注目のコレクション

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  • 髪梳ける女  
    橋口五葉/画
    1920年(大正9)3月

     橋口五葉(はしぐちごよう)の傑作として名高い木版画である。
     櫛で豊かな髪を梳(す)くのは、小平とみといい、別の作品でもモデルとなった五葉の知り合いの女性である。彼女の心情はうかがい知れないが、その凛々しさがうるわしく表現されている。
    橋口五葉は、1881年(明治14)に鹿児島市に生まれ、本名は清といい、上京後、東京美術学校(現、東京芸大)で洋画を学んだ。彼の長兄が、夏目漱石の熊本赴任時の教え子だった縁で、漱石の数々の名著の装丁画を担当し、その名が世間に知られるようになった。そして漱石と並び、五葉の芸術活動を支えたのが、日本郵船の重役の三原繁吉であった。次兄がその社員だったため知己を得て、同社の広告デザインを手がけ、三原個人の浮世絵収集を手伝った。それをきっかけに、彼は浮世絵に魅了されていった。
     その五葉に対し、大正新版画を推し進めていた渡辺庄三郎が、浮世絵の技法を使用して新しい木版画の制作に着手しないかと声をかけたのだった。1915年4月に承諾、半年以上かけて下絵を作り、第一作「浴場の女」は翌年2月にようやく完成した。
     けれども五葉は、渾身の一作に、納得できなかった。そこで、小平とみらをモデルに素描を千枚以上も重ね、鍛錬を積んだ。そして、制作の全てを監督し、彫師、摺師らに熱意や仕上がりのイメージを伝えた。そうして完成させたのが本作である。髪の毛の質感や、着物の風合いの描写に、五葉の理想美への追求の熱意がうかがえる。構図は、浮世絵の大首絵を参考にした。五葉は、三原や渡辺のもとで浮世絵の名品を多く見て、その良さを自分の版画にとり入れようとした。ところが残念なことに、その努力がやっと結実した本作の翌年、脳膜炎を患い、わずか40歳の若さで急逝したのだった。それでも木版画の復興を果たし、伊東深水や川瀬巴水ら次代に続く新版画の時代の扉を開いたという点で、五葉の功績は大きかったと評価すべきであろう。

  • 洗い張り
    歌川豊国(初代)/画 蔦屋重三郎/版
    寛政年間(1789〜1800)

     夏休みも終わりに近づき、行楽で着用した浴衣をクリーニングに出す家庭も多いことだろう。江戸時代の洗濯はどのように行われていたのだろうか。
     家庭では、炊事とともに日常の洗濯と繕(つくろ)い仕事が最も大切なものと考えられていた。衣類の汚れを取り去るのに、川の流れや湧き水を利用しての洗濯は、絵画では古く平安時代の絵巻物にもみえ、また井戸端での洗濯の様子も多く描かれている。
    洗い方は、踏み洗い・手揉み洗いのいずれかであったが、わが国では古来から手揉み洗いが多く、それが洗濯盥(せんたくだらい)という道具を生み出した。洗剤には、灰汁(あく)・米のとぎ汁・小豆の粉・ムクロジの果皮(かひ)などが使われた。
     和服の洗濯方法で、丸洗いでなく解き洗いとして仕上げることを「洗い張り」という。仕立てのときと反対の順序で縫い目を解き、糸くずやごみをよく払う。洗った後は、のりをつけて板張りや伸子張(しんしば)りなどを行って乾燥させる。ふつう木綿などは板張りにし、絹物などは袖・身頃・衽(おくみ)・衿を反物幅に縫い合わせて一幅物とし、伸子を使って干す。
     図版のうち、右図が丸洗いの干し方。中図は伸子張りの様子を描いたもの。伸子は竹を細長く割って丸く削り、両端を針状にしたり、針を付けたりしたもので、布地を張り伸ばすために用いる。伸子筒に納めて婚礼道具にもした。左図は洗い髪の女性が金盥(かなだらい)に入れた裂(きれ)を戸板に張っているところ。板張り仕上げは、伸子張りよりも簡単なので次第に広く行われるようになった。
     江戸時代の人々の目には、現代で使われている洗濯乾燥機がどのように映ることだろう。

  • 東京両国橋 川開大花火之図 
    永島春暁/画 
    長谷川常治郎/版
    1890年(明治23年)5月

     隅田川に架かる両国橋と花火を描いた錦絵である。明暦の大火(1657年)後に架けられた両国橋は、江戸の頃より花火の季節にとくに賑わいを見せ、花火とともに繰り返し描かれてきた。基本的な構図やモチーフは、江戸時代の作品とほとんど変わらない。しかし、本図が大きく違うのは、明治の新しい風俗がふんだんに描きこまれている点だ。 
     中央に木造両国橋、橋上に鉄道馬車、岸辺に人力車や洋装の男女、「牛肉」の旗やレンガ造りの電信局などが描かれる。画面右手には、今日でもよく見かける「氷」ののぼりがはためく。実はこの「氷」も、新時代を代表する風俗のひとつであった。
     天然の氷を氷室(ひむろ)で貯蔵し、盛夏に取り出していた江戸時代、夏の氷は超高級品であり、庶民が口にできるものではなかった。今のような「かき氷」屋の先駆けは、明治2年頃に横浜馬車道で開店した「氷水屋」といわれている。このときの氷は、アメリカはボストンから、大西洋を越え、喜望峰を回り、はるばる運ばれてきたため、まだ高級品であることに変わりはなかった。しかしその後、中川嘉兵衛(なかがわかへえ)の努力よって国内産の天然氷が流通するようになる。そして機械による製氷技術が導入されると、安価になった氷は、急速に庶民に親しまれていく。この錦絵が刷られた明治20年代には、削った氷に砂糖をかけたかき氷のほか、氷いちごや氷レモン、氷ラムネといった多様なラインナップが展開されていた。
     やがて夏の風物詩となるかき氷。当時の庶民にとっては、身近な文明開化の象徴でもあったのだろう。

  • 江戸両国橋夕涼大花火之図
    歌川国虎/画 
    山本久兵衛/版
    1829〜1842年(文化12〜天保13)

     しだいに近づく夏の楽しみに、花火大会をあげられる方も多いだろう。江戸っ子にとっても夏といえば隅田川の打ち上げ花火で、暑さを吹きはらう爽快な催事であった。
    本図は、夏の両国橋のにぎわいの様子を見事に描き出した3枚続きの錦絵である。橋の上には花火見物の人びとが、川には提灯を下げた屋形船をはじめとして大小の船が繰り出している。西橋詰にあたる画面手前には水茶屋が立ち並び、そこから花火が見えるよう簾(すだれ)が上げられている。通りにはすいか売り、飴売り、水売りなどの夏ならではの屋台が並び、客の気を引いているようだ。「大坂下り」というのぼりも見え、手前右の小屋で上方の芸人による見世物が催されていた。群衆には、親に連れられた子どもやご隠居、武士や奥方、町娘、役者と思われる姿も見られ、それぞれ夕涼みを楽しむ様子が見られる。盛り場として江戸随一のにぎわいを見せた両国の夏の光景がうかがえ、眺めるだけで本当に楽しい浮世絵である。作者は歌川国虎で、歌川豊国門下の浮世絵師として洋風の風景画を描いて活躍した。
     旧暦の5月28日は隅田川の川開きとされ、この日より3ヶ月間、川辺の茶屋や料理屋の夜間営業と、納涼船の往来が許可された。川開きの花火は1733年(享保18)から始まり、その前年の飢饉やコレラの犠牲者を弔うために打ち上げられたという。江戸時代後期にいたると、花火は数十種類にもなり、最も華やかな時期をむかえた。本図はそのころの情景を描いた作品で、いくつもの花火が空に上がっている。とはいえ実際には高さも輝きもこれほどではなく、誇張がされている。
     また、橋の上の見物客には、頭上の花火ではなく、川面の屋形船を眺める者もいる。豪華な船に心を奪われるとともに、お大尽遊びをうらやむ気持ちもあったことだろう。贅沢な舟遊びは、庶民にとってはため息が出るほど高嶺の花だった。

  • 昆虫蒔絵螺鈿印篭(バッタ) 足軽木彫根付
    江戸時代後期

     虫をデザインに取り入れた印籠(いんろう)。印籠はもともと薬を入れるための容器だが、腰からぶら下げるぜいたくな飾りものとして江戸初期に武士の間に普及し、江戸後期には富裕な町人の間にも広まった。片面にバッタ、もう片面にはトンボが蒔絵(まきえ)と螺鈿(らでん)の技法を用いて描かれている。螺鈿とは、貝の真珠層を極薄く切り抜き、漆で貼り付けて模様をつくる技法。バッタの羽と、トンボがとまった植物の葉が涼やかに光る貝で表現されている。
     虫をモチーフにした工芸品は、日本で古くからつくられてきた。とくにチョウは幼虫からさなぎ、そして成虫へと変態する事から、永遠の生命の象徴として工芸品や絵画のモチーフとして扱われてきた。また、スズムシやマツムシといった音を楽しむ虫、闇夜を照らすホタルなど、生活に楽しみを与えてくれる虫たちもモチーフになりやすかった。
     しかし、ヨーロッパで虫を題材にした工芸品の数が増えてくるのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてからの事。本資料のような、バッタやセミといった比較的地味な存在の虫までもデザインに取り入れた日本の工芸品がヨーロッパに輸入され、その影響がジャポニズムとなってあらわれたのだった。
     日本人が虫をデザインに取り入れたのは、形の美しさを発見しただけでなく、その虫の特性を知り、その力にあやかろうという気持ちがあったからだともいえる。例えば、トンボは決して後ろには退かないと思われていた事から、「勝虫(かちむし)」とされて武将に好まれ、甲冑や刀鍔などの武具の意匠に取り入れられた。1864年(貞享元年)に刊行された『武具訓蒙図彙(ぶぐきんもうずい)』には、トンボの他、カマキリやセミを兜や前立てなどの意匠に用いた武具が紹介されている。

  • 昆虫蒔絵螺鈿印篭(トンボ) 足軽木彫根付
    江戸時代後期

     虫をデザインに取り入れた印籠(いんろう)。印籠はもともと薬を入れるための容器だが、腰からぶら下げるぜいたくな飾りものとして江戸初期に武士の間に普及し、江戸後期には富裕な町人の間にも広まった。片面にバッタ、もう片面にはトンボが蒔絵(まきえ)と螺鈿(らでん)の技法を用いて描かれている。螺鈿とは、貝の真珠層を極薄く切り抜き、漆で貼り付けて模様をつくる技法。バッタの羽と、トンボがとまった植物の葉が涼やかに光る貝で表現されている。
     虫をモチーフにした工芸品は、日本で古くからつくられてきた。とくにチョウは幼虫からさなぎ、そして成虫へと変態する事から、永遠の生命の象徴として工芸品や絵画のモチーフとして扱われてきた。また、スズムシやマツムシといった音を楽しむ虫、闇夜を照らすホタルなど、生活に楽しみを与えてくれる虫たちもモチーフになりやすかった。
     しかし、ヨーロッパで虫を題材にした工芸品の数が増えてくるのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてからの事。本資料のような、バッタやセミといった比較的地味な存在の虫までもデザインに取り入れた日本の工芸品がヨーロッパに輸入され、その影響がジャポニズムとなってあらわれたのだった。
     日本人が虫をデザインに取り入れたのは、形の美しさを発見しただけでなく、その虫の特性を知り、その力にあやかろうという気持ちがあったからだともいえる。例えば、トンボは決して後ろには退かないと思われていた事から、「勝虫(かちむし)」とされて武将に好まれ、甲冑や刀鍔などの武具の意匠に取り入れられた。1864年(貞享元年)に刊行された『武具訓蒙図彙(ぶぐきんもうずい)』には、トンボの他、カマキリやセミを兜や前立てなどの意匠に用いた武具が紹介されている。

  • 和宮江戸下向絵巻(部分)
    関行篤/詞書 
    1863年(文久2)

     孝明天皇の勧めを固辞し続けた和宮(かずのみや)が降嫁(こうか・皇族の女性が非皇族に嫁ぐこと)を承知し、十四代将軍家茂との婚儀に至るまでを、下向(げこう・都から地方へ行くこと)道中の要所を随所に盛り込みながら、詞書(ことばがき)と彩色絵でまとめた絵巻。
     和宮一行の先駆を務めた京都町奉行関行篤(せき ゆきあつ)が、この栄誉を子孫に伝えるため自ら詞書を誌し、絵を描かせたと考えられる。
     1861年(文久元)4月24日の石清水八幡宮参詣に始まり、下向道中の美濃呂久川(揖斐川)(みのろくがわ・いびがわ)などを盛り込み、同年12月11日の江戸城入城までを描いている。
     和宮下向を描いた図は、行列に供奉(ぐぶ・行列に加わること)する公家、武家を描いた墨摺や木版が多く、この作品のように東下(とうか・京都から東国へ行くこと)の流れをつかみ、全体を通して彩色描写した作は少ない。

  • 和宮江戸下向絵巻(部分)
    関行篤/詞書 
    1863年(文久2)

     孝明天皇の勧めを固辞し続けた和宮(かずのみや)が降嫁(こうか・皇族の女性が非皇族に嫁ぐこと)を承知し、十四代将軍家茂との婚儀に至るまでを、下向(げこう・都から地方へ行くこと)道中の要所を随所に盛り込みながら、詞書(ことばがき)と彩色絵でまとめた絵巻。
     和宮一行の先駆を務めた京都町奉行関行篤(せき ゆきあつ)が、この栄誉を子孫に伝えるため自ら詞書を誌し、絵を描かせたと考えられる。
     1861年(文久元)4月24日の石清水八幡宮参詣に始まり、下向道中の美濃呂久川(揖斐川)(みのろくがわ・いびがわ)などを盛り込み、同年12月11日の江戸城入城までを描いている。
     和宮下向を描いた図は、行列に供奉(ぐぶ・行列に加わること)する公家、武家を描いた墨摺や木版が多く、この作品のように東下(とうか・京都から東国へ行くこと)の流れをつかみ、全体を通して彩色描写した作は少ない。

  • 和宮江戸下向絵巻(部分)
    関行篤/詞書 
    1863年(文久2)

     孝明天皇の勧めを固辞し続けた和宮(かずのみや)が降嫁(こうか・皇族の女性が非皇族に嫁ぐこと)を承知し、十四代将軍家茂との婚儀に至るまでを、下向(げこう・都から地方へ行くこと)道中の要所を随所に盛り込みながら、詞書(ことばがき)と彩色絵でまとめた絵巻。
     和宮一行の先駆を務めた京都町奉行関行篤(せき ゆきあつ)が、この栄誉を子孫に伝えるため自ら詞書を誌し、絵を描かせたと考えられる。
     1861年(文久元)4月24日の石清水八幡宮参詣に始まり、下向道中の美濃呂久川(揖斐川)(みのろくがわ・いびがわ)などを盛り込み、同年12月11日の江戸城入城までを描いている。
     和宮下向を描いた図は、行列に供奉(ぐぶ・行列に加わること)する公家、武家を描いた墨摺や木版が多く、この作品のように東下(とうか・京都から東国へ行くこと)の流れをつかみ、全体を通して彩色描写した作は少ない。

  • 金海寄観(部分)
    西坂衷(天錫)/写 大槻磐渓/識(跋) 
    1857年(安政4)

     1854年(嘉永7)米国東インド艦隊ペリー第2回来航時の動静を、仙台藩儒者大槻磐渓(おおつき ばんけい)が藩命により探索し、その結果を描いた「金海奇観」(きんかいきかん)を、1857年(安政4)加賀藩侍講(じこう)の西坂衷(にしさか ちゅう)が抜粋模写した絵巻。横浜沖のペリー艦隊、横浜上陸図、応接所平面図、将官、士官図、将軍への献上品図など来航図の基本図柄が収められており、開国開港史をよく示す資料である。

  • 金海寄観(部分)
    西坂衷(天錫)/写 大槻磐渓/識(跋) 
    1857年(安政4)

     1854年(嘉永7)米国東インド艦隊ペリー第2回来航時の動静を、仙台藩儒者大槻磐渓(おおつき ばんけい)が藩命により探索し、その結果を描いた「金海奇観」(きんかいきかん)を、1857年(安政4)加賀藩侍講(じこう)の西坂衷(にしさか ちゅう)が抜粋模写した絵巻。横浜沖のペリー艦隊、横浜上陸図、応接所平面図、将官、士官図、将軍への献上品図など来航図の基本図柄が収められており、開国開港史をよく示す資料である。

  • 金海寄観(部分)
    西坂衷(天錫)/写 大槻磐渓/識(跋) 
    1857年(安政4)

     1854年(嘉永7)米国東インド艦隊ペリー第2回来航時の動静を、仙台藩儒者大槻磐渓(おおつき ばんけい)が藩命により探索し、その結果を描いた「金海奇観」(きんかいきかん)を、1857年(安政4)加賀藩侍講(じこう)の西坂衷(にしさか ちゅう)が抜粋模写した絵巻。横浜沖のペリー艦隊、横浜上陸図、応接所平面図、将官、士官図、将軍への献上品図など来航図の基本図柄が収められており、開国開港史をよく示す資料である。

  • 今戸土人形
    大正〜昭和初期

     今戸土人形は、台東区今戸の地で江戸時代に興された焼物、今戸焼き(いまどやき)の一種。今戸焼きは、主に瓦やほうろく(素焼きの土なべ)、植木鉢などを取り扱っており、人形は小規模の窯で焼かれ、浅草などで売られていた。
    今戸土人形は、基本的に型作り(人形の型に粘土を入れて型抜きし、乾燥後に焼成、彩色)で、人形の背面は色を塗らず、白く塗り残しているのも特徴。これらの今戸土人形は、1945年(昭和20)までに製作されたもの。

  • アイスクリーム製造器
    明治末〜大正

     明治時代に入り日本でも製造されるようになったアイスクリーム。当初は大変な贅沢品だったが、製造機の普及により販売店も増え、明治末ごろには庶民も口にできるようになった。このアイスクリーム製造器は、明治末から大正期に行商や縁日の露店で使用されていたと思われるもので、二層構造になっており、外側の桶に入れた氷で内側に入れた牛乳、卵、砂糖などの材料を回しながら冷やし、アイスクリームを作る仕組みになっている。当時はそれを1杯1銭から2銭ほどで販売していた。

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