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  • 蜷川家伝来雛道具
    江戸末期

     源頼朝の伊豆挙兵の先鋒となった蜷川氏は、室町時代は幕府の政所代として政務に与った。その後、いくつかの家に分かれたが、当蜷川家は親長を元祖とし、徳川家康に見いだされて江戸幕府の旗本となった。
     2代から6代までは書院番などを務める中堅旗本であった。7代親文(ちかぶん)は1796年(寛政8)に家慶付御側御用取次に出世し、知行(ちぎょう)も順次加増され5000石の大身旗本となった。将軍世子の側近として権勢を持った親文は子孫の妻を大名家より迎えた。
     この雛道具は親文の孫親宝(ちかとみ)と、その子親賢(ちかかた)の妻の婚礼調度として伝来したものである。親宝の妻まつは美濃郡上藩主青山幸完(よしさだ)の娘、親賢の妻はつは播磨林田藩主建部政醇(たけべまさあつ)の娘であった。合わせて200件あまりの道具の中には、まつの実家青山家の家紋である葉菊の紋がついたものや、徳川家から下賜されたと思われる葵の紋のある膳椀も混じっている。
     通常の蒔絵の調度のほかに、当時は貴重であったギヤマンの瓶や杯が多数含まれ、5000石の旗本に嫁いだ大名の娘の調度にふさわしい格式を示している。
     1868年(明治元)、親賢は徳川宗家とともに静岡に移住する。家財を売り払っての出発であったが、雛道具は守られた。
    (資料番号:05000486・493・507・508)

  • 花菖蒲培養録
    松平定朝/著
    1881年(明治14年)/写

     幕臣松平定朝(さだとも)が著した花菖蒲に関する園芸書。定朝は2000石の大身旗本で、1796年(寛政8)に家督を継いだ。1822年(文政5)から京都勤務となり、1835年(天保6)に江戸へ戻るまで18年間京都に在住し、その間に京都町奉行に昇進している。江戸へ戻った翌年に職を辞すと、麻布の屋敷で花菖蒲の栽培に専心し菖翁と名乗った。
     本書は江戸時代を通じて花菖蒲に関する最も優れた著作として知られている。その内容は、定朝が花菖蒲を栽培するにいたった経緯、京都在勤中に天皇に自作の花菖蒲を献上したこと、さらに栽培方法や虫害対策までを解説している。また、自ら作出した花菖蒲の品種である「宇宙」をはじめとする名花を絵入りで紹介している。
     1846年(弘化3)「花鏡」と題した稿本を書き上げ改訂を重ね、途中から書名を「花菖蒲培養録」と改めたが出版されることはなかった。本書は嘉永2年(1849)本の写本で、宇宙を含む17品種の花図が書写されている。
     定朝は1856年(安政3)、長寿を全うし83歳で没する。定朝は300種類に及ぶ花菖蒲の新品種を作出したといわれ、その遺愛の名花の一部は堀切の菖蒲園に受け継がれ、明治以降は海外へ輸出され世界へ伝播していった。
    (資料番号:12200187)

  • 東叡山焼失略図
    1868年(慶応4年)5月15日

     慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は江戸にもどり、上野寛永寺の子院大慈院に謹慎した。一橋時代からの家臣らが慶喜警護の名目で集まり、渋沢成一郎を頭取として、彰義隊と命名した。彰義隊の当初の目的は慶喜警護であり、その延長線上で江戸市中の治安維持にもあたった。しかし、渋沢は副頭取天野八郎と意見が合わず隊を離れる。天野が彰義隊の本拠地を寛永寺境内の寒松院に移す頃に、彰義隊の下に脱走した幕府軍や行き場を失った諸藩の抵抗グループが大量に流れ込むことにより、その性格も東征軍(官軍)に反抗するものに変化した。慶喜が4月11日に水戸へ立った後も、上野から動かず輪王寺宮公現(こうげん)法親王を擁して気勢を上げた。
     勝海舟らは衝突を回避するために説得を試みるが失敗。東征軍は5月15日未明を期して上野の山へ総攻撃を開始した。黒門口へは薩摩軍を主力とする部隊が殺到し、背面の団子坂方面は長州藩・大村藩、側面にあたる本郷台からは佐賀藩や尾張藩が攻撃を加えた。午前中は一進一退であったが、正午ごろ本郷台からの発砲が山門に命中し火の手が上がり、黒門口の彰義隊が破れ官軍が山内へなだれ込んだ。
     この戦争で焼失した寛永寺の伽藍と彰義隊員が戦死した場所を示したのが本資料である。本営が置かれた寒松院付近の死者が多い。この戦争での彰義隊の死者は200人程といわれている。
    (資料番号:93200421)

  • 御勝土器(おかちどき)
    1866年(慶応2年)1月

     第2次長州征伐に向かう幕府軍高官に対し、大坂城大広間において14代将軍家茂が自ら下賜した素焼きの土器で、「勝」という一字が記されていることから勝土器と呼ばれる。この「御勝土器」を拝領した木原白照(あきてる)は1000石の旗本で、この時期は使番を務めていた。
     勝土器の由来は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康を出迎えた本願寺門主教如が勝の字の土器を献上し、それで祝杯を挙げたことに因る。今回も東本願寺門主厳如に勝の字の土器を進献してもらった。
     1865年(慶応元)5月16日 家茂は第2次長州征伐のため江戸を進発し、陸路上洛、閏5月25日大坂城に入った。幕府は長州再征の勅許を9月に得たが、続く二人の老中の罷免と家茂の将軍職辞表騒ぎで腰を折られてしまう。それでも、年が明けると 家茂は家臣を集めて出陣を鼓舞し、勝土器を与えた。幕府は長州に処分の最終案を伝えたが、長州藩が期限までに返答をしなかったため6月に交戦が始まった。しかし、その間に薩長密約がなり、薩摩・広島両藩は出兵を拒否した。そのため、第2次長州征伐はこの土器の由来通り勝ち鬨をあげることはできず、家茂の死去を契機に幕府軍は撤退を余儀なくされた。
    (資料番号:10000559)

  • 狩野勝川院雅信画帖
    狩野勝川院雅信(かのうしょうせんいんただのぶ)
    19世紀

     狩野雅信は幕府御用絵師で木挽町(こびきちょう)狩野家の最後の当主である。1844年(天保15)、父狩野養信(おさのぶ)とともに火災で焼失した江戸城本丸御殿障壁画制作に関わった。
     その雅信が絵画制作の参考とするため1冊にまとめた画帖である。狩野探幽の白鷺、雀、梟、鷹、菊、竹、達磨。狩野尚信の馬、梅、鶏。養信の鶴、竹、梅、雀。このほか人形、風俗図などさまざまな画題が書き留められている。一見何の変哲もない画帖に見えるが、巻末の雅信の歌より絵合わせの記録であることが知られる。
     幕末の木挽町狩野家では、しばしば絵合わせというものが行われた。橋本雅邦(がほう)の「木挽町画所」によれば、塾生を3人から5人にわけ、技量の匹敵するものどうしに題を与え、絵を作らせ期日を決めて比較し優劣を競ったという。このことによって、互いに品評し大いに意匠を開発したと雅邦は述べている。
     この図は柳を背景に船べりから釣り糸を垂れる童子と、水に足を浸している男性を描いたもので、夏の日ののんびりとした情景が漂ってくる作品となっている。
    (資料番号:95201533)

  • 江戸二葉町沽券図(えどふたばちょうこけんず)
    1710年(宝永7)11月

     幸橋門の外、芝口1丁目に隣接した二葉町の沽券図である。沽券図とは個々の町屋敷の間口、奥行寸法、沽券金高(売買価格)、地主名(屋敷の所有者)、家守名(屋敷の管理者)を記載した絵図のことで、江戸時代に町奉行の命令によって町名主がその支配地域の沽券図を作成した。
     本図は、1710年(宝永7)の沽券図である。これによれば二葉町には大奥の女中や奥医師たちの扶持の一種として給された町屋敷が存在したことがわかる。幸町と呼ばれ町家があったこの場所は、1691年(元禄4)に御用地に召し上げられ、奥医師の拝領地となった。その後1709年(宝永6年)6月に再度召し上げられ、7月に大奥女中の拝領地となり、幕末まで続いた。
     この図は二葉町が大奥女中の拝領地となった直後の様子を示している。所有者は、豊原・常盤井・富岡(6代将軍家宣付)、おゆふ、立野、つぼね、村井(家宣正室付)、高野、佐山、砂野(いさの)の10人の女中と奥医師桂川甫竹(築)、高野の土地の家守も兼ねる家持惣次郎である。
     拝領した町屋敷は、そこを町人に貸して地代や店賃を取ることが許された。これらの屋敷地には本来の拝領主である奥女中に代わってその土地を管理する家守が置かれて、町屋敷の貸付と維持・管理、地代の取り立てを代行した。地代は女中の生家などを介して、地主である女中の手元にわたり収入源となった。
    (資料番号:94202970)

  • 湯島聖堂図
    桜井雪鮮(せっせん)/画
    江戸後期

     湯島聖堂は、現在でもJR御茶ノ水駅からその壮麗な緑青の屋根を見ることができる。この屋根は屏風の中央に描かれた孔子廟の屋根にあたり、仰高門(ぎょうこうもん)を通って孔子廟まで行く道順は今でも変わりない。
     湯島聖堂は孔子をまつる廟堂で、もともとは上野忍岡(しのぶがおか)の幕府儒者林家の家塾内にあった。1690年(元禄3年)、5代将軍綱吉の命により湯島昌平坂に移転した。1797年(寛政9)には、寛政の改革を主導した松平定信によって、改めて幕府直轄の教育施設「昌平坂学問所」となった。黒塗りに改装された新しい孔子廟が落成し、この絵に描かれたような施設が完成した。
     本図は、2曲の屏風に湯島聖堂と昌平坂学問所を描いたもの。中央右手に見える黒塗りの建物が孔子廟(大成殿)で、左手が学問所である。右手には仰高門など諸門が詳細に描かれる。また、手前には昌平坂を行き交う人々や神田川を行く舟、左手には幕府の馬場など、湯島の情景が生き生きと描かれている。
     桜花の絵を得意とした作者の桜井雪鮮(1769〜1811年)は、幕臣の家に生まれ、昌平坂学問所に勤務した経験を持つ。勤め先として同所を熟知した絵師による、湯島聖堂・昌平坂学問所の風景に関する絵図であり、歴史資料としても興味深い。
     昌平坂学問所では、有能な幕臣の登用を目的として「学問吟味」と呼ばれる試験制度が導入された。この試験で良い成績を収め、幕府に召し抱えられた者もいる。
    (資料番号:95201291)

  • 下駄小売営業鑑札(げたこうりえいぎょうかんさつ)
    東京府芝区長代理書記 秋葉高朗
    1880年(明治13年)4月24日

     写真の資料は、芝区琴平町二番地(現在の港区虎ノ門)に住む萩野為美(敬蔵)へ交付された下駄の小売り営業の鑑札である。裏面には「検査の上、これを付与する」として、東京府芝区長代理書記の秋葉高朗の署名と押印、及び明治13年4月24日の日付がある。
     萩野家は千社札の祖で知られる松江藩士の家であったが、敬蔵の養父又蔵が幕府の御家人となった。敬蔵は1866年(慶応2)に武具同心となり、鳥羽・伏見の戦いが始まる直前の1867年(慶応3)12月晦日には、大坂表で歩兵差図役下役を命ぜられている。
     徳川幕府の終焉まで仕えた敬蔵は、明治になると徳川家に従って静岡に移住した。1872年(明治5)に静岡を離れると、神奈川県へ移り、その後東京に戻った。東京ではこの鑑札の通り下駄屋の営業を認められたことが知られる。この翌年には、同じ芝区内の南佐久間町一丁目(現在の港区西新橋)に家を購入している。
     武士として生きた江戸末期から、明治の東京で商いを営んだ頃にかけて、激動の世を生きた萩野為美(敬蔵)の歴史は、この営業鑑札を通して現在に伝わる。
    (資料番号:08001462)

  • 東京山手急行電鉄路線図
    東京山手急行電鉄株式会社/発行 金子常光/画
    1928年(昭和3)頃

     鳥瞰図作家として知られた金子常光が描いた鉄道の路線図である。大井町を起点に、目黒・世田谷・杉並・中野・板橋・田端・千住・小松川といった郊外エリアを巡り、洲崎町が終点となる。小田急線や西武線、東武線といった私鉄とも連絡しており、もしも完成していたならとても便利な路線になったと思われる。
     この路線の名は東京山手急行。その名の通り第2の山手線を目標として、1927年(昭和2)4月に免許の交付を受けた鉄道計画である。
     1923年(大正12)に起きた関東大震災の後、東京の市街地は郊外へと急速に拡大し、人口も急速に増加した。発展著しいこれら地域を結ぶ新たな「山手線」が求められたのは、自然な流れであった。
     この夢の路線はさらに、線路を高架や堀割りの形にして、踏切を設置しないという構想を掲げた。あまりに壮大なプランであったため、会社は事業資金の調達に奔走する。写真の路線図も、資金を募るための株主募集案内に計画の全体像が一望できるよう載せられていたものである。しかし、1930年(昭和5)に発生した昭和恐慌の影響もあり、資金集めは難航する。そして1940年(昭和15)、ついに着工できないまま鉄道免許が失効し、計画は幻となった。
    (資料番号:06000963)

  • 京浜地方修学旅行日記
    白鳥高治郎
    1915年(大正4年)

     子供のころ、修学旅行の前夜に興奮して眠れなかったことがあるという人も多いだろう。大正の昔、旅行の機会に恵まれなかった子供たちにはなおさらのことだ。
     1915年(大正4)9月末、長野県上諏訪町の高等小学校2年生は、4泊5日の予定で京浜地方へ修学旅行に出かけた。彼らは、今でいうと中学2年生にあたる。ここに紹介する修学旅行日記は、当時の生徒の一人、白鳥高治郎という少年が書いたものだ。今どきの中学生が及ばない大人びた文語調で、旅の思い出を書きつづる。手描きの表紙や挿絵はモダンで、芸術的センスもなかなかのものだ。
     一行は、汽車で半日かけて江の島に着き、翌日横須賀の海軍工廠(こうしょう)と鎌倉見学をした。3日目は横浜を経ていよいよ東京に入り、4日目は国会議事堂や靖国神社などをめぐった。乃木希典(まれすけ)の殉死からまだ3年しかたっていない乃木邸では、血痕も生々しい部屋を見た。軍事色が目立つ見学コースは、第一次世界大戦のさなかという時代を反映している。
     4日目の夜、白鳥君は、東京で暮らす親戚に連れられて、浅草で活動写真を見た。夢のような一夜だったようだ。2冊の日記は、4日目で途切れている。もとは、旅行最終日をつづった第3冊目があったのだろう。日記は、鉄道での移動を分刻みで記録している。彼はきっと鉄道好きな少年だったに違いない。
    (資料番号:13200226〜227)

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