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  • 文化人形
    昭和前期

     文化人形は、大正時代(1912〜26)に生まれたといわれる、女児向けの抱き人形の一種である。江戸時代より家庭で作られていた、「負い猿」と呼ばれるぬいぐるみ人形の流れをくむものであるが、その外見はとても洋風。多くは頭にボンネットと呼ばれる大きな前つばのついた帽子をかぶり、赤いワンピースを身につけ、顔には長いまつげの瞳が描かれる。西洋人形の服装を真似て、大きくディフォルメした雰囲気である。手足は棒状に作られぶらぶらとしていることから、「ぶらぶら人形」とも呼ばれた。丈夫で壊れづらく、何より安価で庶民的な人形であったから、大正から昭和30年代ぐらいまでは最もポピュラーな人形玩具として製造され、多くのこどもたちがこれで遊んだ。
     そんな親しみやすさとは似つかわしくない「文化人形」という固い名前が、この人形には付けられている。それは人形の生まれた時代に由来するものだ。1917〜18年(大正6〜7)ごろより、「文化」という言葉が流行し、盛んに使われるようになった。サラリーマン層に人気があった、洋式の応接間を備えた和洋折衷の住宅は文化住宅と呼ばれ、文化生活や文化料理など、「文化」は大正時代の憧れを象徴する言葉として、様々な事象に冠せられた。
    (資料番号:93006574)

  • 富士山諸人参詣之図
    歌川国富/画
    1865年(慶応元年)6月

     富士山を信仰する富士講による登拝は、6月1日の山開きから許され、7月26日に終わる。山頂への道のりは相当困難で、絵にあるような菅笠(すげがさ)をかぶり、白木綿の行衣(ぎょうい)を身につけ、白の鉢巻、数珠をたすきにかけ、金剛杖を突きながら蟻のように頂上を目指す。先達が講の者を引き連れ、富士山麓にある御師(おし)の宿坊から山頂までを往復する。
     この絵をよく見ると、菅笠や行衣の背中に文字が入っているのがわかる。普通は講社の名前が書かれるが、ここでは米や油といった生活物資や雑貨のなどの名前が読める。ペリー来航により外国との貿易が開始され、尊皇攘夷など政治の乱れは正常な経済活動を圧迫し、諸物価が高騰して江戸の人々の生活は混乱のきわみにあった。
     この絵は諸人参詣の体をなしながら、実は諸品参詣の図として経済の混乱を皮肉った風刺画となっている。
     この絵が切っ掛けとなったわけではないが、翌7月に、米価諸品高値により貧民共済の米や銭が町会所を通じて与えられている。
    (資料番号:90200160)

  • 蹴鞠御門弟装束着用免状
    難波家河村伊織・小森主膳/作成
    1774年(安永3年)12月26日

     18世紀中頃以降の江戸には、1600町余の町に対して250名前後の名主(なぬし)が存在し、町触(まちぶれ)の伝達や人別帳(にんべつちょう)(戸籍簿)の管理など、さまざまな役割を果たした。
     写真の資料にみられる「馬込勘解由殿」とは、大伝馬町二丁目(現在の中央区日本橋大伝馬町)に住む江戸の名主。冒頭の三行は蹴鞠装束である上衣と袴、沓(くつ)の形や色を説明している。この資料を作成した難波家は京都の公家で蹴鞠の家元、河村伊織と小森主膳は同家の雑掌である。これは難波家が、文末に「水野平八郎殿」とある江戸の蹴鞠目代(取次役)を介して、馬込勘解由に鞠道の門弟として蹴鞠装束の着用を許可した免状である。
     蹴鞠(しゅうきく・けまり)とは、皮の沓をはいて鹿皮の鞠を足の甲で蹴り上げ、地に落とさないように受け渡しを競う遊戯。江戸時代には武家のほか、上層の町人や農民も歌道や茶道とならぶ嗜みとして蹴鞠に興じたことが知られる。
    (資料番号:09000509)

  • 離縁状(暇之状之事)
    佐大夫/作成
    1704年(宝永元年)9月7日

     これは佐太夫が妻お市に差し出した離縁状である。この史料は本文が二行半となっているが、江戸時代の離縁状の多くは三行(さんぎょう)と半分で書かれていることから、三行半(みくだりはん)と呼ばれた。
     庶民が離縁をする場合は、夫から妻に離縁状を差し出すきまりになっていた。夫から一方的に離縁状が出されると誤解され、三行半が江戸時代の男尊女卑の象徴とされた時期があった。
     現在はその背景の研究も進み、離縁に至るまでは双方協議がなされ、熟談の上離縁が決定されることがわかった。もちろん、一方的に夫や妻が悪い場合もある。本文に「何方(いづかた)へ縁づき申され候共、此方構え御座なく候」(どこに再縁しようとも当方は構わない)とあるように、三行半は夫から妻に出す再縁許可証の性格が強い。
     江戸時代は現代、我々が思うより離婚率は高く、また再婚率も高い。3婚、4婚などはざらであった。それは男女ともに他家に入っても実家と強いつながりを持っていたことが要因といえる。離婚がタブー視されていなかったため、戻ってきた子を実家は暖かく迎え入れた。
    (資料番号:99200535)

  • 番町絵図
    吉文字屋(きちもじや)次郎兵衛・美濃屋平七/版
    1755年(宝暦5年)

     都市江戸の特徴の一つに、刊行された地図の多さがある。「江戸図」と呼ばれ、その数は1300種を超える。江戸図は江戸市中全体を一枚に収めるものと、地域ごとの詳細図に大別される。後者を「江戸切絵図」と呼ぶ。
     切絵図の嚆矢(こうし)は1755年(宝暦5)に出されたこの番町絵図である。いの一番に番町が取り上げられたのは、この一帯の街区が複雑で、中堅旗本の役宅が密集していて、さらに屋敷の移転や幕府の役人の異動が多かったからである。この番町のわかりづらさから切絵図は発案された。
     江戸時代は贈答社会で、武家間あるいは有力な武家への訪問や付け届けが頻繁に行われていた。江戸の武家地には町名がない上に、武家屋敷には表札もないので、訪問先や付け届け先を知るには正確な地図が必要だった。これらの最新情報を満載した地図の需要は不断にあった。
     江戸切絵図を供給していたのは民間の出版業者である。吉文字屋(きちもじや)が中心となって出した切絵図は8図(8地域)で中断し、その後、尾張屋清七と近江屋吾平が江戸全域を網羅した切絵図を出版した。尾張屋は専ら利便性とわかりやすさを目指したのに対し、近江屋は正確さを追求した。
    (資料番号:91221105)

  • 幕臣大熊善太郎の大旗
    江戸時代

     代官は、江戸幕府の領地から年貢を徴収し民政にあたった幕府の役人である。わずかな家臣を率いて、広大な領地を治めた。禄高は百俵ほどと比較的低かったが、地域の事情に精通した人物が任命された。
     年貢を横領したり、過重な年貢を徴収したりした理由で処罰された代官もいたが、江戸時代後期には農村復興に尽力したいわゆる名代官も登場し、死後、農民によって顕彰碑などが建てられた者もあった。8代将軍吉宗のころには、能力を認められて代官に取り立てられる農民もいた。
     写真の大旗の持主、大熊善太郎は江戸周辺の幕領を治める代官を務め、1852年(嘉永5)には禄高2百俵に加増され、佐渡奉行まで昇進した人物である。
     江戸時代中期以降、多くの代官は江戸に居を構えたが、任地に赴くこともあった。この大旗は、江戸駿河町の三井越後屋製で、縦212.5センチ、横142センチという大きなものである。大旗同様に扇に大の字紋を記した吹き流しや毛槍とともに、大熊が佐渡と往来する船に掲げられた。
    (資料番号:98004798)

  • 金唐革一つ提げたばこ入れ
    江戸末期

     金唐革は、黄金色に輝くように加工し、草花やエンゼルなどの模様をあしらったヨーロッパの壁装材を代表する革の装飾である。14世紀から18世紀末ごろまで生産されていた。
     なめした子牛などの革に銀ぱくをはり、その上にワニスを塗る。模様をプレスし、彩色を施すと完成。銀ぱくに黒褐色の鉱物質樹脂を含んだワニスを塗り、金色に見せているのだが、この樹脂の量により色が変わる。そのため金唐革師にとって、ワニスの製法は秘中の秘であった。
     日本へは、オランダ貿易の交易品として江戸前期に渡来し、珍重された。多くはシートの状態で輸入され、美術工芸品や日用品、写真のようなたばこ入れに仕立てられることが多かった。
     金唐革製のたばこ入れは最上級のものとされていたため、庶民には高根の花であった。そのため、江戸中期以降、伊勢、水戸、江戸などで、紙や漆といった在来の材料を利用した模倣品の開発も進んだ。試行錯誤の末に「金唐革紙」を完成させ、1873年のウィーン万国博覧会に出品すると、ヨーロッパで評判となり、日本から輸出するまでになった。
    (資料番号:93200991)

  • 凌雲閣百美人
    小川一眞/撮影
    1891年(明治24年)

     イギリス生まれの衛生工学技士、ウィリアム・K・バルトンが設計し、1890年(明治23)11月に竣工した凌雲閣(通称浅草十二階)では、来場者を増やすためのイベントとして、当時人気のあった芸妓の写真を凌雲閣内に飾る「百美人」展を計画。写真撮影を小川一眞に依頼し、竣工翌年の1891年7月に「百美人」展を開催した。依頼を受けた小川は自身の写真館・玉潤館の営業を一時休止し、芸妓を一様に撮影するためにセットをしつらえ、そこで都内各所から選ばれた100名の芸妓の撮影を行った。撮影された写真は凌雲閣の4階から7階までに飾られ、芸妓への人気投票も行われた。いわば写真による美人コンテストのはしりである。小川はその後「百美人」を印刷、出版へと結びつけ商品化していった。
     この時、人気投票で1位となったのが新橋の玉菊である。芸妓は新橋・柳橋・日本橋・吉町・葭町・吉原・外神田・下谷・浅草・赤坂から選ばれているが、特に新橋が多い。芸妓の数はその盛り場の繁栄のバロメーターといえよう。
     小川一眞(1860〜1929)は武州行田忍(おし)藩士原田庄左衛門の次男として生まれ、小川石太郎の養子となる。1882年(明治15)に渡米して、コロタイプ印刷や乾板製造法を学び帰国する。1885年(明治18)東京麹町区飯田町に写真館玉潤館を開設した。
    (資料番号:88995190)

  • 萌黄羅紗地レクション羽織(もえぎらしゃじ)
    19世紀中期(江戸末期)

     黒船来航から開国へと進む不安定な世情のなか、軍事力の強化は幕府、諸藩とも必至の課題だった。文久年間(1861〜64)に、幕府による大規模な軍政改革が行われた。また軍事の近代化をはかるため、幕府はフランスから教官を招き、軍隊の調練(訓練)を行った。1862年(文久2)には、武家服制改革「服制変革ノ令」が発布された。レクション羽織は、この時期に誕生した武士の調練装束。
     往来の陣羽織と共通する点が多いが、洋服の影響を受けた筒袖形の羽織となっている。「レクション」の言葉の由来は、lesson(訓練)の意味とも、フランス語のl'equitation(乗馬)からともいわれている。
     レクション羽織の生地は、輸入品の羅紗が多く用いられた。羅紗は、厚手のウール地で、織目が見えなくなるほど密にして起毛し、毛羽を切りそろえ加工を施している。防寒・防水に優れ、野外で着用する陣羽織、武家の火事装束によく用いられている生地である。
     本資料は、萌黄色の羅紗地で仕立てられ、背中央に黒羅紗で月星紋を表している。胸襟には白地で唐花と菊、亀甲模様の錦が当てられている。背の中心の深いスリットは、乗馬や帯刀時を考慮し、裾が邪魔にならないために施されている。
     本来の陣羽織の背裂から仕立てが変化しており、コートやスーツに見られるセンターベンツのように折伏せの仕様となっている。洋装軍服に切り替わるまでの短い期間のみ使われた和洋折衷の装束といえる。
    (資料番号:14200050)

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