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  • 東海道五十三次図屏風(左隻)
    狩野宗信 画
    1661〜72年(寛文期)

     東海道は、江戸幕府が管理した五街道のひとつで、江戸と京を結ぶ太いパイプのような役割をしていた。人々は寺社参詣や物見遊山で旅をするために利用し、各藩の大名は参勤交代の折に、それぞれ長い行列をなして歩いた。東海道にはこうした人々の疲れを癒すための宿場や茶屋も各所にあった。人々の往来とともに江戸と地方の文化の交流もさかんになり、経済発達の一因ともなった。
     この六曲一双の屏風には江戸から大津までの要所要所の宿場や城・名所など、80余か所が描かれている。構図は、右隻(うせき)左隻(させき)ともに金箔の雲母(きら)で上下に分割されており、右隻上段から左隻上段へ、右隻下段から左隻下段へと連続している。右隻上段には江戸城を筆頭に品川から沼津まで、左隻上段には富士山を筆頭に原(現、静岡県沼津市)から袋井まで、右隻下段には浜松から桑名まで、左隻下段には三重川(現、三重県四日市市)から大津までが描かれている。なかでも、河川や橋は比較的詳細に描写され、その重要性を確認することができる。また、街道の家屋や行き交う人馬からは、作画当時(寛文(かんぶん)期=1661〜72年)の様子を知ることができる。
     絵師狩野宗信(かのうむねのぶ)は、江戸城障壁画の対面図や御座の間などを担当した中橋家当主狩野安信(やすのぶ)を師としており、流派の筆致を受け継いでいる。彼の作品で現在確認されているものは希少で、豪華に貼られた金箔と高価な絵の具で描かれた繊細な描線からは、宗信の優れた技量がうかがわれる。

  • 東海道五十三次図屏風(右隻)
    狩野宗信 画
    1661〜72年(寛文期)

     東海道は、江戸幕府が管理した五街道のひとつで、江戸と京を結ぶ太いパイプのような役割をしていた。人々は寺社参詣や物見遊山で旅をするために利用し、各藩の大名は参勤交代の折に、それぞれ長い行列をなして歩いた。東海道にはこうした人々の疲れを癒すための宿場や茶屋も各所にあった。人々の往来とともに江戸と地方の文化の交流もさかんになり、経済発達の一因ともなった。
     この六曲一双の屏風には江戸から大津までの要所要所の宿場や城・名所など、80余か所が描かれている。構図は、右隻(うせき)左隻(させき)ともに金箔の雲母(きら)で上下に分割されており、右隻上段から左隻上段へ、右隻下段から左隻下段へと連続している。右隻上段には江戸城を筆頭に品川から沼津まで、左隻上段には富士山を筆頭に原(現、静岡県沼津市)から袋井まで、右隻下段には浜松から桑名まで、左隻下段には三重川(現、三重県四日市市)から大津までが描かれている。なかでも、河川や橋は比較的詳細に描写され、その重要性を確認することができる。また、街道の家屋や行き交う人馬からは、作画当時(寛文(かんぶん)期=1661〜72年)の様子を知ることができる。
     絵師狩野宗信(かのうむねのぶ)は、江戸城障壁画の対面図や御座の間などを担当した中橋家当主狩野安信(やすのぶ)を師としており、流派の筆致を受け継いでいる。彼の作品で現在確認されているものは希少で、豪華に貼られた金箔と高価な絵の具で描かれた繊細な描線からは、宗信の優れた技量がうかがわれる。

  • 安政乙卯十一月廿三日 両国橋渡初之図
    歌川国芳 筆
    1855年(安政2年)

     安政2年(1855年)10月2日の安政大地震で、江戸は大きな被害を受けた。この時、両国橋は架け替え工事中だったこともあり、幸い被害が少なく、11月23日には渡り初めが挙行された。その様子を描いたのが、この錦絵である。
     橋の渡り初めは、3代続く家族が行う。現在も続く習わしだ。この時は、南茅場町の弥左衛門という85歳(88歳とする記録もある)の老人と68歳の妻まさをはじめ、子供に孫、それと零歳を末とするひ孫の4代11人が参列した。
     このセレモニーは、とても盛大だったらしい。外神田の書店主藤岡屋由蔵(ふじおかやよしぞう)の手記『藤岡屋日記』には、この日の様子を次のように記されている。
     当日は、弥左衛門夫婦をはじめ親類縁者およそ200人が早朝から詰めて、柳橋の料理茶屋を貸し切りにした。さらに柳橋の芸者を残らず呼び上げ、酌をさせるという豪華さだった。
     弥左衛門一家は、橋の南側を東から西へ、そして北側を西から東へと一往復した。約200人の親類たちも後に続いて橋を渡った。
     弥左衛門は裃姿、まさは白地に総模様の正装だった。親類たちも正装で臨もうとしたが、それではあまりに目立つので羽織袴にするようにと町奉行から指示があったという。
     華やかなセレモニーは江戸の市民にとって、地震後の復興を象徴する明るい1コマだった。

  • 江戸火事図巻(部分)
    田代幸治 画
    17世紀中頃

     明暦の大火は江戸三大火事のひとつで、江戸城をはじめ大名屋敷から民家まで、江戸の町の60パーセントが焼け、死者10万人を数えた。その時の無縁仏を葬ったのが江戸東京博物館近くの両国・回向院で、寺号を無縁寺という。この火事の様子を描いたのが「江戸火事図巻(ずかん)」である。この図巻の中の、消防にあたる人々、逃げまどう群衆の間には、道路上の車長持(くるまながもち)が見られる。車長持というのは、長持の下に車輪をつけて運ぶもので、火災の時には家財道具を入れて曳いて逃げた。火勢に追われて、途中で捨てて逃げる人もいた。これらが交通を妨げ、そのために多くの死傷者も出た。それで大火後に、車長持は禁止になった。
     それにかわって寛文(かんぶん)期(1661〜72年)から大八車が用いられるようになった。昔、網代車に八葉(はちよう)の紋をつけたのを第八葉などといったのだが、それから名づけられたとも、大八という人が造り出したからとも、人8人のかわりをするからともいい、諸説ある。
     しかし、明和9年(1772年)2月に目黒行人坂(ぎょうにんざか)より起きた大火の時に、建具や道具を大八車に積んだ者があって往来の妨げになり、足弱の者は逃げることもできず、死傷者も出たとして、4月に禁令が出た。
     牛車・大八車や荷付車には往来の妨げにならないようにと、たびたび触書が出たが、享保17年(1732年)に、神田の商店の召し使い2人が空車(からぐるま)を曳いて牛込の払方町を通りかかった時に、15歳の新八という者を車でひっかけ、新八は死んでしまった。それで車を曳いていた2人のうち1人は死罪、1人は遠島になった。
     これを現在にも適用したらどういうことになるだろうか。自動車を運転する人は用心しなければいけない。そうでなくても大地震が起きれば自動車が、車長持や大八車と同じように往来を大妨害するだろう。

  • 江戸火事図巻(部分)
    田代幸治 画
    17世紀中頃

     明暦の大火は江戸三大火事のひとつで、江戸城をはじめ大名屋敷から民家まで、江戸の町の60パーセントが焼け、死者10万人を数えた。その時の無縁仏を葬ったのが江戸東京博物館近くの両国・回向院で、寺号を無縁寺という。この火事の様子を描いたのが「江戸火事図巻(ずかん)」である。この図巻の中の、消防にあたる人々、逃げまどう群衆の間には、道路上の車長持(くるまながもち)が見られる。車長持というのは、長持の下に車輪をつけて運ぶもので、火災の時には家財道具を入れて曳いて逃げた。火勢に追われて、途中で捨てて逃げる人もいた。これらが交通を妨げ、そのために多くの死傷者も出た。それで大火後に、車長持は禁止になった。
     それにかわって寛文(かんぶん)期(1661〜72年)から大八車が用いられるようになった。昔、網代車に八葉(はちよう)の紋をつけたのを第八葉などといったのだが、それから名づけられたとも、大八という人が造り出したからとも、人8人のかわりをするからともいい、諸説ある。
     しかし、明和9年(1772年)2月に目黒行人坂(ぎょうにんざか)より起きた大火の時に、建具や道具を大八車に積んだ者があって往来の妨げになり、足弱の者は逃げることもできず、死傷者も出たとして、4月に禁令が出た。
     牛車・大八車や荷付車には往来の妨げにならないようにと、たびたび触書が出たが、享保17年(1732年)に、神田の商店の召し使い2人が空車(からぐるま)を曳いて牛込の払方町を通りかかった時に、15歳の新八という者を車でひっかけ、新八は死んでしまった。それで車を曳いていた2人のうち1人は死罪、1人は遠島になった。
     これを現在にも適用したらどういうことになるだろうか。自動車を運転する人は用心しなければいけない。そうでなくても大地震が起きれば自動車が、車長持や大八車と同じように往来を大妨害するだろう。

  • 久留米藩士 江戸勤番長屋絵巻(部分)
    戸田熊次郎 序
    狩野勝波方信 画
    1840年(天保11年)頃

     諸大名は参勤交代制によって、江戸に上屋敷をはじめいくつかの屋敷を持っていた。江戸には大名の正妻や嫡子がおり、隠退した元の藩主がいることもあった。それぞれの屋敷には国許から出府した家臣がいたが、大名の側近に仕える家老もおれば、藩の外交官ともいうべき留守居もおり、医師や儒者もおり、下級の藩士や抱え者もいた。大名が登城する時には、侍・草履取・挟箱持(はさみばこもち)・陸尺(ろくしゃく)(駕籠かき)など、さまざまの従者を下乗札の所まで伴った。通常の行路にも多数の従者を連れていたので、他の大名と出会った時に供先の者が争うこともあった。大名は江戸在勤中には、江戸城の諸門の警備や、寛永寺や増上寺の火の番などを命ぜられることもあったから、それに応ずる藩士も必要であった。
     江戸詰の藩士は、大藩では数千人にも及び、小藩でも100名以上であった。重臣は一戸構えの屋敷に住んだが、下級藩士は屋敷の外壁を固めるようにつくられた長屋住まいであった。藩士の大部分は単身赴任で、通常は一定期間を務めると交代した。江戸詰の者でも、特別な任務がない者は江戸市中や郊外の見物をしたり、芝居なども見たりした。だが、経済的な余裕があるわけではないから、吉原などの遊興地に行くにも派手な身なりができず、羽織の裏が浅葱木綿(あさぎもめん)が多かったのか、「浅葱裏」といって軽蔑され、川柳などでは、やぼな者の代名詞となった。
     江戸東京博物館蔵の筑後久留米藩(有馬氏21万石)の「江戸勤番長屋絵巻」は、江戸詰藩士の長屋住まいの様子をよく示している。この図は、6畳敷の荒壁にかけた絵に船の描かれているのを見ながら、3年の年数が経って、故郷に帰る日の近づいたのを喜んでいる場面である。

  • 久留米藩士 江戸勤番長屋絵巻(部分)
    戸田熊次郎 序
    狩野勝波方信 画
    1840年(天保11年)頃

     諸大名は参勤交代制によって、江戸に上屋敷をはじめいくつかの屋敷を持っていた。江戸には大名の正妻や嫡子がおり、隠退した元の藩主がいることもあった。それぞれの屋敷には国許から出府した家臣がいたが、大名の側近に仕える家老もおれば、藩の外交官ともいうべき留守居もおり、医師や儒者もおり、下級の藩士や抱え者もいた。大名が登城する時には、侍・草履取・挟箱持(はさみばこもち)・陸尺(ろくしゃく)(駕籠かき)など、さまざまの従者を下乗札の所まで伴った。通常の行路にも多数の従者を連れていたので、他の大名と出会った時に供先の者が争うこともあった。大名は江戸在勤中には、江戸城の諸門の警備や、寛永寺や増上寺の火の番などを命ぜられることもあったから、それに応ずる藩士も必要であった。
     江戸詰の藩士は、大藩では数千人にも及び、小藩でも100名以上であった。重臣は一戸構えの屋敷に住んだが、下級藩士は屋敷の外壁を固めるようにつくられた長屋住まいであった。藩士の大部分は単身赴任で、通常は一定期間を務めると交代した。江戸詰の者でも、特別な任務がない者は江戸市中や郊外の見物をしたり、芝居なども見たりした。だが、経済的な余裕があるわけではないから、吉原などの遊興地に行くにも派手な身なりができず、羽織の裏が浅葱木綿(あさぎもめん)が多かったのか、「浅葱裏」といって軽蔑され、川柳などでは、やぼな者の代名詞となった。
     江戸東京博物館蔵の筑後久留米藩(有馬氏21万石)の「江戸勤番長屋絵巻」は、江戸詰藩士の長屋住まいの様子をよく示している。この図は天保10年(1839年)4月、殿様の帰国の年であったが、にわかに江戸在勤の延長を命ぜられて、藩士たちも一両年を経なければ父母や妻子に会うこともできないというので、やけくそになってあばれている場面である。

  • 『浅草寺(せんそうじ)文化』第4号・第5号
    浅草寺資料編纂所 発行
    昭和40年(1965年)

     『新撰東京名所図会』に言う。
     凌雲閣(りょううんかく)一に十二階の名あり。其十階迄は八角形総煉瓦造に
     して十一階十二階は木製とす。開閣(かいかく)の際は特にエレベートルを用ゐて、八階迄登客を吊上げ来り
     明治23年(1890年)に完成した凌雲閣のエレベーターはわが国初のものであったが、危険であるとの理由で、すぐに廃止されたという。このエレベーターについて知りたいと、江戸東京博物館の図書館に調べに来られる方は多い。「まずその図版が見たい」と言われる。
     これに応える図書資料のひとつとして『浅草寺文化』という雑誌がある。
     同資料には「十二階ひろい書」の連載をはじめ、いくつか凌雲閣の絵図や写真が収録されている。4号、5号に折り込みの「大日本凌雲閣之図」(複製)にはエレベーターの部分図が見られる。ここからは、大小のギアを組み合わせたユニット、ワイヤーロープ、電気系統回路などの様子が、大ざっぱではあるが見て取れる。『時事新報』には「一方の小客室を上れば一方は降る工風(くふう)にて、その状あたかも釣瓶のごとく」とある。何とも悠長で、単純な装置であった。『官報』には「この昇降台は高さ八尺、幅八尺に五尺五寸、十五人より二十人までの客を一時に乗せ得べく」とある。
     エレベーターの先、上階からみた東京のパノラマは、当時の人々にとっては驚きであったろう。その眺望(写真)は、『浅草区誌 上巻』の口絵などに認められる。

  • 『浅草寺(せんそうじ)文化』第4号・第5号
    浅草寺資料編纂所 発行
    昭和40年(1965年)

     『新撰東京名所図会』に言う。
     凌雲閣(りょううんかく)一に十二階の名あり。其十階迄は八角形総煉瓦造に
     して十一階十二階は木製とす。開閣(かいかく)の際は特にエレベートルを用ゐて、八階迄登客を吊上げ来り
     明治23年(1890年)に完成した凌雲閣のエレベーターはわが国初のものであったが、危険であるとの理由で、すぐに廃止されたという。このエレベーターについて知りたいと、江戸東京博物館の図書館に調べに来られる方は多い。「まずその図版が見たい」と言われる。
     これに応える図書資料のひとつとして『浅草寺文化』という雑誌がある。
     同資料には「十二階ひろい書」の連載をはじめ、いくつか凌雲閣の絵図や写真が収録されている。4号、5号に折り込みの「大日本凌雲閣之図」(複製)にはエレベーターの部分図が見られる。ここからは、大小のギアを組み合わせたユニット、ワイヤーロープ、電気系統回路などの様子が、大ざっぱではあるが見て取れる。『時事新報』には「一方の小客室を上れば一方は降る工風(くふう)にて、その状あたかも釣瓶のごとく」とある。何とも悠長で、単純な装置であった。『官報』には「この昇降台は高さ八尺、幅八尺に五尺五寸、十五人より二十人までの客を一時に乗せ得べく」とある。
     エレベーターの先、上階からみた東京のパノラマは、当時の人々にとっては驚きであったろう。その眺望(写真)は、『浅草区誌 上巻』の口絵などに認められる。

  • 卓上喫煙具セット・金属製喫煙具セット
    昭和初期

     大正末期から昭和初期にかけて、「モダン」の名で流行したデザイン様式は、現在「日本のアール・デコ」と呼ばれている。
     アール・デコとは、1920年代から30年代にかけて欧米諸国で盛んになった装飾様式。ピカソが提唱したキュビスムや、機械文明を礼賛する未来派など、20世紀初頭の革新的芸術を源泉とし、左右相称、明快な色彩対比など簡潔な形態を特徴とする。近代都市化や消費社会が台頭する20世紀が求めた様式で、1925年にパリで開催された博覧会の、仏文名称の一部「アール・デコラティフ」を語源とする。
     アール・デコは、ほぼリアルタイムで日本にも伝わり、関東大震災後の復興期にあった東京を席捲していった。
     ただし、影響を一方的に受けたのではなく、日本の伝統技術の「漆」も、アール・デコの魅力の一翼を担っていた。漆は、英語で「japan」と呼ばれ、同博覧会ではフランス人工芸家が、すべて漆のインテリアを発表し評判になった。
     江戸東京博物館でも和風アール・デコの資料を数多く所蔵しており、写真の喫煙具セットもその一つだ。一点は、卓上喫煙具セット。日本伝統の漆塗りと竹細工に、アール・デコ風のバラの花が銀細工で施されている。
     もう一点は、アール・デコを直輸入したような一体型金属製喫煙具セット。箱を閉じれば置物にもなるという、装飾美と機能を併せ持つ逸品である。

  • 卓上喫煙具セット・金属製喫煙具セット
    昭和初期

     大正末期から昭和初期にかけて、「モダン」の名で流行したデザイン様式は、現在「日本のアール・デコ」と呼ばれている。
     アール・デコとは、1920年代から30年代にかけて欧米諸国で盛んになった装飾様式。ピカソが提唱したキュビスムや、機械文明を礼賛する未来派など、20世紀初頭の革新的芸術を源泉とし、左右相称、明快な色彩対比など簡潔な形態を特徴とする。近代都市化や消費社会が台頭する20世紀が求めた様式で、1925年にパリで開催された博覧会の、仏文名称の一部「アール・デコラティフ」を語源とする。
     アール・デコは、ほぼリアルタイムで日本にも伝わり、関東大震災後の復興期にあった東京を席捲していった。
     ただし、影響を一方的に受けたのではなく、日本の伝統技術の「漆」も、アール・デコの魅力の一翼を担っていた。漆は、英語で「japan」と呼ばれ、同博覧会ではフランス人工芸家が、すべて漆のインテリアを発表し評判になった。
     江戸東京博物館でも和風アール・デコの資料を数多く所蔵しており、写真の喫煙具セットもその一つだ。一点は、卓上喫煙具セット。日本伝統の漆塗りと竹細工に、アール・デコ風のバラの花が銀細工で施されている。
     もう一点は、アール・デコを直輸入したような一体型金属製喫煙具セット。箱を閉じれば置物にもなるという、装飾美と機能を併せ持つ逸品である。

  • 小田急電車沿線案内
    小田原急行電鉄 発行
    昭和12年(1937年)

     この小田急電車沿線案内は1月に発行されているため、表紙の絵が上から冬、春、夏、秋の順に並んでいる。行楽に向かう人と、それぞれの季節に体験できるスポーツが描かれた楽しいものとなっている。案内図には、鳥瞰図と路線と駅名、その周辺の四季の名所や著名な施設が描かれている。
     この図で、おやっと思うのは、現在の京王井の頭線が描かれていることで、これは当時、井の頭線が帝都電鉄として小田急の系列会社であったためだ。現在のように京王井の頭線となったのは、戦争中に合同した小田急、京王、東急各社が戦後に復活した時、井の頭線が京王電鉄に組み入れられたからだ。
     図中に行楽地として大きく取り上げられているのは、向ヶ丘遊園地(のち向ヶ丘遊園)や古くから有名な参詣地の大山(おおやま)、桜と紅葉の名所箱根温泉郷、江ノ島などである。郊外の遊園地と古来の名所、寺社参詣地という組み合わせは、沿線開発の典型で、ほかの私鉄では、かつては京王電鉄の京王閣と高幡不動、現在は東武鉄道の東武動物公園と日光などがある。これに宅地造成が加わると沿線開発の三要素がそろうことになる。
     裏面には解説記事があるが、その中で興味深いのは「週末温泉列車」である。毎土曜日午後1時55分新宿発の箱根温泉郷行き電車だ。週休2日制が普及する以前は、土曜日は半日勤務だったので、行楽に出かけるのも午後からになる。会社の慰安旅行などもそうだった。この列車は、そんな習慣のはしりだったのかもしれない。

  • 伝単「荒鷲と油」
    1944〜45年(昭和19〜20年)

     太平洋戦争中、アメリカ軍は日本国民や日本軍兵士の心理を攪乱するために、大量の宣伝ビラをB29爆撃機などから撒いた。これを伝単(でんたん)という。その数は、国内だけでも450万枚以上、種類も20以上確認されている。戦時中、伝単を拾った経験を持っている方も多いことだろう。日本軍も中国や東南アジアで伝単を撒いていた。
     そもそも伝単とは、宣伝ビラや令状を指す中国語であるが、日本軍は自国、敵国のものを問わずこうした心理作戦用のビラを総称して伝単と呼んでいた。
     この伝単は両面刷りで、文章は「最近の日本の荒鷲(戦闘機のこと)が姿を現さないのは、米軍がフィリピン上陸を果たし、給油所を破壊し、輸送船を撃沈しているから油がないのだ」という内容。絵は南方と日本本土の給油ラインをアメリカ軍が破壊している様子が示されている。これは日本本土ではなく、南方の旧日本軍兵士向けに、援軍の望みなしという意味で、戦意喪失を図って撒いたものだろう。昭和19年(1944年)10月以降のものと考えられる。
     アメリカ軍の伝単の制作には、日本人捕虜もかかわっていた。「転ばぬ先の杖」「昨日の敵は今日の友」というような日本のことわざを巧みにタイトルに用いた伝単があるのも、そのためだろう。
     国内では、空襲を予告する伝単も多く撒かれ、だいたい予告どおりに空襲を受けた。戦後のアメリカ側の調査であるが、かなりの日本人が伝単を「信じた」という。日本は心理戦でも劣勢であったといえよう。

  • 特別区整理統合告知ポスター
    1947年(昭和22年)

     「東京23区」というが、戦後の新区制は22区でスタートした。戦後の地方自治改革で、市に準じるよう、特別区の自治権を拡大することになった。東京都は、各区が自立した運営ができるようにするため、人口と財政を均等にすることをめざし、それまでの35区を22区に整理統合した。新区制は昭和22年(1947年)3月15日から開始される。
     区の統廃合を機に、板橋区に編入されていた練馬の住民は、独立した区になることを求めた。戦前の板橋区は、1区だけで都心部の旧15区に匹敵(ひってき)する面積があった(ポスター地図中の左上)が、交通網が整備されていなかったこともあり、練馬の住民は板橋にある区役所に1日がかりで出かけたという。練馬では戦前から独立を求める声があり、戦後の自治制度改革で「独立運動」はさらに高まっていった。「練馬区独立」の陳情に連合国最高司令官総司令部(GHQ)へ行くと、日本国から独立しようとする不穏な動きではないかと誤解を受け、説明に大汗をかいたという逸話もある。
     そして22区の新区制開始から5か月後、住民による「独立運動」がようやく実を結び、同年8月1日に板橋区から分離独立して練馬区が誕生した。こうして現在の東京23区が成立したのである。
     練馬区誕生のいきさつは、自治体は自然にできるものではなく、住民の意志が創り出すものだということを教えてくれる。


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