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  • 東都歳時記初春路上の図
    東都歳時記(とうとさいじき) 初春路上(はつはるろじょう)の図

    斎藤月岑/著 長谷川雪旦/画
    1838年(天保9年)

     新年を迎える最初の準備とされたのが、11月、縁起物の竹熊手を売る大鳥(鳳)神社の酉の市。さらに12月13日には煤払(すすはら)いで厄を払い、正月の事始めにかかる。暮れには、年始の用具を商う年の市が浅草寺など各地の寺社に立ち、除夜の鐘の音とともに1年が締めくくられる。旧暦では、立春が12月中や1月上旬にくることがあり、節分と正月の行事が混同されることもあった。
     正月の祭りは大晦日の夜から始まる。歳徳神(としとくじん)が訪れる方角の恵方(えほう)にあたる寺社に初詣をし、初日の出を拝む。3日までは諸大名が年始のため、一斉に江戸城へ登城し、町では太神楽(だいかぐら)・三河万歳(みかわまんざい)・猿回しなどが家々を回り、扇売りや初夢のための宝船絵売りがやってくる。子どもたちは凧揚(たこあげ)や羽根突(はねつ)き、双六やカルタ遊びに興じた。
     七日は五節句のうち人日(じんじつ)にあたり、七種粥(ななくさがゆ)を食べ、11日から商家は蔵開きをして仕事始めを祝う。15日は小正月、16日は藪入(やぶい)りで商家の奉公人たちも休日となり、閻魔(えんま)祭りが重なって、寺は賑わった。
     このように正月は、1年のうちでもっとも盛大に多くの行事が行われた。昔も今も、年神を祀り、春を迎え新しい命のよみがえりを願う人々の心が、正月行事に引き継がれている。

    (資料番号:83200316)

  • 煙草セット

    大正末期から昭和初期にかけて、「モダン」の名で流行したデザイン様式は、現在「日本のアール・デコ」と呼ばれている。
    アール・デコとは、1920年代から30年代にかけて欧米諸国で盛んになった装飾様式。ピカソが提唱したキュビスムや、機械文明を礼賛する未来派など、20世紀初頭の革新的芸術を源泉とし、左右相称、明快な色彩対比など簡潔な形態を特徴とする。近代都市化や消費社会が台頭する20世紀が求めた様式で、1925年にパリで開催された博覧会の、仏文名称の一部「アール・デコラティブ」を語源とする。
    アール・デコは、ほぼリアルタイムで日本にも伝わり、関東大震災(かんとうだいしんさい)後の復興期にあった東京を席捲(せっけん)していった。
    ただし、影響を一方的に受けたのではなく、日本の伝統技術の「漆」も、アール・デコの魅力の一翼(いちよく)を担っていた。漆は、英語で「japan」と呼ばれ、同博覧会ではフランス人工芸家が、すべて漆のインテリアを発表し評判になった。
    江戸東京博物館でも和風アール・デコの資料を数多く所蔵しており、写真の喫煙具セットもその1つだ。1点は、卓上喫煙具セット。日本伝統の漆塗りと竹細工に、アール・デコ風のバラの花が銀細工で施されている。
    もう1点は、アール・デコを直輸入したような一体型金属製喫煙具セット。箱を閉じれば置物にもなるという、装飾美と機能を併せ持つ逸品である。

    (資料番号:89000458)

  • 銀世界 
    喜多川歌麿/画
    1790年(寛政2年)

    「銀世界」を描いたのは大首絵の美人画で有名な喜多川歌麿。実は単なる絵本ではなく、雪をテーマに5枚の絵を組み入れた狂歌絵本(きょうかえほん)と呼ばれるもの。歌麿と狂歌の組み合わせは意外に思われるかも知れないが、江戸の出版界に新風を巻き起こす大きな出来事だった。
    天明3年(1783年)、出版元の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は通油町南側に店を出すと、すでに狂歌師として名をあげていた四方赤良(よものあから)大田南畝(おおたなんぽ)と朱楽菅江(あけらかんこう)山崎景貫(やまざきかげつら)らと組んで狂歌本を次々と出版した。蔦屋は、天明狂歌(てんめいきょうか)と呼ばれる狂歌隆盛のこの時代に、文芸と絵画を合体させた狂歌絵本という新しいスタイルを世に送り出し、ブームに拍車をかける。これによって歌麿は人気絶頂を迎え、天明8年から寛政2年(1790年)のごく短い期間に10冊以上の狂歌絵本を残している。一方、狂歌は、松平定信(まつだいらさだのぶ)の寛政の改革によって、次第に天明期の勢いをなくしていく。

    (資料番号:89200135)

  • 東亰開化三十六景
    東亰開化三十六景(とうけいかいかさんじゅうろっけい)

    三代歌川広重/画
    1874年(明治7年)

    明治7年(1874年)、3代広重描く『東亰開化三十六景』という小さな画帖が世に出た。作品は東京各地の洋風建築物、新しい世相風俗、年中行事など36枚から構成されている。
    開化と名付けながらも、自然との交流を示す場所は初代広重と似た構図を持ち、昔と変わらぬ空間をそのままとどめている。例えば、愛宕山・浅草寺の雪、上野・飛鳥山・日暮里諏訪の花見、堀切の菖蒲、両国の花火、洲崎の潮干狩(しおひが)りなどいずれも江戸時代以来の伝統的な名所である。
    西洋文明が怒濤のように流れ込んでくる明治初年、政治機構や諸制度の変化、電信、蒸気機関の導入や洋風建築物の建立などは目ざましいものがあった。殖産興業と西洋文明の浸透は、人々の職業観や価値観を大きく変える原動力となったことは間違いない。ではまったく新しいものに変わってしまったのかというとそうともいえない。初雪や初鰹などの言葉が示すように、自然の移り変わりを敏感に察知し、そこに独特の美意識を見いだし、生活習慣を築き上げて来た江戸時代からの生活スタイルは、明治になってもそのまま残されていた。また江戸からの名所として名高い神社仏閣は、祭りや縁日や市などの行事を四季折々に催し、人々に願いや祈りの場所と機会を与え、脈々と受け継がれてきたことも事実である。幕府が倒れ、江戸が東京に変わり、銀座には煉瓦街ができ、洋風建築が次々に建てられるなかでも、人々が自然と親しみ、行楽に興じる場所は変わることなく受け継がれていたことをこの小さな画帖は示しているのである。

    (資料番号:90200039)

  • 江都名所 隅田川雪見之図
    江都名所 隅田川雪見之図(えどめいしょすみだがわゆきみのず)

    三代歌川広重

    現代の私たちにとって、雪が名所になるとは不思議な気がするが、江戸時代「看雪」という年中行事があった。旧暦11月の行事のひとつで、雪景色の美しい所をたずね、そこで雪を満喫するというものだ。江戸の年中行事を紹介する当時の版本『東都歳時記(とうとさいじき)』に、「看雪」の項目がある。そしてその項目の第1番目にあげられているのが、「隅田川堤」なのだ。
    堤の中でも絵の主題として、とりわけ好まれた場所は、隅田川東岸の上流付近、三囲稲荷(みめぐりいなり)から、木母寺(もくぼじ)の辺りであった。この錦絵にも描かれているが、長命寺から先は、とくに大きな寺や人家も目立たず、町中と違って広々と開けた視界が印象的だ。この辺りの雪景色を描いた絵は少なくないが、土地柄を活かした叙情的なものが主流だ。
    ところがこの錦絵は、そのような静かな岸辺を、雪をものともせず歩き回る元気な男女が主人公。1人の女性が真ん中あたりで転びそうになっている姿が、画面全体に軽やかな生気を与えている。優れた風景表現もさることながら、このような活気溢れる一行を描き入れているところが、この錦絵の見どころであろう。静かな雪景色の中に、女性たちの華やかな嬌声(きょうせい)が聞こえるようだ。
    画中の狂歌は「すみた川 水のうへにも ふる雪の きえのこれるは 都鳥かも」。川面に落ちる白い雪を、隅田川に縁の深い都鳥の白い姿にたとえたもの。

    (資料番号:90203012)

  • 角田川 新梅屋敷之図 
    角田(すみだ)川 新梅屋敷之図 

    歌川豊国/画 西村屋与八/版

     旧暦の2月は如月と呼ばれ、「生更(きさら)ぎ」とはすなわち草木の更生を意味する。まだまだ肌身には寒く感じられる季節であるが、ゆっくりと生命が蠢いているようすをよく伝えてくれる名である。
     加えて2月は、かつて梅を年の初めに咲く花としたことから、初花月や梅見月の別名も持っている。梅は寒気に耐え、ほかに先駆けて花が咲くことからめでたいとされた。寒中に青く茂る竹や松とともに、薬の効用を兼ね備えていることも含め、慶事に欠くことのできない縁起物である。
     作品は梅見を楽しむ女性たちが描かれた3枚続きの錦絵。梅の木々の間をそぞろ歩き、花と香りを楽しむ梅見は、江戸時代中ごろより盛んになる。幹が龍のごとくうねる臥龍梅(がりゅうばい)で有名だった亀戸村の梅屋敷をはじめ、江戸市中には梅の名所があちこちにあった。舞台は文化文政期に佐原鞠塢(きくう)によって寺島村に造られた花園で、360本の梅の木が植えられたことから、亀戸に対し「新梅屋敷」とも称された。現在も向島百花園として、四季を通じて花木を楽しめる植物園である。
     料理盆を持つ仲居を中央に挟み、左には3人の女性と風呂敷包みを持つ従者、右にはくつろいだ様子の5人の女性。きらびやかな彼女たちの特徴から、遊女の見立てであることがわかる。華やかに着飾ったにぎにぎしい中、互いを意識した緊張感が伝わってくるようだ。斑入りのべっ甲製簪(かんざし)や、美しい図柄の描かれた着物など、彼女たちの所持品や仕草も楽しい。

    (資料番号:90203028)

  • 師走十二月之内 餅つき
    師走(しわす)十二月之内 餅つき

    初代歌川国貞(三代豊国)/画
    1854年6月(安政元年)

    12月も半ばを過ぎるころになると、正月の準備に追われる日々が続く。餅搗(もちつ)きもまた15日から始まるのが普通で、この日から連日夜中まで搗くようになり、22日ころから大晦日の夜明けまでは徹夜の餅搗きとなる。江戸四里四方に餅搗きの杵の音が聞こえたというが、いたるところで餅搗きが行われていたことを表している。
    この図版の餅搗きはおおざっぱに言えば、庭先で男が餅を搗き、女がこねる餅搗きの様子。座敷に置いた大きな伸し板の上で、団扇で風を送りながら、鏡餅を丸めている様子が描かれている。後ろには伸し餅が置かれ、蒸し上がった餅米を運ぶ様もみえる。杵を振り下ろしている法被(はっぴ)姿の唯一の男性は、顔を隠しているが、背中には江戸有数の版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の蔦印が見える。提灯も同じ蔦紋を使い、大胆に版元を示しているのがわかる。
    さてこの餅搗き、引きずり餅ではないように思われる。引きずり餅の人足は男性が多いが、この絵は女性たちで占められている。やや富裕な町人の自前の餅搗きではないかと想像するが、版元蔦屋の宣伝広告になっていることは間違いない。いずれにしても餅を搗く道具や役割分担、師走の餅搗きのあわただしさが伝わってくる錦絵だ。

    (資料番号:90209669)

  • 鷹図
    葛飾北斎/画 
    1840年(天保11年)

     大江戸の正月といえば、江戸っ子は身を清めて初日を拝み、真白き富士を遙拝(ようはい)し、神社仏閣への初詣、諸方へ年頭の礼、事始めなどと、1年の年中行事が始まる。
     こうした初春の習俗に、初夢占いがある。夢占の行事は、古くは節分の夜のことであったが、江戸時代に入り、正月の行事となった。大晦日から元旦にかけて、あるいは2日の夜に見た夢を、初夢といい、この夢見の内容で吉凶を占った。縁起のよいものとされたのが「一富士二鷹三茄子」である。
     徳川家康の在世、駿河国(するがのくに)(現、静岡県)の名物で高いものとされるものに、富士山、足高山、それに初茄子の高値のことがその根元であると楽翁(らくおう)が述べたことを、松浦静山(まつらせいざん)が『甲子夜話』に記している。こうしたことから、夢占の吉兆と考えるようになったものであろう。もし悪い夢を見た場合は、この絵を川に流すとよいとされた。
      北斎が描いた団扇絵に「鷹図」がある。富士の印形に「画狂老人卍(まんじ)」の署名のある、藍を基調としたこの絵は晩年、房総の旅中に描いたものとされ、独特の力強い鷹の雄姿となっている。
     鷹は、その凛々しい姿と気高い気性によって貴人に愛でられた。古く朝廷の貴族たちは鷹狩りを好み、武家の世となるにつれ、武将たちの芸となった。
     徳川将軍家は武威を誇示するため江戸周辺でたびたび鷹狩りを催した。鷹を描いた絵は武家の好みに合い、架鷹図(かようず)が屏風や衝立、掛け軸の絵としてたくさん描かれた。

    (資料番号:91200306)

  • 江戸名所百人美女 するがだい 
    三代歌川豊国・二代歌川国久/画
    1858年(安政5年)

    百枚そろいの美人画の一枚。「江戸名所百人美女」シリーズは、諸々(もろもろ)の階級、諸々の職の女性を描き、役者絵と美人画を得意とした三代豊国(1786〜1864)の総決算として知られる。江戸各所の風景画が描かれたコマ絵は、門人で娘婿の二代国久(1832〜91)が描いた。
     実際よりかなり大きく表現された薄端の花器に向かい、意気揚々と梅をいける女性。花と女性の取り合わせは、洋の東西を問わず好まれる画題だが、いけばなの担い手は男性主体だった時代が長く続いた。
     いけばなは室町時代に京都で成立した。京の有力公家邸や室町将軍家で、和歌や連歌の席の座敷飾りとして、仏前供花の形式を基に、形が整えられた。将軍家の周辺で造園や座敷の飾りを担当した人々や、仏に花を供えた僧侶から、花を専門に扱う人が現れ、花の秘伝書や口伝書を著すようになる。飾りの一部だった花が、独立した作品として鑑賞の対象になっていった。
     やがて京都から江戸へ伝わり、江戸中期には成人男子の身につけるべきたしなみとして、いけばなを解説した出版物も出回った。浮世絵にも影響し、人気絵師の手で多くの作品が制作された。本作は、最先端の趣味に興じるお洒落な女性を描いた一枚といえる。

    (資料番号:91220184)

  • 東京十二ヶ月 三十間堀の暮雪 
    川瀬巴水/画
    1920年(大正9年)

     現在では見る影もないが、戦前の銀座は、周囲を川に囲まれていた。この絵に描かれる三十間堀川は、1612年(慶長17年)に開削された堀川で、幅が30間(約55メートル)あったことからその名で呼ばれていた。現在の中央通りと昭和通りの間にあり、戦後まもなくして埋め立てられた。今では、周辺の他の道筋と異なる道路幅にしか、その名残をうかがうことはできない。
     この木版画の作者川瀬巴水(1883〜1957)は、彫り師、摺り師と共同で制作を行うという伝統的な技法を用いていた版画家である。「東京十二ヶ月」は、巴水にとって東京を描いた2番目のシリーズにあたる。
    円窓形の画面に風景を描き出すという企画は、西洋絵画からの着想かと思われる。しかし当時の木版画の常識からすると斬新すぎたためか、シリーズ半ば5作で頓挫してしまった。
     本作品の一番の特徴は、雪景色を見事に表現した点にある。巴水は、版画制作のために、あえて猛吹雪のなか傘もささずにスケッチを行った。それまでの浮世絵の風景画の雪景色が、丸い点体によって降雪を表現していることに不満を抱いていたからだ。そこで迫真のスケッチを彫り師に示し、版木に工夫を加えてもらったのだった。
     木版画の版木は適度に硬いヤマザクラの木を用い、刀や鑿(のみ)で削ることにより描線を出していく。この作品の場合、砥石とタワシで研磨することによって木を摩滅させ、より現実に近い吹雪の描写を実現したという。巴水は、このことにより歌川広重などの先人の風景画にない表現ができたと自負していたらしい。

    (資料番号:94203194)

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