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  • 玉川堤の花
    歌川広重/画
    1856年(安政3)2月 

     この時期、桜に係わる話題で持ち切りである。江戸時代にも花見は盛んであり、上野や飛鳥山、隅田川堤などが桜の名所として知られた。ところで、幕末の新宿にたったひと月で消えた幻の桜の名所があった。
     この顛末は幕末の江戸の風説を詳しく記録した藤岡屋由蔵の『藤岡屋日記』に記述されている。それによると1856年(安政3)2月13日(今の3月下旬)、甲州街道第一宿の内藤新宿の旅籠屋らが、玉川上水の土手に75本の桜の大木を植樹した。これは盛り場や、花見の名所として集客を計るとともに、前年の安政江戸地震の被害から復興していない吉原に対し、新宿が歓楽街として名をなすにふさわしい時機だったからだ。旅籠屋らは、桜木の苗は水の毒を消す効果があるという説明で、勘定奉行に許可を得た。けれどもその本意は客を得ることで、申し出た苗ではなく立派な花咲く古木を植え、さらに「御用木折り取るべからず」という木札を立てて、桜を「御用木」と偽った。やがて御林奉行に知られ、とうとう3月に老中阿部伊勢守よりすべての撤去が命じられてしまった。木々の一部は最寄りの屋敷に引取られ、多くは薪にされたという。
     この歌川広重が描いた「玉川堤の花見」は、いきさつの桜と花見客を描いた三枚続きの、美人画と名所絵が見事に融合された浮世絵である。小雨が降るにも関わらず、水路の両側に老若男女、満開の花の下には芸妓らが集い、旅籠屋の二階から遊客が見物する姿までもが描かれている。突然に見事な桜並木があらわれ、評判となった新名所の状況がうかがえる。図には出版を認める同年2月の改印があり、ちょうど桜が満開の時に販売されたことを推測できる。
     広重は代表作「名所江戸百景」でも縦の構図で、シリーズの最初にこの場所を描いた。新名所をいの一番に取り上げた広重の意思が想像でき、また、植樹の計画に関わった新宿の関係者が事前に作画を依頼した可能性も考えられる。この図を出したのは四ツ谷濃州屋で、この場所より程近い甲州街道口の版元であった。いずれにせよ幻の名所の繁華を描いた貴重な図と言える。

  • 源氏車紋散糸巻太刀拵
    田中清寿/作 
    江戸時代末期

     刀剣を展示すると決まって出る質問がある。
    「こちらの刀は刃が上向なのですが、あちらは下を向いてます。どう違うのですか?」
     答えは簡単。上向きが打刀(うちがたな)で、下向きは太刀。太刀は平安時代中期から造られ、儀仗(ぎじょう)・軍陣に用い、刃を下向きにして紐や鎖などで腰に帯びる。打刀は狭義(きょうぎ)にいう刀のことで、室町時代中期以降に作刀(さくとう)が開始され、帯に差す。このような差がある。
     写真の拵(こしら)えは刃が下向き、つまり太刀である。柄(つか)には紐が巻き付けられており、糸巻太刀拵と呼ばれている。金具に「竜法眼寿(りゅうほうげんとし)(花押)」の銘が刻み込まれており、作者は田中清寿(たなかきよとし)(1804〜1867)であることが知られる。清寿は幕末の江戸金工界の巨匠で、現在の港区芝汐留あたりを根拠地とし活躍した。拵えには細かな細工が施されており、極めて質の高い作品となっている。清寿の作品としては鍔(つば)が知られているが、拵えは少なく、貴重である。
     江戸時代、大名は儀礼の際に、衣冠(いかん)に糸巻太刀拵えの太刀を帯びるのが決まりとなっていた。幕府内でも正月儀礼には必ず使用されている。拵えには黒漆や金具で随所に源氏車の家紋が散らされており、この紋から越後高田藩(えちごたかだはん)榊原家(さかきばらけ)に伝来したものと推定する。作者田中清寿の活動年代から考えて、使用者は榊原政愛(まさちか)もしくは次代の政敬(まさたか)であろう。
     とかく、殺伐としたイメージをもたらす刀剣であるが、刀剣には別の役割があった。武士の象徴として身分・格式を表現するもの、儀式などさまざま場面に贈答品としてのもの、といった平和的な機能も持ち合わせていた。平和的な武士にも、思いをめぐらせていただければと思う。

  • 関ヶ原合戦絵巻
    1844〜48年(弘化年間)/写

     関ヶ原合戦といえば、1600年(慶長18)9月に豊臣秀吉亡き後の天下の覇権をかけて、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が対決した合戦である。主戦場はもちろん美濃の関ヶ原であるが、関ヶ原以外でも各地で様々な戦闘が展開された。
     例えば、会津の上杉景勝(西軍)と山形の最上義光(東軍)が長谷堂城(現・山形市)で対戦し、豊後中津城の黒田如水(東軍)は大友吉統(宗麟の子・西軍)を豊後石垣原(現・別府市内)で破る等々、東北から九州まで高名な武将たちが関ヶ原以外でも華々しく戦った。そして徳川軍団もまた全国各地で奮戦した。
     写真は、この関ヶ原合戦を二巻の絵巻物としたものの一部分である。徳川家の天下を決定づけた出来事でもあり、この合戦を題材とした絵巻物や屏風が江戸時代に多数作成されている。しかし多くは、関ヶ原での本戦を中心に描かれていて、他の地域での戦闘を採りあげたものは少ない。
     そうした中、この「関ヶ原合戦絵巻」は徳川軍団が活躍した二つの地域での戦いを中心に構成されている点に特徴がある。上巻は、秀吉死後の五大老五奉行による評議の様子に始まり、徳川家の老将鳥居元忠(とりいもとただ)が奮闘戦死した関ヶ原の前哨戦・伏見城攻めに多くの画面を割き、福島正則ら東軍先鋒による岐阜城攻めとなっている。下巻は、木曽路を進軍する徳川秀忠と譜代諸将の姿に始まり、秀忠軍による上田城真田攻めに多くの画面を割き、関ヶ原本戦の様子で締め括っている。
     このうち写真では、上田城攻めに先立ち真田方に遣わされた軍使の姿を掲載した。右下に「台徳公(秀忠)御使者」とあり、母衣(ほろ)という矢防ぎの指物(さしもの)をつけた騎馬武者が描かれ、左上に「真田安房守昌幸(さなだあわのかみまさゆき)居城(きょじょう)信州上田(しんしゅううえだ)」とあり、軍旗はためく上田城が描かれている。この使者派遣にはじまる上田城攻めに秀忠は大苦戦し、結果、関ヶ原合戦に遅参(ちさん)して家康の不興を買っている。「神祖(家康)創業の御苦慮を鑑(かんが)」みるため、この絵巻が写本されたという事情が、巻尾に記されている。二代目の失策は「神祖創業の御苦慮」そのものであったであろう。

  • 千代田之御表 鶴御成
    楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)(1838〜1912)/画
    1897年(明治30)

     「千代田之御表」は、江戸時代を懐古しようとする風潮が漂いはじめていた1897年
    (明治30)、江戸幕府の年中行事を中心に描いた大判錦絵32図からなるシリーズもの。今回紹介する「鶴御成」とは、将軍が鶴を獲るための鷹狩りのこと。「御成」とは、将軍の「お出まし」を意味した。
     今では国の特別天然記念物に指定されている丹頂鶴、繊細で優美なイメージをもつこの鳥を捕まえようと必至になっているのは鷹匠(たかじょう)。そんな鷹匠とは対照的に、どこか他人事のように鶴の足にとまっているのが鷹狩りの主役であるはずの鷹である。この鷹、どうみても獰猛(どうもう)さに欠ける。これではまるで人間が鶴を獲る図といった印象をうける。それもそのはず、自然界の鷹が大きさに数倍する鶴を獲ることなどなかったことが知られている。両者の大きさの違いをみれば、鷹に鶴を獲らせようとする事自体に、そもそも無理があったのだと納得がいく。鷹狩りにおいて鶴を獲るため、鷹の巣から雛を捕り、大きな鳥をも恐れない怖いもの知らずの鷹に育て上げるテクニックが鷹匠に求められた。鷹匠によって丹誠込めて育てられた鷹のなかでも、とくに優れた鷹だけが鶴を獲ることができた。
     ところで、なぜ将軍は自然界の理に逆らってまで鷹を使って鶴を獲ろうとしたのであろうか。それは、鷹狩りで獲った鶴を、朝廷に進上したり、有力な大名に下賜(かし)したりすることが、将軍の権威を高めるうえで重要な意味をもっていたからであった。なにしろ鶴は、千年の寿命を持つといわれた霊鳥。これを食べた者は、不老不死の効能があると信じられていたため、鶴は最高の贈り物として、重要な意味を持っていた。鶴は、鷹狩りの最上級、かつ最も高度なテクニックを要する獲物であったのである。従って本来ならば、将軍が鷹狩りに出ても、必ず鶴がとれる保証はなかったはずである。しかし、平和な時代が長く続き、鷹狩りで獲れた鶴を贈る儀式が、幕府の年中行事として定着していくと、その儀式を執り行うために鷹狩りが必要になるという主客の逆転現象がおきた。そうなると、ひとたび武門の棟梁たる征夷大将軍が鷹狩りに出れば、鶴が獲れないのは将軍の面子(めんつ)にかかわるという状況が醸(かも)し出されていった。そして将軍に鶴をとらせる究極の手段として登場するのが鶴の飼育であった。しかも、鶴を獲りやすいように羽に細工を施したという話すらある。鶴を飼育するため、江戸周辺農村の各地に綱差(つなさし)が設置されたのは、8代将軍吉宗の時代であった。綱差の特殊な技術革新に支えられて、将軍とその近臣たちは、安心して鶴を獲るための鷹狩りを実施することができるようになった。こうして鶴御成が幕府の年中行事として定着していったのである。

  • 七代目市川團十郎の「暫」  
    歌川豊国(うたがわとよくに)(初代)/画
    1813年(文化13)10月

     「暫」とは、悪人が善良で弱い人々を捕らえ生命を奪おうとするその瞬間に、超人的な力を持った主人公が「しばらく」と声を掛けて登場し、「つらね」という長台詞で名乗りをし、大太刀(おおだち)を抜き善人を救うという筋である。この趣向は初代市川團十郎(いちかわだんじゅろう)が元禄時代に初演した。二代目團十郎はこの場面を踏襲し、以後毎年11月に行われる顔見世狂言に「暫」を入れることが吉例となった。「暫」とは本来その場面の俗称であり、主人公を指す言葉でもあった。
     本資料は七代目團十郎の「暫」を初代歌川豊国が描いた肉筆画。軸装で、箱書きによれば1813年(文化10)10月の作と考えられる。役者絵は正面やや斜め向きで描かれることが多いが、本図は役者を右後方から捉えることで身体の隅々まで力が入っていることを的確に表現した。七代目團十郎は、大きな目で左上方をにらみ、歯をかみしめ、右手は力を込めて扇を握り、上半身はやや猫背気味に丸め、足はしっかりと地を踏みしめている。力強さを更に強調しているのが、二代目團十郎以来の独特の扮装である。頭には魔よけの呪力を持つとされる白い力紙(ちからがみ)、顔には血管を強調したような紅色の筋隈(すじくま)、背丈を遙かに超える大太刀、市川家の家紋三升(みます)を付けた柿色の素袍(すおう)。柿色は市川家の色であり、修験者の着る柿帷子(かたびら)の色でもある。
     上部に、戯作者桜川慈悲成(さくらがわじひなり)の賛「いさましや一陽来復今ここに悪魔たちさる暫の声」がある。これは、團十郎の演じる「暫」が、新春を迎え邪気を払うという呪術性を持っていたことを裏付ける。
     七代目團十郎は、1832年(天保3)息子の六代目海老蔵に八代目團十郎を襲名させ、自身は前名の海老蔵に改名した。この時、「暫」「助六」など、先祖代々が得意とした市川家に伝わる芸十八種を「歌舞伎十八番」として制定・公表した。

  • 髪切の奇談
    歌川芳藤/画
    1868年(慶応4)

    「あれーっ助けてーっ」と声が聞こえてきそうな場面だ。得体の知れない黒いものに髪の髻(もとどり)をがぶりと噛み付かれ、もんどりをうっている女性。無残にも足元には、髪がからみついた櫛(くし)と簪(かんざし)が散乱している。
     本資料は、「髪切の奇談」と題された刷物である。1868年(慶応4)閏(うるう)4月に刊行された。前月の20日のこと、番町あたりの、さるお屋敷に奉公していた女性が、夜起きて厠(かわや)に行った。廊下に出ると何かはわからない、真っ黒なものが突然やってきて、頭にあたったかと感じるやいなや、女性は急に倒れ前後不覚に陥ってしまった。物音に驚いて人々が集まり、介抱するとすぐに正気に戻ったが、髻は1メートル先くらいに落ちていた。真っ黒なものは猫のようでもあり、天鵞絨(ビロード)のようでもあったという。
     髪切という妖怪については、江戸時代から書物にも登場している。諸国の奇談を集めた『諸国里人談(しょこくりじんだん)』(菊岡沾涼(きくおかせんりょう)/著 1743年)によると、髪切は夜道を歩く人、男女を問わず、髪を根元から切るという。切られた当人はいつ切られたのか、たいてい気が付かない。聞き書き集『耳袋(みみぶくろ)』(根岸鎮衛/著 1814年)では、髪切は狐狸(こり)のしわざのこともあり、殺した野狐の腸から髪束が2つ出てきたとある。また、髪切が有名であったためか、親の決めた縁談を嫌がって、髪を自分で切り、髪切にあったと狂言をいう女性もいたという。
     大都市江戸では、奇談や怪談が、印刷物や歌舞伎などのさまざまなメディアを通して語られ、人びとの関心を得た。皿屋敷で有名な番町で起こった、この髪切の怪。後日談が知りたいものだ。

  • 東京名所之内銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図
    歌川広重(3代)/画
    1882年(明治15)

     この絵の舞台は、1882年(明治15)の銀座4丁目交差点。銀座煉瓦街の中央を、2頭立ての馬車が走り抜けている。この馬車、普通の馬車ではない。よく見ると道路に敷かれたレールの上を走っており、その名も「鉄道馬車」といった。人で賑わう銀座通りを時速8キロメートルほどで走り抜けていた鉄道馬車は、明治中頃の東京において重要な交通機関となっていた。
     そもそも日本には馬車のような乗り物はなく、幕末になって西洋から入ってきた。それまでの陸上交通は徒歩や駕籠だったが、馬車の登場により移動のスピードや乗り心地が大きく変化した。当初は政府関係者や外国人など一部の人の乗り物だったが、1872年(明治5)から東京で乗合馬車が走り始めると、一般人も利用するようになっていった。そして1882年(明治15)6月、東京馬車鉄道会社が鉄道馬車の運行を始めた。最初の区間は、新橋から日本橋までのわずか2.5キロメートルほどだったが、開業から半年後には路線が浅草まで伸びた。馬車には洋装の馭者と車掌が乗っていて、人びとは車掌から切符を買って乗車した。鉄道馬車は文明開化期の一風景となったが、1903年(明治36)に電車へと変わり、姿を消した。

  • 神田八雲神社暁
    小林清親/画
    1880年(明治13)
     
     東の空が明るんで、木々の暗がりに光がさしてくる。右手に朱塗りの社殿、遠くには二つの人影が浮かぶ。明け方の境内の澄み切った空気。舞台は、神田明神の中にある八雲神社である。神田明神は、日吉山王権現の山王祭と並ぶ天下祭で、江戸時代から庶民に親しまれていた。また、裏手は高台になっていて眺めがよく、ランドマークとしても有名だった。遠景の二人も、眼下に大きく開けた眺めを楽しんでいるのだろうか。この二人のいる場所は、現在は駐車場になっているが、それでもなかなかの眺望が楽しめる。
     この作品は、小林清親(1847〜1914)の出世作にあたる「東京名所図」という連作のひとつである。「東京名所図」では、江戸の面影を残しながら近代都市へと変わってゆく明治の東京風景が情緒豊かに描かれている。この作品のように、輪郭線を用いず、色面を重ねて明暗を表現する表現方法は、当時とても斬新なもので、1876年(明治9)に版元の松木平吉から「光線画」という名で売り出され、大いに人気を博した。この作品では、中景の木々がシルエットで表される中、一番手前の木に施されたハイライトが効果的である。
     実はこの「神田八雲神社暁」には、粉本(手本)とよぶべき作品がある。歌川広重「名所江戸百景」の「神田明神曙之景」である。同じくこの場所で、神主、巫女、仕丁が、暁の空を眺めているという図である。画面を縦に用い、手前に大きく配した樹木と中景・遠景との対比が面白い。清親の「神田八雲神社暁」を見た明治の東京市民も、きっと広重の「神田明神曙之景」を思い浮かべて、イメージの二重映しを楽しんだに違いない。
     「東京名所図」の中には、人力車やガス灯など文明開化の風物を含む風景を描いた「開化絵」の範疇に入る作品もあるが、落合芳幾や月岡芳年らの強烈な色彩の開化絵に対し、清親の作品では、そういった画題も抑えた色調で描かれ、静かな詩情に満ちている。
     この後、浮世絵の衰退のなか、清親はこの画風を用いての制作に自ら終止符を打ってポンチ絵へと向かうが、清親の画風は井上安治や小倉柳村らに引き継がれていく。

  • 中村座 大當書生演劇 川上音二郎 オッペケペー
    小国政/画 福田熊次郎/版
    1891年(明治24)
     
     1891年(明治24)3月6日付の『読売新聞』に、次のような記事が載っている。
    「書生芝居のオッペケ節 別項に記せる書生芝居ハ、中々好景気の由なるが、座頭川上音次郎(音二郎)氏が新作なるオッペケ節といふを得たれバ、一二を左に記す
    山椒小粒でも日本の国ハ、ひけハ取らない大和ぎも、オッペケペッポー、ペッポーポー、儘になるなら自由の水で、国の汚れを落したい、オッペケペ、オッペケペッポ、ペッポーポ」
     1889年(明治22)の憲法発布、翌年の第1回帝国議会の招集と、日本が近代的な国家として歩みはじめていたこのころ、川上音二郎の謡うこの「オッペケペ節」が巷間で人気を博していた。
     新派劇の草分けと評される明治の俳優、川上音二郎は、福岡藩の御用商人の子として、1864年(元治元)に生を受けた。自由民権運動の高揚とともに、自由党の壮士として政談演説会で活躍するが、当局の取り締まりにあい、入獄の数は24回に及んだという。この厳しい取り締まりを逃れるため、彼は大阪の落語家・桂文之助の弟子となり、「浮世亭○○(まるまる)」の名で、高座にあがるようになった。そこで、ザンギリ頭に鉢巻きをしめ、筒袖に陣羽織を身にまとい、手には日の丸の扇子、という出で立ちで謡ったのがオッペケペ節であった。
     オッペケペ節は、「演歌の元祖」とも言われているが、旋律はなく、語りに近いものであったようだ。「米価騰貴の今日に、細民困窮省みず、目深に被った高帽子、金の指輪に金時計」。当時の世相を、小気味よい言葉で諷刺したこの歌に、溜飲を下げた人々も多かったのではないだろうか。

  • 東京勧業博覧会 不忍池池畔の売店
    1907年(明治40)

     国際博覧会は1851年にロンドンで初めて開かれ、欧米各地に広まった。わが国でも、1872年(明治5)に湯島聖堂で初の本格的な博覧会が実現し、産業の発展のために政府主導で相次いで催された。
     1907年(明治40)3月20日より、東京府が上野公園で主催した東京勧業博覧会は、観覧車やウォータシュートが設けられ、夜のイルミネーションが話題となった。これを機に、博覧会は殖産興業のイベントから、娯楽や広告の場としての役割も担っていった。
     この資料写真は、同博覧会の不忍池を撮影したステレオ写真(部分)である。風景が立体的に楽しめることから普及し、当館では同博覧会を撮影したステレオ写真を複数収蔵している。
     本写真には、弁天堂への参道脇に建てられたエビスビールのビアホールが写される。明治時代初期より国産ビールは作られていたが、輸入品の味や人気になかなか太刀打ちできずにいた。そこでビール会社は改良を重ね、またとない宣伝の機会として博覧会場にビアホールを出店したのだった。当時の庶民には、瓶ビール1本は高価だったため、コップ一杯から飲めるビアホールは人気を集めた。
     博覧会の前年の1906年(明治39)、日本麦酒などの在京ビール会社3社は、販売競争の激化を止めるべく合併を行い、大日本麦酒を設立した。博覧会は、新しい会社の名を広める絶好の場となり、会場の上野公園には同社の豊富なブランドビールが楽しめるビアホールやビール塔も建てられたのだった。

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