注目のコレクション

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  • 北斎漫画 十二編
    葛飾北斎/画
    1834年(天保5年)

     版本の見開きいっぱいに大胆な曲線を描くのは、長く伸びた首が有名なろくろ首だ。そして中央には、額にも目がある三つ目入道がいる。しかしよく見ると、ただ単純に、不気味な妖怪の姿を描いただけではないことに気付く。
     ろくろ首は、若く美しい女性と老婆の2人だ。若い女性の首は白くなめらかで、蛇のような曲線を描くのに対し、老婆の首は皺(しわ)があり、動きが硬い。
     また強面(こわもて)の三つ目入道は、何をしているかと思えば、実は目が悪いとみえ、人間に三つ目の眼鏡を誂(あつら)えてもらっているところだとわかる。
     可笑(おか)しみを含んだこの妖怪の絵は、絵を描くときの手本となる、絵手本と呼ばれる版本に収められたものだ。作者は浮世絵師の葛飾北斎で、全15編のこのシリーズは、大いに人気を集めて再版を重ねた。
     実は日本人に親しまれてきた妖怪の姿は、このように大量に刊行され、広く世間に行き渡った江戸時代の版本や錦絵によるところが大きい。とりわけ18世紀後半に登場した図鑑のように妖怪を紹介した版本類は、その筆頭にあげられる。
     しかし北斎が描いたこの妖怪の絵は、図鑑にとどまらない内容の面白さが魅力だ。見開き2ページの画面を、ろくろ首を用いて上手にまとめた上、さらにちょっと笑いを誘う設定で妖怪たちを描いている。
    (資料番号:06200472)

  • 百種接分菊
    歌川国芳/画
    1845年(弘化2年)

     1本の太い茎に咲き乱れる菊の花々。その色たるや白や黄といった定番から紅、紫などの普段見かけない色まで実に多彩。サイズや咲き方も様々。菊の園芸品種の多さを物語る作品となっている。もちろんこんな菊が自然に育つはずはない。駒込の植木屋今右衛門が園芸技術を駆使し、百種の品種を1本に接木したものであった。
     このパフォーマンスの誕生までにはそれなりの試行錯誤があった。まず一輪だけを大きく作る「大作り」が流行。やがて15尺(約4.54メートル)にも達する高い位置で開花させ、茶屋の2階から観賞する「高作り」の登場をみた。次に、一度に咲かせる花の数を競い始め、その数3000に達するものも登場したかと思えば、選りすぐりの名花ばかりを接木するパフォーマンスが誕生し、ここに至って植木屋今右衛門の傑作「百種接分菊」が登場することとなった。
     菊の花を使ったパフォーマンスは、移ろいやすい庶民の嗜好に対応しつつ、はやり廃りを繰り返しながら変遷し、やがて菊人形の登場をみ、これが現代へと続いた。こうした菊細工の大衆化の過程をみると、江戸時代の園芸文化の庶民性を改めて痛感させられる。
    (資料番号:93200932〜93200934)

  • 名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋
    歌川広重/画
    1857年(安政4年)

     「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど、江戸時代には火災が多発した。中でも多くの犠牲者を出す未曾有の大惨事となったのが1657年の明暦の大火で、その死者を弔うために幕府が建てた寺院が両国の回向院である。
     回向院では、全国の寺院の本尊などを江戸で公開する「出開帳」が頻繁に行われ、大勢の人が集まるようになった。やがて周辺は大いににぎわう江戸の盛り場となった。回向院では、相撲の興行も天明年間(1781〜1789)ごろから盛んに行われるようになり、1833年(天保4年)からは年2回の定場所となった。
     広重はこの浮世絵で、回向院と相撲を象徴する櫓と太鼓を描いている。当時の櫓はクギや針金を一切使わず、ヒノキの丸太とワラで編んだ太い縄のみを用いて組み上げられた。
     見世物小屋などは明治になってから次々と取り払われ、江戸の盛り場の風景は失われていった。1909年(明治42年)には回向院の隣に旧両国国技館が建てられ、相撲のない時には博覧会などの催しが開かれ、旧両国国技館は多目的な祝祭空間として近代の盛り場へと変ぼうを遂げていった。
    (資料番号:83200005)

  • 大江戸しばいねんぢうぎやうじ さし出しかんてら
    安達吟光(ぎんこう)/画
    1897年(明治30年)


     江戸歌舞伎の1年は、毎年11月から始まった。各劇場でこの年に出演する俳優を決め、その顔ぶれをお披露目する11月の顔見世は、最も重大な興行であった。芝居小屋には、座紋を描いた大提灯が「大入」の看板の両側につり下げられ、軒には小型の吊提灯が数百個も飾りたてられた。
     ところが、意外にも舞台は暗かった。明治期になるまで、舞台照明は自然光が頼りだった。そもそも、芝居自体、朝から始まり、夕方に終わっていた。これは火事を防ぐためだったが、顔見世興行の際は夜明け前から始まるため、舞台照明は不可欠だった。こうした場合には、奉行所に使用許可願を申請すれば、灯火具の使用は可能だった。
     芝居のなかで用いられる独特な灯火具がある。この錦絵で演者の左右から後見が差し出しているのが「さし出しかんてら」。二段になった長い柄の先に、ろうそくを立てる枡形の燭台がついたもので、大事な場面でさっと伸ばし、役者の顔だけを明るく照らし出す。今でいうスポットライトであった。四代目市川団蔵が、自分の顔をよく見せるために考案したとも伝えられる。現代の歌舞伎でも演出のひとつとして用いられている。
    (資料番号:91970058)

  • 女礼式十二ヶ月寿語録(すごろく)
    楊斎延一(ようさいのぶかず)/画
    1892年(明治25年)


     女性が身につけておくべき礼儀作法を、双六にして教え示したもの。紙の大きさは縦横ともに70センチ余り。題名の部分が突き出ている。1月から12月まで分けられたコマ絵に、年中行事や季節の楽しみ方が描かれている。
     3月の花見、4月の牡丹など、女性たちが季節に応じて花を楽しむ様子が描かれる中、6月のコマは、年長の女性が卓に乗せた花器に杜若(かきつばた)をいけ、若い娘が手伝う様子が見られる。
     江戸時代に町人層まで流行したいけばなは、明治維新後、大きな支持層だった武家や商家の没落に伴い一時衰退した。しかし、新たに西欧の花材や技法が取り入れられ、女性を新しい支持層として再び勢いを取り戻した。
     女性のいけばな人口増に大きな役割を果たしたのは、女学校の授業への採用にある。女子の情操教育上重要と位置づけられ、1904年(同37年)には池坊によって、いけばなの教科書「花の志雄理(しおり)」が作成される。
     巻頭にいけばなの基本形を図示したこの教科書はわかりやすい内容で、女性の入門者を急激に増やす一因となった。大正期には雑誌やラジオ番組でもいけばなが取り上げられ、身近に楽しむ女性が増えていった。
    (資料番号:96200026)

  • 東京両国橋欄干折損の図
    山本松谷(しょうこく)/画
    1897年(明治30年)

     災いは忘れた頃にやって来る――。そんな世諺(せいげん)を地でいく惨事が起きたのは、1897年(明治30年)8月10日、花火の見物客で立錐の余地もないほどに混み合う両国橋においてであった。この惨事を世に伝えたのは、報道画家として知られていた山本松谷。彼の描く石版画には、両国橋の欄干が折れ、そこから隅田川へ落ちていく人々が活写されている。
     この事件からさかのぼること90年、1807年(文化4年)8月19日に起きた永代橋崩落事件は、江戸時代屈指の惨事として知られている。この時の犠牲者を供養する施餓鬼が9日後に迫っていた矢先の事故に、忘れられつつあった江戸時代の記憶をよみがえらせた人も少なからずいたに違いない。
     しかし、ふたつの橋で起きた事故を詳細に比べてみると、その原因はかなり異なっている。群衆の重みで下部が破壊した永代橋に対して、側面の欄干が破損した両国橋。そもそもなぜ両国橋の欄干は破損するに至ったのか? そこには両国橋ならではの訳があった。欄干にもたれながら見る花火が、夏の風物詩となっていた両国橋では、欄干への負荷が特に大きかったのである。
    (資料番号:88146675)

  • 東京十二題 深川上の橋(かみのはし)
    川瀬巴水/画
    1920年(大正9年)

     川瀬巴水(1883〜1957)は、大正から昭和にかけて600点以上の版画を制作し、活躍した版画家である。そのほとんどが風景画だったため、江戸時代に風景画を多く手がけた歌川広重にたとえ、「昭和の広重」とも呼ばれていた。
     この版画は、隅田川に合流する仙台堀川河口に架かっていた、上の橋を描いたものである。空の黄色と、川水の青さの対比で、夏の日暮れが美しく表現されている。巴水は作品の解説で、「このあたりは北斎の『隅田川両岸一覧』の当時がそぞろに想い浮ばれます」と、この地の特徴を、北斎の絵を例に挙げて述べている。本資料と絵本「隅田川両岸一覧」の直接の関連は見出すことはできない。しかし、橋の下に隅田川の西岸を覗く構図は、北斎の別の絵である、「冨嶽三十六景 深川万年橋」の万年橋の下から遠くの富士山を望む図様によく似ている。
     北斎の絵本の約120年後の1920年(大正9年)、上の橋の風景から巴水は江戸を想像した。さて、この版画の98年後にあたる現在、この場所に立っても、高い堤防で隅田川の川面は見られない。上の橋自体がすでに無く、今では橋の親柱だけが歩道脇に残っている。巴水が北斎の時代を思ったのとは異なり、我々が大正の東京の光景を想像することは非常に困難である。

    (資料番号:93200311)

  • 機銃弾で打ち貫かれた鉄板
    1945年(昭和20年)

     太平洋戦争の末期、東京はアメリカ軍による大空襲を受けた。とくに1945年(昭和20年)3月10日未明の下町を襲った大空襲では、一晩で推定約10万人の方が犠牲になったことはよく知られている。東京への空襲は4月、5月と続き、区部は壊滅状態になった。
     これらの空襲は、ボーイングB29という大型の爆撃機によるものだった。この爆撃機には、日本の家屋を焼き払うために開発された油脂焼夷弾が大量に積まれ、高度2000〜3000メートルから、絨毯(じゅうたん)を敷き詰めるようにばらまかれ、市街を焼け野原にしていった。
     だが「空襲」はこうしたものだけではなかった。爆撃機だけでなく、空母から飛来する艦載機、B29の護衛機などが機銃掃射を行った。機関銃によって攻撃することで、標的になったのは、列車や船舶、そして人間であった。
     最も悲惨だったのは45年8月5日、高尾の先の中央本線・湯の花(いのはな)トンネルにさしかかった列車に、アメリカ軍のP51という戦闘機が銃撃した事件で、60名ほどの方が犠牲になった。犠牲者数の大小にかかわらず、こうした被害は日本各地であった。
     写真は、鶴見線の鉄橋に残っていた機銃掃射の跡で、銃撃のあった日は不明である。国鉄に勤めていた方が、鉄橋の解体時に切り取り、大切に保管されていたものである。厚さ10ミリはある鉄板だが、いとも簡単に貫通しており、機銃弾の威力がよくわかる。
    (資料番号:93004824)

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