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  • 江戸城謡初図
    江戸時代中期(17世紀前半) 
    福王雪岑(ふくおう せっきん)画 96200001

    江戸城謡初図(えどじょう うたいぞめず)
    江戸時代の謡初は、毎年正月3日の夕刻、江戸城本丸表大広間で行われた幕府の恒例行事で、その起源は、戦国時代末期に観世大夫(かんぜだゆう)が家康の夜着を着て能を舞った故事にさかのぼる。
     この日は江戸にいるすべての大名たちが大広間に集まり、観世大夫をはじめとする幕府お抱えの能役者らによる「高砂」の謡や「老松」の囃子(はやし)などを将軍とともに楽しんだ。大夫らの熱演に対して、諸侯が自らの肩衣を脱いで下賜するのがならわし。翌日、大夫が諸侯の屋敷へその肩衣を返しに行くと、引き換えに褒美を賜るという粋なはからいがあった。
     図の右端に裾の長い裃で着座しているのは諸大名、松が描かれた襖前に列座しているのは老中と若年寄、左下の板の間に烏帽子姿で伺候しているのが能役者たちで、中央左上の「中段の間」には、めでたさを演出する蓬?飾りがのぞいている。その横には将軍が着座しているはずだが、ちょうど欄間で隠れるような構図になっている。
     大広間付近の間取りに若干の食い違いが認められるものの、襖に描かれている松の図などは現存する江戸城障壁画の下絵と一致しており、大広間の様子を比較的、忠実に描いているといえる。御簾の意匠や欄間の松喰鶴なども興味深い。作者が、観世流のワキ方福王流の家元、福王茂右衛門盛勝(ふくおう もえもんもりかつ)(雪岑)であることからも納得がいく。その意味では、江戸時代の謡初の様子を現代に伝える貴重な作品といえよう。

  • 黒塗桐鳳凰文様金銀蒔絵貝桶・合貝
    江戸末期(1842〜67年) 
    88206044、88290038〜39、88970001〜02・42〜81

    黒塗桐鳳凰文様金銀蒔絵貝桶(くろぬり きりほうおうもんよう きんぎんまきえ かいおけ)・合貝(あわせがい)
     3月の桃の節句が近くなると、女の子のいる家庭では雛飾りを備える家も多いだろう。
     豪華な7段飾りには雛道具を並べるが、その一つに合貝を納める貝桶がある。これは、合貝、貝桶が江戸時代には公家や武家の婚礼調度とされていたためで、合貝に使う二枚貝の蛤がほかの貝とは決して対にならないことに由来する。この特性を生かした「貝覆い」(通称「貝合わせ」)は、平安時代から主に貴族の間で遊ばれた伝統的な遊戯である。
     この豪華な意匠の資料は、徳川13代将軍家定の夫人天璋院の婚礼調度と伝えられている。対の貝桶には、黒漆地に桐と鳳凰文様が金銀の蒔絵で施され、合貝の大半に鳥が描かれた鳥尽くしになっている。
     注目されるのは、鳥の特徴をよく描き分けており、江戸後期に隆盛をみた博物学の影響を色濃く反映していることである。
     名前が判明したものだけで32種類の鳥が描かれている。なかには、鳳凰や鸞(らん)などの伝説上の鳥や、実在しないと思われる鳥もあるが、同じスズメ目の鳥でもスズメとニュウナイスズメの微妙な色の違い、オオタカの親鳥と幼鳥の羽毛の模様の違いなど細かく描き分けている。一点ずつ見ていくと、この時代の自然観を示唆しているようで興味深い。

  • 萌葱練緯地菖蒲花文小紋染胴服
    1615年(慶長20)12月1日 
    徳川家康着用  98200135
     
    萌葱練緯地菖蒲花文小紋染胴服(もえぎねりぬきじしょうぶはなもんこもんぞめどうふく)
     慶長20年(1615年)5月、大坂城は徳川方の諸軍の猛攻で落城し、豊臣家は滅亡した。大坂夏の陣である。
     徳川方の軍に今村正長という人物がいた。今村家は幕府旗本の家柄で、この合戦では徳川家譜代の家臣である青山忠俊の隊に属していた。戦いの最中、正長は大坂方の銃弾で自分の馬を失い、徒歩で戦うことになってしまった。同じ青山の家来である近藤忠右衛門はこれを不憫に思い、正長に葦毛(あしげ)の馬を貸し与えた。正長は借りた馬に乗り、再度敵陣に攻め入った。
     ところが今度はこの馬を敵方に奪われてしまった。正長は責任を感じ、「もし馬を取り返せなければ、討ち死にしたと思ってほしい」と告げて戦塵(せんじん)の中へ消えていったのである。
     正長は見事に敵を討ち取り、奪われた馬を取り返し、馬とともに自らの軍功の証である首を差し出し、「自身の戦功として申告するように」という意を込めて、忠右衛門に馬を返した。そして正長は自分の軍功を過少に申告した。
     この軍功の?末はのちに家康の知るところとなり、その年12月1日に家康自ら着用の胴服を正長に褒美として与えた。それがこの胴服である。
     絹に小紋が染められ、三葉葵紋(みつばあおいもん)が据えられている。状態も江戸初期のものとは思えないほどによいものだ。この胴服は徳川秀忠朱印状や旗本今村家の由緒書、さらには近代の文書などの資料とともに、一括して江戸東京博物館に収められた。資料の状態や伝来は、祖先の武功を讃え、神君家康を崇めた今村家の思いを物語っているようだ。

  • 染付芙蓉手
    江戸時代中期(1690〜1720年)  95201624

    染付芙蓉手(そめつけ ふようで)VOC字文皿
    写真の皿は肥前有田でつくられた染付磁器である。VOCとは、オランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie)の頭文字をとった略称である。同社は17世紀から18世紀にかけて、オランダのアジア貿易を独占していた。当時の西欧では、まだ磁器焼成技術がなく、中国へその生産を依存していた。しかし、17世紀中ごろ、中国では国内事情により磁器生産が激減し、オランダ東インド会社は日本へ生産を依存するようになり、有田で輸出向けの磁器が大量につくられるようになった。
     芙蓉手皿は、明時代末期の中国・景徳鎮窯(けいとくちんよう)磁器を手本としているため、形や絵柄は類似しているが、17世紀末から18世紀の初めごろに焼成された写真の皿は、細部で和風に変化した絵柄になっている。
     この海外輸出品の生産により、有田の磁器焼成技術は飛躍的に向上した。しかし、18世紀半ばになると、中国清朝が磁器の輸出を再開したことなどにより、VOCは日本との磁器取り引きを打ち切った。その後、日本の磁器生産は国内向けに切り換えられていく。

  • 『動物図説』(オランダ語版)
    1660年(万治3) 
    ヤン・ヨンストン著 91222340

    『動物図説』(オランダ語版)
     ポーランド生まれのヤン・ヨンストンが著した一種の動物百科事典。1649〜53年にフランクフルトで刊行された原本はラテン語であるが、1660年(万治3年)にアムステルダムでオランダ語版が刊行された。内容は、四足動物、魚と海獣、鳥、蛇などの6部構成となっている。本書の最大の特徴は、画家メリアムが描いた250枚にも及ぶ精密で美しい挿図があることで、そのためヨーロッパではたいそうもてはやされた。
     『動物図説』は寛文3年(1663年)に江戸参府したオランダ商館長インダイクから、4代将軍徳川家綱に献上されたが、これがわが国に渡来した最初の蘭書となった。しかし、精密な挿図があるとはいえ、当時の幕府にとって動物百科はなんら用をなすものではなく、長く文庫に眠ることになった。
     これがようやく日の目を見たのは、それから五十四年後、8代将軍徳川吉宗の目にとまってからである。動物好きだったことでも名高い吉宗は、医師の野呂元丈(のろ げんじょう)に対し、商館長が江戸に来るごとに動物名をたださせ、通詞(つうじ)によって日本語を訳させた。
     その後、吉宗による禁書令の緩和などによって、『動物図説』は民間人の手にも渡るようになったが、内容よりも挿図が、西洋画の技法を学ぼうとする画家たちに大きな影響を与えた。南蘋派(なんぴんは)の画家、宋紫石(そう しせき)もその一人である。彼は、平賀源内(ひらが げんない)が所蔵していた『動物図説』を閲覧し、その中からライオンの図を模写し、『古今画藪(ここんがそう)』という画譜に収めている。

  • 新橋ステンション
    1881年(明治14) 
    小林清親画 85200733

    新橋ステンション
    明治5年(1872年)9月12日、新橋―横浜間の鉄道が開業した。新橋駅は、文明開化の象徴として、多くの錦絵に色鮮やかに描かれた。それに対し、小林清親の描く新橋駅は、夜の闇に灰色の駅舎が浮かび、オレンジ色の窓あかりが漏れる。駅前にはたくさんの人力車や人の影があり、雨にぬれた傘と道が、窓や提灯のあかりを反射して光る。独自の明暗表現で光と影をあらわした、いかにも清親らしい描写である。
     新橋駅は、江戸時代に龍野藩脇坂家、仙台藩伊達家などの大名屋敷があった汐留につくられた。駅舎はアメリカ人ブリジェンスの設計。木の骨組みの外側に石を張った構造で、二階建て二棟とそれをつなぐ平屋で構成されていた。石材には白、黒まだら模様の凝灰岩が使われている。
     明治初期の洋風建築として人々に親しまれたこの駅舎も、大正3年(1914年)の東京駅開業に伴って貨物専用の汐留駅と改称した後、関東大震災で焼失し、もとの新橋駅は忘れられてしまった。
     ところが、平成3年(1991年)から始まった汐留地区(港区)の発掘調査で、駅舎とプラットホームの基礎が創業当時の姿のまま掘り出された。駅舎は奥行き20.8m、幅34m。プラットホームは長さ151.5m、幅9.1m、高さ1.2m。
     江戸時代の海浜埋め立て地のため、駅舎の基礎は、水に強い松杭が30〜50cm間隔で土中深く打ち込まれ、沈降防止が図られていた。推定すると杭の総数は千本にもなる。大きな駅に当時の人々がいかに驚き、頻繁に錦絵の画題にしたのかが理解される。

  • 紙調琴
    1887年(明治20) 90361809

    紙調琴(しちょうきん)
    はたしてこれを紙調琴(しちょうきん)と呼んでいいのか、「紙腔琴(しこうきん)」と呼ぶべきなのか迷うところである。というのは、もともとこの楽器は戸田欽堂(とだ きんどう)という人物が考案し、明治17年(1884年)に銀座の十字屋が「紙腔琴」という商品名で製造・販売したのが始めだからである。
     構造は以下の通り。箱の中には風を起こすふいごが入っている。「紙調琴」と書かれた蓋の下には、14孔のリードがある。まず、ハンドルを回すと、箱の中のふいごが動き、風がリードに送り込まれる。その上を和紙の巻紙に孔をあけた曲譜が通ると、孔のあいたところには空気が通って奏鳴する、というしくみである。きわめて単純な構造であるが、「無師演奏(むしえんそう)」つまり師匠に習うまでもなく、だれでも簡単に演奏できるということで、大ヒット商品となった。曲譜には唱歌のほか、長唄、端唄(はうた)、琴歌、賛美歌などがあった。
     ヒット商品となれば類似品が出回るのは、古今東西の常。紙腔琴も同様で、十字屋は偽物に注意という新聞広告も出していた。ところが、明治29年(1896年)1月5日の『読売新聞』に「紙巧琴」という名の類似品の広告が堂々と掲載された。製造・販売はなんと銀座3丁目の十字屋の目と鼻の先、2丁目の尾張屋であった。同じ広告が翌日も出されたため、1月14日の『読売新聞』に今度は「本舗」十字屋が「粗悪の偽物現る御注意」と告知。17日も同紙に掲載した。このあと尾張屋の広告は紙面に出てこないが、結局この件、どのように落着したのかはわからない。
     さて、写真の「紙調琴」は、大阪の琴聲館(きんせいかん)というところが製造・販売したものである。製造年はわからないが、明治半ば頃であろう。大阪にまで広がっていたことは、この楽器の人気の高さをうかがわせるが、十字屋は大阪の「偽物」を知っていたのだろうか。

  • 東京ビール看板
    明治時代後期(20世紀初期) 89220133

    東京ビール看板
    「ビイール」ト云フ酒アリ。是ハ麦酒ニテ、其味至テ苦ケレド、胸隔ヲ開ク為ニ妙ナリ。亦人々ノ性分ニ由リ、其苦キ味ヲ賞翫シテ飲ム人モ多シ
     福沢諭吉は「西洋衣食住」(慶応3年)の中でビールの特質をこう表現した。
     日本にビールが到来したのは幕末のこと。横浜開港直後から輸入が始まり、明治初期には外国人技術者のもと、国内での生産も始まった。高級品だったビールは一部の人々の飲み物だったが、西洋文化の広がりとともに大衆化していく。
     輸入ビールは当初、バス・ペール・エールを代表とするイギリス風のビールが受けていたが、やがてドイツ風のビールが好まれるようになる。濃くて苦味の強いイギリス風ビールより、淡白な味わいのドイツ風のビールのほうが人々の嗜好に合ったためだろう。
     国産ビールの草分けのひとつ「桜田麦酒」は、イギリス風ビールの最大手だった。その後身の「東京麦酒」は、時流に合わせてドイツ風ビールの製造に乗り出す。ラベルには、夜明けを告げる真っ赤なニワトリ。再起をかけた出発だった。
     さて、気になる味のほうだが、当時のビールは全体的に苦味が強く、機密性の良くない木製樽で貯蔵したためやや気の抜けた味であったという。また、アルコール度が高く、粘性の強いビールは、続けて飲むのに適した味ではなかった。「キレ」や「爽快感」を謳う昨今のビールとは趣を異にしている。だが、味こそ違え、冷たいビールに胸膈を開いて語らう人々の姿は今も昔も変わらない。

  • ドレスメーカー女学院のカバン
    1948年(昭和23) 90002647

    ドレスメーカー女学院のカバン
     女性にとってファッションは大きな関心事だ。いまは、何が流行っているのだろう、今度のお給料では何を買おう、おしゃれに関する悩みは尽きないが、それはまた楽しい悩みだろう。
     戦時中は、自分の好きな服を着ることができなかった。男性には国民服が、女性にはもんぺの着用が決められていた。戦争が終わると、女性たちの間で、にわかに洋裁(ブームが起こった。洋裁学校の前には、入学願書を得るための長い列ができた。大正時代から続く洋裁学校の名門、ドレスメーカー女学院(現・杉野学園)にも、昭和21年(1946年)の入学時に、1000人の女性が集まった。
     青くて四角い「ドレメ」のカバンは、女性たちのあこがれだった。生地(きじ)も糸も手に入りにくい時代に、生徒たちは、家にのこった着物をほどいて教材にあてた。布団や紙まで利用した。下着も自分で作った。そうやって一生懸命つくった洋服を、しわにならないように、このカバンに入れていたという。
    女性たちを衝き動かしたものは、やっと自分の着たい服を着られるようになった平和への喜びだった。そしてまた、技術を身につけ、自分の手で、人生を切り開いていこうとする強い意志だった。このカバンには、平和な時代の到来によってとり戻された、女性たちのおしゃれ心と、夢と希望がいっぱいに詰められていた。

  • トランジスタラジオTR−63
    1943年(昭和28) 
    ソニー株式会社製 93007751

    トランジスタラジオTR−63
    第一次世界大戦の終結を機に様々な電化製品が輸入されるようになり、昭和に入ると国内での製造もはじまったが、これらはみな高価で、本格的な普及は、戦後の高度経済成長を待たなければならなかった。しかし、ラジオは大正15年(1925年)に放送が始まると、比較的早いペースで普及が進み、特に戦時下では、大本営発表や空襲警報を聴くため、急速に各家庭に定着していった。その意味でラジオという製品は、日本の家電発達史のなかで特異な存在である。
     がっしりとした木製ボディーの大きくて重いラジオ。戦後10年を経た昭和30年(1955年)、そんなイメージを一変させる製品が現れた。手のひらサイズにプラスチック製のカラフルなボディー。東京通信工業(現ソニー)がトランジスタラジオを完成させたのだ。
     トランジスタから製品までの一貫生産という点では世界初という快挙だった。そして、その決定版として昭和32年(1957年)に発売されたのがこのTR−63だ。セールスマンはこのラジオを納めるため、ポケットを少し大きめにしたワイシャツをあつらえて営業し、「ポケッタブル」という造語まで生み出した。
     時と場所を問わず、自分のためだけに楽しむ。そんな夢を実現すべく開発された製品だが、値段のほうは1万3800円と当時の大卒初任給の倍近く、販売には苦戦した。しかし、夢の追求は続いた。それから約半世紀。いまやステレオはもちろん、旅先でビデオカメラを撮ったり、小学生が街角で携帯電話を使っている姿が、普通の光景となった。

  • 白紺糸威具足
    江戸時代後期(19世紀前半) 
    92202316・2323・2329〜2331・2334・2335

    白紺糸威具足(しろこんいとおどしぐそく)
    金の小札(こざね)を白と紺の糸で綴り、兜の正面には、不動明王の化身である倶利迦羅を飾る。袖や、脛当(すねあて)には白檀(びゃくだん)塗りが施されている。随所に三葉葵紋(みつばあおいもん)の金具が据えられている。絢爛(けんらん)豪華なこの甲冑(かっちゅう)は、まさに徳川家の威勢を示している。
     付属する品から、紀伊徳川家11代の徳川斉順(なりゆき)所用のものだと判明している。斉順は11代将軍徳川家斉(いえなり)の7男として生まれ、10代紀伊藩主徳川治宝(はるとみ)の養子となり、紀伊徳川家を相続した。その生没年から、この鎧も19世紀前半の制作だろう。
     甲冑は平安時代の大鎧から胴丸(どうまる)、腹巻き、さらには当世具足(とうせいぐそく)へと変化し、江戸時代を迎えた。戦乱のなくなった江戸時代後期にあっては、大鎧などを模した復古調の甲冑が多く制作された。この甲冑のように装飾性に富むものの、実用からはほど遠いものだった。戦乱から隔たった時代にあって、なぜ甲冑は制作されたのか。その答えは甲冑の持つもうひとつの役割にある。たとえば、足利将軍家、徳川将軍家の両家とも、家を象徴する甲冑を殿舎に飾り、対面する儀礼を行っていた。また、大名家では新藩主が藩祖の甲冑を模して新しい甲冑を制作し、藩祖の権威を継承した。
     このように甲冑は、戦場とは異なった場で武士の本質である武威を表現し、権威の源泉となっていた。

  • 蜜陀絵牡丹文釣灯籠
    江戸時代後期(1746〜1841) 
    87201048

    蜜陀絵牡丹文釣灯籠(みつだえぼたんもんつりどうろう)
    むし暑い季節はひんやりとしたガラス器を使う家庭も多いのではないだろうか。風鈴をつって音色を楽しみ、金魚鉢の金魚を鑑賞するのは、いかにも日本らしい夏の風物詩だが、ガラスで涼を誘う習慣は、江戸時代に始まった。
    ガラスは、古代に作られた勾玉(まがたま)やトンボ玉など一部を除いて、17世紀前半まで海外からの輸入品として珍重されていた。その後国産品の製造が、唯一の海外交易港のあった長崎から始まり、18世紀前半には、大坂、京都、江戸へと広がって各地で盛んに作られるようになる。
    こうして江戸期のガラス製品は、徳利や杯などの飲食器、簪(かんざし)や櫛といった化粧道具、文房具など多種に及んだ。また夏の調度として好まれたため、季節感のある涼やかな色とデザインが多く、独自の工芸文化を形作った。19世紀に入ってからは、ガラスの表面をカットして模様を入れる、カット・グラスのひとつ、江戸切子が誕生する。
    写真の釣灯籠は、薄いガラス板に、古くから使われていた油絵具の一種、蜜陀絵具で牡丹を描き、4面にガラスのねじり棒を嵌(は)め込んだもの。これらのガラス器は、趣味の領域のものであったが、涼を求める江戸の人々の技術と繊細さを見ることができる。

  • 風流五節句之内 七夕
    1843年(天保14)頃 
    歌川国貞画  94203253

    風流五節句之内 七夕
     七夕祭りは、中国の織女星(ベガ)と牽牛(けんぎゅう)星(アルタイル)の伝説が、日本の民俗儀礼と融合して生まれたものとされている。祭礼のあり方は地域によってさまざまだが、短冊を笹竹に飾り、願い事をする風習は江戸時代になってからのものだ。
     ここに紹介する絵は香蝶楼国貞こと歌川国貞の作品。7月7日といっても旧暦のことだから、今の8月ごろにあたる。江戸時代なら、晴れた夜空を舞台に一年に一度の再会となっただろうが、梅雨の最中に七夕を迎える現代では、なかなか伝説のようにはいかない。笹竹を掲げる場所も現在とは少し異なるようだ。
     江戸の四季の折々を描いた『東都歳事記』によれば、6日の未明から「家毎の屋上に短冊竹を立ること繁く、市中には工を尽して、いろいろの作り物をこしらへ」とある。屋上に掲げられた笹竹は、短冊のほかにさまざまな飾り物によって彩られ、子どもたちはもちろん町中の人々が七夕祭りを楽しんだことだろう。女性の着物の絵柄にも注目したい。ここに描かれているのは梶の葉。織女星の異名は梶の葉姫ともいう。古くはサトイモの葉にたまった朝露で墨をすり、7枚の梶の葉に歌を書いて織女星を祭った。
     七夕が盛んになった理由は、大名奉公した町家の娘がこの風俗を町に戻ってまねたからという。七夕祭りは時代とともに少しずつ変化してきた。しかし、子どもたちが笹竹に短冊を飾る光景は江戸時代以来変わっていない。またいつの世にも変わらぬ、子どもの成長を願う親の情愛を見出すこともできる。

  • 東都名所高輪廿六夜待遊興之図
    1841〜42年(天保12〜13) 
    歌川広重画  90203021〜3

    東都名所高輪廿六夜待遊興之図(たかなわ にじゅうろくやまち ゆうきょうのず)
     題名の文字にも、また画面の中にもその姿はないが、実はこの錦絵(にしきえ)の主役は月だ。主役の名や姿がないにもかかわらず、この錦絵の主題は、当時の人にはすぐわかる江戸の年中行事のひとつだ。
     これはいわゆる「廿六夜待ち」(にじゅうろくやまち)と言われるもので、7月の二十六夜の月を拝むという年中行事。『東都歳事記』によると、「昔は此夜、田安の台、鉄砲洲、高輪等に諸人群集して月の出を拝するよし、天和以来享保頃迄の書に記せり、今は七月のみなり」とある。本来正月と七月に行われるものであったが、正月の方は廃れ、江戸時代後期には七月のみ盛んに行われるようになった。この日、月の出の際に光が三つに分かれ、阿弥陀仏(あみだぶつ)、観音菩薩(かんのんぼさつ)、勢至菩薩(せいしぼさつ)が姿を現すという。それを拝めば幸運が得られるという信仰だ。
     そこで江戸の人々は、少しでも視界を遮るものがない所で拝もうと、江戸市中の湯島や神田の高台、九段坂、日暮里などのほか、広い海から上る月を求めて、次第に高輪海岸から品川界隈に集まるようになった。画面の上半分を占める水面に、黒々と浮かぶ大きな船のシルエットと花火。そこに集う楽しげな人々。当時の人であるならば、これは二十六夜の月を待つ、高輪か品川の海辺の夜だと察しがつく。
     月が出るまで人々は、飲んだり食べたり、楽しく語りあいながら時間をつぶした。お金のある人は、座敷や屋形舟に芸者を呼んで宴会となる。宴会に呼ばれていくのか、蛸(たこ)の仮装をした人や、三味線や太鼓を持った人たちが大勢描かれている。またお金をかけなくても、海沿いにずらりと並んだ茶店や屋台で時が過ごせる。汁粉、鬼灯(ほおずき)、団子、麦湯、天ぷら、蕎麦(そば)、イカ焼き、寿司、果物などなど。今の縁日より、よほど豊かで豪華なものだ。
     まさに、「花より団子」ならぬ「月より団子」の行事である。

  • A型フォード 4ドアセダン
    フォード社製 20世紀前半 92200943
     
    A型フォード 4ドアセダン
     8月5日は「タクシーの日」。大正元年(1912年)のこの日、日本初のタクシー会社が有楽町に設立されたことを記念したものだ。しかし最近になって、設立はその1か月ほど前の明治45年7月10日であるという記録が見つかった。営業開始は8月15日。ドイツ製メーター付きT型フォード6台で、1マイル(約1.6km)まで60銭、以後1マイルごとに10銭増しの料金。山手線初乗りが5銭だった時代、庶民には手が届かなかった。その普及は、営業車の増加にともなう料金競争が始まり、市内1円均一料金の「円タク」が出現した大正末期以降である。さらに競争が激化すると50銭均一、30銭均一のタクシーまで現れた。
     当時、国産車の1年間の生産台数は輸入車の一割にも満たず、昭和10年(1935年)の統計では、タクシー車種の約44%はフォード、約27%はシボレーであった。両車とも大正末期に日本に設置された工場で、右ハンドル仕様で生産されていた。写真は、昭和初期の円タクとしてナンバープレートや料金表示などを復元したA型フォード。江戸東京博物館の常設展示室「大東京の成立」コーナーで展示している。戦前の車は、戦時中の徴用などでほとんど現存せず、国内で探すことは困難だった。
     この車は、博物館に来る直前までニュージーランドで走っていたカナダ製の右ハンドル車。ナンバープレートと車両後部の東京府交付の観察標は、警視庁の法令や運転手だった方々の話をもとに、実在した番号で再現した。
     当時の料金体系は18種あったが、写真などを参考に「市内1円、1人増20銭、郡部時間制、深夜5割増」の表示とした。

  • 名所江戸百景 両国花火
    1858年(安政5) 
    歌川広重画 83200099

    名所江戸百景 両国花火
     江戸っ子の夏といえば、まず隅田川の花火があげられよう。両国の夕涼みは、旧暦5月28日から8月28日までの三か月間とされ、その間、夜店の営業や納涼船の往来が許された。明暦の大火後、隅田川に両国橋が架けられると、涼を求める人々は、専らその周辺の川面へ舟を繰り出すようになる。
     花火を町なかで上げることは禁止されていたが、隅田川筋に限り許されていたため、両国の納涼には欠かせないものであった。花火舟といって、納涼船の間を漕(こ)いで花火を売る商売が繁盛し、客の求めさえあれば、花火は毎日のように上げられた。川開きの打ち上げ花火が上げられるようになったのは、8代将軍吉宗の時代から。一説には享保18年(1733年)に、大飢饉や疫病による死者の霊を慰めるため、両国橋際で水神祭を行い、花火を打ち上げたのが最初であるという。
     人々が舟遊びや花火に暑さを忘れる様子は、浮世絵に数多く取り上げられている。なかでも花火を主体として名高いのが、歌川広重晩年の大作「名所江戸百景」の中の「両国花火」であろう。広重は花火を最も多く描いた絵師として知られる。
     図は、浅草蔵前の上空から南東を望む。夜空に大きく弧を描く光。星のごとくはじける玉。照らし出された川面には、屋形舟の明かりが浮かぶ。天保の改革以降、大花火の打ち上げは廃れていったという。この絵は、広重の死後、春夏秋冬に分類された「名所江戸百景」シリーズの「秋の部」に属する。落ちていく火柱が、その気配を漂わせているようだ。

  • 徳川秀忠書状
    1600年(慶長5)9月15日 
    徳川秀忠作成 87201518

    徳川秀忠書状
     慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原(せきがはら)の合戦が行われた。この古文書は合戦の行われる8日前、のちに2代将軍となる徳川秀忠が出した書状である。
     徳川家康が先鋒(せんぽう)として美濃国に派遣していた本多忠勝・井伊直政は、秀忠軍に同国の戦況を連絡した。それを受けた秀忠は両名にあてて返事を出し、自身の状況を連絡した。手紙の文章はきわめて簡単で、「先陣での開戦が延引になったのは、もっともである」などと要点のみを淡々と認めている。
     この返事を書いた七日、秀忠は美濃国を目指して中山道を西上し、途中、真田昌幸(が籠もる信濃国の上田城を攻略していた。結果として秀忠は真田氏攻めに時間を要し、関ヶ原の合戦に遅れた。秀忠は父家康から大目玉をくらったといわれている。しかしこの時点の秀忠は、合戦に遅れるなど全く予想していなかった。
     ところで上田城には、父家康も辛酸を嘗(な)めていた。天正13年(1585年)、家康は上田城を攻めるために出陣した。しかし、現在の上田市の東方にある神川において合戦になり、真田昌幸軍に撃退されている。秀忠の脳裏にこの敗戦のことがあったのは間違いない。あるいは上田城を落城させ、父を乗り越えようと意図していたのではなかろうか。
     書状の後半に「真田表の仕置きを申し付け、近日上りますので、その節を期待します」と簡単に書き記している。上田城攻めに専心し、まだ自らの状況を知りえていなかった段階での、落ち着いた秀忠の心境を知ることができる。

  • 人力車
    1897年(明治30) 
    90360001
     
    人力車(じんりきしゃ)
     人力車は東京で生まれ、世界中に広まった。このことは意外と知られていない。製造と営業が正式に始まったのは明治3年(1870年)のこと。前年に和泉要助(いずみようすけ)、鈴木徳次郎(すずきとくじろう)、高山幸助(たかやまこうすけ)の三人が考案し、東京府に届けを出して許可を得た。はじめ人通りの多い日本橋に出したがお客がつかない。親類縁者を客に仕立てて近所を引いて回ると、おいおい人気が出たという。そのわずか一年半後には東京府内で1万台を超えるほどになった。江戸時代まで、庶民の交通手段は徒歩か駕籠(かご)に限られていたので、人力車は文明開化を象徴する乗物となった。
     国内はもとより中国、東南アジア、インド亜大陸までまたたく間に定着し、人力車は世界製品となる。インドでは人力車を「リキシャ」と呼ぶが、日本語の「人力車」が語源といわれている。
     海外で定着する一方、日本でも明治29年(1896年)に全国の保有台数が21万台に達したが、この年をピークに人力車は衰退していく。鉄道馬車、自転車などライバルが出現したが、なかでも一番の打撃を与えたのは路面電車。路線が広がるにつれ人力車は減っていった。その後、医者の往診や花柳界の送迎用など用途は限られていく。
     戦後、人力車はほとんど姿を消したかのように見えたが、現在観光地でブームとなり、全国約40箇所で営業しているという。浅草では乗客獲得に複数の業者がしのぎを削っている。

  • 阿蘭陀風説書
    1797年(寛政9)6月28日 
    ゲースベルト・ヘンミー著 96201441

    阿蘭陀風説書(オランダふうせつがき)
     「阿蘭陀風説書」とは、長崎の出島に入港するオランダ船で赴任したカピタン(商館長)が、長崎奉行所を通して江戸の幕府に提出した海外情報の日本語訳文のことである。寛永18年(1641年)から安政6年(1859年)まで毎年提出された。
     「阿蘭陀風説書」は「唐船風説書」とともに鎖国をしていた時代の重要な海外情報源であったが、将軍や老中などごく一部の幕閣と長崎奉行所の関係者しか目にすることができなかった。しかし、幕末になり開国や攘夷をめぐり西洋諸国の情報収集がさかんになってくると、「阿蘭陀風説書」はいよいよ重んじられて、各地の大名はあらゆる手を尽くして書き写し、対外交渉の参考資料として広く利用した。現在、各地の図書館などに所蔵されている写本はこのようにして作成されたものである。「阿蘭陀風説書」の原書はそのつど二部作成され、幕府と長崎奉行所で保管されていたが、すべて焼失してしまった。
     この資料は寛政9年(1797年)のもので、江戸時代の樺太・千島列島の探検家として知られる近藤重蔵が、長崎奉行所の手附出役(てつけ しゅつやく)として赴任していた寛政7〜9年の間に奉行所から借り出し、返却するのを忘れたものとされている。皮肉なことに、彼のおかげでこの資料は現在まで残り、唯一の「阿蘭陀風説書」原本として、平成12年12月4日に国の重要文化財に指定された。
     内容は、6項目からなり、大きなものは2つで、1つは、フランス革命後の国王やその子の処刑、およびフランス国内の反革命運動と各国の干渉について、もう1つは、ヨーロッパ諸国間の戦争、特にイギリスによるオランダ本国と東南アジア地域の植民地への侵略、及びそれによる船舶運航の困難などが記されている。
     なお、この風説書の署名者であるゲースベルト・ヘンミー(ヘイスベルト・ヘンメイ)は、寛政4年から商館長を務め、2度江戸に参府し、杉田玄白や大槻玄沢などの医師や天文学者などと会ったが、寛政10年の江戸からの帰途、現在の静岡県掛川市で病死し、同地の天然寺に葬られた。

  • 輪タク
    1948年(昭和23) 
    91005548

    輪タク(りん たく)
     終戦直後の東京を駆け抜けた乗り物がある。自転車の後ろに人力車の座席をつけたような形で、「輪タク」と呼ばれた。自転車(銀輪)を指す「輪」と「タクシー」を合わせた言葉である。
     記録をたどると、輪タクは、明治末期から大正初期にかけて考案されたようだ。これが終戦後、にわかに活躍する。特に都市部では、外地からの引き揚げや軍隊からの復員で人口が急増した一方で交通機関の復旧が追いつかず、その谷間を輪タクが埋めることになった。昭和23年(1948年)頃、都内に約4千台あり、終戦直後の東京の風物となった。
     写真の輪タクもその1つ。運転手だった稲井徳樹さんが所有していたもので、昭和23年に営業を開始。新橋を起点に、遠くは立川、横浜、千葉まで運転したという。はじめは日本人の客が多かったが、やがて進駐軍の兵士が乗るようになった。その後、皇居付近に場所を移して観光客を相手に商売を続けた。
     戦後の混乱が収まってタクシーが増えると、輪タクは激減する。稲井さんによると、昭和39年(1964年)の東京オリンピックの頃には3台だけになってしまったという。それでも稲井さんは営業を続けた。
     だが昭和六63年(1988年)、昭和天皇が病床に臥すと皇居近くの人影は途絶え、ついに廃業を決意。東京に最後まで残った輪タクは、江戸東京博物館に寄贈された。

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