注目のコレクション

  江戸東京博物館

go東京都写真美術館   go東京都現代美術館   バックナンバー

  • 万都能作嘉遍(まつのさかへ)大井川
    船橋茂喬/画 村垣範行/詞書 1827年(文政10)

    文政10年(1827)、11代徳川家斉は朝廷から太政大臣に任じられた。あわせて嫡子の家慶が従一位に叙せられた。徳川歴代将軍の中で太政大臣になったのは、2代秀忠以来のことである。この慶事に、幕府は御礼の使節を京都に派遣した。使節の任にあたったのは、丹波篠山藩主青山忠裕(ただひろ)であった。忠裕は幕府からの膨大な贈り物を持って江戸を発ち、京都の御所に参内した。「万都能作嘉遍」は、この出来事を上下二巻の絵巻にしたものである。
    一行が大井川を渡る場面を描いたのは、使節に随行した幕府奥祐筆(おくゆうひつ)の船橋茂喬(しげたか)である。詞書(ことばがき)は、同じく京都へ行った御納戸頭(おなんどがしら)の村垣範行(のりゆき)である。一大慶事を担った幕臣たちのコラボレーションといえる作品である。

  • 万都能作嘉遍(まつのさかへ)御所宣秋門
    船橋茂喬/画 村垣範行/詞書 1827年(文政10)

    文政10年(1827)、11代徳川家斉は朝廷から太政大臣に任じられた。あわせて嫡子の家慶が従一位に叙せられた。徳川歴代将軍の中で太政大臣になったのは、2代秀忠以来のことである。この慶事に、幕府は御礼の使節を京都に派遣した。使節の任にあたったのは、丹波篠山藩主青山忠裕(ただひろ)であった。忠裕は幕府からの膨大な贈り物を持って江戸を発ち、京都の御所に参内した。「万都能作嘉遍」は、この出来事を上下二巻の絵巻にしたものである。
    一行が大井川を渡る場面を描いたのは、使節に随行した幕府奥祐筆(おくゆうひつ)の船橋茂喬(しげたか)である。詞書(ことばがき)は、同じく京都へ行った御納戸頭(おなんどがしら)の村垣範行(のりゆき)である。一大慶事を担った幕臣たちのコラボレーションといえる作品である。

  • 万都能作嘉遍(まつのさかへ)御所への進物
    船橋茂喬/画 村垣範行/詞書 1827年(文政10)

    文政10年(1827)、11代徳川家斉は朝廷から太政大臣に任じられた。あわせて嫡子の家慶が従一位に叙せられた。徳川歴代将軍の中で太政大臣になったのは、2代秀忠以来のことである。この慶事に、幕府は御礼の使節を京都に派遣した。使節の任にあたったのは、丹波篠山藩主青山忠裕(ただひろ)であった。忠裕は幕府からの膨大な贈り物を持って江戸を発ち、京都の御所に参内した。「万都能作嘉遍」は、この出来事を上下二巻の絵巻にしたものである。
    一行が大井川を渡る場面を描いたのは、使節に随行した幕府奥祐筆(おくゆうひつ)の船橋茂喬(しげたか)である。詞書(ことばがき)は、同じく京都へ行った御納戸頭(おなんどがしら)の村垣範行(のりゆき)である。一大慶事を担った幕臣たちのコラボレーションといえる作品である。

  • 万都能作嘉遍(まつのさかへ)御所への拝謁
    船橋茂喬/画 村垣範行/詞書 1827年(文政10)

    文政10年(1827)、11代徳川家斉は朝廷から太政大臣に任じられた。あわせて嫡子の家慶が従一位に叙せられた。徳川歴代将軍の中で太政大臣になったのは、2代秀忠以来のことである。この慶事に、幕府は御礼の使節を京都に派遣した。使節の任にあたったのは、丹波篠山藩主青山忠裕(ただひろ)であった。忠裕は幕府からの膨大な贈り物を持って江戸を発ち、京都の御所に参内した。「万都能作嘉遍」は、この出来事を上下二巻の絵巻にしたものである。
    一行が大井川を渡る場面を描いたのは、使節に随行した幕府奥祐筆(おくゆうひつ)の船橋茂喬(しげたか)である。詞書(ことばがき)は、同じく京都へ行った御納戸頭(おなんどがしら)の村垣範行(のりゆき)である。一大慶事を担った幕臣たちのコラボレーションといえる作品である。

  • 関東大震災地震日記扇子
    小幡信博氏寄贈 1923年(大正12)

    白地の扇子に、関東大震災勃発後の身の回りの様子を日毎に記したものである。記事は大正12年(1923)9月1日から30日にまで及び、地震のもたらした状況などを記載している。筆者の居住地は渋谷であったが、桜田門や日本橋界隈などの惨状を視察し、地震災害の様相を目の当たりにしている。とりわけ、余震の発生については多く書き記している。9月1日の「三百数十回」という記事を最初として、ほぼ9月を通して余震が頻発したことを記載しており、余震が与える恐怖感を端的に伝えている。

  • 軍人柄の男児被布(ひぶ)
    北浦規彦氏寄贈 1938年(昭和13)ごろ

    児童の晴れ着である一ツ身の被布(ひぶ)。昭和8年生まれの寄贈者が5歳のころ、出版社に勤めていた隣人の依頼で、これを着て撮影に協力したという話がある。隣家の2歳年上の少女と手をつなぎ、日の丸の旗を持って撮影したという。出版社があつらえたものを後日記念に譲られたと推定されるが、前身頃に複葉機・背面には世界地図をバックに日の丸を掲げた軍人の姿が染められ、当時の世相が窺える。雑誌かポスターのための撮影だったのではないかと寄贈者は考えている。

  • 昭和初期の絵雑誌 『新案ウゴクエホン コドモエホン』ほか
    佐藤將氏寄贈 1929〜33年(昭和4〜8)

    上段『新案ウゴクエホン コドモエホン』第10巻第6号 1932年6月
    下段右『ツバメノオウチ』第5巻第3号 1933年3月
    下段左『キューピー』第8巻第5号 1929年5月

    明治時代から出版され始めた子供向けの絵雑誌は、大正デモクラシーの流れにのり、子供の個性や自由な考え方を尊重する風潮を受け、創刊ラッシュを迎える。ここに挙げた『キューピー』『ツバメノオウチ』『新案ウゴクエホン コドモエホン』は、昭和初期、寄贈者が幼少の頃に愛読していた本のごく一部である。鮮やかな色彩が施されていたり、表紙が立体的な印刷で飾られている絵雑誌の数々は、子供のための芸術世界が身近に作り出されていたことが窺える。

  • 風船爆弾関係資料 気球組立図、各パーツ仕様書ほか
    平塚悦子氏寄贈

    寄贈者の父は昭和12年頃中外火工品株式会社に入社、数年後風船爆弾の研究に取り組み、昭和19年から20年にかけて、風船爆弾製造工場へ動員された学生たちを監督・指導した。寄贈資料は、兵器開発を担った陸軍兵器行政本部発行の風船爆弾各部材の仕様書、製造工場での業務分担と必要資材の表、風船部の詳細な図面、仕様書の下書きを記したノートなど、風船爆弾製造に関する基礎データ及び製造の実態を窺える資料である。作戦が中止された翌月(昭和20年4月)、陸軍は風船爆弾関係資料を処分したため、本資料は国内に残る唯一の風船爆弾関係資料群であると考えられる。

ページTOPへ▲