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  • 諸国滝廻り 相州大山ろうべんの滝
    葛飾北斎 筆
    1833年(天保4年)

     江戸から距離にしておよそ18里。日本橋から2日で行くことができた大山(おおやま)は、信仰と遊山を兼ねた格好の場所として知られた。なかでも防火、商売繁盛、除災招福を求める火消しや鳶(とび)、職人や商売人らの信仰を集めて賑わった。
     普段、大山は頂上参拝を許しておらず、山開きは6月27日より7月17日の21日間。とりわけ参拝者はお盆前に集中した。年の暮れとお盆が商売の決算期にあたる江戸時代、借金逃れの不届き者がお盆のころ山内に集まり潜み、一儲けして返済しようと博打に興じたからだともいう。
     大山の歴史は古く、奈良東大寺の建立に尽力した良弁僧正(ろうべんそうじょう)を開基とする由緒を持つ。本尊不動明王を中心とする雨降山大山寺(うこうざんだいせんじ)が、山内伽藍を形成し、頂上には石尊大権現(しゃくそんだいごんげん)を祀るれっきとした山岳信仰の山だ。庶民の参拝で隆盛をみせるのは江戸時代半ばからで、人々の多くは講を組織して、山麓にならぶ御師の宿坊に泊まりながら頂上参拝を果たした。大山を画題とする錦絵、路傍の道標も数多く残されており、落語の「大山詣り」は庶民信仰の山だということを雄弁に物語っている。
     大山は、別名阿夫利山(あぶりさん)とも称され、雨や水をもたらす神として南関東地域で農耕を営む人々からの信仰を基盤に持つ。
     江戸から大山へ参詣する人々は、隅田川や近隣の川の水で身を清めてから大山に向かう。これを水垢離(みずごり)という。良弁の滝も山麓にある垢離場(こりば)のひとつで、大願成就と墨書、あるいは刻まれた木太刀と一緒に滝に打たれる。この木太刀を奉納し、前に奉納されている太刀を持ち帰って、参拝のできない女性や子供たちに触らせたり、またがせて除災招福の呪具とした。江戸では神田の義広が大山の木太刀を作ることで知られていた。

  • 上野浅草図屏風(左隻)

    「図像学」という言葉を聞いたことがあるだろうか。絵画を単に美術作品としてでなく、歴史の史料として利用することが提唱されている。つまり、文献の一字一句の意味を調べるように、画像のひとつひとつに注目し、その内容を歴史的に検証することにより、絵画は史料となり得るのである。またその気運を受け、美術家中心の解説から脱皮し、文化史家を加え風俗解説にも力を入れた美術全集の出版が試みられている。
     本屏風に従来通りの図版解説をつけるとすると、次の程度の内容で終わってしまう。
     六曲一双 紙本着色(しほんちゃくしょく)107.7×266.4センチ 江戸時代・寛文期 右隻(うせき)には両国橋、隅田川の舟遊び、駒形堂から浅草寺を収め、左隻(させき)には上野寛永寺の諸伽藍と花見の光景を描く。寛文期風俗画の特徴である名所図的性格の強い構図、淡々とした筆致を示していることから、本図の制作年代は寛文期(1661〜72年)と考えられる。また景観年代も浅草寺・寛永寺の伽藍配置、建築年代より、同時期と推察できる。
     しかし本図を図像学の立場から見ると、実にさまざまな情報を提供してくれる。また建築学、民俗学、服飾史、芸能史、音楽史など諸研究分野からのアプローチが可能である。浅草寺・寛永寺の伽藍配置、隅田川に浮かぶ各種の舟、船遊びの様子、人々の服装、着物の図柄、髪形、かぶりもの。さらに酒宴の場に焦点をしぼって細かく観察すると、踊りの形態、使用楽器、楽器の演奏者、料理、坐り方、花見小袖など、枚挙に暇がない。その上これらの風俗と幕府が出した法令とを合わせて考えてみると、さらに興味深いものとなる。「文献史学」と「図像学」との融合によって、歴史の研究は新しい局面を切り開くことができる。
     絵画はその描写内容の信憑性などに注意を払えば、史料として十分活用することができる。そして時に、文献には記されていない真実を物語ることがあるかもしれない。

  • 上野浅草図屏風(右隻)

    「図像学」という言葉を聞いたことがあるだろうか。絵画を単に美術作品としてでなく、歴史の史料として利用することが提唱されている。つまり、文献の一字一句の意味を調べるように、画像のひとつひとつに注目し、その内容を歴史的に検証することにより、絵画は史料となり得るのである。またその気運を受け、美術家中心の解説から脱皮し、文化史家を加え風俗解説にも力を入れた美術全集の出版が試みられている。
     本屏風に従来通りの図版解説をつけるとすると、次の程度の内容で終わってしまう。
     六曲一双 紙本着色(しほんちゃくしょく)107.7×266.4センチ 江戸時代・寛文期 右隻(うせき)には両国橋、隅田川の舟遊び、駒形堂から浅草寺を収め、左隻(させき)には上野寛永寺の諸伽藍と花見の光景を描く。寛文期風俗画の特徴である名所図的性格の強い構図、淡々とした筆致を示していることから、本図の制作年代は寛文期(1661〜72年)と考えられる。また景観年代も浅草寺・寛永寺の伽藍配置、建築年代より、同時期と推察できる。
     しかし本図を図像学の立場から見ると、実にさまざまな情報を提供してくれる。また建築学、民俗学、服飾史、芸能史、音楽史など諸研究分野からのアプローチが可能である。浅草寺・寛永寺の伽藍配置、隅田川に浮かぶ各種の舟、船遊びの様子、人々の服装、着物の図柄、髪形、かぶりもの。さらに酒宴の場に焦点をしぼって細かく観察すると、踊りの形態、使用楽器、楽器の演奏者、料理、坐り方、花見小袖など、枚挙に暇がない。その上これらの風俗と幕府が出した法令とを合わせて考えてみると、さらに興味深いものとなる。「文献史学」と「図像学」との融合によって、歴史の研究は新しい局面を切り開くことができる。
     絵画はその描写内容の信憑性などに注意を払えば、史料として十分活用することができる。そして時に、文献には記されていない真実を物語ることがあるかもしれない。

  • 山王祭
    歌川豊国 筆

     山王祭と神田祭は、山車と練り物が神輿とともに江戸城内に繰り込み、将軍の上覧に供したことから「天下祭」と称された。徳川将軍家の産土神(うぶすながみ)である日吉山王権現は、現在の日枝神社(現、千代田区永田町)。平将門ゆかりの神田明神は現在の神田神社(現、千代田区外神田)で、それぞれ城の西南と東北に位置し氏子の範囲は日本橋が架かる日本橋川でほぼ二分される。
     山王と神田の祭礼行列は、天和元年(1681年)から隔年で江戸城に入るようになり、山王は子、寅、辰、午、申、戌の年の6月15日、神田は丑、卯、巳、未、酉、亥の年の9月15日をオモテの祭りとした。
     祭礼最大の見せ場は、山車・練り物の行列。『東都歳時記(とうとさいじき)』によれば山王祭の番組は45番、町数は160町余り。神田祭が番数36番に町数60町なので、規模からして山王祭は江戸随一の祭りだ。町ごとに出される山車や練り物は、それぞれ創意工夫が凝らされ、年々派手になり費用も膨大なものとなった。
     天保改革期には、山車に付随する「付祭り」を祭礼中3か所だけに制限した。
     図は文政期(1818〜29年)ごろの付祭りの様子を描いた錦絵。付祭りの先頭を行くのは万灯飾り、拍子木で音頭取りをする先触れ、障子屋根をつけた踊り屋台がそれに続く。文字通り屋台の上では踊りができるようになっており、担いで屋台を移動させた。その後ろには太鼓や三味線らの囃子方が、歩きながら演奏する底抜け屋台が続く。周りには笠を被って扇などを手にした女性たちが、賑わいのなかに華を添えている。これらは地走りという。
     踊りの演目は、地走りの女性たちの着物の帯が鱗文様、踊り手は立烏帽子に水干の白拍子装束だから「娘道成寺」とわかる。歌舞伎や浄瑠璃を取り入れた出し物は、時代や世相を映しだす装置となっている。

  • 上野花見隅田川舟遊図屏風
    江戸時代前期

     近世初期における隅田川の舟遊びは、梅若丸をしのび都鳥の古歌をしたって、浅草から木母寺(もくぼじ)付近に遊ぶのが中心だった。これが本格的に行われだしたのは慶長期(1596〜1614年)以後の江戸の発展からとされる。春の花見、夏の涼み、秋の月見、そして冬の雪見と、四季折々に舟を浮かべ遊山を楽しんだが、とりわけ夏の納涼船はもっとも盛んだった。
     明暦の大火(1657年)以降は、日本橋の三俣中洲(みつまたなかす)付近が舟遊びの中心に、さらに万治2年(1659年)隅田川に両国橋が架かってからは、両国近辺がその中心となった。万治・寛文年間(1658〜72年)には、大名が大型の屋形船をつくり、川一丸、山一丸、関東丸などと名を付け、豪奢を競った。
     当時流行の伊勢踊りなどを船上で踊らせることも多く、旗本、町人らも舟を繰り出し、隅田川が舟で埋め尽くされるほどの賑わいだったという。
     上野の花見と、隅田川の舟遊びを収めた六曲一双のこの屏風は、小さいながらも、江戸の代表的名所である上野と隅田川における遊楽の様子をいきいきと描いている。
     右隻は、両国橋近辺における江戸前期の風俗を表している。舟を並べた舞台では、男女が風流に興じ、客は屋形船の上からそれを楽しむ。料理舟では江戸前の魚が刺身におろされ、ごちそうが詰め込まれた重箱が運び出される。打ち上げられる花火を見ようと、橋のたもとには見物人が群がる。画面の隅々から、納涼に日ごろの憂さを忘れる人々の表情を見てとれよう。

  • 分間江戸大絵図
    金丸彦五郎影直 図
    1829年(文政12年)

     絵図という名称であるが、江戸とその周辺地域(北は千住宿・板橋宿、南は江戸湾・品川宿、東は中川、西は雑司ヶ谷・内藤新宿・目黒不動まで広がる)の地図である。大きさは畳2枚分ほどあり、浮世絵版画に代表される彩色木版画の技術の粋を集約して刊行されたものである。本図はいわゆる「江戸図」とよばれる地図群(江戸時代を通じ、改訂版を含め2千種以上刊行された)のひとつである。寛文10年〜延宝元年(1670〜73年)以後の江戸図は、西洋流測量術を駆使した実測図にもとづいている。図工金丸彦五郎による須原屋板「分間江戸大絵図」は明和8年(1771年)以降90年近く毎年のように増補版が出版されており、いわば当時の「ベストセラー」的存在であった。この「絵図」の左下の海の部分には三十三番札所、四季二十八宿、潮汐時刻表、願成就日・不成就日などが記載され、当時の人々の要望に応えている。
     写真は江戸城付近で、図版の方位は上が東である(原図は逆)。
     江戸は徳川家康の発案で計画的に造られた政治都市であり、「武家の都」といわれる。町は江戸城を中心に放射状に展開している。図版はその中心部であるが、武家の広大な屋敷が「御城」のまわりに配置されている様子がうかがえる。武家屋敷の主を示す文字の方向が不統一なのは、名称の文字が縦に正対する側に、それぞれの屋敷の表玄関があるように工夫された結果である。
     江戸城には地理的条件から西・北の方面に防衛上の弱点があった。これを補うため幕府は新たに外濠を設け、周辺に、親衛隊である旗本・御家人の屋敷を配した。この結果、江戸の町は、濠と川・海を結ぶと城を中心に右回りの渦巻状に水の防衛戦がめぐらされるようになった。

  • 菊花紋紅旗(錦の御旗)

     明治維新の時に流行した「宮さん宮さんお馬の前に ひらひらするのはなんじゃいな……」で有名な「トコトコヤレ節」(長州藩士品川弥二郎作詞)は、わが国初の軍歌とされる。
     この「お馬の前にひらひら」していたのが錦の御旗(錦旗)だ。太陽と月の形を並べた日月章を、紅色の細長い錦布上部に、金銀で刺繍した旗は古くから朝敵征伐のシンボルであった
     慶応3年(1867年)10月、王政復古を目指していた薩長両藩は倒幕軍の標章にするため日月章の錦旗2旒(りゅう)(枚)と紅白各10旒の菊花紋の旗をひそかに作った。
     翌年の正月3日、旧幕府軍と京都の南、鳥羽・伏見で衝突した薩長軍は翌4日、朝廷からこの錦旗を受け取る形にして官軍となった。この衝突は、鳥羽伏見の戦いと呼ばれ、新政府軍と旧幕府勢力が争った戊辰戦争の発端である。
     一方、朝敵になった旧幕府軍の総帥徳川慶喜は、尊皇を第一義とする水戸学を信奉していたためか、急に戦意を失い、正月6日夜大坂城を退去し、海路江戸に逃げ帰ったため、官軍勝利を決定づけた(江戸城帰着は12日朝)。
     写真の旗は、伊予(現愛媛県)大洲藩に下賜された菊花紋紅旗で、元の所蔵者によると「戊辰戦争の時、薩摩の島津様から贈られたもの」という。幅66センチ、長さ3メートル45センチの細長い形で、赤の錦地の上部に金色の菊花紋が貼付されている。

  • 江戸遷都意見書
    前島密 作成
    1876年〜1877年(明治9年〜10年)

     現行の一円切手に描かれている「郵便の父」前島密(まえじまひそか)が、今日の東京の繁栄に大きな貢献をしたことはあまり知られていない。
     明治新政府の所在地を江戸に決めたのは、維新の三傑の1人、大久保利通だ。そして、慶応4年(1868年)7月17日、江戸を東京と改称する。
     もともと大久保は、京都から大坂への遷都を主張し、実際にその準備を進めていた。ところが、同年4月、旧幕臣前島来輔の建言に感動し、自説をひるがえして、江戸遷都を決断した。
     江戸遷都の理由として、来輔は、首都は国土の中央に位置することが肝要で、当面の課題である蝦夷地(北海道)開拓が進めば江戸が中央になること、そして、蝦夷地開拓には江戸の方が便利であること。また、江戸には大名藩邸があり、政庁舎や学校等を建てる必要がないことを挙げている。加えて、大坂は経済基盤がしっかりしており、首都としなくても都市として存続できるが、江戸は政府機関なくなると衰微し、「東海の寒市」になってしまうこと、交通の便がよく、後背地が広いため拡大の余地があることなども主張した。
     明治9年(1876年)春、内務卿になっていた大久保は、たまたま部下であった内務大丞(だいじょう)前島密に、江戸遷都の経緯を語り、同じ姓を持つ「来輔」という人物を知らないかと尋ねた。
     密は「其は只今御前に在る前島密なり」と答えた。大久保は大いに驚き、思わず目の前の卓を叩いて声をあげたという。そして大久保は意見書を紛失してしまったので、写しでもあればと懇願した。密は意見書の写しを作成したが、大久保はこれを受け取ることなく、明治11年(1878年)5月14日、凶刃に倒れた。

  • 東京築地ホテル館従庭上眺望之図
    歌川広重(3代) 画
    1868年(明治元年)

     安政5年(1858年)6月、大老井伊直弼(いいなおすけ)は、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫の開港と、江戸と大坂の開市、自由貿易、開港場に居留地を設けるなどの通商条約をハリスと締結した。いわゆる不平等条約として近代日本に重くのしかかる日米修好通商条約がこれだ。締結後の幕府は江戸の開市を引き延ばしてきたが、幕府の崩壊とともに開市することとなる。開港した横浜にはすでに居留地が設けられ横浜ホテルが存在したが、東京にはまだ外国人向けのホテルはなかった。慶応3年(1867年)7月から隅田川に面し、舟運に便利な築地鉄砲洲(つきじてっぽうず)(現中央区築地6丁目付近)を外国人居留地にあてることが決まると、ホテルも8月から着工し、翌年(明治元年)11月19日の開市にあわせて8月に竣工する。
     公文書には外国人旅館と記していたが、一般には築地ホテル館と呼ばれた。設計はアメリカ人建築家ブリジェンス、工事は2代目清水喜助(しみずきすけ)によって行なわれた。木造2階建て、錦絵に記された数値を換算すると、間口約76メートル、奥行約72メートル、高さ約28メートルの規模になる。客室102室。各部屋には暖炉が据え付けられ、海側に面した部屋にはベランダも設けられた。よくみると外壁には日本建築によく見られる海鼠壁(なまこかべ)がほどこされ、中央部屋根の上には3層からなる塔がそびえ立つ。窓には禅宗寺院によく見られる火灯(かとう)窓(花頭窓)、1階・2階の外廊下には風鐸(ふうたく)が吊るされている。いわゆる日本の在来技術と西洋風の様式を折衷した擬洋風建築のホテルは当時の話題となり、東京の新名所として錦絵に多く描かれた。その数実に100種にもおよぶという。
     築地ホテル館は開業から5年後の明治5年(1872年)2月、銀座の大火によってあえなく焼失する。翌年、築地精養軒(つきじせいようけん)ホテルが建つ。明治23年(1890年)に麹町山下町に帝国ホテルが開業する。築地ホテル館は日本のホテル史の1頁を飾ることになった。

  • 東京名所高輪蒸気車鉄道之全図
    月岡芳年 画
    1871年(明治4年)

     明治5年(1872年)9月12日、東京の新橋と横浜を結ぶ日本ではじめての鉄道が開業した。これにより、東京と横浜はわずか53分で結ばれることになった。乗車賃は上等・中等・下等にわかれ、下等でも片道1人37銭5厘であった。当時の米1升が約4銭であったから、庶民にとってはかなり高く、なかなか利用の機会はなかったようだ。それでも黒い煙を盛んに噴き上げ、見たこともないスピードで走る「陸蒸気(おかじょうき)」=蒸気機関車は、明治を迎えた人々に、まさに「新しい時代」の到来を強烈に印象づけた。
     日本人が国内ではじめて走る蒸気機関車を見たのは、これに遡ること18年、幕末の嘉永7年(1854年)のことであった。この年、2度目の来日を果たしたペリーは、アメリカ大統領から将軍への献上品の1つとして、実物の4分の1の蒸気機関車の模型を携えてきた。試運転は横浜応接所で行われたが、その場に居合わせた人々の驚きは大変なものであったと伝えられる
     ここに紹介した錦絵。高輪を通過する蒸気機関車を描いたものであるが、実はこの絵が板行(はんこう)されたのは、鉄道が開業する前年、明治4年(1871年)であった。つまりこれは、絵師・月岡芳年(つきおかよしとし)による「想像図」なのである。明治2年(1869年)、鉄道の建設が正式に決定され、その翌年から敷設のための測量などが行われるようになる。このころからこうした鉄道想像図は盛んに描かれるようになった。着々と進む工事を見て、人々は待ちきれぬ思いで、この「文明の利器」の走る姿に思いを寄せたのであろう。

  • ドレス

     この青い1着のドレスは、明治時代、某大名家の家老ゆかりの女性が持っていたものである。襟を高く、そして袖を長くして肩や背中を見せないことから、主に昼間着用された通常礼服、ローブ・モンタントの一種であることがわかる。
     当時の上流の女性たちは、時の政策のままに、突然洋服着装が求められたのであるが、日本古来の着物から洋服に着替えた彼女は、いったいどんな気持ちでこのドレスを眺めたのであろうか。
     このドレスの一番の見どころは、紛れもない西洋文化のドレスであるにもかかわらず、その布の地文に、日本古来の模様が美しく織り出されている点にある。
     一見単なる縦縞模様にも見えるが、実はその縞自体が、横繋花菱文(よこつなぎはなびしもん)や卍繋文(まんじつなぎもん)といった、日本の古典的な文様から成り立っているのだ。しかも、その縞と縞の間に見え隠れするように描かれているのは、竹の葉であること、そして縦縞の所々に竹の節が描かれていることにも気が付けば、これが明らかに日本の伝統的な模様のひとつ、竹林文(ちくりんもん)になっていることも理解できる。徹底的に文様化され、幾何学的な表現をとる竹の幹と、それとはまったく対照的に、筆の勢いをそのまま生かした、大胆で自由な表現をとる竹の葉との魅力的な拮抗。恐らく数多くの竹林文の中でも、デザイン性の高いものの1つに、数えられるのではないだろうか。
     欧化政策の最先端をゆくドレスでありながら、そこに日本の伝統的な世界が堂々と共存している。あまりに慌ただしく西洋化してゆく社会にあって、柔順に、だが、毅然としてそれに立ち向かっていったであろう日本女性の、ひいてはその頃の日本の文化そのものの匂いが、何か伝わってくるような気がするドレスだ。

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