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  • 子供遊 竹馬つくし
    江戸末期〜明治前期

     竹馬で遊ぶ子供たちの楽しそうな声が今にも聞こえてきそうだ。この絵は様々な子供の遊びを描いた錦絵のシリーズの1枚である。
     竹馬は、平安時代末期から男の子の遊びとして広まったが、その頃のものは、笹(ささ)竹を片手に持ってまたがり、他方の手でむち打ちながら走り回るという遊び方で、現代の竹馬とは全く別のものだった。これは後に、作り物の馬の頭を手に持ったり、頭につけたりして、家から家へ歌い舞い歩く「春駒」という小正月の門付け芸と結びつく。やがて子供たちがその馬頭に木や竹の棒をつけてまたがって遊ぶようになった。
     さて、2本足の竹馬の原型が文献に現れるのは室町時代のことである。そして江戸時代には、現代のように竹の棒に足を乗せる横木をつけ、その上に乗ってバランスを取りながらよちよち歩くタイプの竹馬が普及した。
     実はこのシリーズには別の顔がある。それは戊辰(ぼしん)戦争の風刺錦絵であるという点だ。官軍と旧幕府の間で勃発(ぼっぱつ)した内戦を、江戸庶民の視点から風刺した刷り物が多量に製作され、流布した。大きな時代の動きに、江戸庶民が強い関心を持っていたことがわかる。
     そこには、早く戦争を終わらせて江戸に平和をもたらしてほしいという願いが強くあった。だからこそ、庶民は多くの情報を求め、浮世絵師たちは竹馬という身近な子供の遊びになぞらえて人々に伝えたのである。

    (資料番号:86970035)

  • 江戸城 本丸上梅林門・二ノ丸喰違門・番所
    江戸城 本丸上梅林門(かみばいりんもん)・二ノ丸喰違門(くいちがいもん)・番所

    横山松三郎/撮影
    1871年(明治4)

     ネガなのかポジなのか、一瞬戸惑う画像であるが、これは1871年(明治4年)に撮影された旧江戸城の写真のネガ原板である。
     当時の写真はガラス板に感光剤を塗り、乾かないうちに撮影、現像するコロディオン湿板法。ガラス板状の画像が乳白色なため、このように見える。大きさは23.0×29.8センチで、中央に上梅林門、その手前に喰違門、右手前に番所が写る。
     撮影者は横山松三郎(1838年〜1884年)。江戸時代後期に択捉(えとろふ)に生まれ、函館で写真の存在を知り、努力の末に技術を習得。1868年(慶応4年)に両国に写真館を開き、下谷池之端(現在の台東区池之端1丁目)に移転し写真館「通天楼」を開設して写真撮影を生業とした。
     江戸城は幕末から荒廃が始まり、明治維新後は東京城、皇城と名前を変え、江戸時代の面影を失っていく。
     当時の太政官(だじょうかん)少史、蜷川式胤(にながわのりたね)はその姿を目にし、写真で記録しようと太政官に伺いをたて、許可を得て横山松三郎に撮影を命じた。
     ネガには多くの修正が加えられ、空の部分には紙が貼られたり、黒く塗られたりしているものが多い。これはネガの画像を印画紙に焼き付ける際、空の部分に紙を貼り付け、建物と空との境界線を黒く塗りつぶしておくことで、空を白く、建物の形を明確に表現できたからだ。原板は、旧江戸城を記録した歴史資料として2001年に国の重要文化財に指定された。

    (資料番号:90363687)

  • 太刀 銘景満・梨子地水車紋散蒔絵葵紋金具付糸巻拵
    太刀 銘景満(めいかげみつ)・梨子地水車紋散蒔絵葵紋金具付糸巻拵(なしじすいしゃもんちらしまきえあおいもんかなぐつきいとまきこしらえ)

    江戸時代前期

    下総(しもふさ)古河藩(こがはん)16万石余の藩主となった土井利勝(どいとしかつ)が、2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)から拝領(はいりょう)したと伝えられる太刀。拵(こしらえ)には土井家の家紋である水車紋(利勝の代は八ッ柄杓車紋(やつひしゃくるまもん)で、2代当主以降は六ッ水車紋となる)が蒔絵(まきえ)で施(ほどこ)されている。また、拵の金具には、将軍家の御紋である三葉葵紋(みつばあおいもん)が配されており、秀忠および3代将軍家光(いえみつ)に重用(ちょうよう)され、大老(たいろう)格にまで昇った利勝に対する将軍家の信頼のほどがうかがえる。
     刀身(とうしん)は、南北朝末期(14世紀末)、加賀(かが)国に住した初代景光(かげみつ)の作で、刃長二尺(しゃく)一寸(すん)五厘(りん)(約64センチ)、元幅(もとはば)7分(ぶ)9厘(約2・4センチ)細身で小振りな造りであるが、風格のある立ち姿を示している。

    (資料番号:97201650)

  • 名所江戸百景 王子装束ゑの木 大晦日の狐火
    名所江戸百景 王子装束(おうじしょうぞく)ゑの木 大晦日(おおみそか)の狐火(きつねび)

    歌川広重/画
    1857年9月(安政4)

     新興都市江戸には「町中稲荷社のあらぬ所はなく、地所あれば必ず稲荷社を安置して地所の守り神」(『絵本江戸風来往来』)とする習わしがあった。その稲荷社の祭礼で賑わったのが2月最初の午(うま)の日に行われる初午であった。
     ひとつの地所の表店も裏店長屋も一体となって幟を立て、地口行灯を連ねるのが習慣になっていた。また芝居町附近の稲荷社で、弁慶(べんけい)・義経(よしつね)の衣装を損料(そんりょう)を払って借り受け、山車(だし)に乗り込んだ者もいた(『江戸風俗志』)。
     江戸の稲荷社の多くは、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)・佐田彦大神・大宮能売(おおみやのめ)大神などを祀った京都の伏見稲荷を勧請(かんじょう)している場合が多かった。一般に、狐が稲荷社の祭神と錯覚されているようだが、日比谷稲荷や桜田稲荷の祭神のように「荼枳尼天(だきにてん)」の場合もある(『東都歳時記』)。荼枳尼天はサンスクリットの音字で、インドのヨーガ行者に信仰され、人の死を6月以前に察知するほどの超能力を具備していると信じられていた。それが密教の曼荼羅(まんだら)信仰と合体し、中世に日本に伝来して夜叉(やしゃ)神の性格を強め、稲荷神と同一視されたのである。
     毎年大晦日に関東中の狐が王子稲荷と向き合った榎(えのき)のもとに参集し、装束(しょうぞく)を着替え、正月の挨拶に王子稲荷に参詣するという伝えがあった。その時狐の放つ光(狐火)の数で農作物の豊凶を占ったといわれる。
     この伝承をもとに初代広重の「名所江戸百景」の掉尾(とうび)を飾っているのが、この錦絵である。

    (資料番号:83200119)

  • 東都名所年中行事 十一月 浅草とりのまち
    歌川広重/画
    1854年(安政1)

    「酉(とり)の市」「おとりさま」は11月の酉の日に立つ市。表題にもあるように、かつては「とりのまち」とも呼んでいた。「まち」とは「祭」のことを意味する。
     江戸近郊で古くから知られたのは、江戸から3里の葛西花又村(現、足立区花畑町)の鷲(おおとり)大明神別当正覚院(べっとうしょうがくいん)で、祭りに鶏を献上して開運を祈願した。その境内で竹箒(たけぼうき)や熊手、粟餅、八頭芋(やつがしらいも)を売ったのが酉の市の始まり。浅草下谷の鷲大明神 別当長国寺(ちょうこくじ)が酉の市で賑わいを見せるようになったのは18世紀後半からだ。この絵には、左に熊手を売る店、右に半纏(はんてん)を着た2人の女性が熊手をかつぎ、手にはふかした八頭芋を笹に通して提げているのがわかる。八頭には、食べると病気にかからないという俗信があった。
     熊手は本来、落ち葉などをかき集める道具。それに宝船、大福帳、当たり矢、稲穂、おかめなどの飾りをつけ、福をかき集める縁起物として売り出された。現在の酉の市では、200軒以上の熊手を売る店で、大小さまざまな熊手がところ狭しと並べられている。お客様相手の料理屋や商家では競って大きいものを求めるが、ご祝儀相場をいかに負けさせるかは売り手と買い手のやりとり次第。値段の折り合いがつけば、新年の開運を祈念して威勢よく手締めとなる。酉の市ならでは風情だ。
     酉の市を耳にすると冬支度も本格化するが、江戸時代の酉の市は、新春を迎える祭りとして意識されていた。江戸の俳人榎本其角(えのもときかく)が「春をまつことのはじめや酉の市」と詠んだ句がこのことを伝えている。

    (資料番号:91220343)

  • 絵兄弟忠臣蔵七段目
    歌川国貞/画
    寛政2年〜文化元年

     忠臣蔵とは浄瑠璃・歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」の略称であり、多くの人々を魅了し続けてきた傑作として知られている。芝居は、元禄14年から翌年にかけて起きた江戸城殿中刃傷(にんじょう)事件と赤穂浪士の吉良邸打ち入り事件に基づき、幕府の取締りに触れないよう時代や登場人物名などの設定を巧みにつくり変え、多彩な要素を盛り込んだ狂言全11段に脚色された。
     この絵は忠臣蔵格段のテーマと美人画を組み合わせた11枚のそろい物で、「絵兄弟」と呼ばれる主となる絵と添えられた絵に共通の内容を含ませて、対比を楽しむ手法で描かれている。
     主となる前面には女性の全身像を、その後ろには格段の場面を描く。描かれた女性のしぐさや身の回りの小物により格段の象徴的な場面を連想させる仕掛けである。
     本段の7段目一力茶屋の場は、庭で大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)が敵の様子を記した密書を読んでいると、2階で酔いをさましていた遊女かおるに懐中鏡を使ってのぞき見られるというシーン。物語を知る向きには、由良之助の密書にちなみ遊女とみられる女性が客からの手紙を読んでいる見立なのだと理解することができる。忠臣蔵の題材は様々な分野で大衆に受け入れられ、共通の知識として広く浸透していた。

    (資料番号:92201946)

  • 大坂下り軽業 浅草寺奥山に於て興行 桜綱幸吉
    歌川国鶴/画
    1857年(安政4)

     浅草寺の本堂裏手に位置する通称「奥山」と呼ばれた地域は、江戸有数の盛り場として知られていた。看板娘が目をひく水茶屋や楊枝店が立ち並び、浅草名物を売る店も多かった。そして何より衆目の関心を集めたのは、曲独楽(ごま)や手妻(手品)などの大道芸、そして精巧な細工物や珍しい動物を見せる見世物などの興行であった。その名人芸の数々は訪れる人々の目を楽しませ、時に将軍からお呼びがかかることもあったという。
     この浅草奥山で人気を集めた興行の一つに、軽業(かるわざ)がある。古くは奈良時代より散楽(さんがく)(中国から伝わった民間芸能)の中に組み込まれていたこうした芸は、江戸時代には見世物として盛んに行われるようになった。その芸は時代を経るにつれ洗練され、幕末には華麗な衣装に身を包んだ演者が、力持(力業を見せる芸)や水芸、からくり仕掛けといった他芸も取り入れて披露する、現代のサーカスにも負けないほどの一大エンターテイメントに成長した。
     この錦絵は奥山で行われた数々の軽業興行のなかでも特に評判が高かった、大坂下りの芸人一座・桜綱駒寿(さくらづなこまず)一門による軽業興行の様子を描いたもの。演じられているのは、駒寿の弟子幸吉による蝋燭(ろうそく)渡りの曲芸である火のついた蝋燭を舞台に並べ、蝋燭を倒すことなくその上を渡っていくという離れ業で、しかも、渡る際に踏みつけて消えた蝋燭の火が、渡り終わると自然に点火するからくり仕掛けも用いられた。これには目の肥えた浅草奥山の見物客も大いに驚いたとみえ、桜綱一門の興行は前売券にプレミアがつくほどの大入を記録している。

    (資料番号:90200154)

  • 十二ケ月月次風俗図 重陽 九月
    狩野伊川院栄信/画
    1801〜1803年(享和年間)

    松平定信といえば、寛政の改革を行った謹厳な老中として知られる。徳川吉宗の孫として生まれ、1783年に松平家の家督を継ぐと白河藩政にあたり、飢饉(ききん)に領内から餓死者を出さなかったという。同7年老中首座(ろうじゅうしゅざ)にのぼり、改革に着手した。倹約を旨とし、朱子学以外の学問を禁じ、出版統制により版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)や洒落本(しゃれほん)作者山東京伝(さんとうきようでん)を弾圧した一方で、定信は幼少より和歌を詠み、書画に通じ、生涯に138冊以上の著作をもつ教養人でもあった。
    「十二ヶ月月次風俗図」は、その定信が理想とした「文武両道」の「文」の側面に光をあてたもの。画幅には、幕府御用絵師狩野養川院惟信伊川栄信(かのうようせんいんこれのぶいせんながのぶ)、伊川栄信の父子が月々の和歌に因む風物を描き分け、対の和歌帖には定信をはじめ将軍家斉の実父一橋治済(ひとつばしはるさだ)、若年寄堀田正敦(ほつたまさあつ)、老中牧野忠精(まきのただきよ)、土居利厚(どいとしあつ)ら錚々(そうそう)たる武家が歌を寄せる。その制作期は作者たちの官位および生没年代から、享和期ごろとされ、定信の著『退閑雑記(たいかんざつき)』にも幕府の要人たちが歌を詠んではそれに合わせて絵を描かせる風雅な遊びを重ねたことが見える。
    古来から和歌に基づく絵は、歌絵、歌意絵(かいえ)と呼ばれ、ことに藤原定家(ふじわらのていか)の歌による「花鳥十二ヶ月月次絵」は有名であった。同じ12ヶ月の絵を作ろうとしたとき、定信たちは定家を意識して歌を詠み、絵師たちは歴代の名手と競って構図を練ったことだろう。

    (資料番号:88208016)

  • お会式 雑司ヶ谷 
    お会式(おえしき) 雑司ヶ谷  

    笠松紫浪/画 
    1934年(昭和9)

    雑司が谷にある鬼子母神のお会式の様子を描く。お会式とは、日蓮宗で宗祖日蓮の命日にあたる10月13日に行われる法会である。その前夜はお逮夜(おたいや)といい、信徒らが造花で飾った万灯(まんとう)を掲げ、纏(まとい)を振り、太鼓や鐘を叩き、題目を唱えながら近所を行列する。もともとは提灯行列の地味なものだったが、明治期以降に本図に描かれるような華やかなものとなったという。
     本図は、江戸の浮世絵と同様の技法で、彫師、摺師との共同で制作された新版画である。画面中央の万灯の輝きを、伝統的な木版画制作の技術である「ぼかし」で見事に表現している。
    画家の笠松紫浪(かさまつしろう)は、鏑木清方(かぶらぎきよかた)のもとで日本画を学んでいたが、師匠の薦めで版画を始め、この時期にはモダン東京の姿を写した作品を手がけた。風景画家として多くの作品を生み出し、戦前、戦後にかけて活躍した。
    清方の弟子には、同じく新版画に参加した伊東深水(いとうしんすい)や川瀬巴水(かわせはすい)らがおり、一門で「郷土会」を結成し、社会と人びとそれぞれの人生を真摯に静かに表現する芸術を目指した。新版画の作家には同会のメンバーが数多く含まれ、その姿勢が新版画の内容に与えた影響は大きい。本図でも、一歩引いた視点によって、万灯の光と信徒らの背中の影を情緒豊かにとらえる。やや細長い画面から、祭りの熱気と余情が心地よく伝わる。新版画の魅力の一つに、優れた版画技法だけでなく、このような情感あふれるテーマの点も挙げられよう。

    (資料番号:08200018)

  • 東京名所 浅草公園池之端之図 其二
    藤山種芳/画 東洋彩巧館/発行
    1906年(明治39)

    桜が満開で、料理屋には提燈が並び、客の姿も見える。池のこちら側には、左に料理屋の仲居さん、右に少年とその母親だろうか。仲居さんが何やら声をかけ、少年は母親に甘えながら何かをねだり、母親はそれをやさしく聞いている。そんな場面が想像される。しかし、花見の季節にしては人出が少なすぎる。手前の池は、浅草公園の憩いの場ひょうたん池、遠くには東京最大の盛り場浅草のシンボルであった凌雲閣、通称浅草12階が見える。本来ならば、もっと多くの人でにぎわっていたはずである。この木版画は、赤、青、茶、黒と少ない色で構成され、地の紙も焼けている。何より上手な絵ではない。高価な版画として販売されたものとは思えない。少ない人物も多くの人を描く手間を省いたためだろうか。しかし、このようにどことなくもの悲しい感じが、盛り場浅草の一面を表しているようにも思える。
     凌雲閣は、1890年(明治23)、開業した娯楽施設で、関東大震災で倒壊するまでの33年間、浅草のシンボルであった。喜多川周之(きたがわちかし)さん(1911〜1986)は、その凌雲閣に魅せられ、凌雲閣に関すものならあらゆる資料を集め、研究した民間学者であるが、この魅力的な版画も喜多川周之さんの集めた資料の一つである。

    (資料番号:87102190)

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