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  • 今様人倫八景 茶店夕照
    今様人倫八景 茶店夕照(いまよう じんりん はっけい ちゃみせ の せきしょう)

    礒田湖龍斎/画
    1772年〜1781年(安永年間)

     今様とは、「今の世」「現代」という意味で、人々の生活の一面を描いたもの。この絵の題名は、北宋の文人画家宋迪(そうてき)が描いた八幅の画「瀟湘八景(しょうしょう はっけい)」の中の、「漁村夕照(落照ともいう)」に見立てて名付けられた。
     この絵には安永年間(1772‐1781)の男女の様子が描かれている。草履を脱いで、右足を腰掛けに乗せる帯刀の若衆と茶を差し出す娘。娘は当時流行した灯籠鬢(とうろうびん)を結っている。
     ここで描かれている茶店は、街道筋の間にある立場茶屋(たてばちゃや)か、神社の境内や広小路にある水茶屋と思われる。背景は、雲に覆われており、茶店が高台に位置することをうかがわせる。
     また、絵の中では黒漆塗りの茶台にのせた無地の茶筒碗(ちゃづつわん)が使われているが、文化年間(1804‐1818)になると厚みを増し、やや大型で、藍絵(あいえ)が描かれた茶碗が多く使われるようになる。この絵は、18世紀後半の流行や生活の諸相がわかるまさに「今様」を描いた作品といえる。
     作者の湖龍斎(こりゅうさい)は、武家の出身といわれ、両国広小路近くの薬研堀に住んでいた。初めは、錦絵の創始者・鈴木春信の画風に似た作品を描いていたが、次第に独自の画風を確立させた。明るい色彩の錦絵に比べ、沈んだ色調を用いることで、人間味が増し現実的な題材を描くようになった。
     この絵も、ふたりの内面からにじみ出る恥じらいの様子が、初々しく描かれている。

  • 名所江戸百景 高輪うしまち
    名所江戸百景 高輪うしまち(めいしょ えど ひゃっけい たかなわ うしまち)

    歌川広重/画
    1857年(安政4)

     夕立が上がり晴れ渡った品川の海。虹がかかり、すがすがしい風景が広がっている。
     しかし近景の陸の様子は対照的。西瓜(すいか)の皮や鼻緒の切れたわらじ。暑い夏や、長かった旅の果てを連想させる。一番手前に配された車輪は牛車。これも、海上を走る帆船と対をなしているようだ。
     ここに描かれているのは、東海道筋から江戸へと入る大木戸の外側にある高輪の芝車町(しばくるまちょう)。通称、牛町と呼ばれた場所である。
     1634年(寛永11)に増上寺安岡殿建立のため、京都から牛車と車夫を呼び寄せ、ここに留(とど)めたことからその名がある。
     その後も江戸では、幕府や大名による普請に牛車が活用されたため、この町で牛が飼育されていた。その頭数は文献により開きがあり、120頭とも1,000頭とも記されている。
     この作品には、牛の姿はなく、小犬が描かれている。江戸の犬は、一部の武士や富裕な町民層に飼われていたのを除いて、特定の飼い主を持たないのが普通だった。
     町に住みつき、人間の出した残飯を食べながら、自由に生きていた。家畜として飼われていた牛と対照的な存在である。
     歌川広重が晩年に手がけた「名所江戸百景」は、近景を大きく画面に取り、遠景と対比させる構図が多い。この「高輪うしまち」はまさにその特徴を表している。様々なものを交錯させ、見る者の想像をかき立ててくれる。
     江戸の御府内の境にあった牛町。広重は、この光景を車夫の視線で描いたのではないか。牛車の傍らに腰をおろし何を思っていたのだろう。

  • 大江戸年中行事之内 正月二日日本橋初売
    大江戸年中行事之内 正月二日日本橋初売(おおえど ねんちゅう ぎょうじ の うち しょうがつ ふつか にほんばし はつうり)

    橋本貞秀/画
    1860年(万延元)

     コンビニもあればスーパーもある、年末大売り出しに買い込まなくても何の不便もない時代となった現代の正月と比べると、江戸の正月は、街全体に祝祭気分がみなぎる格別の三日間であった。
     今回紹介するこの絵は、作者の橋本貞秀をして「江戸繁栄随一の景色」と言わしめた日本橋界隈(かいわい)初売りの光景を描いたものだ。提灯(ちょうちん)で飾り付けられた初荷を大八車に堆(うずたか)く積み上げ、揃(そろ)いの法被に身を包んだ店の奉公人たちが、威勢よく、この大八車を引き回した。
     ところで本作品は、初売りばかりでなく、松や竹、提灯などで飾り付けられた街角の風景を描いたものとしても実に興味深い。特に貞秀得意の鳥瞰(ちょうかん)的構図によって、描きだされた魚河岸の様子に興味を惹(ひ)かれる。
     画面左手には桟橋についたばかりの船や、繋留(けいりゅう)している船の上に平板を渡した荷さばき作業用の平田船、鮮魚を保管するための納屋が描かれている。中でも、魚を載せた板舟の並ぶ仲見世(なかみせ)が描かれている点や、板流しと呼ばれた通り、足下に板が敷きつめられている点などは秀逸。
     また、魚河岸のメーンストリートであった仲見世と本船町の間には、初荷の魚を買いつけにきた多くの振り売り商人に交じって、獅子舞が描かれている。
     この日、魚河岸の問屋衆は、紙に包んだ、おひねりを山のように積んで用意し、万歳などの正月芸人に対して配った。しかも同じ芸人にすらせがまれるまま幾つも配ったため、このおひねりを目当てに集まってくる芸人たちによって、初売りの混雑に一層の拍車がかかったといわれている。不況のどん底にあえぐ現代の東京からみれば、何やら、うらやましい光景ともいえようか。

  • 中天竺新渡舶来大象之図
    中天竺新渡舶来大象之図(ちゅうてんじく しんと はくらい だいぞう の ず)

    了古/画
    1863年(文久3)

     江戸期には、豹(ひょう)や虎(とら)、駱駝(らくだ)、驢馬(ろば)、孔雀(くじゃく)、山嵐(やまあらし)、そして象など、舶来の珍しい動物が見世物として人々の人気を博した。その多くは、江戸屈指の盛り場、両国橋西詰でしばしば興行され、瓦版(かわらばん)や絵ビラなどの刷物(すりもの)を通して広く紹介されている。
     ここに掲げた象の絵もまた、1863年(文久3)にやって来た三歳のメスのインド象を描いたもので、今でいう宣伝ポスターだ。タイトルにある中天竺(ちゅうてんじく)は、象が生まれたインド中央部を指す言葉。新渡舶来は、1728年(享保13)に長崎に来たオス、メス二頭の象に次ぐ再来という意味で、1859年(安政6)に開港した横浜港に上陸した。享保の時は、山王祭に象の作り物が出るなど一大ブームとなったが、刷物の数では文久の際が圧倒した。
     板張りの舞台の上を、丸太の柱を使って檻(おり)状にし、男が象にわらを与えている。一段下がった土間では、あっけにとられて上を向いている観客の顔の様子が面白い。
     別の資料によると、高さ1丈2尺、鼻の長さ8尺、重さ2,800貫、つめはべっ甲に似ると紹介されている。さらに、「これを見る人、七難を滅し、七福を生ず。諸君子競ふて一覧あるべし」と、仮名垣魯文の讃(さん)を記した刷物もある。
     流行をあおっているといえなくもないが、象に乗って滅罪延命を説く普賢菩薩(ふげんぼさつ)にあやかって、巨象を福神にみなそうとする当時の人々の願いも、評判に拍車をかけているのかもしれない。

  • 幕府軍艦第二長崎丸引き揚げ資料
    幕府軍艦第二長崎丸引き揚げ資料(ばくふ ぐんかん だいに ながさきまる ひきあげ しりょう)

    江戸末期

     黒船来航後、欧米列強に対抗できる軍備を急いだ江戸幕府は、洋式海軍の設立に着手した。オランダで建造された「観光」「咸臨」の二軍艦を手始めに、幕府は次々と西洋から洋式船を入手した。
     「第二長崎丸」は1863年(文久3)にイギリスから購入した小型船で、原名をジョンリ−といった。1867年(慶応3)の英人水夫殺害事件では、嫌疑をかけられた海援隊士を坂本龍馬らが鹿児島から召還する際に使われたエピソードを持つ。
     1868年(明治元)に始まった戊辰戦争で、榎本武揚をはじめとする旧幕府海軍メンバーの一部は新政府軍に抗戦し、幕府艦隊を率いて北へ走った。第二長崎丸は東北各地を転戦した後、同年10月、酒田沖(山形県)に投錨(とうびょう)し、出羽庄内藩を支援した。艦長は、幕府の軍艦頭並(かしらなみ)を務めていた柴誠一である。
     10月23日夜、第二長崎丸は、暴風雨のため酒田沖に浮かぶ飛島で座礁した。船は破壊沈没の憂き目に遭った。柴艦長ほか数人は新政府に降伏し、残りは榎本ら同志が戦う箱館へ去った。そして、引き揚げられた備品は、一行を世話した飛島の肝煎(きもいり)・鈴木家に伝えられた。
     引き揚げ品には、船の建具や用具調度、日の丸の元祖である幕府軍艦旗などがあった。
     中でも、イギリス建造船ならではの特色は、同国の有名陶磁ウェッジウッド社製の食器群である。年代や由緒の明らかなウェッジウッドとして高い価値をもち、軍艦の数奇な運命を秘めながら、今も上品な色合いをたたえている。

  • ちりめん本「かちかち山」
    ちりめん本「かちかち山」(ちりめんぼん かちかち やま)

    1886年(明治19)

     「ちりめん本」とは、和紙に印刷された絵を、絹織物の縮緬(ちりめん)状に加工して製本したもの。京橋で出版社「弘文社」を経営していた長谷川武次郎(1853〜1890)が考案した。1885年(明治18)ごろから出版され、昭和初期まで版を重ねた。
     武次郎は酒屋に生まれ、英語を得意として東京商法講習所(現・一橋大学)で学んだ。通訳をしたり英語塾、洋酒店などを経営したりしていたが、イギリス人宣教師バジル・ホール・チェンバレンの勧めもあり、外国人向けに日本昔話の翻訳本出版を試みるようになった。
     当初は、縮緬加工をしない一般的な本を出版したが、外国人にはあまり好評でなかったため、試行錯誤の末、和紙に特殊加工を施して、ちりめん本を開発した。
     和紙にもかかわらず絹織物の風合いがある多色摺木版画の挿絵の絵本は、来日した外国人の間でブームとなり、海外にも輸出されるようになった。その技術は、他社に模倣されたが、武次郎の技術には及ばなかったという。
     挿絵は、狩野永悳(かのうえいとく)の門人、小林永濯(こばやしえいたく)の作。中国の明画や西洋画も独自に学び、近代の昔話絵本の絵画に新たな息吹を吹き込んだ。
    「Japanese Fairy Tale Series」というシリーズものとして、「桃太郎」「舌切雀」「猿蟹合戦」「花咲爺」など20種以上を売り出した。翻訳の種類も英語版、フランス語版、ポルトガル語版、ドイツ語版などと広がりをみせた。
     翻訳には、アメリカ人宣教師ディビッド・タムソン、ローマ字創始者のヘボン博士、言語学者チェンバレンらがあたっていた。

  • 鹿鳴館 持送り
    鹿鳴館 持送り(ろくめいかん もちおくり)

    1883年(明治16)

     「鹿鳴館(ろくめいかん)時代」という名称さえ生まれるほどに、時代の象徴となった鹿鳴館は1883年(明治16年)、外務卿、井上馨の欧化政策の一環として、薩摩藩の屋敷の跡地(現在の日比谷公園前、大和生命ビル付近)に建てられた。
     その開幕は大変華やかだった。当時の新聞は、その様子を、無数の電灯を輝かせ、館の正面には鹿鳴館の三文字をガス灯の火によって灯(とも)し、白日のようなきらびやかさは、まるで「不夜の仙境」であったと伝えている。ここを舞台に、政府高官、外国高官、貴族などが集い、毎夜のごとく豪華絢爛(ごうかけんらん)な舞踏会が開かれた。
     建物の外観はフレンチ・ルネサンス様式をベースに、細部にイスラム風の装飾を施している。設計は、ニコライ堂や三菱財閥の岩崎久弥の旧邸を手がけた英国人建築家、ジョサイア・コンドルが担った。
     「持送り」は、この鹿鳴館の部材の一つ。外壁から突出していたもので、屋根のひさしを支えていた。さすがに装飾性が高く、アカンサスの葉をモチーフにしたといわれている。
     鹿鳴館は1940年(昭和15年)に解体され、この部材は本来は廃棄される運命であったが、建築家の今井謙介氏が譲り受け、当館へ寄贈した。鹿鳴館に関する現存資料は少なく、本資料は往時の姿をしのばせる大変貴重な資料だ。(565)

  • 大日本婦人束髪図解
    大日本婦人束髪図解(だいにほん ふじん そくはつ ずかい)

    安達吟光/画
    1885年(明治18)

     男性のザンギリ頭に遅れること十余年、生活がさまざま改良されるにしたがい、女性の結髪をやめて、ヘアスタイルを簡単にしてしまおうと主張する団体が作られた。
     「婦人束髪会」という、その団体は、1885年(明治18年)7月に医者の渡辺鼎(わたなべかなえ)と経済雑誌記者の石川映作によって設立された。誰でも会の幹事に住所と氏名をつげれば会員になることができた。会費は無料。彼らは新聞や雑誌で設立趣旨の宣伝や会員の募集などを行い、広く束髪を普及しようとした。
     女性の結髪は重く、形が崩れることを恐れて安眠できず、頭痛の原因にもなり、洗髪もできずに衛生上の害があること。結いなおすたびにお金がかかり不経済で、髪を結う日はどこにも出かけられないため、交際上の妨げになり、文化の進歩に大きな障害がある。これらが彼らの主張であった。
     束髪に賛同したのは鹿鳴館(ろくめいかん)に出入りするような上流階級の婦人が主であったが、会の設立から2か月、東京女子師範学校の制服に洋服が取り入れられると、束髪は女子師範の教職員と生徒に歓迎された。一般には結髪と和服が全盛であったが、錦絵や新聞などの広告で、和服にも束髪が似合うことがわかると、手軽な束髪が受け入れられていった。
     これは、会の趣旨説明と束髪の結い方を示した錦絵である。「束髪結び方」の中で「西洋上巻の結方ハ最初左の手にて髪の根を揃(そろ)へ右の手にて三四度右の方へ捻(ねじ)り而(しか)して適宜に曲毛を頭の上に作り毛先を根本に押込(おしこめ)て後所々をヘイアピンと云(いう)留針にて髪の乱れぬやうにするなり」とある。
     この髪形は西洋で中年以上の婦人が行っているとあり、他に16、17歳向けの「まがれ糸」(マーガレットか?)には「リボン」という細長い小切れを使うなど、数種類の結い方、結った髪形の前、横、後ろ向きの図をのせて説明している。現代から見ても生花をさしたり、三つ編み風な髪形があったりと、かわいらしい。

  • 松の徳葵の賑ひ(部分)
    松の徳葵の賑ひ(まつ の とく あおい の にぎわい)(部分)

    1887年(明治20)

     徳川将軍のうち在職期間が50年と、一番長かった11代家斉(いえなり)は、子だくさんとして有名。「松の徳葵(あおい)の賑(にぎわ)ひ」と題する6枚続きの錦絵には、家斉とその子供たち53人が描かれている。
     江戸時代、このような将軍家の私事にかかわるものの出版は厳禁であった。この錦絵は、明治維新から20年が過ぎ、世情が落ち着き、旧幕時代を懐かしむ風潮のなかで描かれた想像画である。表題の「松」は徳川氏のもとの苗字(みょうじ)「松平」に、「葵」は家紋の「三葉葵」にちなむ。
     「徳川幕府家譜」によると、家斉は数え年の17歳から55歳までに、正室、側室17人との間に流産一人を含め55人の子をもうけたとある。男女比はほぼ一対一。この中で10歳以上に成長したのは、男13人、女12人で、この時代子供を丈夫に育てることがいかに難しかったかがわかる。
     成長した子供のうち、家を継げるのは男子一人で、そのほかは相応の家に嫁がせるか、養子に出さなければならず、幕府は縁談や縁組を強引に進めた。将軍の子供を押し付けられた大名家は、幕府に対する不満が募ったようだ。家斉の子だくさんが、幕府の滅亡を早めたという説もあるくらいだ。
     ちなみに、家斉の子供のうち、この絵が刊行された1887年(明治20)まで生きていたのは、第37子の銀之助(旧美作(みまさか)津山藩主松平斉民(まつだいらなりたみ))ただ一人、時に74歳であった。

  • 松の徳葵の賑ひ(部分)
    松の徳葵の賑ひ(まつ の とく あおい の にぎわい)(部分)

    1887年(明治20)

     徳川将軍のうち在職期間が50年と、一番長かった11代家斉(いえなり)は、子だくさんとして有名。「松の徳葵(あおい)の賑(にぎわ)ひ」と題する6枚続きの錦絵には、家斉とその子供たち53人が描かれている。
     江戸時代、このような将軍家の私事にかかわるものの出版は厳禁であった。この錦絵は、明治維新から20年が過ぎ、世情が落ち着き、旧幕時代を懐かしむ風潮のなかで描かれた想像画である。表題の「松」は徳川氏のもとの苗字(みょうじ)「松平」に、「葵」は家紋の「三葉葵」にちなむ。
     「徳川幕府家譜」によると、家斉は数え年の17歳から55歳までに、正室、側室17人との間に流産一人を含め55人の子をもうけたとある。男女比はほぼ一対一。この中で10歳以上に成長したのは、男13人、女12人で、この時代子供を丈夫に育てることがいかに難しかったかがわかる。
     成長した子供のうち、家を継げるのは男子一人で、そのほかは相応の家に嫁がせるか、養子に出さなければならず、幕府は縁談や縁組を強引に進めた。将軍の子供を押し付けられた大名家は、幕府に対する不満が募ったようだ。家斉の子だくさんが、幕府の滅亡を早めたという説もあるくらいだ。
     ちなみに、家斉の子供のうち、この絵が刊行された1887年(明治20)まで生きていたのは、第37子の銀之助(旧美作(みまさか)津山藩主松平斉民(まつだいらなりたみ))ただ一人、時に74歳であった。

  • 鼈甲台プラチナダイアモンド象嵌雪花紋 櫛・笄
    鼈甲台プラチナダイアモンド象嵌雪花紋 櫛・笄(べっこうだい ぷらちな だいあもんど ぞうがん せっかもん くし こうがい)

    大正時代

     現在、婚礼の指輪を購入する七割以上の人々が、ダイヤモンドを選ぶという。最も人気があるこの宝石は、明治期に入ってから初めて輸入された。その後、ダイヤモンドのアクセサリーは文学や絵画のなかにも取り入れられ、人々に広く認知されるようになった。
     大正期になると好景気に乗じて、宝石の輸入が増大した。旧三越呉服店のPR誌「三越」にも、ダイヤモンドなどの宝石を使用した指輪や、かんざし、帯留めなどの広告が出始める。
     この櫛と笄は、大正期のもの。雪花文の中央に小さなダイヤモンドが付けられている。江戸前期から女性の結髪の盛行にともない、櫛と笄はかんざしと共に髪飾りとして用いられるようになった。木や、べっ甲、象牙(ぞうげ)などのさまざまな材料から作られた。この櫛と笄もべっ甲製だ。
     伝統的な材料から作られた台に、プラチナとダイヤモンドという新しい素材がはめ込まれている。プラチナによる雪の文様は、すべて図柄が異なる。硬質で広がり延びやすいプラチナの加工技術が駆使されている。金に比べて、しぶくて優美なプラチナに対する日本人の愛好は、このころからだ。ダイヤモンドは0.1カラットにも満たない小さなものだが、櫛・笄あわせて五つ付けられ光り輝いている。
     新旧の技術を見事に融合したこれらの装身具には、大正期の自由な空気とともに、髪に挿した女性のほほ笑みとおしゃれ心が感じられる。断髪によってやがて消えていく櫛・笄の末期に位置付けられる資料でもある。

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