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  • 土俵軍配意匠煙草盆
    どひょうぐんぱいいしょうたばこぼん
    江戸時代後期(1746年〜1841年)

     江戸時代の前期には、京都や大坂など上方の相撲が断然強かった。しかし18世紀の後半、つまり江戸時代の後期になると、上方相撲より江戸相撲の方が強くなった。
     ちょうどそのころ、小説・絵画・演劇など文化の世界でも、江戸の文化が上方の文化を凌ぐようになった。文化の東漸(とうぜん)である。相撲も、その文化の東漸と軌を一にしていたことは、きわめて示唆的である。
     相撲は、江戸文化の発達と密接に関係していた。たとえば、江戸が生んだ代表的文化に錦絵(にしきえ)がある。その錦絵には役者絵・美人画と並んで相撲絵が多い。今日でいえば人気力士のブロマイドにあたるから、相撲絵はたいへんよく売れ、錦絵の普及に大いに寄与した。また歌舞伎をはじめ、当時の小説や川柳にも相撲を題材としたものが多くみられた。日常の生活用品や、人形や子供玩具のデザインにも相撲は取り入れられた。
     写真の「土俵軍配意匠煙草盆」もその一つである。煙草盆といっても、巻きタバコ全盛の今日では、めったにお目にかからなくなったので、どんなものか知らない人が多いだろう。多くの人が刻みタバコをキセルで喫煙していた時代、煙草盆はどの家庭にもあった日用品である。提手(さげて)のついた木製の盆に、陶器の火入れと竹筒の灰吹きがのっていた。
     本品は、きわめて精巧な作品である。盆の部分は鶴と菊の蒔絵(まきえ)が施され、二段の引き出しがついている。竹の筒を模した赤銅(しゃくどう)製の灰吹きには、相撲の軍配(ぐんぱい)の形をした蓋(ふた)がのっている。軍配の字は「寿」なので、この煙草盆は、何かの祝いの折につくられたものであろう。
     また赤銅製の火入れは、土俵のデザインになっており、それも江戸中期から昭和初期まで行われていた二重土俵である。その上に四本柱をたて、障子屋根を連想させる市松模様の屋根がついている。江戸時代の土俵の屋根は、こうした障子屋根であった。
    したがって本品は、相撲史研究の好資料でもある。
     本品は、非常にすぐれた美術工芸品であるが、決して単なる飾り物ではなかった。屋根の裏側には、火入れからの煙の跡が黒々としており、また灰吹きの上面には、灰を叩き落とした時のキセルの雁首(がんくび)による疵跡(きずあと)が生々しく残されており、日常的に使いこなしていたことがよくわかる。まさに江戸生活文化の粋(すい)であった。

  • 冬の宿嘉例のすゝはたき
    ふゆのしゅくかれいのすすはたき
    1855年(安政2)11月
    歌川豊国(3代)画

     一年の締めくくりとなる師走。新年を迎える準備であわただしい日々を過ごすことになる。準備を始める日は、12月13日とする地域が民俗学的にも多いことがわかっている。この日から煤(すす)払いを始め、門松用の松の切り出し、餅搗きなどの準備に取りかかるようになる。
     12月8日を正月の事始めと称して正月の準備を始める日、そして2月8日を事納めとして年神(としがみ)の棚をはずしてすべての正月行事を終えるとする伝承がある。関東地方ではこの8日に目籠(めかご)を竹竿に吊して、屋根の上に立てかけた。悪霊を防ぐためだという。関東地方は2月8日、関西地方は12月8日の、こと8日を重視するというが、12月8日と13日のズレはあるものの、正月の準備を始める日として意味的には同じと考えられている。
     江戸幕府は、12月1日から12日まで煤払いを行い、13日に納めの祝いをした。その習慣が町方にも広まったとする説もある。一般的な掃除ではなく、正月という大きな節目を迎える準備作業との認識は、武家町人の身分を越えて共通するものがあった。
    10日ころから売り出される煤竹(すすだけ)は、門松や注連縄(しめなわ)などと一緒に小正月に燃やされることを考えると、煤竹は神迎えの道具であり、煤払いは正月の神祭り行事の一端を担っていたことがわかる。
     町方の商家では昼間忙しくて、掃除をすることができないので、夜間に行われることが多かった。そのため提灯を提げ、蝋燭をともしながらの作業となった。煤払いが終わると胴上げする習慣があったようで、誰それとなくかまわず捕まえて数人で胴上げしたという。また、鳶(とび)や職人らの手伝いも加わり、掃除が終わると酒肴の振る舞いで大わらわとなる。この図版の左下にも重箱に詰められたにぎりめしと煮染めなどの食事の支度ができている。また蕎麦の振る舞いもなかにはあったようだ。
     あわただしいなかで鳶や職人の力を借りながら、煤払いを協働で進める絵の様子は、江戸の町人の社会関係と、生活の躍動を見せつけてくれる。

  • 仮名手本忠臣蔵 十一段目
    かなでほんちゅうしんぐら じゅういちだんめ
    1790年〜1804年(寛政2年〜文化元年)
    渓斎英泉画

     時は元禄14年(1701年)3月14日、勅使拝謁(ちょくしはいえつ)の準備でいそがしい、ご存じ、江戸城松の廊下。
    赤穂(あこう)藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は突然、吉良上野介(きらこうづけのすけ)に斬りつけ傷を負わせた。
    取り押さえられた内匠頭は、切腹。浅野家は領地没収のうえ、お家断絶となった。その一方、吉良上野介にはなんのお咎めもなかった。
     浪人となった旧赤穂藩士たちは、お家再興の望みをつなぐ。
    だが、その願いもむなしく、翌年12月14日夜、ついに四十七士は吉良邸に討ち入り、内匠頭の無念をはらす。後に浪士たちは、幕命により切腹して終わる。世にいう赤穂事件である。
     やがて事件は脚色され、「仮名手本忠臣蔵」が人気を博すと、忠臣蔵ものは、芝居や小説、絵画などの分野で取り上げられた。
    主君への忠義を貫くことで体制に批判を突きつけた男たちの物語は、悲劇の最期ゆえに愛され、時代を超え語り継がれたのである。
     図版は渓斎英泉(けいさいえいせん)の描く討ち入りの場面。江戸東京博物館は、舞台の本所吉良邸から徒歩5分ほど。浪士たちが吉良邸から引き揚げる際に渡ったという永代橋も近い。その縁か現在、博物館には総計400点を超える忠臣蔵関係の絵画資料がある。江戸期の喜多川歌麿、歌川広重、葛飾北斎の浮世絵から戦前の教育紙芝居にいたるまで、豊富な量・質を誇る。
     通覧してわかるのは、「忠臣蔵」に対する解釈の変遷と、絵師たちの個性である。遠近法を取り入れた浮絵(うきえ)とよばれる手法で描くもの、広重のように討ち入りを六場面にわたり詳細に記すものなど。絵師としての手腕と赤穂事件によせる思いが伝わってくる。これらの資料群の中核となるコレクションの収集が決定したのは平成4年(1992年)12月14日。旧暦と新暦の違いはあるが、討ち入りから290年後のその日であった。

  • 江戸城年始登城風景図屏風
    えどじょうねんしとじょうふうけいずびょうぶ
    明治時代
    佐竹英湖画

     江戸幕府の公式行事は、元日の午前8時ごろに登城してきた御三家を筆頭とする諸大名、諸官らによる将軍への年始挨拶に始まる。それから三が日の間に、江戸に滞在するすべての大名、旗本らの幕府諸官が一斉に江戸城へ登城する。そのあり様の壮観さと賑わいは、江戸の代表的な風物詩でもあった。
     ただ、いくら大人数で城へ向かっても、大手門(おおてもん)、坂下門(さかしたもん)といった城内へ入る門から先へは、有力大名といえど10人ほどのお供しか許されず、他の多くの家臣は、門前で待機しなければならなかった。
     この屏風は、現在の皇居外苑から大手門前にかけて展開するその情景を描いたもの。林立する槍や空乗物(からのりもの)(駕籠)の周りで歓談したり、寝そべったりしながら、主人の帰りを待つ武士のさまざまな姿が見てとれる。
     注目すべきは、食べ物や酒の屋台、瓦版売りといった商いをする町人が入り交じっていることだ。主人を待つ以外にすべのない武士たちにとっては、格好の暇つぶしとなったのだろう。必要悪とされたのか、屋台などの数を制限する法令は出されても、商いそのものは禁止されなかった。武家の都・江戸ならではの光景を丹念に描き出しており興味深い。

  • 七福神宝舟の図
    しちふくじんたからぶねのず
    1847年〜1852年(弘化4年〜嘉永2年)
    歌川芳虎画

     舳先(へさき)には竜の頭、帆柱の頂に宝珠(ほうしゅ)を載せて、帆には宝の文字。順風満帆の宝船がこちらへやってくる。もちろん船にはおなじみの顔ぶれが乗り合わせている。左下には、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出(うちで)の小槌(こづち)を持つ大黒天(だいこくてん)。その右には大きな腹を露出し、大きな袋を持つ唐の禅僧布袋(ほてい)。その上には長い杖を持ち長頭で髭の多い福禄寿(ふくろくじゅ)。左には女性の弁財天(べんざいてん)。その上には長頭で団扇を持った宋の人寿老人(じゅろうじん)。右には風折烏帽子(かざおりえぼし)で鯛を釣り上げる恵比寿(えびす)。そして最後に甲冑(かっちゅう)を着け、鉾(ほこ)と宝塔を持ち忿怒(ふんぬ)の形相をした毘沙門天(びしゃもんてん)が一番上に控えている。空には鶴が舞い、水際には亀もいる。なんともめでたい、正月ならではの縁起物の絵だ。
     図の上には、「長き夜の遠の眠りの皆目ざめ波乗り舟の音のよきかな」と廻文(かいもん)が詠われている。これを三度読んで寝ると吉夢を見て、幸運を得るという。歌は室町時代からあるとされているが、眠らないための呪い(まじない)歌だともいう。
    今でも大晦日から正月は夜更かしをして、眠らないことが多い。眠ると正月に訪れる福を逃してしまうという考え方が背後にあるからだろう。
     夢は生理現象ではなく、神仏の啓示であると信じられており、夢見は占いであり、その吉凶が大きな運勢を決めると考えられていた。年頭最初に吉運ある初夢を見るために、宝船の絵を枕の下に入れて眠る習慣は、室町時代から将軍をはじめ、庶民の間でも一般に広く行われた。
     江戸では古くは大晦日に売られたが、天明のころから正月二日の宵に「道中双六(どうちゅうすごろく)、おたから、おたから」と叫びながら、宝船の絵や双六を売り歩くようになる。手に入れた宝船の絵を枕の下に敷いて寝る。初夢を占う行事に変化していったことがわかる。悪い夢を見たら、翌朝絵を川に流した。幕末ごろにはこの習慣が一般化して、吉凶にかかわらず地に埋めるようになったといわれる。
     宝船の図柄にも多種多様なものがある。船の上に珍宝(ちんぽう)や俵を乗せたシンプルなもの。図のような豪華なメンバーを従えるものなど、七福神が乗っている図柄は江戸のものに多い。また、時代や地域によっても違う。海のかなたから船に乗って訪れる福の神の図柄は、いつの世も変わらぬ人々の願いを映しだしている。

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