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  • 源頼光公舘土蜘蛛作妖怪図
    みなもとのよりみつこうつちぐもようかいをなすのず
    歌川国芳 画
    1847年(天保14年)

     源頼光の土蜘蛛(つちぐも)妖怪退治の話は、『平家物語』や能の「土蜘蛛」などに見られる。僧に化けた土蜘蛛が病床の頼光を襲おうとする場面は、この説話のクライマックスといえる。画面右上の人物が摂津守(せっつのかみ)源頼光朝臣(あそん)。その左手には名刀膝丸(ひざまる)が妖怪の悪事をはばむように、凛とその存在を主張している。中央には、妖気を感じながらも囲碁に興じる四天王の姿がある。四天王は頼光の家来で、右から勘解由判官卜部季武(かげゆはんがんうらべすえたけ)(沢瀉模様)、内舎人渡辺綱(うどねりわたなべのつな)(三ッ星に一の紋)、主馬佐坂田金時(しゅめのすけさかたのきんとき)(赤銅色の肌)、靫負尉碓井貞光(ゆげいのじょううすいのさだみつ)(御所車の紋)が、それぞれを特徴づける着物の柄などとともに描かれている。
     頼光は平安時代中期の武士。弓の名手としても有名で、武勇伝説の代表的人物だ。足柄(あしがら)山中で金太郎(怪童丸または金時ともいう)と出会い、家来にするという説話もある。金太郎はのちの坂井金時で、酒呑童子(しゅてんどうじ)の退治などで功を上げる猛将となり、数々の伝説を残している。
     天保14年(1847年)年に制作されたこの絵は、天保の改革により処罰を受けた者を妖怪に見立て、頼光を12代将軍家慶、卜部季武を老中水野忠邦とする風刺画といわれている。四天王の残りの3名も、渡辺綱が老中真田幸貫(ゆきつら)、坂田金時が老中堀田正篤(まさひろ)(のちの正睦)、碓井貞光が古河藩主土井利位(としつら)に、それぞれ見立てられている。
     この絵を描いた浮世絵師歌川国芳は、愛猫家としても有名で、猫を題材にした絵や武者絵、洋風風景画、風刺画などを多く描いている。なかでも、伝説上の豪傑物語に取材し、奇想な表現力で描く武者絵は、江戸庶民の興味をひき、人気を博した。

  • 江戸名所一覧双六
    えどめいしょいちらんすごろく
    二代歌川広重 画
    1860年(万延元年)

    正月遊びには、凧あげ、羽根つき、独楽回しなどに加えて絵双六が定番としてあげられる。双六は、子どもから大人までひとつになって楽しむことのできる優れた玩具で、絵柄や内容によって奥深い価値を見出すことができる。
     参加者はみな「振りだし」から「上がり」をめざしてサイコロを振っていくが、賽(さい)の目の偶然性に振り回されながらあちこち移動したり、前進後退を繰り返す。おもわぬ展開に一喜一憂し、ままならない賽の目に憤慨しながら我を忘れて没頭するのも双六の醍醐味だ。
     双六の伝来は古い。正倉院には桓武天皇愛用品として螺鈿(らでん)細工が施された8世紀の双六盤が伝世しているし、さらにさかのぼる持統3年(689年)には「双六禁止令」が出されてもいる。賭博用具として広く普及していたためである。
     写真のような双六は近世から。当初は絵双六ではなく、官職名や仏名を子弟に覚えさせる教材として用いられたが、近世中期からその種類は豊富となり多様な双六が誕生してくる。
     双六の持つ娯楽性を最大限に引き出しているのは、出世双六、道中双六、名所双六、役者双六などに見られるような視覚的な表現だ。庶民であっても将軍や大店(おおだな)のお大尽や、流行りの歌舞伎役者になれたりする。あこがれの京の都や富士山に行くことも可能となる。一枚の紙片の上を縦横無尽に移動しながら、双六の上では非現実の世界に没入することができた。双六は変身の装置になっていたといえよう。さらに、子どもたちにとっての双六遊びは、世の中の仕組みや身分などの上下関係、地理的世界を知る学習の機会でもあったことは、私たちも経験的に理解できよう。


     写真は、日本橋を振りだしに江戸の神社仏閣などの名所をめぐりながら再び日本橋に戻る絵双六。江戸市中の景勝地や神社仏閣などの名所、55か所を取り込んでいる。隅田川の東岸上空から西方の富士山に向かって眺める一目図(ひとめず)のスタイルは、大江戸の範囲を一望し、繁華な都市の様相をビジュアルに示している。飛行機のないこの時代、多くの人に驚きと憧れを与えた俯瞰図(ふかんず)は、当時の人々にとって非日常の世界そのもの。ましてや江戸を知らない地方の大人や子どもたちが歓喜しながらサイコロ片手に江戸の町をめぐるのは、夢のようなひとときだったに違いない。
     絵師は二代歌川広重。初代は「東都名所」や「東海道五十三次」などの続絵(つづきえ)で知られているが、二代広重は初代の養女お辰の婿となった弟子の重信(しげのぶ)である。幕末から維新期の開化風俗や異国人を描く「横浜絵」に腕をふるった絵師だった。
     

  • 大名火事装束
    だいみょうかじしょうぞく
    江戸末期(1842〜67年)

     火事装束とは、江戸時代、火災の時に男女とも用いた非常用の衣装である。大名家の火事装束は、町方の火消が着る刺子半纏のように、機能的で実用性のある作りにはなっていない。これは、消火作業に従事するために着用するというよりも、危急の際の警固、あるいは指揮用として、大名の威儀を示すため、華やかさに重点を置いているからだ。戦国時代の甲冑は、武士にとって決死の覚悟で戦場へ向かうハレの装束の意味合いを持っていたが、江戸時代に入ると、火事装束がそれにとってかわるようになった。大名の息女は嫁入り道具にみずから着用する装束をしつらえ、持参していた。
     写真は、長崎県対馬の宗家に伝わった羽織、胸当、野袴、それに錣付(しころつき)の兜の一式。幕末ごろ製作されたもので身長170センチくらいの、当時としては大柄の男子用の装束である。女子は、兜のかわりに烏帽子型の頭巾をかぶった。
     生地は、厚手で織り目が見えず、熱に強い毛織の羅紗(らしゃ)が使われ、羽織、胸当には五七桐(ごしちのきり)の家紋が縫いつけられている。また、この胸当や野袴は、非常に手の込んだ華やかなデザインの刺繍が施されている。江戸の町が発達するにつれ、頻繁に火災が発生し、組織的な防災活動が必要になったこと、大きな戦乱のない泰平の時代で、武装が形式的になったことから、このような大名家の工芸品が生まれた。

  • 大名火事装束
    だいみょうかじしょうぞく
    江戸末期(1842〜67年)

     火事装束とは、江戸時代、火災の時に男女とも用いた非常用の衣装である。大名家の火事装束は、町方の火消が着る刺子半纏のように、機能的で実用性のある作りにはなっていない。これは、消火作業に従事するために着用するというよりも、危急の際の警固、あるいは指揮用として、大名の威儀を示すため、華やかさに重点を置いているからだ。戦国時代の甲冑は、武士にとって決死の覚悟で戦場へ向かうハレの装束の意味合いを持っていたが、江戸時代に入ると、火事装束がそれにとってかわるようになった。大名の息女は嫁入り道具にみずから着用する装束をしつらえ、持参していた。
     写真は、長崎県対馬の宗家に伝わった羽織、胸当、野袴、それに錣付(しころつき)の兜の一式。幕末ごろ製作されたもので身長170センチくらいの、当時としては大柄の男子用の装束である。女子は、兜のかわりに烏帽子型の頭巾をかぶった。
     生地は、厚手で織り目が見えず、熱に強い毛織の羅紗(らしゃ)が使われ、羽織、胸当には五七桐(ごしちのきり)の家紋が縫いつけられている。また、この胸当や野袴は、非常に手の込んだ華やかなデザインの刺繍が施されている。江戸の町が発達するにつれ、頻繁に火災が発生し、組織的な防災活動が必要になったこと、大きな戦乱のない泰平の時代で、武装が形式的になったことから、このような大名家の工芸品が生まれた。

  • デルビル磁石式乙号卓上電話機
    でるびるじしゃくしきおつごうたくじょうでんわき
    1892年〜97年(明治25年〜30年)


     明治23年(1890年)東京―横浜間で電話が開通。このとき使われた電話機は、ベルがアメリカで発明した受話器と、ガワーがイギリスで発明した送話器を組み合わせたガワーベル電話機であった。明治29年(1896年)、より高感度の「デルビル送話器」を組み合わせたデルビル磁石式電話機が採用された。内部に磁石による発電機能を持ったこの電話機の誕生により、電話の性能は格段に向上した。最初は壁に掛ける形のみだったが、間もなく卓上型の電話機が登場した。送話器と受話器が同一に収められた現在の形に近い甲号と、受話器のみを耳に当て、送話器に向かって話す乙号(写真)の2種類があった。
     その後も電話機の進化はめざましく、昭和2年(1927年)手動交換から自動交換方式に対応したダイヤル付き電話機をはじめ、プッシュホン、コードレス式、ファックス付き、携帯電話など、さまざまな電話機が登場した。電話機は、遠く離れた相手に情報を伝えるためのツールとしてわたしたちの生活に欠かせないものとなっている。
     電話で使われる「もしもし」という呼びかけは、昔から人に呼びかける言葉として使われていた。この110年の間に電話機の形や機能は様変わりしたが、「もしもし」という言葉だけは変わらなかったようである。  

  • 電気スタンド型真空管ラジオ
    でんきすたんどがたしんくうかんらじお
    日本電波株式会社 製
    1935年〜44年頃(昭和10年代)


    一見、奇妙な置物にみえるこの真空管ラジオ受信機は、昭和10年(1935年)ごろ作られたもので、電気スタンドと兼用になっている。コードで電源をとる交流式のラジオで、台座の四隅に立つ柱には真空管が収まる。屋根の内部についたソケットに電球が下向きに取り付けられており、筒状のガラス部分が電光を乳白色に映す。屋根は、ラジオのスピーカーとしても機能していた。
     我が国のラジオ放送は大正14年(1925年)に開始されたが、当時のラジオ受信機の7割はレシーバーで聞く鉱石ラジオで、利用者の大半は部品を買って自分で組み立てていた。
     本格的なものといえば、アメリカRCA社製など大型の電池式真空管ラジオか、それを模した国産品しかなく、千円で家が建つ時代に、前者の価格は千円弱、後者でも三千円以上という超高級品であったため、ラジオの普及率は当時わずか0.1%にすぎなかった。
     昭和に入ると、廉価で扱いやすい受信機が徐々に広まり、昭和10年(1935年)には放送網も拡大され、ラジオの普及率が全国で10%、東京では50%にも達した。
     また、昭和初期から東京などの都市生活でアイロン、扇風機など家庭用の電化製品が使われるようになった。洋風の間取りの文化アパートや洋風の応接間を備える文化住宅などが作られ、それにあわせてモダンなデザインの電気スタンドも普及した。
     スタンドラジオは、こうしたモダン生活を彩る実用的なインテリアであった。 

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