注目のコレクション

  江戸東京博物館

go東京都写真美術館   go東京都現代美術館   バックナンバー

  • 富嶽三十六景


    神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


     神奈川沖とあるように、江戸湾(現、東京湾)から富士山を望んだ図です。対岸にあたる木更津側から見た景色という説もあります。
     三艘の押送船(おしおくりぶね)が大波に翻弄され、船上の人々はなすすべが無く、へりにしがみついています。まるで生きているかのようにせり上がる波と、向こうに悠然と見える富士、動と静の対比が見事に表現されています。かつて画家のゴッホが弟テオ宛の手紙の中で絶賛し、フランスの作曲家ドビュッシーが書斎に掛け、交響詩「海」を作曲したことなど、本作品をめぐるエピソードも伝えられ、作品の魅力を高めています。
    (資料番号:92202743)

  • 富嶽三十六景


    凱風快晴(がいふうかいせい) 
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    タイトルにある「凱風」とは、南風で、初夏のそよ風のことを言っています。赤い山肌の富士山を描いた本作品は、通称「赤富士」と呼ばれて、人々に愛された「冨嶽三十六景」シリーズの代表作です。
     「赤富士」は夏の季語で、夏の日の早朝などに、太陽を受けて山肌が赤く染まる現象が現在でも見られることがあります。北斎がどこからの富士山を描いたのか、場所の特定はされていませんが、雲浮かぶ青い空に富士山の姿のみの構図は、この上ない鮮烈な印象を与えるのです。
    (資料番号:92202744)

  • 富嶽三十六景


    山下白雨(さんかはくう)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    タイトルの「白雨」とは、夏の激しいにわか雨をいいます。そびえたつ富士山の山頂は、澄んだ青空が広がっているのに対し、裾野は漆黒の闇に包まれ稲妻が走っています。おそらく地上は、にわか雨に打たれているのでしょう。
    一図に様々な気象の変化を収めるとともに、富士山の雄大さを見事に表現しています。富士山の背後には、白い雲がまるで文様のように浮かび、信仰の対象としての富士山をイメージしたものかもしれません。
    (資料番号:92202745)

  • 富嶽三十六景


    深川万年橋下(ふかがわまんねんばしのした)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    万年橋は小名木川と隅田川との合流点に架けられていた橋です。真横から描写された橋は美しい弧をみせており、その下には富士が覗いています。太い橋脚に隠れて見落としてしまいそうですが、すべての船の舳先が富士を指し示していることをご確認ください。
     本図では、両岸の建物を遠近法を意識して描いています。その中心点は、富士山ではなく、その隣に見える小さな火の見櫓となっています。
    (資料番号:92202746)

  • 富嶽三十六景


    東都駿台(とうとすんだい)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


     駿台とは神田駿河台のことで、高台であることから富士山の眺望に秀でていたことが地名の由来とも伝えられます。本図は、画面中央の神田川を挟んだ高台から富士山を望
    む景色と推定されます。坂道には、これから登城するのか裃姿の武士と供の者、野菜の振り売りなどの行商人や巡礼者など、様々な人々が行き交っています。北斎が好んで描く複雑な構図が採用されていますが、江戸の晴れた日の坂道ののどかな様子をうかがえます。
    (資料番号:92202747)

  • 富嶽三十六景


    青山円座松(あおやまえんざのまつ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    円座松とは、青山の龍岩寺(りゅうがんじ)の庭園に植えられた「笠松」で、枝の長さが三間(約5. 5メートル)余りもあったと言われます。参詣者は寺を訪れ、散策して笠松を見ることができました。本図では、親子の姿や、松の前で宴会を開き楽しむ様子などが見られます。
     北斎は、見事な松の向こうに富士山を大きく配しましたが、どちらも大きすぎるこの構図は、富士山の三角と笠松の丸い形態をただ単に比較してみたかったからかもしれません。
    (資料番号:92202748)

  • 富嶽三十六景


    武州千住(ぶしゅうせんじゅ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


     千住(現、足立区千住)は、日光街道の第一の宿で、品川・板橋・内藤新宿とともに江戸四宿の一つとして栄えました。しかし北斎は、そのような栄えた宿場町ではなく、人里離れた川辺からの富士山を描いています。画面右側に水門があることから、隅田川上流の戸田川を描いたものと推定されています。
     水門越しの富士山を、馬を連れた農夫と釣り人が、何か会話を交わしながら眺めて
    いる様子です。
    (資料番号:92202749)

  • 富嶽三十六景


    武州玉川(ぶしゅうたまがわ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    玉川とは現在の多摩川のことで、本図は多摩川中流域からみた風景であると推測されます。
     画面を三つに割り、近景には川岸、中景には多摩川、遠景には霞の奥に富士山を配した構図となっています。霞を挟んだ上下の空間は、富士と手前の風景が離れた場所であることを示し、全体的に自然なまとまりをみせています。そして、川岸を歩く人と馬、川面に浮かぶ船、青い富士へと視線をつないでいます。
    川面のさざ波を表す繊細な描線は、手前の方は色をのせず立体感を出す空摺(からずり)という技法を施しています。
    (資料番号:92202750)

  • 富嶽三十六景


    甲州犬目峠(こうしゅういぬめとうげ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    犬目峠から富士山を望む図様です。犬目峠は、甲州街道の野田尻宿と犬目宿の間にあり、現在の山梨県上野原市の西に位置します。
     新緑のなだらかな峠道を旅人や馬子が登っていきます。遠くの富士山は、雪がまばらに解け出している様子です。鋭角の富士山と峠のなだらかな丘陵が対比され、摺り残して表現された雲が、富士山との絶妙な距離感を作り出し、全体としてのどかな旅風景が伝わってきます。
    (資料番号:92202751)

  • 富嶽三十六景


    尾州不二見原(びしゅうふじみがわら)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    不二見原(富士見原)は現在の名古屋市中区富士見町のあたりで、景色のすばらしい場所として知られていました。一方で、この図は、富士見原の風景ではなく、名古屋城下の伏見町とされる説もあります。
     大きな桶の輪の中に小さな富士が覗く、大胆な構図となっています。田園をへだてて遠望する富士に注目させられる効果を生んでいます。桶作りに勤しむ職人の姿を描き、富士山もこの作品では少し身近な存在にも見えてきます。
    (資料番号:92202752)

  • 富嶽三十六景


    東都浅草本願寺(とうとあさくさほんがんじ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    浅草の東本願寺(現、台東区西浅草一丁目)の本堂の大屋根を近景で大きく描き、中景に江戸の町、遠景に富士山を小さく描いています。屋根では、職人たちによって屋根の修理がとり行われ、緊張感が漂っています。また、町の方からは、火の見櫓と、凧までが意表をついて舞い上がるなど、なかなか見どころがある作品と言えるでしょう。
     本堂の大屋根と富士山は、三角形で対応しているかのようです。
    (資料番号:92202753)

  • 富嶽三十六景


    武陽佃島(ぶようつくだじま)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    隅田川河口より石川島・佃島を望み、江戸湾(現、東京湾)の奥には富士山が浮かんでいるかのようです。湾には、何隻もの小舟が浮かんでおり、人を乗せたり、荷物を運んだり、釣りをしたりとさまざまです。
     島の大きさに対し、舟が余りにも大きく不自然な印象を与えますが、舟の軸先はすべて彼方の富士山に向けられていて、一定のリズムが実は仕掛けられているかのようです。
     版元の本シリーズの広告文に、富士山の「佃島より眺る景」を描くと書かれ、本図は版元が認めた代表作の一枚です。
    (資料番号:92202754)

  • 富嶽三十六景


    相州七里浜(そうしゅうしちりがはま)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    七里ヶ浜の北にある、現在、鎌倉山と呼ばれる丘あたりから、小動岬(こゆるぎみさき)の向こう側に富士山を望む図様です。左端の島は、気軽な旅行地として親しまれてきた江ノ島で、その形は不明瞭に表現されています。実際の景色と異なることや、雪を冠した富士山と夏雲との矛盾などが指摘されてはいますが、詩情豊かな作品に仕上がっています。
     版元の本シリーズの広告文に、富士山の「七里ヶ浜にて見るかたち」を描くと書かれ、本図は版元が認めた代表作の1枚です。
    (資料番号:92202755)

  • 富嶽三十六景


    相州梅沢左(そうしゅうえのしま)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


     梅沢(現、神奈川県二宮町)は、東海道の大磯宿(現、神奈川県大磯町)と小田原宿(現、同小田原市)との間にあった宿で、茶屋が建ち並び賑わっていました。
     水辺に集う5羽の鶴と、富士山を目指すかのように天空を舞う2羽の鶴が点景として描かれています。これから空は光に溢れ、富士は赤く染まるのでしょうか。藍を基調とした画面からは、朝明け前の清澄な空気が伝わってきます。
     富士と鶴の組み合わせによって、縁起が良い図に仕立てています。
    (資料番号:92202756)

  • 富嶽三十六景


    甲州石班沢(こうしゅうかじかざわ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    タイトルの「石班沢」は、「石斑沢」の誤りと考えられ、富士川に面する鰍沢(現、山梨県鰍沢町)の川の合流地点の急流を描いたものと推定されます。
     押し寄せる波が岩にぶつかる荒々しい様子に比べ、網をうつ漁師は、背後の富士山とともに孤高の雰囲気を漂わせるかのようです。漁師の放った網と、彼と子がいる突き出た岩の線が三角形を作り、奥の富士山の稜線と対応して見えます。
     なお、初摺(しょずり)は藍一色に摺られ、後に本図のように色が足されていきました。
    (資料番号:92202757)

  • 富嶽三十六景


    甲州三島越(こうしゅうみしまごえ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    三島越とは、甲府盆地から籠坂峠を越え、御殿場から伊豆の三島へ抜ける道のことです。本図は、甲斐国と駿河国の国境の籠坂峠から富士山を望んだものと推定されています。
     画面のほぼ中央を、巨木が貫いていますが、背後の富士山の稜線と、巨木の幹の太さを確かめる旅人の楽しげな様子が、画面の分断を防ぐことに成功しています。「ぼかし」の技法が多用されています。
    (資料番号:92202758)

  • 富嶽三十六景


    信州諏訪湖(しんしゅうすわこ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


     諏訪湖の北岸の下諏訪方向から夕暮れの富士山を遠く望む作品です。富士山の左前方には八ヶ岳がそびえ、その手前には高島城が描かれます。周囲を湖に囲まれ、まるで浮いているかのように見える「浮城」と呼ばれた様子が伝えられています。
     手前の岩の上には、小さな祠と、まるで両腕かV字型のように枝を伸ばす2本の木を配し、全体的には静かで穏やかな画面に、大きなインパクトを与えています。
    (資料番号:92202759)

  • 富嶽三十六景


    駿州江尻(すんしゅうえじり)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


     江尻(現、静岡県静岡市清水区)は東海道の宿場名です。画面中央に祠があることから、その右側が「姥ヶ池」と考えられます。強い突風のために、一番左側の頭巾姿の女性の懐からこぼれた懐紙や、左から二番目の男性の菅笠が空へ舞い上がる瞬間が見事にとらえられています。手前の道を急ぐ人々や葦の描写に比べ、奥の富士山はあっさりとした線で表現されています。
    (資料番号:92202760)

  • 富嶽三十六景


    遠江山中(とおとうみさんちゅう)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    遠江(現、静岡県)の山中での製材の様子を描いた図です。天竜川上流の製材業が盛んな地域を描いたものかもしれません。斜めに立てかけた大きな角材の上下で二人が鋸挽(のこぎりび)きしている姿は、鍬形恵斎『近世職人尽絵詞』から引用されたと考えられています。角材の支柱脇に座る一人は、鋸の刃を調整しています。
     本図では、角材を支える柱の三角、角材と支柱が作る三角、材木の下から望む富士山の三角など、いくつもの三角形の対比が意識されているようです。
    (資料番号:92202761)

  • 富嶽三十六景


    常州牛堀(じょうしゅううしぼり)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    牛堀とは、現在の茨城県潮来市で、霞ヶ浦の南端、利根川にほど近い水郷です。
     船底の浅い船が斜めに大きく画面右下から突き出すように描かれています。静かで落ち着いた画面は、早朝の光景を描いたものでしょう。米のとぎ汁を流す音に驚いた白鷺が二羽、静寂を破って飛び立っていきます。
     船と白鷺の左方向に引き付ける強い力に対して、画面全体の均衡を保つかのように、安定感のある富士山が右側に配されています。
    (資料番号:92202762)

  • 富嶽三十六景


    江都駿河町三井見世略図(えどするがちょうみついみせりゃくず)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    「三井見世」とは、日本橋駿河町の呉服店三井越後屋のことで、両側を三井の店舗が建ち並ぶ通りからは、富士山を眺めることができました。この通りからの構図は、歌川広重など歌川派の浮世絵師も多く手がけています。
     画面右側の屋根の上では、瓦の修理が行われていています。屋根の三角形と、富士山の三角形が相似関係にあります。そして、画面の大半を占める空には、正月らしく、凧が揚げられていて、画面にアクセントを与えています。凧には、版元の永寿堂の「寿」の字が入れられています。
    (資料番号:92202763)

  • 富嶽三十六景


    御厩川岸より両国橋夕陽見(おんまやがしよりりょうごくばしせきようをみる)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


     御厩河岸(現、台東区蔵前二丁目)と、対岸の本所石原町(現、墨田区横網二丁目)との間に渡し船が往来しており、「厩の渡し」と呼ばれていました。夕闇がせまり、日が沈んでいく光景が描かれています。
     船には11名もの人々が乗り込んでいますが、中央で富士山をじっと眺める立ち姿の男性は、版元西村屋の商標が染められた風呂敷包みを背負い、もしかすると店へと戻る西村屋の店員かもしれません。
     船頭の頭を中心点にして、橋と船の弧が点対称となる構図が巧みに用いられていると考えられます。
    (資料番号:92202764)

  • 富嶽三十六景


    五百らかん寺さざゐ堂(ごひゃくらかんじさざえどう)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    かつて深川にあった五百羅漢寺は、約500体の羅漢像で知られていました。特に、総門を入って左にあった三匝堂(さざいどう)は、三階建ての高層建築で見晴らしが良く、参詣客で賑わっていました。回廊が螺旋状に続く構造から、「さざゐ堂」と呼ばれました。
     回廊を進み階段を登ると、はるか遠くに見えるのは富士山です。その隣には材木が幾本も立っているのは、御材木蔵でしょう。
    眺望を楽しむ人々の視線と、さざゐ堂の床や屋根の消失点が、富士山に集中する仕掛けになっています。
    (資料番号:92202765)

  • 富嶽三十六景


    礫川雪ノ且(こいしかわゆきのあした)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


     降雪の朝、一面に広がる銀世界に、雪化粧をした富士山を描いた一枚です。雪見しようと集った人々が富士を見て感嘆の声をあげています。こうした雪晴れの日にはさぞかし美しい眺めであったことでしょう。女性が指さす方向には、小さく三羽の鳥が描かれています。北斎は空の高さと広さを表したかったのでしょう。
     礫川とは小石川のことで、現在の文京区小石川あたりです。伝通院の坂上あたりから川越しに富士山を見た図様と考えられます。
    (資料番号:92202766)

  • 富嶽三十六景


    下目黒(しもめぐろ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


     起伏に富んだ丘陵地には、青菜の畑が並んでいます。茅葺き屋根の農家から延びる小道をたどっていくと、奥に富士山が見えます。まるで、窪地の底に富士が見える一枚となっているのです。
     画面の左には、鍬を肩に担ぎ坂を上る農夫が、富士山よりも高い位置に描かれており、富士を見下ろすかのようです。右側には、武家お抱えの鷹匠が描かれます。目黒界隈の丘陵地は、鷹狩りも楽しまれました。
    (資料番号:92202767)

  • 富嶽三十六景


    隠田の水車(おんでんのすいしゃ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


     隠田村は、現在の渋谷区の原宿周辺です。かつては農村地帯で、たくさんの水車が点在していました。画面左に流れているのは渋谷川と考えられています。
     回転する水車とともに、汲み上げられた水が、形を変えて運ばれていきます。北斎の関心は、水路に流れ去る一瞬の水の変化に向けられています。また、粉を挽くための穀物の入った袋を担ぐ農夫や、洗いものをする農婦の、日常生活の様子を描いています。
    (資料番号:92202768)

  • 富嶽三十六景


    相州江の島(そうしゅうえのしま)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    本シリーズの中では大変めずらしく、誇張が加えられていない、自然な様子が描かれた作品です。画面左手に江ノ島が、右奥に雪を冠した富士山が描かれます。
     江ノ島は、江戸時代から弁財天詣でを兼ねた行楽地として賑わっていました。当時、島へは、小舟か、引き潮の時に歩いて渡り、本図では、砂州を行く人々が描かれます。波が小さな丸い点によって描写され、きらきらと光るようにも見えるユニークな表現方法が採用されています。
    (資料番号:92202769)

  • 富嶽三十六景


    東海道江尻田子の浦略図(とうかいどうえじりたごのうらりゃくず)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    田子の浦は、駿河湾北部、現在の静岡市蒲原町、由比町に面した太平洋の海辺を言います。『万葉集』の山部赤人の歌「田子の浦ゆ うち出てみれば ま白にそ 富士の
    高嶺に 雪は降りける」でも知られる歌枕の地です。
     本図では、手前に荒波の中の漁船、中央に塩田とその作業の人々、奥に堂々とした雪が鹿の子状に残る富士山の姿の様子が描かれます。田子の浦は、古くから塩田もよく知られており、古代より伝えられるこの地のイメージを画面の中に描き込めたと言えるでしょう。
    (資料番号:92202770)

  • 富嶽三十六景


    東海道吉田(とうかいどうよしだ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    東海道の宿場である吉田宿は、現在の愛知県豊橋市にあたります。富士山の眺望が自慢の「不二見茶屋」で一服する旅の人々が描かれます。左手前の駕籠に乗っての旅行中の中央の優雅な女性客が、茶屋の女性の説明を聞いています。二人を乗せてきた駕籠かきは、汗をぬぐったり、草鞋を柔らかくしたりしています。
     右端人物の笠に記された「永」と「山に三巴」の商標、腹掛の「寿」文字は、版元の永寿堂こと西村屋与八を示す宣伝でしょう。
    (資料番号:92202771)

  • 富嶽三十六景


    上総ノ海路(かずさのかいろ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    上総とは、現在の千葉県中南部で、本図は、江戸湾の木更津沖を航行する木更津船を描いたものと推定されています。右から突き出た半島は、三浦半島と思われ、実際の位置関係よりも、かなり湾曲して描いています。
     本図の主役である船の描写は細かく、正確なものとなっています。また、中央の帆船の帆と綱の三角の中に富士山の小さな三角形を覗かせているという趣向も見られます。
    (資料番号:92202772)

  • 富嶽三十六景


    江戸日本橋(えどにほんばし)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    日本橋は五街道の起点で、浮世絵ではよく取り上げられました。風景画で北斎と双璧をなす広重は、「東海道」や「江戸名所」のシリーズでいくつも手がけています。
     画面の手前には、擬宝珠(ぎぼし)が見え、日本橋を通行する人々を描き、奥に江戸城と富士山を配しています。日本橋川の両岸には蔵が建ち並んでいます。
     橋の上は、魚介類や材木、天秤棒など様々な荷物と人々の頭が見え、それぞれが勝手な方向に進んでいるために、余計にごったがえしている様子です。
    (資料番号:92202773)

  • 富嶽三十六景


    隅田川関屋の里(すみだがわせきやのさと)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    関屋の里は、隅田川東岸にある木母寺(もくぼじ)から千住あたりをいいます。画面右の高札は、この地域から一番近い千住大橋を渡った奥州街道沿いの掃部宿(かもんしゅく)と考えられます。
     大きく蛇行する堤の道では、武士を乗せた早馬が疾走しています。着物の色や馬の色も全て異なるのは、北斎の作意でしょうか。
     高札場から堤の道をたどっていくと、早朝の赤く染まった富士山に視線が注ぐようになっています。風を切り駆け抜ける馬と富士との、静と動の対比が際立っている一枚です。
    (資料番号:92202774)

  • 富嶽三十六景


    登戸浦(のぼりとうら) 
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


     登戸は、現在の千葉市中央区にあった港町で、海産物などを房総半島から江戸へ運ぶ海上輸送の拠点の一つでした。
     本図の鳥居は、登渡神社(通称、登戸神社)の大小の鳥居と考えられていますが、実際には2つの鳥居は、もっと離れて建っていました。やや角度に不自然さが残るものの、鳥居の下に富士山という構図は、北斎らしいものと言えるでしょう。
     海岸の浅瀬では、潮干狩りが楽しまれており、大漁に喜ぶ漁師やはしゃぐ子どもたちの様子が見えます。
    (資料番号:92202775)

  • 富嶽三十六景


    相州箱根湖水(そうしゅうはこねのこすい)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    人や生き物の気配が消され、静寂に包まれています。波一つ立たない湖面が広がり、鬱蒼(うっそう)とした木々の中に、箱根神社がひっそりと佇みます。たなびく霞は、伝統的な絵画の技法が取り入れられ、神秘的な様子を作り
    出しています。
     この作品は、北斎らしい躍動感や奇抜さが見られないと指摘されていますが、抑制した表現は、他の作品にはなく、シリーズの中のバランスからあえて選んだのかもしれま
    せん。
    (資料番号:92202776)

  • 富嶽三十六景


    甲州三坂水面(こうしゅうみさかすいめん)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


     タイトルの「三坂」とは、甲府盆地から河口湖へ抜ける御坂峠のことで、峠から見た河口湖の風景を描く作品です。画面のほぼ半分を占める穏やかな湖面と、向こう側の湖畔の村落から、静かで落ち着いた印象を受けます。
     夏の季節で、実体の富士山に雪はありませんが、不思議なことに、湖面に映る富士山は雪をいただいています。そして映る位置も少しずれています。本作品の構図は、『北斎漫画』の挿絵にも見られます。
    (資料番号:92202777)

  • 富嶽三十六景


    東海道程ヶ谷(とうかいどうほどがや)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    程ヶ谷(保土ヶ谷)(現、横浜市保土ヶ谷区)は、東海道の宿場で、宿の南端にあたる武蔵と相模の国境の品濃坂より松越しに富士山を眺める図様です。右側に見えるのは、
    庚申塚で、青面金剛の石像がまつられていました。
     松並木がリズミカルに続き、東海道の旅の雰囲気を伝えます。馬を引く中央の馬子が、ちょうど富士山を仰ぎ見る位置にいて、自然に絵を見る者の視線も富士山へ向かうように仕掛けられているのです。馬具には版元の永寿堂こと西村屋の「壽」の文字や商標が入れられています。
    (資料番号:92202778)

  • 富嶽三十六景


    本所立川(ほんじょたてかわ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    タイトルの「立川」は、本所(現、墨田区)を流れる運河の竪川のことです。運河沿いには、材木問屋の材木置き場が建ち並んでいました。その作業風景が描かれます。立てかけられた材木のすき間から、申し訳なさそうに富士山が覗いています。
     本図の右下の材木置き場看板には「西村置場」と表示され、材木には「永寿堂仕入」「馬喰丁弐丁目角」「新板三拾六不二仕入」と、版元の西村屋の住所や本シリーズの宣伝が入れられています。
    (資料番号:92202779)

  • 富嶽三十六景


    従千住花街眺望ノ不二(せんじゅかがいよりちょうぼうのふじ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


     千住は、江戸四宿の一つで、日光街道・奥州街道の最初の宿として栄えました。手前の行列は江戸から国元に帰る参勤交代の一行です。彼らが担ぐ赤い筒は附袋(つけぶくろ)をかぶせた火縄銃で、その後ろに毛槍組が続いているのが民家の屋根越しに見えます。附袋の色から、盛岡藩の行列と推定されます。
     富士山の前の家並は遊廓で、これを吉原と見るか、千住の遊郭と見るか意見が分かれています。それにしても行列の武士らが名残惜しそうに振り返るのは富士山と遊廓のどちらでしょうか。
    (資料番号:92202780)

  • 富嶽三十六景


    東海道品川御殿山ノ不二(とうかいどうしながわごてんやまのふじ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    東海道に面した御殿山は、海を望む高台でした。江戸屈指の桜の名所であり、花の盛りには大勢の人々で賑わいました。本図は、桜の情緒とともに、花見客の表情やしぐさが豊かに描かれています。
     左から、満開の桜の下で、敷物をひいて宴会を開く客ら、眠り込んだ子をそれぞれ負ぶう夫婦、ほろ酔いの武士ら、西村屋の商標が入った風呂敷包みを背負う小僧、そしてやや向こうの人物たちというように、人物が曲線状に連なるように配して工夫しています。桜の枝の間に富士山が見えます。
    (資料番号:92202781)

  • 富嶽三十六景


    相州仲原(そうしゅうなかはら)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


     仲原は、現在の神奈川県平塚市中原のあたりで、大山寺に向かう参詣道の入り口にあたりました。遠景の富士山の手前に描かれる山は、大山と考えられます。
     本図では、参詣に向かう厨子を背負って諸国を行脚する巡礼者の父子、行商人など各地からの旅人が描かれます。一方で、鍬や弁当を持って農作業に出かける農婦や、しじみ採りの農夫ら土地の人々の暮らしも描かれています。そして、雪解けの富士を仰ぎ眺めているのは、版元の永寿堂こと西村屋の商標が入った風呂敷の荷物を背負う右側の男性です。
    (資料番号:92202782)

  • 富嶽三十六景


    甲州伊沢暁(こうしゅういさわのあかつき)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    伊沢とは、現在温泉でも知られる石和のことです。かつてはこの町も甲州街道の宿場町で、本図は、その全景をとらえたものです。背後を流れるのは、鵜飼川(現、笛吹川)で、甲州街道と分岐する鎌倉往還の板橋が見えます。
     旅人たちが、夜明けを待たずに宿を出発する姿が描かれています。明け行く空を背に、富士山はまだ闇夜をまとっているのです。日が昇って色を取り戻す前の風景が、情感豊かに表現された1枚です。
    (資料番号:92202783)

  • 富嶽三十六景


    身延川裏不二(みのぶかわうらふじ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    身延川とは、これまで富士川の別称と考えられてきましたが、近年、日蓮宗大本山の身延山久遠寺あたりの波木井川に合流する支流を指すことが指摘されています。いずれにせよ、本図は、久遠寺への参詣の身延道沿道の様子を描いたものです。駕籠かきの人々の坂を下る足並みから、かなりの急坂である様子がうかがえます。
     画面左上の高くそびえ立つ山々とそれを覆う雲の描写は、この地域の山岳の険しさを伝えたかったからでしょう。富士山が、まるで背伸びをして顔を覗かせているかのようです。
    (資料番号:92202784)

  • 富嶽三十六景


    駿州大野新田(すんしゅうおおのしんでん)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    大野新田は、東海道の原宿と吉原宿の間にあり、現在も静岡県富士市大野新田という地名が使用されています。正面に富士山を眺められる景勝地として、古くより有名でした。このあたりは葦が茂る湿地帯で、多くの沼が点在していました。本図でも、中景に男島、女島が浮かぶ浮島沼が描かれます。
     手前には、枯れ葦を山のように乗せられた牛が歩いています。枯れ葦の形と連続性に、北斎は関心があったようです。牛を引く農夫ら、その前には青物を背負う農婦らが夕日を背に家路についています。
    (資料番号:92202785)

  • 富嶽三十六景


    駿州片倉茶園ノ不二(すんしゅうかたくらちゃえんのふじ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「前北斎為一筆」)/画


    茶の生産地として有名な駿河の茶園の様子が描かれます。片倉茶園がどこなのかはわかっていません。近年、静岡県清水町にあった戸倉(徳倉村)と誤って表記した可能
    性も指摘されています。
     茶摘みのほか、籠に茶を詰める人、運搬の人の働きがわかりやすく表現されています。けれども、茶畑の形状や、緑色のはずの茶葉が黄金色に表現され、富士山には雪があり季節は秋である点など、実際の茶摘みを正確に表しているとも言えません。北斎のイメージには、稲作作業の延長としての茶摘みがあったのかもしれません。
    (資料番号:92202786)

  • 富嶽三十六景


    東海道金谷ノ不二(とうかいどうかねやのふじ)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


    金谷側から見た、大井川を渡る人々の様子を描いています。堤の向こうには、富士山を望みます。大井川は駿河国と遠江国の境であり、橋や渡し船もなかったため、川越人足が旅人を肩や輦台(れんだい)に乗せて運びました。
     うねりのある川の波が打ち寄せる様子や、旅の群衆の姿を、北斎の得意とする細密な描写でとらえています。旅人が担ぐ荷物や長持、島田宿の旗には、版元の永寿堂こと西村屋の「永」「寿」の文字や、商標が入れられています。
    (資料番号:92202787)

  • 富嶽三十六景


    諸人登山(しょじんとざん)
    1831〜34年(天保2〜5)
    葛飾北斎(署名:「北斎改為一筆」)/画


     富士山の姿を描くことなく、山中の登山が主題となっているのは、シリーズ中この作品だけです。富士を信仰する富士講の人々を描いています。
     岩肌から湧き出る霧の中、金剛杖にすがって昇っていく人、疲労困憊しうずくまる人、石室で身を寄せ合う人もいます。その表情はみな、伏し目がちに表現され、登山の過酷さを物語っています。シリーズの完結として、あえて山頂の険しい姿を描いたのでしょうか。空は朝焼けの雲がたなびき、御来光はまもなくです。
    (資料番号:92202788)

ページTOPへ▲