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  • 南総里見八犬伝
    曲亭(滝沢)馬琴/作 柳川重信・渓斎英泉他/画
    1814年〜42年(文化11年〜天保13年)

     曲亭(滝沢)馬琴の代表作にして、江戸時代読本の最高傑作『南総里見八犬伝』は全106冊の長編物語で、次のようなあらすじで始まる。
     室町時代、合戦に敗れて安房国に渡った里見義実(よしざね)は、国主を滅ぼして安房半国を得る。その際義実は、助命を乞う前国主の妻玉梓(たまずさ)を処刑してしまう。玉梓は里見の子孫を犬にするとの呪いの言葉を吐いて死ぬ。数年後、隣国から攻められ苦戦に陥った義実は、飼犬の八房に対し戯れに、敵将を咬み殺したら娘の伏姫をやろうと言う。この言葉を信じた八房は、敵将の首をくわえて帰り、伏姫を得る。
     『南総里見八犬伝』の主人公は、八房と伏姫との間の子供たちで、伏姫が襟にかけていた「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの玉をそれぞれが持ち、八房の毛並みと同じ痣が体に一つずつあるという共通点を持つ。物語はその後、玉梓の呪い通りに生まれた八犬士が、里見家を守り、その再興のため大活躍をするという展開を見せる。
     『南総里見八犬伝』は、仁・義や忠・孝といった儒教的徳目が強調され、主家里見家の対する武士道精神を賛美する文学であるとされることが多い。しかし、馬琴はその中に、呪われた生まれの者が異形なる力を発揮して呪いを祓うという土俗信仰にも等しい思想を込めておくことを忘れなかった。
    (資料番号:88208191~8296)

  • 波涛蒔絵櫛(はとうまきえくし)
    中山胡民/作(なかやまこみん)

     作者の中山胡民(1808〜1870年)は、幕末から明治初期にかけて活躍した蒔絵師で、江戸初期の本阿弥光悦や尾形光琳の蒔絵技術を江戸後期に伝承した原羊遊斎(はらようゆうさい)の門人。
     蒔絵は、漆工芸の装飾のひとつである。文様をあらわす部分にあらかじめ漆を塗り、乾かないうちに、金銀の細かい粉を蒔きつけ、さまざまな技法で仕上げる。
     江戸時代、蒔絵師たちは幕府や大名家に召し抱えられるなどして、その地位が安定していたので技術の継承も順調だったが、明治維新を迎えると不遇の時代となった。それでもなお、胡民はこの蒔絵の伝統技術を守り、のちに東京美術学校(現東京芸術大学)の教授となる小川松民(おがわしょうみん)などの名工を育てた。
     この資料は、高蒔絵(たかまきえ)という文様の一部を盛り上げる技法で、全面に金を蒔きつけ、波の連続的な動きを立体的にデザインした挿し櫛である。片面の右脇には「胡民」の銘が入れられている。
    (資料番号:03000639)

  • 小金ヶ原御鹿狩図(こがねはらししがりず)
    小島厳敬信/写
    1849年(嘉永2年)

     1795年(寛政7)3月、小金原(現在の松戸市域)で行われた鹿狩りの様子を描いた絵巻を、1849年(嘉永2)に模写したもの。鹿狩りとは、農民から徴発した多くの勢子によって、野生の猪や鹿を追い込み、槍や弓を用いて仕留める大規模な狩りのこと。鹿は「しし」と読むが、文字通りの鹿ばかりでなく猪などをも含み広い意味を持っていた。
     この鹿狩りは11代将軍徳川家斉が行ったもので、もっとも規模の大きい狩りといえる。これに動員された総数は15万人とも20万人ともいわれ、実数は定かではない。またその規模は、将軍がこの狩りの様子を見渡すためだけに築いた高さ約9mに達する御立場(おたちば)に象徴される。この御立場はたった一日限りの鹿狩りのために造られ、終わった後も将軍の権威を誇示するため、3日間そのまま取り置かれた。
     1795年の小金原鹿狩りは、計画から実施まで3年半もの年月を要した。この鹿狩りは1791年(寛政3)6月頃、時の老中松平定信により立案されたが、2年後に老中を辞した定信は、自ら立案した小金原の鹿狩りを在職中に見ることはなかった。
     小金原においてこの次ぎに大規模な鹿狩りが実施されたのは、本図が模写された1849年のことである。本図が模写された経緯も、半世紀ぶりに実施される将軍の小金原鹿狩りと無関係ではなかったと思われる。
    (資料番号:90209638)

  • 山田清三郎宛差紙・御暇申渡状
    1868年(明治元年)

     「山田清三郎宛差紙」は、江戸城の無血開城から半年ほど経過した1868年(明治元)10月8日、旧幕臣山田清三郎に出された文書で、内容を抄訳すれば、「申し渡すことがあるので、明日、平服で出頭すること」を命じた召喚状である。この文書は木版で刷られており、ほぼ同文の文書が旧幕臣に大量に発給された。
     一方の「山田清三郎宛御暇申渡状」は、山田清三郎が出した暇(いとま)願に対する許可状。主文わずか二行の簡略さが目につく。「差紙」で出頭した山田清三郎が御暇の許可状を入手したということになる。同年6月、静岡への移封が決まった徳川家は、翌7月、旧幕臣に対して、無禄を覚悟で静岡へ同行するか、御暇を願い出るか、選択を迫る通達を出していた。旧幕臣にとっていずれを選んでも苦難の道は免れない究極の選択であり、山田清三郎にとって「御暇申渡状」は、事実上の縁切り状であった。
     大量印刷された召喚状で次々と呼び出され、たった二行の縁切り状で、すべてを失い、いばらの道を歩むことになった旧幕臣たちのその後を思う時、後世において変革の成功例として称揚される明治維新とのコントラストに、ある種の感慨を禁じえない。
    (資料番号:99000594〜595)

  • 鯰の要石を跳ね返す図
    1855年(安政2年)頃

     1855年(安政2)10月2日(西暦11月11日)に発生した安政江戸地震の後、鯰を主人公にした版画が江戸の市中に出回った。鯰絵と呼ばれるこれらの版画は、地震は土中の大鯰を押さえる要石(かなめいし)が緩んで発生するという伝説を基に作成されている。地震後一か月あまりの期間に400にのぼる種類のものが出て、人気のものは増刷された。
     この鯰絵には、中心に鯰、上部に要石と金銀、周囲に職人、そして文章が入っている。よく見ると鯰の足元には竹、要石の下部は空洞に描かれている。鯰は、竹の台に乗った人形に帽子をかぶせ、ジャンプさせて遊ぶ玩具である「とんだりはねたり」に見立てられている。人形姿の鯰が要石の帽子を跳ね上げ、金銀を舞わせる構図は、地震後の復興景気を表わしている。
     職人は建築ラッシュにわいた大工、鳶、左官である。着物をみると、大工には「木」、消火活動もした鳶(とび)には「火」、左官には「土」、鯰には「水」とある。これは、木が火で燃えて土になり、土中から金ができ砕けて水に流れ木が育つ、という五行を表現している。本来は、このように木から火の順になるが、ここでは、鯰(水)が金銀を舞い上げ、左官(土)が鳶(火)にお金を渡し、大工(木)が一番優位な場所で飲食しているように、五行の順が逆転している。これは、災害復興期という社会の非日常的状況において、日常の格差が一時的に逆転した様相を暗示している。
    (資料番号:86230127)

  • 大正震火災絵巻
    桐谷洗鱗/画
    1923年(大正12年)

     折れ曲がった電柱、崩壊したレンガ建築、荷物を抱え、人力車を荷車にして日本橋を往来する避難民…。これは、画家の桐谷洗鱗が、関東大震災直後の惨状のスケッチをもとに3巻の絵巻に仕上げた「大正震火災絵巻」の一場面。1923年(大正12)9月1日11時58分、神奈川県相模湾北西沖を震源とするマグニチュード7.9の地震が起こり、死者・行方不明者約10万5千人余という未曽有の大災害となった。
     発生時刻が昼時だったこと、台風による強風が吹き荒れていたことなどから、東京市(当時)は各所で3日間にわたって大規模な火災が発生し、下町を中心に40万戸が焼失した。当時、市内交通の要であった市電も営業所4か所が全焼し、保有車両約1900両のうち800両弱が焼失した。この場面にも日本橋付近で焼失した市電2両の残骸が描かれている。
     壊滅的な被害を受けた市電気局は、市電復旧までの代用交通機関として乗合バスの導入を決めた。11人乗りの小型バスは明治期に乗合馬車の代名詞であった「円太郎」バスと呼ばれ、翌年1月から市民の足として活躍した。
    (資料番号:87200001~3)

  • 丸善株式会社東京本社天長節記念
    鈴木真一/撮影
    1901年(明治34年)11月3日

     1869年(明治2)、横浜で書籍・薬品を商う丸屋商社が創業した。創業者の早矢仕有的(はやしゆうてき)は医師として活躍していたが、福沢諭吉の私塾に入門し、実業への道を歩み始めた。翌年には東京日本橋に「丸屋善七店」を開設(後に丸善株式会社と改称)、洋書や西洋小物など、様々な舶来品を扱うようになる。
     この写真は、丸善株式会社東京本社の集合写真である。写っているのは、全部で82名。人数からして、全社員だろう。最前列の真ん中に座っているのは、3代目社長の小柳津要人(おやいづかなめ)である。
     撮影したのは鈴木真一(初代ならびに2代)。初代は、日本における写真師の先駆者である下岡蓮杖のもとで学び、1873年(明治6年)、横浜本町に写真館を開業。同じく下岡門下だった娘婿の岡本圭三が2代鈴木真一を襲名。2代は渡米して最新の写真技術を学び、84年に横浜真砂町に洋館2階建ての写真館を新築し、横浜本町から移転し本店とした。
     撮影は11月3日の「天長節」の日に行われた。当時の丸善の営業時間は、朝8時から夜10時まで。店員の休日は1年に4日で、元日、1月16日(藪入り)、7月16日(盆)とこの天長節だった。集合写真は、1907年(明治40年)、12年に撮影されたものも残されている。写真からは社員数が増え、会社が発展していく様子をうかがい知ることが出来る。
    (資料番号:93650059)

  • 東京名所四十八景 柳原写真所三階より御茶の水遠景
    昇斎一景/画
    1871年(明治4年)

     画面右端に、日本髪に着物姿の女性が座っており、反対側にはカメラの一部がのぞいている。これは当時急速に広がりつつあった、写真館での撮影風景を描いたものだ。
     女性の横に置かれている長い棒が伸びた椅子は、「首おさえ」と呼ばれた撮影道具。当時は長い露光時間を必要としたため、撮影される人が動かないように体を固定したものである。よく見ると、椅子に座る女性の首も「首おさえ」でしっかり固定されていることがわかる。また、ガラスがはめ込まれた窓が大きく開いているが、これは撮影に必要な明るさを確保するためである。
     この作品は、写真が日本に入ってきた頃の様子を描いた貴重な絵画資料なのだが、実は江戸時代以来の伝統的な浮世絵版画、いわゆる錦絵にほかならない。
     江戸時代の伝統を引き継ぐ浮世絵の中に、近代的な写真撮影の様子が描かれていることには、意外な感じを受けるかもしれない。しかし、写真が日本に浸透しつつあった頃、江戸時代と同じような浮世絵はまだたくさん作られていたのである。そして浮世絵と写真は同時期に存在した表現手段として、互いに様々な影響を及ぼし合っていった。浮世絵と写真は、決して縁遠いものではないのである。
    (資料番号:93200925)

  • 盛岡藩南部家外桜田上屋敷絵図
    1806年(文化3年)/写

     盛岡藩南部家は陸奥国北部を治める10万石の大名で、その江戸上屋敷は外桜田(幸橋御門内)にあった。外桜田には有力大名の上屋敷が集中しており、通りを挟んで薩摩藩島津家、大和郡山藩柳沢家の屋敷があった。
     上屋敷の惣坪数は6640坪で、西が御殿向で、緑に塗られた東が詰人空間(つめにんくうかん)である。詰人空間には家臣の住まいである長屋が並んでおり、表門を囲むようにある塀に当たるところも長屋となっている。他の大名の江戸屋敷との大きな違いは馬に関する施設の多さであろう。南部は馬の産地で、南部馬は将軍家や幕閣への献上品であった。「御馬見座敷」の北側には細長い馬場があり、その東側の細かく区切られた空間も墨書きはないが、馬小屋と考えられる。
     御殿は表と奥に分かれる単純な構造で、表が黄色で色分けされている。表には政務を行う場所と藩主の住まいがあり、奥は藩主家族の住まいと奥女中が住む長局で構成される。藩主の居間から奥へ入るところに「御鈴廊下」がある。この時の藩主は11代利敬(としたか)で、この「御鈴廊下」を通って奥に住まう正室教子(みちこ)の元へ向かったと想像できる。
     上屋敷は藩の政庁であると共に、藩主夫妻や家臣・奥女中の住まいでもある。その様子が図面よりうかがい知られる。
    (資料番号:15200086)

  • 三井呉服店引札
    1896年(明治29年)9月

     江戸時代から明治・大正にかけて発行された、今日の広告宣伝ちらしに相当するものを引札(ひきふだ)と呼ぶ。ここで紹介する引札は、「陳列販売」と「座売り」という新旧の販売方法が併存していた過渡期の三井呉服店の様子がわかる貴重な資料である。中段には三井呉服店が明治28年(1895)頃から本格的に導入を開始した本店2階の陳列販売の様子を、下段には店舗の1階で行われていた江戸時代以来の対面形式による座売りの様子を伝えている。
     江戸時代以来の呉服屋の商習慣である数種類の商品を店の奥から取出して販売する方法は、店員が座って対面式で個別販売することから、座売りと呼ばれていた。一方、1877年(明治10)に行われた内国勧業博覧会で売れ残った商品の販売をルーツとする勧工場(かんこうば)では、値段を付けた商品を陳列し、来店客がその商品を見て歩く陳列販売方式を採用した。顧客が自由に商品を選べるこの方式が、次第に従来の座売りに取って代わっていった。
     この陳列販売方式を三井呉服店に導入したのは、当時米国最大の百貨店となっていたワナメーカーを視察するなど、欧米留学を経て1895年(明治28)に理事となった高橋義雄(箒庵)だ。高橋はこの他、女性店員の採用や洋式簿記を導入するなど改革を行い、三井呉服店の近代化を進めた。
    (資料番号:87102519)

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