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  • 千代田の大奥 滝見のお茶や
    橋本周延/画
    1894年〜1896年(明治27〜29)

     江戸城の中の生活というと、とりわけ大奥に関心が集まるのは今も昔も変わらない。そのような欲求を満たしてくれる錦絵が、この「千代田の大奥」という40点の揃い物だ。多くは季節感溢れる年中行事、日常生活のひとこまなどが主題となっており、着物の描写がとても丁寧で美しい。
     ここで紹介する1点「瀧見のお茶や」は、紅葉を愛でる女性たちの様子を描いている。興味深いのは、この紅葉狩りの舞台が江戸城内に実在した瀧見御茶屋に特定されていることだ。大きな池の向こうには瀧があり、左手には御茶屋の一部がのぞく。単なる美人画とはひと味違って、江戸城内を実感できる。
     絵師の揚州周延(ようしゅうちかのぶ)(1838―1912)は、この揃い物に引き続き「千代田之御表」を描いている。こちらは江戸城内外の、将軍を中心とする男性社会の様子を描いた錦絵だ。
     しかし江戸時代に、江戸城内を画く錦絵の発行は許されておらず、実際に描かれたのは「千代田の大奥」が明治28〜29年、「千代田之御表」は明治30年となる。周延は文明開化を主題とする錦絵も得意とした絵師で、もと幕府の御家人であったという。江戸時代も遠くなったこの時期、自らの見聞に想像等も交えながら、かつての江戸城での暮らし振りを美しい思い出として描いたものであろう。

  • 遊里風俗図帖(部分)
    遊里風俗図帖(ゆうりふうぞくずちょう)

    江戸時代前期〜中期

     吉原遊郭のさまざまな情景を色紙に描き、画帖に仕立てたもの。鹿の子絞(かのこしぼり)を用い、大柄な模様を配した衣装が見られることや髪形などから、江戸前期から中期の吉原を描いたと推察される。筆者は不詳であるが、菱川派の画風ではないものの、人物の姿態、画面構成などに初期浮世絵の菱川師宣の作品との共通点が認められ、専門の絵師による作と考えられる。
     遊女の品定めをする客たち、座敷遊び、台所での仕事の様子を描くなど、遊里文化の様相を示す資料である。

  • 遊里風俗図帖(部分)
    遊里風俗図帖(ゆうりふうぞくずちょう)

    江戸時代前期〜中期

     吉原遊郭のさまざまな情景を色紙に描き、画帖に仕立てたもの。鹿の子絞(かのこしぼり)を用い、大柄な模様を配した衣装が見られることや髪形などから、江戸前期から中期の吉原を描いたと推察される。筆者は不詳であるが、菱川派の画風ではないものの、人物の姿態、画面構成などに初期浮世絵の菱川師宣の作品との共通点が認められ、専門の絵師による作と考えられる。
     遊女の品定めをする客たち、座敷遊び、台所での仕事の様子を描くなど、遊里文化の様相を示す資料である。

  • 遊里風俗図帖(部分)
    遊里風俗図帖(ゆうりふうぞくずちょう)

    江戸時代前期〜中期

     吉原遊郭のさまざまな情景を色紙に描き、画帖に仕立てたもの。鹿の子絞(かのこしぼり)を用い、大柄な模様を配した衣装が見られることや髪形などから、江戸前期から中期の吉原を描いたと推察される。筆者は不詳であるが、菱川派の画風ではないものの、人物の姿態、画面構成などに初期浮世絵の菱川師宣の作品との共通点が認められ、専門の絵師による作と考えられる。
     遊女の品定めをする客たち、座敷遊び、台所での仕事の様子を描くなど、遊里文化の様相を示す資料である。

  • 村梨子地牡丹唐草葵紋散蒔絵見台
    村梨子地牡丹唐草葵紋散蒔絵見台(むらなしじぼたんからくさあおいもんちらしまきえけんだい)

     村梨子地に牡丹唐草文様の蒔絵を配し、葵紋が散らされた、とても華やかな見台(けんだい)。見台とは、書物を開いて読むための台のことで、書物を納める引き出しを設けている。
     この見台は、婚礼調度のうちの一品と考えられるが、江戸時代、武家の婚礼は家同士の結びつきであり、政治的な意味合いが強くあった。そして、家格にふさわしい婚礼調度の品々が揃えられた。
     所用者については、現在のところ未詳だが、関連資料が確認されることによって、将来明らかになる日がくるかもしれない。

  • 白麻地御殿模様茶屋染帷子
    白麻地御殿模様茶屋染帷子(しろあさぢごてんもようちゃやぞめかたびら)

    18世紀後半〜19世紀前半

     麻は、そのさらりとした肌触りから、夏の衣服の素材として好まれた。この麻を用いた単衣(ひとえ)「帷子(かたびら)」という。
     この帷子は、麻地に藍の濃淡を染め分け、細かい模様を表す「茶屋染(ちゃやぞめ)」の技法を用いている。御殿と流水に、多様な植物が配された庭園の風景模様が前面に施されている。黄色を押した雲取りの中には小さな梅花が散らされている。
     上層の武家女性の夏の正装として着用されたが、帷子など夏の衣服は汚れやすいため良品が残らず、したがって、茶屋染帷子の完品は数が少なく、貴重なものと言える。


  • 本小札紅糸威胴丸具足
    本小札紅糸威胴丸具足(ほんこざねべにいとおどしどうまるぐそく)

    江戸時代後期

     秋田藩第10代藩主、佐竹義厚(さたけ・よしひろ)所用の具足(ぐそく)。同家の具足台帳である『御甲冑(おんかっちゅう)』(秋田県公文書館蔵)にその記述がみられる。
     製作は、江戸後期と思われるが、形状はどこか古式を感じさせる。それは、この具足が
    室町末期〜江戸初期に作成された部品をもとに作られているためで、ある意味、佐竹家の長い歴史を体現した具足ということできる。
     紅で染められた糸の色が鮮やかに残り、入念に施された金具の細工や鍍金(ときん)の技術も素晴らしく、大名家にふさわしい風格と迫力をそなえている。

  • 勝海舟江戸開城図
    川村清雄/画
    明治時代中期

     画面中央に勝海舟の立像が油絵で大きく描かれ、その背後では江戸城の石垣から兵士たちが現れ、刀を抜いて今にも斬(き)りかかろうとしている。海舟の足元に落ちている三葉葵(みつばあおい)の軒丸瓦(のきまるがわら)は、徳川の世の終焉を象徴する。
     背景にみなぎる緊張感と、その中で毅然(きぜん)と立つ海舟の姿に、激動の時代を生き抜いた海舟の生きざまが表現されている。この海舟像は、明治維新期に海舟と親交のあったイギリス領事館員、アーネスト・サトウが撮影した肖像写真をもとに描かれたものだ。
     海舟は、生涯に何度も生命の危険に遭遇したという。江戸開城の時は、戦わずして将軍と城を明け渡したことに不満を持つ幕臣たちから憎まれ、妻子までもが反対し、常に死と隣り合わせの日々だったと、後年、海舟自身が語っている。彼は剣の達人だったが、ついに一度も人を斬ることはなかった。
     作者の川村清雄(かわむら・きよお)は幕府御用絵師の子で、ベネチア美術学校で洋画を学んで帰国したが、幕府はすでになく、画技をふるう場も失われた。そこに救いの手を差し伸べたのが海舟だった。
     維新後の海舟は、幕府の瓦解(がかい)で仕事と禄(ろく)を失った旧幕府のためさまざまな支援を行ったが、それが彼の「戦後処理」であり、責任の取り方だった。清雄も海舟の周旋で、歴代将軍像などの制作を手がけることになった。
     この海舟像には、清雄が海舟から受けた恩義への感謝の気持ちが表れている。海舟もこの作品を愛し、赤坂氷川の自邸に飾った。洋画家である清雄の代表作の一つになっている。

  • 俳優出世富士登山寿語六
    歌川国貞(3代)/画
    1887年(明治20)

     1887年11月9日の読売新聞にこんな記事が載った。
     〈浅草公園の木造富士山。豫(かねて)て諸新聞にもしばしば記載し、頗(すこぶ)る世評喧(かまびす)しき浅草公園の富士山ハいよいよ工事落成して、一昨々日山開をしたる趣を聞き、一昨日早速出張し登山を試みたるに、聞しに勝る広大の築造にして(中略)其絶景云ん方なし〉
     記事中の「浅草公園の木造富士山」とは、「富士山縦覧所」のことで、浅草公園六区に造られた木造モルタル、つまり張りぼての富士であった。18間(36メートル)の高さからの眺望は、当時としては大変珍しく、たちまち浅草の新名所となり、多くの人が「登山」に訪れた。
     この双六(すごろく)は、その富士山縦覧所の頂上を目指して、当代の人気歌舞伎役者が登る様を描いている。「俳優出世」と表題にあるとおり、団十郎、菊五郎、左団次など、人気のある役者ほど頂上近くに描かれており、役者番付も兼ねるという趣向を凝らした双六だ。
     江戸時代には固く禁じられていた三階以上の建物の建築が庶民にも許された明治、建物の「高さ」は、それだけでも開化の世を感じさせるものだった。
     〈世の中ハ開化にしたがってこうゆふ高い山ができる。人もべんきゃうしだいでいくらも高くのぼれる(画中詞書)〉
     広がる帝都を見おろす人々の目に、はるか未来の夢はどのように映ったのだろうか。

  • 風船乗評判高楼
    歌川国貞(3代)/画
    1891年(明治24)

     1890年(明治23)10月、浅草公園に、十二階建て、高さ約60メートルの凌雲閣(りょううんかく)がそびえたった。目を見張るほどの超高層建築として話題を集め、展望できる浅草の名所として人気を集めた。
     同年11月24日、来日中の英国人スペンサーが風船(軽気球)に乗り興行を行った。5回ほど読売新聞にうった広告の効果もあり、もの珍しさも手伝って、会場の上野公園は混雑。上野博物館前から風船で空高く飛び立ったスペンサーは、風船から傘(パラシュート)に移り、根岸近辺に着地、人力車で元の場所に戻って演説、大成功をおさめた。この興行を見物する人の中に、歌舞伎の名優・五代目尾上菊五郎の姿があった。
     菊五郎は、名高い狂言作者の河竹黙阿弥(かわたけ・もくあみ)に、評判の風船乗りと凌雲閣とを結びつけた舞踊劇を書くように依頼して、出来上がったのが一幕二場の「風船乗評判高棲」で、本資料はこの舞台を描いた錦絵である。
     第一場が上野博物館前。菊五郎はスペンサー役で、宙乗りや遠見の子役を用い、風船乗りの興行の一部始終を舞台芸に仕立ててみせた上、スペンサーのした通りに演説も英語で行い、観客を驚かせた。
     第二場は浅草公園奥山。菊五郎ふんする噺家(はなしか)三遊亭円朝が、二の酉がたつ浅草で、凌雲閣から風船乗りを見ていた人々と行き会う設定で、登場人物が順に踊りを披露する。話題の事象をいち早く取り入れたこの演目は評判を呼び、大入りになった。

  • 関東大震災で倒壊した凌雲閣
    柳瀬慶次郎/撮影
    1923年(大正12)

     76年前の9月1日午前11時58分マグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲った。東京では、直後に発生した火災によって、被害は未曾有(みぞう)のものとなった。
     この写真は、「十二階」の俗称で親しまれた浅草の凌雲閣が、震災により上部が倒壊した姿と、付近の荒涼たる焼け跡を撮影したもの。当時、三田で写真館を経営していた成瀬慶次郎氏は、この塔の最期を克明に写し取っている。
     凌雲閣はイギリス人技師バルトンによって設計され、1890年(明治23)に落成した。高さが約60メートル、日本初のエレベーターを持ち、遊覧施設として長らく浅草のランドマーク的存在だった。しかし、大震災で八階からぽっきり折れて炎上した。楼上にいた客数10人が犠牲になったほか、崩落した瓦礫(がれき)で付近の家屋は押しつぶされたという。
     9月23日、凌雲閣の残骸(ざんがい)は工兵隊によって爆破、解体された。その場に居合わせた川端康成は、「浅草紅団」において、主人公・弓子の口を借り、次のように描写している。
     「火薬の爆音で、煉瓦(れんが)の瀧の崩れるのがちらりと見えて(中略)一側だけが細い剣みたいに残ったと思うと、第二の爆音で剣も折れちゃった」
     庶民のシンボルが、2度の爆破で瓦礫の山と化した姿は、震災が外的被害だけでなく、人々の心にも大きな傷を残したことを表している。弓子もまた、ありし日を懐かしみ、こうつぶやく。
     「でも、十二階のあった時分の私ってものは、どこの世界へ、どう消えちゃったのよ?」

  • 「ナップ」創刊号
    全日本無産者芸術団体協議会機関誌
    1930年(昭和5)

     本という「物」が、書かれている内容以外のところで歴史を語っている。博物館に勤めて本を見ていると、このように思えてくるときがある。
     たとえば、「ナップ」創刊号。近代日本のプロレタリア文学の代表的雑誌で、文学のみならず、美術、映画、演劇など、多くのジャンルのプロレタリア芸術理論を展開し、宣伝を行ったものであることは、書かれている内容からも読み取れるが、ただ、それだけではない。表紙のデザインは、当時、日本の多くのグラフィックデザインに見られた、抽象的で幾何学的な構成主義のもので、かつての最先端の美の形をそこに見ることができる。
     また、本文中に「××的プロレタリアート」などのように、多くの伏せ字(××)が見られるが、これは戦前、発禁処分を免れるため、編集者が自ら使用したもので、これらの痛々しい伏せ字は、当時の政治状況を無言のうちに語っている(ここでは、「革命」という言葉が伏せられたのであろうか)。
     しかし、本資料のきわめつきは、表紙右上に張られた「領置番号(りょうち・ばんごう)」と印刷された紙。「領置」とは、被疑者が遺留、提出したものを、捜査機関が取り上げ、保管する処分のことで、本資料は実際に領置されたものと思われる。
     この「ナップ」創刊号は、どのような昭和を見てきたのであろう。本を、装丁や造本の面からも「物」として見、そこに、美や歴史を読み取ること。そうすることにより、内容とは別に本の価値を見いだすこと。それもまた、博物館での本への対し方ではなかろうか。

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