だったようで、何度か版が重ねられた。
    源内は、彼自身の言葉によれば「紙上之空論」ではなく、モノ、それも実物を見ることの重要性にこだわった。それが薬品会とこの書籍に結実している。

    (資料番号:86213033)

  • 目食帖(もくしきじょう)
    斎藤松洲(さいとうしょうしゅう)/画
    1909年〜1911年(明治42年元旦〜明治44年4月)

    到来物の包を「何が入っているのかなあ」と開ける。心はずむ瞬間である。
    そんな「頂き物」を25年にもわたり記録し続けた人がいる。画家、斎藤松洲。1870年(明治3年)、大阪の堂島に生まれ、京都で日本画の修業をつんだあと上京。詳細は知られていないが、小石川などで俳画塾を開いていたという。
    松洲が残した目食帖については後の画家、斎鹿逸郎(さいかいつろう)の研究書「目食帖」に詳しい。斎鹿によれば、松洲は40歳ごろから65歳にかけて、1万2千品もの頂き物を写生し、全15帖の記録を残したという。
    送り主は約1200人にのぼる。画家の上村松園もその一人だ。内容は東京の銘菓や地方からの漬物、果物、野菜、魚など。それにしても25年間で1万2千品も頂き物をするとは、なんてうらやましい人であろうか。
    斎鹿は、俳画塾の門人たちが松洲の習慣を知り、贈答することによって参加する意義のようなものを感じていたのではないかと推測している。
    当館で所蔵しているのは全65帖のうちの52帖で、写真は2帖めに収められている。
     画像の場面は1911年(明治44年)の9月から11月にかけての頂き物で、内容は今も知られる銘菓空也最中、藤村の祝儀菓子、蕎麦羹、小豆、いんげん豆、栗、かぼちゃなどである。
    松洲のみずみずしい絵で、明治の東京の豊かな食や、その包装のデザインなどが楽しめる資料である。

    (資料番号:95200062)

  • 菓子話船橋(かしわふなばし)
    船橋屋織江(ふなばしやおりえ)/著
    1841年(天保12年)

    「菓子話船橋」は、1841年(天保12年)に出版された菓子の製法書である。出版を手がけたのは、これ以前に高級料亭・八百善の料理本を世に出して成功を収めた和泉屋市兵衛。店先の図を描いたのは、独特の美人画で知られる浮世絵師の渓斎英泉である。こうした一流の版元・絵師の手による菓子本の出版を実現したのは、深川佐賀町に店を構えた菓子屋の主人、船橋屋織江である。
    船橋屋の煉羊羹は、江戸中で人気を博し、1836年(天保7年)の序文を有する「江戸名物詩」にも紹介された。
     「菓子話船橋」では煮詰めた砂糖に大角豆(ささげ)の漉粉を入れながら餡を練り上げ、そこに煮溶かした寒天を漉し入れ、まんべんなく混ぜた上で「船」と呼ばれる箱に流し込む、といった具合に煉羊羹をつくる手順が示されている。
    この店は現存していないが、同書には、煉羊羹のほかにも、砂糖の煎じ方、餡の煉り方から、饅頭のつくり方に至るまで、材料の分量や製法の要点などが記されており、江戸の人たちが楽しんだ菓子の味を現在に伝えている。
     英泉が描いた本書の押絵には、様々な人たちで賑わっている店先の様子が描かれ、盛況ぶりを伝えている。店の横には大きな蔵が建てられており、船橋屋が煉羊羹で大きな財を成したことが窺える。

    (資料番号:86213056)

  • 当世好物八契(とうせいこうぶつはっけい)
    渓斎英泉(けいさいえいせん)/画
    1823年(文政6年頃)

    10年前、テレビコマーシャルの影響でメキシコ原産のチワワが大変な人気になっていたが、こちら江戸の町娘の肩に乗っている犬は、日本原産の狆。江戸時代にはお座敷犬として、武家や富裕な町人の間で珍重されたペットである。
    この町娘と狆が封じ文を見やっている。娘は、当時の流行だった紅に墨を重ね塗りして玉虫色に光らせる笹色紅を下唇に差し、首をかしげ大人びた風情。しかし彼女の愛犬が何ともうれしそうな表情をしていることから、意中の人からの手紙かと想像できる。
    浮世絵師、渓斎英泉の「当世好物八契」は芸者や花魁、町娘など8人の女性と、コマ絵と呼ばれる画面上部の囲みに、彼女らの好物を描いた8枚ぞろいのシリーズで、1823年(文政6年)ごろの作。
    この町娘の「好物」は江戸後期から明治時代までロングセラーだった曲亭馬琴「南総里見八犬伝」と東里山人(とうりさんじん)「海道茶漬腹内幕」の草紙。八犬伝と狆が犬で関連付けされている。またこの2種の草紙は、英泉が押絵を手がけたもので自身の宣伝広告も兼ねた錦絵になっている。同時期、英泉は美人画シリーズ「美艶仙女香(びえんせんじょこう)」を描いているが、こちらも南伝馬町で製造販売された白粉、「仙女香」を宣伝するものでもあった。
    この錦絵も人気CMと同様、動物と飼い主の幸福な関係を描いた江戸時代のコマーシャルといってよいと思う。

    (資料番号:90203031)

  • 人形つかいと子供達
    北尾重政(きたおしげまさ)/画

    人形つかいは、傀儡師、傀儡子ともいい、猿若、江戸万歳、浄瑠璃、物まねなどと同様に大道芸から発達したものだ。慶安年間(1648〜51年)に江戸御府内において、浪人が仕事もせずに生活することを禁じられたことから、やむなく編み笠で顔を隠し、寺社境内や明き地、大道、各家々の門に立って謡などの芸を披露し、金銭を申し受けることを生業とした。
     三幅対中央の人形つかいが持っているからくりの箱は、狐を白い布で覆い、布をめくると、奴に化けているという仕掛けと思われる。狐は、奴に化けきれずに大きな尻尾を露わにしているところが笑いを誘う。
     また、箱の中の福助は、幸福を招来するという縁起ものの人形で、もともとは京都伏見の浅草焼き人形が起源といわれる。江戸で流行したのは、1804年(享和4年)ころで、当初は子供のおもちゃとして売り出された。
    絵師の北尾重政は安永期(1772〜81年)から1820年(文政3年)にかけて活躍した浮世絵師。独自に絵を学んだと伝えられ、北尾派の祖となった。門人には、北尾政演(山東京伝)、北尾政美(鉄形〓斎)などがいる。
     安永前期までは鳥居清満や鈴木春信の模倣的な作画が多く、役者、子供、美人、武者など取材も広範だったが、安永中期ころからは主に、美人画の独自な様式を確立させた。また、書道にも通じ、暦本の版下や祭礼の幟文字なども手掛けるが、版本の制作にはことのほか重きをおき、絵本・押絵本を多く残している。

    (資料番号:90200715)

  • 東京開化名勝京橋石造銀座通り両側煉化石商家盛栄之図
    歌川広重(3代)/画
    1874年(明治7年)

    1874年(明治7年)、なんとも斬新な町並みが、東京人の心をとらえた。資料は、当時の銀座通りを京橋から眺めた風景を描いた錦絵だ。1872年(明治5年)2月に和田倉門内から発生した大火は、約3千戸を焼失させ、銀座・築地を灰と化してしまった。
     新政府は、外国人居留地の近くでもあった銀座を「不燃化都市」に変えるため、煉瓦造りの町を誕生させた。江戸では八間幅の道路がもっぱらであったのを、大通りの道幅を十五間(約27m)とし、両側の家を煉瓦、もしくは石造りとした。
     大火から2年。銀座は文明開化の象徴として人々を色めきたたせたのである。
     今まで見かけたこともない「牛肉」の旗。銀座には新しく登場した商売や舶来の品が並んでいた。
    広い路地の中央には2階建ての乗合馬車。明治の初めに東京府内で1万台以上もあったという人力車も走っている。街路樹、歩道、それらを照らすガス灯もともる。道行く人々といえば、ザンギリ頭の書生、はかまに靴の女学生がいたかと思うと、ちょんまげ姿でパラソルを持つ人などもいる。
     新旧が入交混じった風俗が表通りにはあふれ、人々の「新しさ」を望む気分がより銀座を繁栄させていった。
     文明開化を描く錦絵、「開化絵」の中でも、この街は格好の画題となった。この絵のもつ情報性は、私たちにその場の雰囲気をよく伝えてくれる。

    (資料番号:88208046)

  • 江戸名所 はんじもの
    歌川広重(2代)/画
    1858年(安政5年5月)

    城から小判をまいている男。クモの巣を裂こうとしている男。はてさて、いったい何のことやら。奇妙奇天烈、摩訶不思議。そんな絵ばかりが描かれているこの錦絵、題は、と探してみると右肩に「江戸名所はんじもの」とある。
    判じ物、あるいは判じ絵ともいうが、簡単に言えば江戸時代のなぞ遊びの一つ。例えば、歌舞伎の市川家好みの意匠として今に伝わり、浴衣地や手拭いによく使われる柄に「かまわぬ」がある。「鎌」の絵と、「○」(輪)、平仮名の「ぬ」の組み合わせで、「構わぬ」と読ませる。判じ物は、このように絵や記号、文字を組み合わせて、物の名前や言葉を連想させたり、あてさせるという趣向のなぞ遊びだ。
     ここに紹介した錦絵に描かれている奇妙な絵は、すべて江戸の地名を答えとする判じ物なのだ。幕末から明治にかけて、このほかにも大工道具や台所道具、鳥や動物など、いろいろな「もの尽くし」の判じ物が作られ、流行したようである。こうした判じ物の源は、さかのぼれば平安後期の「歌絵」や「葦手絵」に求められる。古くからあることば遊びの伝統は、幕末の庶民文化の中にも、脈々と息づいていた。
     さて、冒頭に挙げた2つの絵。どこの地名か、すでにお分かりだろうか。ここではあえて答えを明かすのは控えるとしよう。しばし江戸の人となり、謎解きに挑戦してみてはいかがだろう。

    (資料番号:88200413)

  • 大津絵 瓢箪鯰(おおつえ ひょうたんなまず)
    江戸時代

    一見、不思議な組み合わせの画。猿が、瓢箪で鯰を押さえようとしているが、手に負えそうにない。鯰は無邪気に笑っているようにも見える。「瓢箪鯰」は、室町幕府の4代将軍足利義持が、禅僧たちへ「瓢箪で鯰を捕らえることができるか」という問いを持ちかけたことから生まれた題材。答えは、もちろんできない。そのため、ぬらりくらりとして要領得ないことを指すことわざにもなっている。
     このユーモラスな絵は、江戸時代、近江・大津の追分あたりで東海道の旅行者に土産品として売られた。大津絵と呼ばれるものの1枚で、日本を代表する民画といわれている。
     江戸前期の大津絵は、もっぱら礼拝用の仏画が描かれていたが、のちに世相風刺的な題材に代わり、瓢箪鯰を含め最終的には藤娘、鬼の念仏、座頭と犬など、10種に絞られ、災厄よけとして人気を博した。また、江戸後期には画題をつづり合わせた谷曲「大津絵節」や、歌舞伎で上演される大津絵物が生まれ、現代まで引きつかれている。
     2枚続きの半紙(後に1枚物もある)に胡粉を混ぜた泥絵の具を使い、安価な土産物として大量に描かれたため、絵柄は定型的で簡素。食器の絵付けのような手慣れた筆致で、輪郭を勢いよく走らせている。江戸の浮世絵のように都会的な枠の世界を表現したものとはまた異なる意味での洗練された美しさにみちている。

    (資料番号:91200003)

  • 阿蘭陀船図説(おらんだせんずせつ)
    林子平(はやししへい)/著
    1782年(天明2年)

    寛政三奇人の一人、林子平の手になるオランダ船やオランダ国についての解説図。1782年(天明2年)に長崎の富島屋から刊行された。
     未知なる国についての簡単な紹介書といった類のもので、この図説自体には当時の世界観を知るうえで興味深い情報が収められている。
     しかし、この図説刊行は子平の悲劇の序章でもあった。10年後の1792年(寛政4年)に幕府によって発禁処分となる彼の著『海国兵談』の刊行資金集めを目的に刊行されたものだからである。
    『海国兵談』は、長崎遊学の折に、ロシア南下の情報を知り、いち早く危機感を抱いた子平が北方防備の必要性を説く、当時としては画期的な国防意見書だった。「江戸の日本橋より唐・阿蘭陀迄、境なしの水路也」という有名な警句は、まさに当時の国防の弱点、ことに海防のもろさを的確に見抜いている。
     時の老中首座、松平定信はだれよりもこの情勢を危惧していた。しかし、一方で、この対外危機意識が広く一般に流布することも恐れた。政権批判に結びつく危険があったからだ。
     幕府は国防の見直しを図るが、あくまでも本書を認めず、板木没収のうえ、子平を仙台に蟄居させた。発禁の翌年、子平は不遇のうちに仙台で死去する。
     定信の不安は、約半世紀後に的中することになる。ペリー来航情報の公開をきっかけに、攘夷運動が生じ、倒幕運動へと展開する一連の流れは、情報統制の緩みが政権基盤を揺るがすことを、図らずも幕府自ら証明する形となった。
     子平の不幸。それは有能なる権力者、定信と同時代に生きたことといえようか。

    (資料番号:90204714)

  • 勝海舟の小鹿宛書軸
    勝海舟/筆
    1867年(慶応3年7月)

    旗本の勝海舟は、16歳でアメリカ留学に出発する長男の小鹿を励ます詩を1867年(慶応3年7月)に書いている。はじめに海舟の父、小吉が廉節を貴び、かつ大らかな人柄で、自分をゆっくり丁寧に薫陶したことを述べ、海外に雄飛して祖父のような高い志をはぐくめ、と教えている。
    小吉は、世間では無頼漢でも、息子の海舟にとってはよき教育者だったことが、詩から読みとれる。
     小鹿はアナポリス海軍兵学校に学んで1877年(明治10年)に帰国し、海軍省で少佐にまで昇進した。旧幕時代に海軍の創設に力を尽くした海舟は、小鹿に後継者としての大きな期待をかけていた。
     しかし小鹿は、病弱のためほとんど休職状態で明治25年2月8日、数え年41歳の若さで世を去ってしまう。時に海舟は70歳。老齢になって長男に先立たれた海舟は、以後、身体の衰えが目立つようになった。
     小鹿が死んだ翌日、海舟は徳川慶喜にあてて、慶喜の末子、精(くわし)を養子に受け、伯爵の位とともに勝家の名跡を徳川家に返上したい旨の書状を書いた。慶喜は、海舟に対して冷たい仕打ちをしてきた自分をこれほどまでに思っていてくれたのかと、涙したという。
     海舟が小鹿に与えた詩には、父としての愛情と期待が込められている。それだけに、父の期待にこたえられなかった小鹿の苦悩はいかばかりだっただろうか。海舟は明治32年1月77歳で死去した。勝家は名跡はそのままで海舟の望みどおり精が継続した。

    (資料番号:85200433)

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