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  • 丸に三階菱紋散梅唐草文蒔絵女乗物
    江戸時代後期(1746〜1841) 
    97200071

    丸に三階菱紋散梅唐草文蒔絵女乗物(さんがいびしもん ちらしうめ からくさもん まきえおんなのりもの)
     江戸時代、駕籠(かご)は代表的な交通手段であった。その駕籠の中でも大名家が利用するような豪華な駕籠は乗物といい、女性が所用とするものは女乗物とよばれた。
     女乗物は家の格付けによって外装が区別されていた。黒漆塗りで家紋や唐草文様の蒔絵で彩られた乗物は上級とされ、格の高い大名家の夫人が利用するものと定められていた。また大名家の中でも小国の大名家や高禄の旗本家の夫人は、漆塗りではなく天鵞絨張りの乗物を使用した。さらに格の下がる女乗物としては朱塗りの網代、さらには薦打ち仕様のものがあった。
    写真の女乗物の外装は、黒塗り・家紋散らし・唐草文様であることから、所用者は格の高い大名家等の夫人ということになる。しかし「丸に三階菱」紋を使用する大名家等の特定は極めて難しい。
    またこの紋の外に乗物の最下段に「六葉葵(むつばあおい)」紋の金具が打たれていることが確認できる。この金具は徳川・松平一門が使用する紋であり、所用者が徳川家もしくは松平家の関係者であることが推定される。
    これらの条件を満たす人物がこの女乗物の所用者ということになるが、まだ確定的な回答は得られていない。しかし、該当する人物として推定できる人物が1人挙げられる。13代将軍家定の生母、於美津之方(おみつのかた)(本寿院)がその人物である。
    於美津之方の実家は「丸に三階菱」紋を使用する旗本の跡部家であり、将軍生母という立場から、所用者である可能性が考えられる。
    この女乗物に類似する乗物も発見されており、あるいは近い将来に所用者が解明されるかもしれない。

  • 松竹梅椿剣酢漿紋蒔絵女乗物
    江戸時代中期(1680〜1745)
    95202937

    松竹梅椿剣酢漿紋蒔絵女乗物(しょうちくばいつばき けんかたばみもん まきえ おんなのりもの)
     この女乗物は黒漆塗りの地に、若松、竹、梅、椿と家紋の剣酢漿紋(けんかたばみもん)を、金と青金(金と銀の合金)の高蒔絵や朱の上に金粉を散らすなどの技法を用いて表した豪華なもの。外面下部や内枠は梨子地で仕上げ、要所に打たれた鍍金金具には、唐草文様や剣酢漿紋が彫られている。本体の左右は引き戸で、乗り降りのために屋根の左右が跳ね上がって開く。敷居に鯨のひげを貼り、滑りをよくする工夫がなされている。内部側面は、金箔紙上に松竹梅、牡丹、椿、鶴亀、水鳥などが極彩色で描かれ、天井には、花枝の円文が配されている。
     『守定謾稿』によると、武家の女性用乗物の最上級仕様は「総黒漆金蒔絵」で高位及び大名夫人が用いたという。女性用の方が男性用より華やかであった。
     本資料は黒漆地だが、梨子地も併用されていることから、格式の高い大名家のものであったようだ。家紋から姫路藩の酒井家ゆかりのものとも思われるが、戦前に外国に渡ったため確証はない。
     数十年ぶりに故国に戻り、江戸東京博物館で丁寧な補修を施し、旅の垢ならぬ全面につけられたワックスを落とし、体の傷も直して本来の輝きと美しさを取り戻した。

  • 梨子地葵紋散松菱梅花唐草文様蒔絵女乗物
    江戸時代中〜後期 (1680〜1841) 
    97201654

    梨子地葵紋散松菱梅花唐草文様蒔絵女乗物(なしじ あおいもん ちらしまつびしうめはなからくさもんよう まきえ おんなのりもの)
     金粉を蒔いた様子がナシの肌のような梨子地と、立体感を出した高蒔絵が、これほど大きな駕籠に細密に施され、惜しみなく注がれた労力と財力は、相当なものだ。
     この駕籠は江戸時代、徳川家の婚姻のためにしつらえられた女性用の乗物。当時の最高の漆工技術を物語る貴重な資料といえる。
     江戸東京博物館に所蔵される以前から、長年の経過による破損や劣化が見られたので、適切な保存・修理が急務と判断し、平成11年、専門の技術者に修理を依頼した。
     漆は、塗料としてだけではなく、接着剤としても有効な素材だ。もろくなった表面を強化するために、溶剤をまぜた漆を染み込ませる。つやを取り戻すため、漆を何度も塗っては乾燥させる。亀裂や浮いた部分には、小麦粉と水と漆を練った粘着力の強い麦漆を用いる。
     今回の修理では新たな発見があった。床板の裏から、制作者の銘(めい)らしきものが見つかった。取り外した金具の裏には、18箇所にわたり墨書と印が施されていた。そのなかには女乗物の修理と再使用の時期を示す「嘉永四年亥三月」も含まれる。この年記や紋の意匠、加工方法などから、本資料が水戸家10代当主徳川慶篤(よしあつ)と12代将軍徳川家慶の養女・線宮幟子(いとのみやたかこ)(のちの東征大総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王の妹)との婚姻で使用された可能性が高くなった。修理が資料研究の貴重な機会であることを認識させられた。
     博物館における修理は、安易に見た目をよくすることではない。資料が本来持っている特色を損なうことがないよう、厳密に行わなければならない。
     約9か月後、この女乗物は、細心の注意を払った現在の漆工技術によって、使用されていた当初の姿を想起させるような状態になった。

  • 綾杉地獅子牡丹蒔絵十種香箱
    1649年(慶安2) 
    幸阿弥長重作 98200006

    綾杉地獅子牡丹蒔絵十種香箱(あやすぎじ ししぼたん まきえ じっしゅこうばこ)
     写真の資料は、香道のひとつ十種香を楽しむための香道具を納めた箱である。十種香は3種類の香を3回、1種類の香を1回と、あわせて10回香をきき、その種類を当てる遊びである。
     十種香箱には、大名の婚礼調度の中でもたいへん手の込んだ技法が用いられる。江戸時代初め、婚礼調度がもっとも豪華な時期に作られた当資料には、綾杉の地文様に唐獅子と牡丹、葵紋が金銀の蒔絵で施されている。「綾杉地獅子牡丹蒔絵調度」は、岡山藩主池田光政の息女で3代将軍徳川家光の養女となった輝姫(てるひめ)が、公家の一条教輔(いちじょう のりすけ)に嫁ぐ際にしつらえたものとされる。輝姫は、二代将軍秀忠の息女千姫(家光の姉)の子勝姫(かつひめ)と池田光政の間に生まれた子で、大叔父の養女になった。

  • 東都名所 大森
    1830年代(天保初期) 
    歌川国芳画  89220126

    東都名所 大森
     海苔の香の 向ふに安房の 岬かな
     これは明治時代に活躍した俳人正岡子規の句。江戸前の名物、浅草海苔づくりは、初秋から春先にかけてがシーズンだった。
     江戸の海は遠浅で波が穏やかなこと、潮の満干が適度にあることで海苔の生育に適していた。また冬場に晴天の多い気候は、採れた海苔を天日に干すのにも都合がいい。軽くて香りのよい浅草海苔は、江戸土産の代表となった。
     「浅草海苔」の語源は諸説あるが、品川や大森産の生海苔を浅草で製品化したからとも、その昔浅草あたりまで入り江になっていたころに海苔が採れたからともいわれている。しかし18世紀初頭には、品川や大森、葛西で生産された海苔が「浅草海苔」というブランド名で出荷されるようになっていた。
     海苔は海藻の一種なので、まず海苔の種(胞子)を育てなければならない。昔は、「ヒビ」とよばれる木や竹で作った枝に胞子をつけ、海中に立てて養殖した。成長した海苔を採るのは初冬からである。
     歌川国芳による「東都名所 大森」は、この様を描いたもの。潮の引いた早朝の海で、「ベカ」とよばれる舟に乗った女性が作業をしている。ゆったりとして穏やかな風景だが、海苔を採る女性の指先は冷たく、かじかんでいるはずだ。
     浅草海苔の製法は、江戸時代後期から全国各地へ広がり、消費量は明治時代以降も増え、海外へも輸出されるようになった。しかし東京では、戦後の水質悪化と東京湾岸整備計画による工事のため、昭和38年(1963年)海苔養殖は幕を閉じた。

  • 鯰絵(なまずえ)鯰と職人たち
    1855年(安政2) 
    90210505

    鯰絵(なまずえ)鯰と職人たち
     安政2年(1855年)10月2日夜10時ごろ、江戸を大地震が襲った。被害はとくに下町部で大きく、倒れた家1万4千戸あまり、死者は1万人ちかくにのぼった。世にいう安政の江戸大地震である。
     この地震のあと、江戸の市中には、巨大ななまずの化物を主人公にした版画が大量に出回った。これが鯰絵とよばれるものである。当時人々は、地震は地底に住む大なまずが起こすと信じていた。鯰絵はこうした俗信にもとづいて作られたもので、地震後数か月の間に数百種も刷られ大流行した。
     絵の内容はさまざまで、地震なまずとこれを退治する様子を描いたもの、地震防ぎの神と信じられている鹿島明神(かしまみょうじん)が要石(かなめいし)という石でなまずの頭を押さえつけている絵などがある。また、下の図のように、地震後の復興で利益を得た大工などの職人の景気のいい姿を描いたものも多くある。
     鯰絵に描かれるなまずや人物は、みな浮かれた様子で、なかには上の図に見るように、なまずが大金持から大判小判を出させている絵もある。これは、地震によって「地新」つまり世の中が改まることを人々が期待していることを意味していると考えられている。折しも天保期から打ち続く天災、そして嘉永6年(1853年)の黒船来航と、幕府政治の根底をゆるがす政情不安な時であった。ユーモラスな鯰絵の中には、幕末の政治、社会に対する江戸庶民の痛烈な批判と「世直し」の願望がこめられている。

  • 風俗東之錦 町家の袴着
    江戸時代後期(18世紀末期) 
    鳥居清長画 91200229

    風俗東之錦 町家の袴着
     袴着の祝いとは、五歳になった男子が、11月に袴を着けて産土神に詣でる儀式をいう。男女三歳の髪置き、女子七歳の帯解きとあわせて、現代の七五三のルーツとなった。
     七五三と呼ぶようになったのは江戸時代の中ごろという。当時は11月になるとそれぞれの家で吉日を選び、子どもたちを着飾らせて宮参りをした。参拝日を15日に固定するようになったのは幕末のころからだ。
     これらの儀式は、もともと公家や武家の習慣として古くから行われていたが江戸時代になって町人層にも広まっていった。都市を中心に暮らしにゆとりが生まれ、子どもが大切にされるようになったためと考えられている。商家では、母親に叔母たちが介添えし、乳母や丁稚小僧、出入りの職人、抱えの鳶には革羽織を着せ、打ちそろって神社に参詣する。そのあと親戚の家を挨拶廻りし、夜は知人を招いてお披露目の宴を催したりした。江戸町人の袴着の祝いは、髪置き、帯解きとともに、子どもにとって誕生以来の人生の節目となる通過儀礼のひとつ。親にとっても我が子の成長を喜ぶとともに、子どもを広く社会に認めてもらう大切な儀式となった。粋と優美を凝らした宮参りの光景は、江戸の町々に季節感を吹き込む年中行事でもあった。
     この作品は、流れるような線と明るい色彩で、背の高い美人を特徴とする清長芸術の頂点を示す代表作。

  • オーディナリー自転車
    1882年(明治15) 
    90360010

    オーディナリー自転車
     自転車は幕末から明治維新にかけ日本に入ってきた。今日のようなスタイルではなく、前後輪の大きさがあまり変わらないミショー型やこの写真のように前輪が大きく後輪が小さいオーディナリー型(日本では両輪の大きさの違いからダルマとか一輪半とか呼ばれていた)というものだった。どちらも前輪を直接こぐ現在の三輪車のようなものだ。
     明治初期の自転車は実用性よりも珍しさから、流行に敏感な都市の住人(商店の奉公人や職人)が乗り始めた。自転車の値段はたいへん高かったが、レンタル自転車をはじめる業者が出現し、奉公人や職人はここから自転車を借りて練習したり乗りまわしたりしていた。大阪では明治3年(1870年)に警察から乗車禁止令が出された。それというのも自転車はブレーキがないのにスピードを速めるため車輪を大きくし、サドルの位置が高くなった結果、足が地につかず倒れやすくなり、通行人にも危険が及ぶためだった。明治10年代にはこのため自転車は「迷惑車」と呼ばれ邪魔もの扱いされた。特に競って自転車に乗った奉公人や職人たちは仕事を終えた夜に自転車の練習をしたが、現在と違って街灯のない、もしくは街灯があってもずっと暗い道路を無灯火で走りまわったため、通行人に恐怖感を与える危険きわまりないものと問題視された。
     昔の自転車は乗りにくいものであった。たとえばこの自転車では地面からサドルまでの高さが百五センチもあり、足が地面に着く人はまずいない。ペダルの位置も高く、また、現在の自転車と違い車輪が回っているときはペダルも回っているので、ペダルに足をかけて飛び乗ることも難しいと思われる。車輪は木でできていて、タイヤはゴムではなく鉄の板を車輪の回りに打ち付けてある。このような乗りにくい自転車に乗ってやろうと挑戦したのだから、当時の人々は、とにかく新しいものをとりこもう、乗りこなしてやろうという相当な意気込みとエネルギーをもっていたのだと感心してしまう。

  • 東京オリンピック聖火灯・ホルダー
    1964年(昭和39) 
    本多電気製 89003320

    東京オリンピック聖火灯・ホルダー
     オリンピックの聖火リレーが始まったのは、昭和11年(1936年)のベルリン大会から。聖火はギリシアのオリンピア神殿跡で太陽光から採火され、そこからスタートする。東京五輪でも聖火リレーは、おおいに注目を集めた。
     そのリレーには、特別な道具が用意された。
     東京五輪の場合で見ると、ランナーが持つ聖火は、手で握る部分(ホルダー)に、ステンレス筒(トーチ)が差し込まれていた。トーチには燃料が詰められていた。
    トーチは燃焼時間が約十四分と短かったうえ、予想外のアクシデントで消えてしまう可能性もあった。また、日本のように採火地点のオリンピアから遠く海で隔てられている場合は空輸しなければならなかった。
     そこで、聖火の安全な輸送装置として聖火灯が製作された。聖火灯は自動車に載せられてランナーと伴走し、聖火リレーの“保険”の役割を果たした。
     また、リレー中の各宿泊地での発着に際しては、ホルダーに似た聖火皿が用意された。聖火灯の火を皿に移し、これをトーチに点火してリレーが再スタートした。
     このような手順を繰り返し、聖火は沖縄を経由して昭和39年(1964年)9月鹿児島に到着。4つのコースに分かれて全都道府県を走り、10月10日、東京の国立競技場に到着したのだった。

  • 東京オリンピック聖火灯・ホルダー
    1964年(昭和39) 
    本多電気製 89003321

    東京オリンピック聖火灯・ホルダー
     オリンピックの聖火リレーが始まったのは、昭和11年(1936年)のベルリン大会から。聖火はギリシアのオリンピア神殿跡で太陽光から採火され、そこからスタートする。東京五輪でも聖火リレーは、おおいに注目を集めた。
     そのリレーには、特別な道具が用意された。
     東京五輪の場合で見ると、ランナーが持つ聖火は、手で握る部分(ホルダー)に、ステンレス筒(トーチ)が差し込まれていた。トーチには燃料が詰められていた。
    トーチは燃焼時間が約十四分と短かったうえ、予想外のアクシデントで消えてしまう可能性もあった。また、日本のように採火地点のオリンピアから遠く海で隔てられている場合は空輸しなければならなかった。
     そこで、聖火の安全な輸送装置として聖火灯が製作された。聖火灯は自動車に載せられてランナーと伴走し、聖火リレーの“保険”の役割を果たした。
     また、リレー中の各宿泊地での発着に際しては、ホルダーに似た聖火皿が用意された。聖火灯の火を皿に移し、これをトーチに点火してリレーが再スタートした。
     このような手順を繰り返し、聖火は沖縄を経由して昭和39年(1964年)9月鹿児島に到着。4つのコースに分かれて全都道府県を走り、10月10日、東京の国立競技場に到着したのだった。

  • スバル360
    1958年(昭和33)
    富士重工業製 91222182

    スバル360
     「三種の神器」に象徴される家電製品とともに、戦後の人々の暮らしに大きな変化を与えたのは自動車だ。日産、トヨタという2大メーカーが、それぞれサニー、カローラという小型車を相次いで販売し、「マイカー元年」と呼ばれたのが昭和41年(1966年)。家電に遅れること約10年で、日本は本格的な車社会へと突入していったのである。
     だが、序章があった。それより8年前の昭和33年(1958年)、画期的な軽自動車が誕生していた。富士重工のスバル360である。富士重工の前身は、軍用機の最大手メーカーだった中島飛行機。敗戦で航空機生産が停止されると民需産業に転換し、社名を変え、スクーターやバスの生産を行っていたが、今後の需要を見込んで、自動車の開発に乗り出した。折しも通産省の「国民車構想」が話題となっていた頃であったが、開発者たちはあくまで独自の構想と技術を追求した。発売は昭和33年3月。軽自動車ながらおとな4人が乗車できる室内空間、優れた走行安定性と速力、それに低価格を実現し、大ヒット商品となったのである。
     のちに「てんとう虫」と呼ばれて親しまれた独特のデザインは、設計者とデザイナーが、実物大の粘土モデルを納得のいくまで捏ねて完成させたもので、工業製品というよりは、ある意味、造形作品といえるものだった。
     日本のモータリゼーションの序章を飾った名車は、発売から12年後の昭和45年(1970年)、その役目を十分果たして、生産を終えた。

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