注目のコレクション

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  • 箱提灯
    江戸時代(1603~1868)

     現代では真夜中でも街灯がついており、夜道に迷うことは少ないのではないだろうか。
     電気やガスによる明かりが普及したのは明治以降のことであり、江戸時代の夜は暗く、照明といえば菜種を原料とした灯油やロウソクを燃やして光源にした簡易なものだった。
     灯油を使用する灯火具といえば行灯(あんどん)がある。時代劇では室内の灯火具としておなじみだが、当初は携行用が主で、芯を木枠に和紙をはった火袋で覆って灯火が消えないように工夫されていた。
     携行用の行灯に代わって登場したのが、主にロウソクを使用する灯火具、提灯(ちょうちん)であった。提灯の特徴は、なんといっても火袋の部分が折りたため、コンパクトに収納できることである。その火袋に、多色刷りの木版画をはることで見た目にも美しくなった点も見逃せない。今でも観光地で色鮮やかな提灯が売られている。
     一口に提灯といっても弓張提灯、馬上提灯などさまざまな形態がある。なかでも童謡「お猿のかごや」にある小田原提灯は有名。今回紹介する箱提灯は、小田原提灯など他の提灯と比べると大振りで、ガッチリしており、折りたたむと下の箱の上に上の箱が収まり、箱のようになるところからその名がついた。
     形と色を工夫した提灯で、さまざまな明かりを楽しむようになった江戸時代は、現代へと続く明かりを楽しむ時代の幕開けでもあった。
    (資料番号:89209076)

  • 名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣
    歌川広重/画
    1857年(安政4年)

     「名所江戸百景」は、歌川広重(1797〜1858年)の最晩年を代表する江戸名所絵シリーズ。春夏秋冬の四つの部に分けられ、四季折々に見せる江戸の素顔を描き出し、遠近を強調した大胆な構図と丁寧な彫りと摺(す)りの技術にも見所が多い。このシリーズはベストセラーになるほど江戸の人々を魅了し、どの絵も約1万〜1万5千部の後摺りを要したほどだった。
     冬の部に属する本図は、猫の座る格子窓より浅草裏田圃の鷲(おおとり)神社の酉の市を描いたもの。浅草の鷲大明神社は毎年旧暦11月の酉の日に行われる例祭「酉の市」が最も盛大に行われる場所として有名で、樋口一葉の短編小説「たけくらべ」にも登場している。
     当日は、開運・商売繁盛のお守りとして「酉の市」のみに売られる熊手御守や名物の八頭(やつがしら)や切山椒(きりざんしょ)といった芋や餅菓子を求める江戸の人々で大いににぎわった。本図の田圃の中の行列は、その熊手を手に市から帰る人々の列である。遠景の太陽は西の端に沈み、残光の中には富士山が浮かんでいる。
     猫の座る室内は鷲大明神社の東に位置する遊廓吉原の一室である。左側には屏風の背面があり、畳には熊手形のかんざしが置かれている。このかんざしも客が土産として買ってきたものだろう。
    (資料番号:83200102)

  • 六十余州名所図会 江戸 浅草市
    1853年(嘉永6年)
    歌川広重/画

     師も走る極月(ごくげつ)、12月。江戸の人々は、8日の新年事始めから準備にとりかかった。13日にすす払いを終えると、寺社の境内では歳の市が開かれる。中でも、17、18日に浅草寺で開かれた市は、江戸で最大級の規模を誇った。ざる、杓子、桶などの日用品や、三方、門松、しめ飾りなどの正月の飾り物、その他にも食料品や調味料など、様々な商品を扱う露店は境内におさまりきらず、周辺地域のかなり広範囲に至るまで立ち並んで、夜更けまでたくさんの人でにぎわったという。
     この絵にも、市を訪れた人々がびっしりと描かれている。頭巾や手ぬぐいをかぶった人の頭に交じって、高く掲げられた桶や飾り物は買ったばかりの品物だろうか。明かりに照らされた朱塗りの門とは対照的に、暗い夜空には雲がわき、小雪がちらついている。
     「六十余州名所図会」は、歌川広重が諸国の名所を描いたシリーズで、江戸時代の末、1852年(嘉永5年)から56年(安政3年)にかけて制作された。強調された遠近感や大胆なトリミングといった特徴は、広重最晩年の作「名所江戸百景」へと引き継がれている。
     歳の市が終わると、暮れのあいさつ回りとともに町の方々で餅つきがはじまる。門松やしめ飾りが据えられれば、いよいよ一年の締めくくりとなる。
    (資料番号:91210393)

  • 江戸城正月登城図 下絵 門前の賑い
    明治時代(1868〜1912)

     江戸時代、大手門は城内への入り口として諸大名らが出入りしたところである。城内へは乗ってきた馬を下り、大半の供の者をその場に残さなければならなかった。これが正月ともなると、三が日の間に江戸に滞在するすべての大名らが一斉に登城し、大手門から坂下門界隈にかけて大勢の人々でごった返した。その時の風景を描いたものである。
     画中には、城内に向けて進む一行が描かれる一方、駕籠のまわりで語り合う人、荷物に腰掛ける人、馬のそばで寝そべっている人まで描かれている。そんな待ちぼうけの人を相手に商売をする姿も。よく見ると、何かを飲んだり食べたりしている様子。寒風の中ただ待っている彼らには、格好の暇つぶしとなったであろう。
     この作品は、その名称のとおり「下絵」である。画面には初めに描いた絵を修正するため、その上へ描き直したものが貼り付けられ、画家の試行錯誤がうかがえる。当館には明治時代に描かれた「江戸城年始登城風景図屏風」があり、最終的にはそのような絢爛(けんらん)豪華な作品になったのかも知れない。この下絵は、人物が全体的に丸みを帯び簡略化されて描かれ、どことなく漫画を見ているような楽しさがある。新春の風物詩をユーモラスに表現しているようで、違った味わいのある作品である。
    (資料番号:91005982)

  • からくり鳥篭
    1858年(安政5年)
    田中久重/製作

     欧米の脅威に対し、懸命に近代化を図ろうとした日本。その姿は諸外国から「猿まね」とも揶揄された。だがそれだけで、アジアでいち早く近代工業国として台頭することができただろうか。その点を考える上で、着目すべき人物がいる。「からくり儀右衛門」こと田中久重だ。
     久重は、1799年(寛政11年)、現在の福岡県久留米市でべっ甲細工師の長男に生まれた。幼い頃から才能を発揮し、精巧かつ独創的なからくり作りで「当代随一のからくり師」と評された。
     久重の作品の1つが、このからくり鳥篭だ。はく製の鳥が、まるで生きているかのように頭や羽、くちばしを動かしながらさえずるというもので、ふいごを開閉させることでさえずりに似た音を発生させる。動力には時計の動力伝達の仕組みが応用され、歯車などの金属部品の加工はもとより、鳥篭の装飾も精巧だ。
     しかし、探究心の強い久重は一介のからくり職人であることに満足せず、40代後半になって京都で暦学や蘭学を学び、それまでの経験に科学的な要素を加えるようになった。
     久重の技術力と発想力は、からくりの製作にとどまらず、佐賀藩での大砲や蒸気機関の開発にも発揮された。維新後は、工部省の招きで電信機や電話機の国産化に尽力した。
     在来技術と近代技術を融合させ、からくり師から近代工業のパイオニアへ転身した久重のような職人たちの存在が、日本の近代化を速やかにした一因だったと言えるだろう。

    (資料番号:88208061)

  • 東京府御東幸行烈図
    歌川芳虎/画 
    1869年(明治2年)

     1868年(慶応4年)7月、江戸を東京と定める天皇の詔書が出された。9月には明治と改元され、天皇は在位している間は年号を変えないという一世一元の制も定められた。西の京都から東の江戸へ行幸する「東幸」が行われ、およそ3300人の従者と共に東京に入り、徳川幕府の中枢であった江戸城は、新たに東京城と改称された。
     この年の12月、明治天皇は従者およそ2000人と共に、東京から京都へ「還幸」した。翌年の3月、再び京都から東京に東幸することになり、行政機関たる太政官も移され、天皇の居所としての意味も込めて東京城から皇城と改められた。この「再幸」を描いたのがここで紹介した錦絵だ。鳳凰を屋根に頂く、ひときわ大きな輿に天皇が乗っていることは容易に想像できる。沿道には再幸した天皇を見ようと、多くの東京府民が詰めかけている様子も描かれている。
     東京に再幸した天皇は東京に居所を構え、これ以降京都へ還幸することはなかった。この時をもって実質的な遷都とみなされている。実質的と書いたが、実はこの東京への遷都について、天皇の詔や布告・布達といった法令が公的には発布されておらず、明治政府から公に声明が出されることもなかった。都を他の地に移す「遷都」という言葉は使われず、都を定めるという意味で「奠都(てんと)」と表現された。遷都に対する政府内の保守派や京都の住民への配慮が働いたともいわれている。
    (資料番号:91200170-91200172)

  • コーヒーミル
    ヤンマー/製
    明治後期(1898〜1912)

     コーヒーの起源には諸説あるが、15世紀にはイスラム圏で広まっていた。17世紀初頭にベネチアにもたらされると、瞬く間にヨーロッパ全土に浸透し、各地でカフェが繁盛した。
     日本では、江戸時代にオランダ商人が出島に持ち込んだとされるが、「焦げくさくして味ふるに堪(たえ)ず」と評された。明治の文明開化の中で徐々に広まり、1888年に初の近代的喫茶店が開店する。しかし、庶民に普及したのは、銀座に「カフェー・パウリスタ」が開店した明治末期以降である。
     コーヒー豆の粉砕には、ヨーロッパと同様に日本でも製粉技術が応用された。本資料の「ヤンマー製粉機」の陽刻(ようこく)がそれを物語っている。手動の擂(す)り臼式コーヒーミルを愛用する人は、今も少なくない。挽いたものが容易に購入できるご時世ではあるが、ハンドルを回す時の感触と音、そして、上り漂う魅惑的な香りに、何とも言えない幸せを感じる。明治の人々も、この至福に浸ったことだろう。
     明治後期に製造された本資料は、木箱に鉄製のミルを組み込んだものである。少々ごつく見えるが、四隅にトンボが陽刻され、可愛らしさもある。社名の「ヤンマー」とトンボ目の「ヤンマ」をかけた意匠かもしれない。下の引き出しを開けると、挽かれたコーヒーの粉が今も少し残っている。いつ、どんな人が、これで楽しんだのだろうか。
    (資料番号:90362314)

  • 東京二十景 芝増上寺
    川瀬巴水/画
    1925年(大正14年)

     ちょっとした吹雪の中、1人の女性が傘をすぼめて歩いている。場所は東京の芝。江戸の頃より、同所に建つ増上寺の三門の前だ。川瀬巴水は、大正から昭和にかけて活躍した画家で、風景版画の名手として知られている。この作品は、関東大震災後の東京風景を描いた20枚シリーズのうちの1枚である。震災後の東京が復興計画のもと、まさに近代都市を目指しつつあった頃の作品だ。
     しかし風雪の中を歩く女性の姿というのは、江戸時代に好んで描かれた美人画のひとつ、いわゆる「雪中美人図」の伝統をくむもの。また白い雪と赤い門という、鮮やかな色彩の対比や、画面手前にはみ出すように大きく樹木を描く画面構成は、江戸時代に名所絵で筆をふるった、歌川広重の作品を思い起こさせる。
     さらに巴水の木版画作品は、江戸時代の浮世絵と同じ方法によって制作されている。つまり巴水という「絵師」が下絵を描き、「彫師」という専門家が下絵を版木に彫り、同じく「摺師」という専門家が、その版木を摺って、作品を完成させたということだ。
     巴水の版画には、もちろん近代都市東京を象徴するような作品もある。だがこの作品のように、技術面はもとより、江戸時代からの伝統や情緒を感じさせる風景画も残されている。浮世絵版画の歴史や展開を考えるとき、巴水という画家の存在を忘れてはならないと思う。

    (資料番号:90203125)

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