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  • 新板わり出し寿古六
    新板わり出し寿古六(しんぱん わりだし すごろく)

    歌川国麿/画 歌川豊国/補筆
    1860年(万延元)

     芝居見物の華やかな雰囲気さながらに、大きな画面で存分に味わいながら楽しむことの出来る絵双六。遠近を強調した浮絵(うきえ)の手法を用い、舞台と客席の賑やかさを俯瞰(ふかん)して描いている。
     作者は幕末から明治初期の絵師歌川国麿。舞台上の役者のすぐ横に小さく「役者両人豊国補助」とあるので、国麿の師、三代豊国が筆を入れたのがわかる。
     手前中央のふりだしマス「どま・さじき・わりだし」から客席をマス目に見立て、サイの目でコマを進める。「どま」は平土間(舞台前の1階席)を角材で区切った仕切桝(ます)の土間席のことで、「さじき」は土間よりも高く作られた左右の桟敷席のこと。ふりだしの掛詞(かけことば)になっている「わりだし」は区画のことを表す。
     ゲーム盤として当時の子どもたちが遊んだであろうこの絵双六は、江戸歌舞伎の実態をよく伝えてくれる。芝居小屋内部の様子は、現在の歌舞伎座などの劇場と比較してみると画面から判断できるだけでもいくつかの相違点を見つけることができ、大変興味深い。客の身なりや表情が描き分けられ、席料のランクがおのずと予想されるのも楽しい。
     舞台では「義経千本桜」が演じられ、黒衣を付けた後見(こうけん)、出語りの演者たちの姿も見える。
     舞台下手に見えるすし詰めの客席は羅漢台(らかんだい)。ここは幕(舞台上部に見える)を引いてしまうと舞台とともに隠れてしまう下級席だ。
     土間と桟敷の間にあるやや高い高土間や上級席である二層の桟敷。芝居茶屋を介して座るこれらの席の手すりには、茶屋が貸し出す赤い毛氈(もうせん)が掛けられている。
     よく見るとそれぞれの席には料理や手あぶりが持ち込まれ、陽気に歓談をしながらの芝居見物のようだ。

  • 忠臣蔵 五段目
    忠臣蔵 五段目(ちゅうしんぐら ごだんめ)

    歌川広重/画 泉屋市兵衛/版
    1790〜1804年(寛政2〜文化元)

     赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)による江戸城中における刃傷事件とその浪士たちが吉良上野介義央(きらこうづけのすけよしなか)を討った復讐事件。これら史実を基に、時代を「太平記の世界」に借りて脚色し、事件から47年後に人形浄瑠璃として上演された狂言が「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」、すなわち「忠臣蔵」である。人びとに大評判で迎えられたこの演目は、すぐに歌舞伎化された。その後数々の書き換えや外伝、パロディも生まれ、講談や落語、浪曲、文芸などにも取上げられた。史実もまた物語を介して伝わり、「赤穂事件」は「忠臣蔵」という代名詞を得て、綿々と現在まで語られることになる。
     忠臣蔵狂言を上演すれば必ず当るという意味で、当時の起死回生の妙薬になぞらえ「独参湯(どくじんとう)」と呼ばれたことからも、人気の程をうかがい知ることが出来る。江戸三座の興行だけでもほぼ毎年のように「忠臣蔵物」を上演していた。通しで上演されることが多く、全11段のあらすじや登場人物は知識として広く浸透していた。そのため各段を象徴的に描いた揃い物の絵、義士絵、主題を忠臣蔵によった見立絵など、創意に富んだ作品が多く出され、絵師たちにとっても格好の画題であった。
     図は16枚揃いで出版された歌川広重の錦絵の1枚。夜雨の中で実悪の定九郎(さだくろう)がおかるの父与一兵衛(よいちべえ)を斬殺する劇的な「山崎街道の場」。枠には雷文をつなぎ、討ち入りの頭領大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)ゆかりの二つ巴紋を配する。忠臣蔵の揃い物は各段1枚全11枚組が一般的であるなか、このシリーズでは最終段を6枚にわたり描いている。

  • 東都名所年中行事 正月 かめいど初卯詣
    東都名所年中行事 正月 かめいど初卯詣(とうとめいしょねんちゅうぎょうじ しょうがつ かめいど はつうもうで)

    歌川広重/画
    1854年(安政元)

     いかにもお正月らしい雰囲気の作品である。
     亀戸の初卯詣(はつうもうで)とは、亀戸天満宮の境内にある御嶽社(みたけしゃ)へ、正月最初の卯の日に詣でることをいう。
     柳の枝に、丸めた五色の餅や様々な縁起物を付けた繭玉飾(まゆだまかざり)と、向かって左側の女性の頭に簪(かんざし)とともに挿された白い御札(おふだ)が、初卯詣の特徴となる。暖かそうな格好をした女性たちの姿からは、この時期の冷たい空気まで伝わってくるようだ。
     亀戸初卯詣は、大変な賑わいであったと江戸時代の本にも記されている。よく見ると、女性達の背後に架かる天神橋には大勢の参詣客がぎっしりと描かれている。
     ところで江戸時代の人々は、年中行事や季節感というものをとても大事にしながら暮らしていた。その文化や感性を反映した美術品は非常に多いが、中でもこの作品のように、江戸の四季の風俗や行事の絵を描く場合、江戸名所と重ね合わせたものが目立つ点は興味深い。
     これは、江戸の名所とされる場所の多くが、季節感をともなって認識されていたことの現れと考えられる。逆に言えば江戸の名所絵は、それぞれが人々に最も親しまれる季節や月が描かれることになる。季節の風物や年中行事と名所の一体化が、江戸を描く絵画の特徴のひとつといえよう。
     この作品も、題名に「東都名所年中行事」とあるように、江戸の名所を舞台としながら、各月の年中行事を画題としたシリーズの中の1枚だ。極めて江戸的な作例であることがよくわかる。

  • 明治政府軍調練の図
    明治政府軍調練の図(めいじせいふぐん ちょうれん の ず)

    歌川芳虎/画
    明治初期

     これは、木版印刷で出版された錦絵で、明治新政府軍の調練、すなわち軍事訓練の様子を描いたものである。実は、近代軍隊にランドセルの起源があるのであるが、全くかけ離れているかのような二つの事柄に、いったいどのようなつながりがあるのか。
     キーワードその一は、「学習院」。巌谷小波(いわや さざなみ)の小説「当世少年気質」には、学習院に「革袋(ランドセル)」で通う少年が登場する。通学かばんとしてのランドセルを指定したのは、学習院が日本で最初であり、1885年(明治18)に同校の生徒休憩所に出された掲示には、「歩兵用ラントセル」と記されていた。どうやらランドセルは、もともと歩兵用であったようだ。
     キーワードその二は、「洋式軍隊」。ペリー来航をきっかけに、幕府諸藩は西洋式の軍隊制度を導入し、兵制改革に乗り出した。その際取り入れられた背のうの呼び名として、オランダ語の「ランセル」から変化した「ラントスル」「ランドセール」が使われるようになった。
     絵の中で、銃を担い隊列を組む兵士が背負っているものこそ、ランドセルのもともとの姿なのである。軍用品のランドセルは、文部大臣森有礼(もり ありのり)が推進した兵式体操を契機として、やがて学校教育の場へ持ち込まれて行くことになる。
     戦地に赴く兵士の背にあったランドセル。めぐりめぐって、今は児童たちの背にある。

  • 上野乃満花 不忍競馬之図
    上野乃満花 不忍競馬之図(うえののまんか しのばず けいばのず)

    小林幾英/画
    1889年(明治22)

     日本では、古くから神事や宮中の儀礼として競馬(くらべうま)が行われてきた。近代的な競馬は、1862年(文久2)に、横浜で外国人により行われたのが始まりと言われ、1866年(慶応2)には根岸に洋式競馬場も造られた。
     これは、1889年(明治22)に上野不忍池で行われた競馬の様子を描いたものである。1879年(明治12)に設立された共同競馬会社により、1884年(明治17)秋から8年間、不忍池で春と秋に競馬が開催された。
     レースは、天皇や政府の要人なども観覧した。外国人が集う競馬場は、不平等条約の改正に懸命な明治政府の社交の場でもあったためである。
     不忍池競馬場のコースは一周約160メートル、幅は約22メートルあった。正面奥の建物は今で言うスタンドで総ヒノキ造り。
     1884年(明治17)11月1日から3日まで行われた競馬の「大競馬番組一覧」を見てみると、レースには3日間で72頭の馬が参加し、それぞれの馬名と毛色、騎手の服装などが紹介されている。いかにも明治らしい「電気」という名前の馬は、青の毛色を持ち、騎手の勝負服の色は黒に黄色のたすきで出走した。1日8レースが行われ、それぞれに入場料が必要だった。
     競馬というと馬券を思い出してしまうが、不忍池競馬では、馬券の販売は許されなかった。馬券がなくとも、描かれている観客はとても楽しそうである。きっと口々に「電気負けるな」などと声援をおくっていたことだろう。

  • 小学校大運動会雙録
    小学校大運動会雙録(しょうがっこう だいうんどうかい すごろく)

    1903年(明治36)

     いつごろから私たちは運動に親しんできたのだろうか。明治期の小学校での運動会をのぞいてみよう。
     これは、1903年(明治36)に発行された、小学校の運動会の競技種目を並べたすごろくである。ブランコ、体操、自転車競争、スプーン競争、せんべい割り競争など、多種多様なことに驚かされる。現在の運動会では、耳慣れない種目も多い。旗拾いという種目は、自分のスタート地点に立つ旗と同色のものを、前方にいくつも立っている旗から選び、拾ってくる速さを競う。ほかには調練という軍隊の行進訓練のようなものまである。
     そもそも、運動、体操は明治期の新しい教育によって生まれた教科である。江戸時代の寺子屋には、運動を通して体をつくる、という発想はなかった。明治初期に一般的でなかった体操は、明治期の中ごろ、富国強兵の影響から、隊列の練習などを行う兵式体操が、普通体操と併用されるようになり、多くの学校で行われるようになった。主に低学年は遊戯、中・高学年は体操、男子は兵式体操を行った。やがてそれは、運動会として行事化され、年々盛大になっていった。
     小学校の現状などが書かれた、1904年(明治37)発行の「小学校事彙」(しょうがっこうじい)によれば、運動会はいかなる学校でも行われる事業の一つとなったという。実例として挙げられた東京高等師範学校の付属小学校の運動会は、午前8時に開会し、なんと、53種目もの競技が行われている。大イベントへの気合が伝わってきそうである。

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