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  • ポスター『どりこの』
    大日本雄弁会講談社商業部
    昭和前期

     初代水谷八重子らしき和服の女性が、黄金色の液体が入ったグラスを傾ける。傍らには、商品名と思しき「どりこの」の文字と、高速度滋養料なる謎の言葉。
     これは、昭和前期に大流行した滋養飲料「どりこの」のポスターである。考案したのは高橋孝太郎という医学博士で、商品名は開発に関係した人物や博士自身の名前の一部を取り、繋げて作られたとのこと。ブドウ糖、果糖、アミノ酸などが主成分で、水やお湯で5〜6倍程度に薄めて楽しむ甘いドリンクだった。
     昭和4年(1929)より三越が販売していたが、ある時講談社の創業者である野間清治がこれを試飲。彼が大変な甘党であったことも手伝ってか「どりこの」に感銘を抱き、同社で独占販売することになった。そして、野間の大号令のもと、社を挙げての大宣伝が始まる。有名芸能人や現役大臣までも巻き込んでの宣伝記事や、愛飲者たちの体験談、「どりこの」を使ったレシピ集など、多彩な広告が誌面を賑わせた。さらには、購入毎に貰える応募券で豪華プレゼントが当たる、といった今もよく見られる懸賞も盛んに行われ、1本1円20銭という高値ながら、最盛期には年間230万本を売り上げる大ヒットとなった。過剰なまでの宣伝があったとはいえ、当時としては貴重な甘味であり、かつ栄養価の高いこの商品が様々な場面で喜ばれたのは想像に難くない。
     しかし、時局の悪化で砂糖の入手が困難となり、昭和19年(1944)頃に製造を中止。今では講談社が販売していたということも含め、幻の飲料となってしまった。

    (資料番号:09200184)

  • 増上寺台徳院様御霊屋々内装飾指示原図
    増上寺台徳院様御霊屋々内装飾指示原図(ぞうじょうじ たいとくいんさま おたまや おくない そうしょく しじ げんず)

    1633年(寛永10)

     東京タワーすぐ近くの増上寺に、かつて華やかな徳川将軍家の廟所(びょうしょ)があった。2代将軍徳川秀忠も増上寺に葬られた一人である。
     秀忠は慶長10年(1605)4月、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府2代将軍となる。元和9年(1623)7月には嫡男家光に将軍職を譲るが、その後も幕政の実権を握った。長女は豊臣秀頼に嫁いだ千姫。また和子(まさこ)は後水尾天皇のもとに入内し、その娘は明正天皇となる。徳川家の権勢を盤石としたのはまさに秀忠の時代だった。
     都市江戸を拡充し、都市を整備したのも秀忠。日比谷入江が埋めたてられて大名屋敷などが建築され、江戸城は次第に外へと城域を広げた。
     寛永9年(1632)、秀忠は54歳で没する。遺体は江戸城の南、増上寺に葬られた。台徳院霊廟と呼ばれた廟所の完成には、2〜3年を要した。惜しくも空襲で焼失してしまったが、古写真などがその雄大さと荘厳さを伝えている。家康が遠く日光で江戸を守るのに比して、秀忠は増上寺の霊廟で江戸の鎮護を目指したかのようである。
     その片鱗(へんりん)を語るのが、この資料である。霊廟内の格天井や蟇股(かえるまた)など個々の部材に施されるデザインが描かれている。おそらく修復の過程で作成された資料と思われるものの、詳細は定かではない。
     しかし、部材には極彩色が施され、霊廟内に配された装飾の様相が想像できる。これらの装飾品が霊廟を飾っていたとすれば、日光東照宮の華美な装飾と通じると無理なく理解できよう。

    (資料番号:89205250)

  • 東京日々新聞 697号
    東京日々新聞 697号(とうきょう にちにち しんぶん)

    落合芳幾/画 温克堂龍吟/文
    具足屋嘉兵衛/発行
    明治初期

     新聞が新しい情報メディアとして登場した明治時代、より人びとに関心を持ってもらえるよう、新聞記事を絵にした錦絵新聞が発行された。視覚的なわかりやすさとともに、戯作調の文が添えられ、音読の調子がとれるようになっている。絵の素材には、全国の珍事件や殺人事件など人びとの興味を引き付けるものが選ばれた。
     この絵は、錦絵新聞の先駆けとなった東京日々新聞であり、東京日日新聞の錦絵版にあたる。元記事は明治7年(1874)5月24日発行で、度会県(わたらいけん/現三重県)甲賀の浦に住む「鰐(わに)」について報じている。実は鰐とはサメのことなのだが、文中には「全身海藻牡蠣附て巌にひとしき形相なり」とあり、ただのサメではないことが伝わってくる。錦絵新聞では、するどい鉤爪を持ち、表面を鱗におおわれた化物のように描かれている。海中を必死に逃げる男と、それを追う化物サメの緊張感あふれる画面構成は、その絵が真実か否かを問うより先に、見る者を引きつける。
     この絵を描いた絵師・落合芳幾(1833〜1904)は、歌川国芳に師事し、明治になってからは東京日日新聞の創刊にも関わった。明治7年(1874)に錦絵版東京日々新聞を刊行し、錦絵を担当した。錦絵新聞は、芳幾のような人気浮世絵師が関わっていることが多いことなどから、「新聞錦絵」という見方もできる。新聞と錦絵の性格を併せ持つこのメディアから、明治ジャーナリズムの実態を垣間見ることができる。

    (資料番号:90200083)

  • 眼鏡絵 両国橋夕涼花火見物之図
    眼鏡絵 両国橋夕涼花火見物之図(めがね え りょうごくばし ゆうすずみ はなび けんぶつ の ず)

    江戸時代後期

     水平線を低く設定し、空を広く取ったこの風景は、花火で賑わう隅田川の両国界隈(かいわい)だ。前に架かっているのが両国橋で、川面にはたくさんの納涼の舟が浮かんでいる。
     夜景を描いていたこの絵、白い絵の具を濃く塗ったように見える部分が、実は明るく光っているのである。これは、裏から強い光を当てると、画面の一部が明るくなる「影からくり絵」の一種だ。花火や提灯など光らせたい部分だけ切り抜き、その穴の裏から赤や白の薄い和紙がはられている。裏から光を当てると、それまでの世界が一変する。
     光を当てない状態で作品を堪能した後、このような夜景に転じるのを見た当時の人々はどんなに驚いたことであろう。今の3D映画と同じように、話題になったかもしれない。
     特にこの作品は、月や星の輝き、そして川岸の家の障子に映る人影まで、表現の細かさには目を見はるものがある。隅田川を代表する名所を劇的に、美しく表現した作品といえるだろう。
     このような「影からくり絵」は、盛り場にあった見世物小屋の見世物であったと考えられている。人々は暗い小屋の中で、興行師の語りを聞きながら、わくわくして眺めたのあろう。

    (資料番号:89204001)

  • 真美人 金魚鉢を持つ童女
    真美人 金魚鉢を持つ童女(しんびじん きんぎょばち お もつ どうじょ)

    橋本周延/画 秋山武右衛門/発行
    1897年(明治30年9月20日)

     目にも涼を呼ぶこの一枚。
     数多くある夏の風物詩の中でも、金魚とガラス製の器という組み合わせは、私たち日本人に好まれ、昔からよく描かれた。
     中国発祥の金魚が日本へ渡って来たのは、室町時代のこと。その頃の金魚は貴重で高価で、一部の富裕な人々だけの愛玩物だった。それが庶民へも普及し、誰もが飼えるようになったのは、江戸時代になってからである。
     かつて夏が近づくと、水おけを担いで売り歩く金魚売りの姿が見られた。「金魚ぉーえー金魚ぉ」と、売り歩くその姿は、季節感にあふれ、爽涼感に満ちていて、人々の目と耳を楽しませるとともに、心を和ませた。金魚売り自体が、夏をイメージさせる存在にもなっていた。
     当時は、ここにも描かれているような、びいどろ(ガラス)でできた「金魚玉」という容器が普及していた。それまで、水面を通して池などで泳ぐさまを見下ろしていたのが、ガラスを通して間近で見られるようになり、距離はグッと縮まって、身近な存在になったと考える。
     親近感が湧き、愛すべき存在になっていった金魚は、明治時代以降も身近な生ものとして、人々の生活に定着していくのである。
     「真美人」とは、明治期に活躍した浮世絵師、周延による36枚揃のシリーズ。美人と言ってもこの絵の場合、描かれているのは可憐な少女で、金魚と少女という組み合わせは、どこか懐かしさを感じさせる。

    (資料番号:09200115)

  • 団扇売り
    団扇売り(うちわ うり)

    鈴木春信
    1760〜1770年頃(宝暦10年〜明和7年)

     団扇は、奈良時代に中国より伝わり、江戸時代には庶民にも夏の暑さをしのぐものとして広まっていた。盆や中元などの贈答品や商店の配り物としても利用され、竹骨に和紙を張った安価な団扇が量産されていた。
     江戸の街では、初夏、行商の団扇売りが、売り声を上げながら団扇を売り歩く姿が見られた。団扇売りは若い男性が多く、本図でも、煙管を持ち、着物の片肌を脱いで休息をとる粋な若者の立姿を描く。
     市松模様の背負い箱には、役者絵、市川団十郎らの家紋、風景画、花鳥画、舶来象の図、能の謡曲の題材を取り入れた美人画など、バラエティに富んだ絵柄の団扇が掛かっている。けれども、実際の行商の団扇売りは、これほど珍しく多種多様な図柄を販売してはいなかった。本図の2〜3年前の明和2年(1765)に、多色刷りの錦絵創始に関わった浮世絵師・鈴木春信(1725?〜1770)が、自らの豊富な画力を示そうと、あえてこのように画中に描き込んだのだろう。
     江戸後期には、浮世絵師が図柄を描いた団扇が、絵草紙屋などでも他の錦絵と並べて販売されていた。歌舞伎役者を描いた団扇は特に人気で、安いもので1本16文ほど、蕎麦一杯と同程度の値段で売られていた。春に大評判となった芝居の図柄が、夏の団扇に採用されることも多かった。
     今夏の東京は、節電を考慮しつつ暑さをしのぐ必要がある。夏前にお気に入りの団扇を買い求め、それで涼を楽しむという江戸の暮らしに倣ってみるのもいかがであろうか。

    (資料番号:94203119)

  • 椿説弓張月
    椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)

    曲亭馬琴/著 葛飾北斎/画
    1807年(文化4年春1月)刊行
    平林圧兵衛・西村源六/板

     本作は、滝沢馬琴が執筆した最初の長編史伝物で、『南総里見八犬伝』と並ぶ馬琴の代表作である。朝から晩まで机に向かい、読本を量産していた頃の作品で、前編・後編・続編・拾遺・残編とそれぞれ5、6冊づつの計29冊が刊行され、画師は葛飾北斎が筆を執っている。
     主人公は弓の名手として知られる源為朝で、その生涯を史実と創作を交えて描いた。歴史上、為朝は平安時代末期に起こった保元の乱で敗れて伊豆大島に流され、その地で没したが、この物語では大島を脱出し、九州を経て琉球に渡り、内乱を治めた後に、為朝の子が琉球王国の王位につくというストーリー。
     広大な海を舞台に展開していくというスケールの大きさ。さらに妻や子供達との情愛、君臣との忠義なども織り交ぜ、ロマンや冒険に満ちた世界観を描き、刊行当初から好評を博した。
     タイトルの「椿説」とは珍説の意味で、正史では不遇の人物となっていた為朝を活躍させて歴史の成功者として光を当て、理想的な英雄像を作り上げた。
     その反響は、物語の場面にまつわる錦絵が描かれ、舞台の演目に起用されていることからも知られる。読者の心をつかんだ構想力に、馬琴の才能がうかがえる。

    (資料番号:87201428)

  • 元祖専売特許 蠅獲器
    元祖専売特許 蠅獲器(がんそ せんばい とっきょ はいとりき)

    昭和初期
    尾張時計株式会社製作

     名古屋の尾張(おわり)時計が製造した蠅獲器「ハイトリック」は大正の初めから昭和20年代にかけて、室内に置くだけで手を汚さず自動的にハエが獲れる優れた商品として人気があった。「清潔、簡単、優美」の三拍子そろった画期的な商品というのが、宣伝文句だった。
     ゼンマイ仕掛けで回転する四角柱の側面に、酒や酢などに砂糖を混ぜたものを塗る。次にネジを巻き適当な場所に設置。すると、甘い香りに誘われてやってきたハエはそこで餌をなめている間に、ゆっくりと箱の内部へ運ばれていく。そして、写真右手の金網状になった〓収容室〓へと導かれる。あとは金網部分をはずして火、または水で殺せば、ハエに手を触れることなく捨てることができる。
     伝染病を運ぶ元凶とされてきたハエを衛生的に処分できることに加え、そのデザインが評価され、家庭用発明品展覧会で有功賞(ゆうこうしょう)、全国食料品共進会で一等賞と、様々な展覧会で賞を獲得した。
     箱書きには「宮内省御買上」の文字が光る。海外へも輸入されたため、使用方法は和文と英文が併記された。英語の商品名は「AUTO-MATIC FLY TRAP」。
     実際に、第一次世界大戦中に、イギリス赤十字から注文があり、戦場でも使用されたという。いちはやく特許権を得たこの「ハイトリック」は、まさに「飛ぶハエ」を落とす勢いと言ったところか。
     少々高価であったため、国内では一般家庭よりは、学校、病院、飲食店などで使用されることが多かった。

    (資料番号:01002286)

  • 子宝五節遊 七夕
    子宝五節遊 七夕(こだから ごせつ の あそび たなばた)

    鳥居清長
    1796〜1797年頃(寛政8〜9年頃)

     五節句のうち七夕は星祭りともいい、中国の伝説がわが国に波及したもの。旧暦の7月7日に行われていたのを、現在、新暦の7月7日に行うことが定着しているので、梅雨明け間近、星空に出会えることはめったにない。江戸時代は、新暦でいう8月ごろに行っていたので、星を見ることができたようだ。初秋の行事として庶民にも広まり、和歌や願いごとを書いた短冊や色紙、切り紙細工を笹竹につけて掲げたり、邪気を払うために冷やそうめんを食べたりした。
     この図は、七夕祭りの支度の様子を描いた子ども絵。当時は子どもの成長に合わせて髪型を変えていたので、たった1枚の絵でも年相応の子どもたちの姿を見ながら当時の風習を知ることができる。前髪を結び、けし坊頭の3歳ぐらいの子どもと、前髪とけし坊を伸ばし、中ぞりをして残りの毛を垂らした頭の5歳ぐらいの子どもが、短冊や提灯、扇子をかたどった切り絵を笹に飾り付けている。笹竹を支えているのは、若衆髷(わかしゅうまげ)の10歳ぐらいの少年。文机で筆を持つのは島田を結った13歳前後の少女。女児のための教育本として著名な『女大学』をお手本に、願いごとをしたためている。
     作者の鳥居清長(とりいきよなが)は、鳥居清満(とりいきよみつ)に学び役者絵を描き、美人画も巧みだった。彼が描く子どもたちの姿は、丸みを帯びてかわいらしく、見る者に安らぎさえ与える。

    (資料番号:89200004)

  • 東都名所年中行事 四月 日本橋初かつお
    東都名所年中行事 四月 日本橋初かつお(とうと めいしょ ねんちゅう ぎょうじ しがつ にほんばし はつかつお)

    歌川広重
    1854年2月(安政元年2月)

     日本橋の上を、盤台に初ガツオを載せた魚屋が通っていく。その向こうに見えるのは、からりと晴れた空に浮かぶ富士山。江戸っ子自慢の名物が巧みに取り込まれたこの絵は、歌川広重(うたがわひろしげ)の「東都名所年中行事」のうち、4月の風景として描かれている。
     旧暦に4月は今日の5月下旬にあたり、まさに初ガツオの季節とされていた。カツオの旬は年に2回、夏と秋に訪れるが、江戸の人々は、初夏の黒潮とともに北上する方を好み、香りが良く、さっぱりとした味わいが人気を集めていた。
     伊豆や相模湾沖(さがみわんおき)でとれたカツオがまず水揚げされるのは、日本橋魚河岸。五街道の起点として名高いこの場所は、「遠近(おちこち)の浦々より海陸のけじめもなく、鱗魚をここに運送して、日夜に市を立ててはなはだ賑はへり」(『江戸名所図会』)と語られるほど繁盛していた。
     初ガツオの値段は、1両から3両とあまりにも高く、江戸っ子は「仏壇をたたき売ってまでも」手に入れようとするなど、さまざまなエピソードが生み出された。そこまで熱中したのは、威勢(いせい)のいい競争心と、初物を食べると寿命が75日延びるという、迷信があったからである。
     カツオを「たたき」にすることが多い現代と違い、江戸では刺し身にして辛子味噌をつけて食べるのが好まれた。さわやかなカツオの風味と程よい辛さが、日ごとに暑さを増すこの季節に好まれたのかもしれない。

    (資料番号:91220337)

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