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  • 母衣(ほろ)
    江戸時代(1603~1867)

     戦陣において他者に秀でた武功を立てるためにも、武士たちの武具に対する関心はなみなみならぬものがあった。鑓(やり)や刀剣といった実際に戦闘で使用する武器への気づかいはもちろん、自身の働きを主君に目出たせる工夫にも余念がなかったのである。例えば兜(かぶと)の前部につける風変わりな鍬形(くわがた)などが著名であるが、ほかにもさまざまな工夫をこらしていた。その一つに母衣がある。
     母衣とは、古くは鎧(よろい)武者が流れ矢を防ぐために背負った布製の道具である。幅広の布を肩と腰に紐で結んで固定し、馬を走らせ風をはらませてマントのようにして用いた。時代が下ると長大なものとなり、いつしか玉柄杓(たまびしゃく)を逆さにしたような竿つきの骨組み籠(かご)に母衣布をかぶせて、馬を走らせなくても丸くふくらむように工夫がなされた。
     母衣を装着した奇抜な姿はたいへん目立ち、戦場では主君の命令を伝える伝令役など特定の者のみに使用が許可されるようになっていった。例えば江戸幕府でも、将軍の御使番(おつかいばん)などにその使用は限られている。
     写真は、伝来は不明ながら母衣の実物である。軍記絵巻など絵画資料では、騎馬武者の背中でさながら竿先の大きな風船のように表現されている姿をよく見かける。しかし、実物が現存するケースはきわめて珍しい。
    (資料番号:95202945)

  • 甲冑着用備双六
    歌川芳員(うたがわ よしかず)/画
    1858年(安政5年)

     正月の代表的な遊びである絵双六の起源は、室町時代に仏教の世界観を描いた浄土双六だと言われている。広く普及したのは江戸時代で、旅程や芝居・役者、人の一生をテーマにしたものなど、多種多様の絵双六が作られた。
     本資料もその一つで、1858年(安政5年)に発行された甲冑(当世具足)の着用手順を表したものである。最初は褌(ふんどし)から始まり、鎧を着装し、刀や鉄砲などの武具を身に付け、最後は大将で勝軍(かちいくさ)となり、上がりとなる。
     江戸時代は、世界史的にも珍しい泰平の世として知られる。武士たちは、甲冑を着る機会が極端に減り、甲冑は権威の象徴として実戦にはほど遠い装飾性に富んだものが作られた。時代が下るにつれ、沿岸防備などにより甲冑を着る機会が増えると、不慣れな武士たちは悪戦苦闘したようだ。
     本資料でも、着慣れていない武士の様子が見られる。つまり本双六は、甲冑の装着手順を面白おかしく描いているだけではなく、武士の嗜みとされた知識が疎くなった当時の世相を反映したものと言えよう。
    (資料番号:10200149)

  • 新板浮絵忠臣蔵 第十一段目
    葛飾北斎/画
    19世紀初頭

     1701年(元禄14年)3月14日、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(ながのり)は江戸城本丸御殿松の廊下で、高家肝煎(こうけきもいり)の吉良上野介義央を斬りつけ、即日、切腹を命じられた。赤穂藩は改易、藩士は浪人となった。赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入ったのは翌年12月14日。「赤穂事件」と呼ばれるこの事件は脚色され、「忠臣蔵」の物語として親しまれてきた。
     本資料は浮絵(うきえ)という遠近を強調する手法で、討ち入りの場面が描かれている。
     忠臣蔵の錦絵は数多く刊行されたが、北斎のこのシリーズの特徴は、物語を忠実に描くものの、主役の浪士らを重視していないという点である。この図でも絵の中心は、討ち入られた側の家臣・小林平八郎の奮戦だ。平八郎は浪士の一人が放った矢を受けながらも果敢に対抗し、浪士らはその周りに脇役として描かれる。
     知人らの取材をもとに明治時代に書かれた北斎の伝記によれば、北斎は自らが小林平八郎の曽孫であると言っていたという。真相は不明ではあるが、北斎にとって、平八郎の最期の奮戦こそが赤穂浪士の討ち入りよりも称賛の対象であったのかもしれない。
    (資料番号:93200032)

  • 誠忠義士伝 早野勘平常世
    歌川国芳/画
    1847年(弘化4年)

     本図はいわゆる忠臣蔵物の錦絵で、忠臣蔵の主要登場人物の一人、早野勘平を描いたものだ。勘平は、忠臣蔵では腰元・お軽と駆け落ちをし、最後は自害して果てるという悲劇の人物である。足元の描線が薄くなっているが、これは、幽霊となった勘平が主君の仇を討ち、悲願を果たすという仕掛けである。
     絵の背景には、勘平本人ではなく、彼のモデルとなった赤穂事件の萱野三平重実(しげざね)についての解説が書かれている。萱野は、父が吉良邸討ち入りへの参加を反対したため、主君・浅野内匠頭への忠義と親への孝行との板挟みとなり、討ち入り前に自害した。その経緯が絵の解説文でも述べられている。
     本図を含む歌川国芳が描く「誠忠義士伝」は、累計40万8000枚を超える大ヒットシリーズとなった。一図に一人の全身像を描き、四十七士に、勘平、塩谷判官(えんやはんがん)(浅野内匠頭)、高師直(こうのもろなお)(吉良上野介)が加えられ、合わせて50図の揃え物として販売された。
     作品の表題には忠臣蔵の人物名が使われているが、略歴にはモデルとなった赤穂事件の人物のものが記され、武者絵を得意とした国芳がその雄姿を描く。赤穂事件をそのまま取り扱って出版したり、舞台化したりすることが禁じられる中、四十七士らの姿を垣間見られるシリーズが人気浮世絵師によって刊行された。それが空前の大ヒットへとつながったのである。
    (資料番号:92202166)

  • 安政午秋 頃痢流行記(あんせいうまのあき ころりりゅうこうき)
    仮名垣魯文/編 白楳道人(はくばい どうじん)/画
    1858年(安政5年)

     インフルエンザが流行する季節になった。
     流行病(はやりやまい)に悩まされたのは江戸に暮らす人々も同様で、麻疹(はしか)や痘瘡(天然痘)、労咳(結核)、インフルエンザと推定される風邪などによって多くの犠牲が出た。幕末には、こうした流行病にコレラが新たに加わった。コレラは激しい下痢をともない、かかると3日ほどで死に至るという症状の進行の速さから、「コロリ」と俗称されたことをご存知の方も多いだろう。
     安政5年(1858年)、このコレラが江戸ではじめて流行し、多くの人が亡くなった。本書は、コレラの流行にみまわれた当時の江戸の世相を記録したものである。これによれば、江戸でコレラの流行が始まったのが、7月上旬。8月上〜中旬には「病倍々(ますます)盛ん」となって死者が急増し、遺体の火葬が追いつかない事態となったという。
     写真は本書の挿絵の一つで、当時の火葬場の様子を色鮮やかに描く。中央で硯と筆を持って立つ僧侶は、火葬場に次々と運ばれるひつぎに番号を書いている。この番号は火葬の順番を示すもので、僧侶の背後には番号が記された順番待ちのひつぎが、数多く積み上げられているのが見てとれる。
    (資料番号:87201470)

  • 東京日々新聞(錦絵新聞)三百二十二号
    落合芳幾(おちあい よしいく)/画 転々堂鈍々(てんてんどう どんどん)/記
    1874年(明治7年)

     錦絵新聞とは、明治時代初期、新しいメディアとして導入された新聞の中からとくに耳目を集める事件について絵と文で即物的に伝えた錦絵の一種で、題材は、美談、珍事、殺人、恋愛など様々であった。
     本資料は1873年(明治6年)3月22日に発行された東京日日新聞を元記事に、親孝行にまつわる事件について報じた錦絵新聞。1874年(明治7年)10月に発行された。記事には、老いた母のため、秋の深山に入り、わずかな氷を求めたとある。絵は鮮やかな赤枠が全体を囲み、天使がタイトルのリボンを持つ構図は文明開化を感じさせるが、山や木に使われている黒や草ぐさの緑など、多色刷りである浮世絵版画ならではの色の鮮やかさに目を引き付けられる。
     文中ほぼすべての漢字には読み仮名がふられ、元記事にある難解な文章も平易な文に変えられているほか、庶民の関心が高いゴシップ的要素もあり、大衆向けのものになっている。このような親しみやすさから錦絵新聞は次々と部数をのばし、新聞の普及へとつながった。
     メディア形態としてはごく短命に終わった錦絵新聞であるが、それまで知識人層になかば独占されてきた時事情報を、一般大衆にも開放したその功績はメディア革命とも評せるだろう。
    (資料番号:90200073)

  • 木場乃雪
    川瀬巴水/画
    1934年(昭和9年)

     日が沈み、黒く染まった家並みにしんしんと降り積もる雪。水面に浮かべられた木々にもすっかり雪化粧が施されている。雪明かりでほんのり照らされている空を見上げると、まだまだこの白い結晶はやむことがなさそうだ。痛いほどに冷えた空気を感じつつも、なぜか心温まるのは、家屋の窓からこぼれる山吹色の明かりのせいだろうか。
     この作品で描かれているのは昭和初期の深川木場。作者の川瀬巴水は、江戸の名残がかすかに香る東京の風景を、情緒豊かに写しだした版画を多数残している。
     舞台となった木場は、江戸の頃より貯木場として栄えていた場所である。江戸幕府が開かれた当初、材木問屋は日本橋周辺に軒を連ねていた。しかし、火事が多発していた江戸の町。その中心部に材木を集めていては、火災のたびに焼失してしまう。そこで元禄14年(1701年)、多くの材木問屋が現在の江東区木場公園一帯に場所を移した。江戸の新たな名所の誕生である。以降、昭和後期に新木場へ移転するまで、木場は貯木場として江戸東京の発展を支えた。
    (資料番号:91222092)

  • 木製亜鈴
    明治時代(1868年〜1912年)

     亜鈴(アレイ)というと、今では鉄のものや水を入れて使用するものが一般的だが、明治時代は写真のような木製のものが広く使用された。亜鈴は、明治になって欧米の体育教育の器具として入ってきたものだった。
     維新後、国家や社会のあらゆる面で新制度が採用されたが、教育においても欧米の知識の移入が盛んに行われた。その結果、知識の吸収を偏重するばかりが盛んになっている、と文部省では問題視し、体育の必要性が唱えられた。
     しかし、どのような体操を採用するかは決まっておらず、明治9年(1876年)に米国を視察した田中不二麿(たなか ふじまろ)・文部大輔により招かれたリーランドが、明治11年に体操伝習所で指導するようになり、はじめて「軽体操」が採用された。陸上競技などの「重体操」に対して、「軽体操」は、健全な生活を送れる身体の育成を目的とした簡易な器具を使用する体操で、そこで使われたのが木製亜鈴だった。
     木製亜鈴を使った体操を亜鈴体操と言った。この体操は二個の亜鈴をそれぞれ両手にもち、前や左右に伸ばしたり、回したりするものだったので、運動場がなかったり、狭かったりした当時の学校では具合のよいものであった。
    (資料番号:90207568・90207569)

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