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  • 武蔵野図屏風
    江戸中期(1680〜1745)

     左端に富士山、右端に筑波山を描き、両山を従えるようにススキが一面に広がる構図は、武蔵野の原風景を表したものという。
     台地の上に位置する武蔵野は、水の便が悪い地域で、開発の手が入らなかった。
     その姿を大きく変えたのは、八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として行った新田開発だった。1722年(享保7年)、幕府の新田開発令が全国発布されると、武蔵野周辺の村々からも多くの開発願いが出された。町奉行大岡忠相(ただすけ)の指導のもと、ススキの原野も開かれていった。
     開拓農民たちは畑をおこし飲み水を引いた。それまで、人家も少なく、猛暑や極寒の季節には行き倒れる人も出るほど過酷だった地に、村が出来上がった。
     開発着手からわずか十五年で、武蔵野に八十余りの村が生まれ、千軒以上の家が建ち並んだ。この屏風は開発される以前の武蔵野の風景を見せてくれる。
    (資料番号:87201313、87201314)

  • 尾張町恵美須屋店頭図
    鳥居清長/画
    18世紀末

     堂々たる店構えに驚かされるこの作品は、現在の東京の銀座にあった呉服商、恵美須屋を描いたもの。三井越後屋と並ぶ、呉服屋の大店として知られていた。
     店先には、店名が書かれた大暖簾(のれん)が下がる。また、大きな丸の中いっぱいに、笑顔のえびすさまと鯛が描かれているのも楽しい。屋根に出された看板には「呉服物安売」の文字が見える。随所に、今も昔も変わらない、客の注目を集めたい商店の工夫が感じられる。
     さらに目を凝らすと、店内も詳しく描かれていることがわかる。品物を見る客、客に出すお茶を支度する店員、そして買った物を風呂敷に包んで店を出る客に、腰をかがめて挨拶する店員。当時広まりつつあった、店頭での現金販売の様子がわかって面白い。
     江戸時代の浮世絵には、肉筆画にも、版画にも、この作品のように大店の店先を描いたものが結構ある。それらは、現在の私たちが江戸の生活を知る上で貴重な史料となるが、実際には、描かれた大店が自分たちの満足のためか、あるいは宣伝のために制作を依頼したものであろう。
    (資料番号:87201319)

  • [阿蘭陀船図説] 
    林子平/著
    1782年(天明2年)

     寛政三奇人の一人、林子平の手になるオランダ船やオランダ国についての解説図。1782年(天明2年)に長崎で刊行された。
     未知なる国についての簡単な紹介書といったたぐいのもので、この図説自体は当時の世界観を知るうえで興味深い情報が収められている。
     しかし、この図説刊行は子平の悲劇の序章でもあった。十年後の1792年(寛政4年)に幕府によって発禁処分となる彼の著「海国兵談」の刊行資金集めを目的に刊行されたものだからだ。
     「海国兵談」は、長崎遊学の折に、ロシア南下の情報を知り、いち早く危機感を抱いた子平が北方防備の必要性を説く、当時としては画期的な国防意見書だった。「江戸の日本橋より唐・阿蘭陀迄、境なしの水路也」という有名な警句は、まさに当時の国防の弱点、ことに海防のもろさを的確に見抜いている。
     時の老中首座、松平定信はだれよりもこの情勢を危惧していた。しかし、一方でこの対外危機意識が広く一般に流布することも恐れた。政権批判に結びつく危険があったからだ。
     幕府は国防の見直しを図るが、あくまでも本書を認めず、版木没収のうえ、子平を仙台に蟄居(ちっきょ)させた。発禁の翌年、子平は不遇のうちに仙台で死去した。

    (資料番号:90204714)

  • [ペリー使節への賜物書上 力士米俵運搬図入り]
    1854年(嘉永7年)

     嘉永6年(1853年)6月、ペリー艦隊が浦賀に来航し、日本との通商を求めるアメリカ大統領の国書をもたらした。翌年1月、日本側の返事を得るために再び来航し、3月に日米和親条約が締結された。いわゆる「黒船来航」として、広く知られている出来事だ。当時、国内では、アメリカ船やペリーらの姿、日米両国間で交換された贈答品などを描いた瓦版が多数出回った。
     本資料も、このような瓦版の1つで、瓦版の右上には、返礼品が書き上げられており、大統領やペリーへは蒔絵硯箱や羽二重などの品々、乗組員へは米300俵・鶏300羽が贈られたことがわかる。
     下段には、体格の良い力士が、アメリカ船の乗組員への米俵を軽々と運び、引き渡す様子が描かれている。力士1人が米俵2つを持ち、中には、この米俵を片手で頭上まで持ち上げる者、また、お手玉のように放っている者もみられる。一方、受け取る側の乗組員は、米俵に押しつぶされそうになったり、3人がかりで1つの米俵をやっと持ち上げたりと、かなり大変そうだ。
     並外れた怪力で米俵を運ぶ力士の姿は、アメリカ側の注目を大いに集めた。力士を動員したこのようなパフォーマンスには、日本人の力を誇示しようとする幕府の意図も込められていたのだろう。
    (資料番号:91222414)

  • 撃剣会・赤松軍太夫と小川清武
    歌川国輝(二代)/画
    1873年(明治6年)

     明治維新の後、西洋軍制の導入や帯刀禁止令の布告などで、江戸時代に腕をならした剣術家たちの暮らしは立ち行かなくなっていった。幕府の武芸訓練施設の講武所で剣術教授方を務め、直心影流(じきしんかげりゅう)の使い手であった榊原鍵吉は、相撲を参考に、剣術試合の興行である「撃剣(げきけん)会」を行い、困窮した彼らの救済を図った。
     本図は、明治6年(1873年)4月、東京府の許可を得て行われた撃剣会の様子を描いたものである。赤い柱が周囲に立つ土俵のような舞台は、この興行が相撲を参考にしたことを示している。
     中央で、竹刀を頭上に振りかざしているのが赤松軍太夫、これに相対して竹刀を構えているのが小川清武。その間で扇子を持ち、試合を裁こうとしているのが見分役の野見てい(金偏に是)次郎で、相撲でいえば行司にあたる。右側で床机に腰かけ、試合を見守っている人物が、この興行を願い出た鍵吉である。
     多くの見物人が詰めかけたこの興行の成功をきっかけに、東京府内では同様の興行が相次いだ。しかしその結果、低俗化し不祥事も起きたため、7月には東京府から禁止が布告された。本図からは、明治という新しい時代を懸命に生きようとする、かつての武士たちの姿が垣間見える。
    (資料番号:90209695〜90209697)

  • 諸工職業競(くらべ)諸車製造之図
    静斎年一/画
    1879年(明治12年)

     文明開化の街に登場し、人々の注目を集めたものの1つに人力車がある。車輪の上にしつらえた椅子に人が座り、それを人の力で引っ張る乗り物だ。
     この錦絵に描かれているのは、当時、人力車の製造や販売で知られていた秋葉大助の店頭の様子である。左に、その名前を記した看板がある。
     この店は、現在の銀座4丁目交差点にほど近い場所にあった。柱や壁からわかるように、店は煉瓦造りで、いわゆる銀座煉瓦街の一画にあった。
     錦絵をよくみると、人力車の背中にあたる部分に豪華な蒔絵を施したものがある。鶴が描かれたり、「大當(おおあたり)」と大きく書かれたりしている。人力車は、明治初期にはこのように意匠を競う傾向があったが、華美に過ぎるとして禁止の憂き目をみる。その後、華やかなものは、輸出用としてのみ製造されたようだ。
     文明開化風俗の代表とも言える人力車も、1870年に東京府から製造・営業許可が下りた当初はさっぱり話題にならなかった。そこで思いついたのが、日本橋の高札場の下に人力車を置き、通りを走って見せることであった。
     さて、この宣伝方法は大当たり。人力車は、あっという間に東京中、日本中に広まっていった。
    (資料番号:91210223)

  • 東京名所浅草金龍山遠景新開池之図
    井上安治/画
    1889年(明治22年)

     菊細工や珍獣の見世物などでにぎわいをみせていた浅草公園の花屋敷に、本所の材木商・信濃屋が所有する木造瓦葺きの楼閣が移築されたのは、1887年(明治20年)のこと。
     奥山閣(おうざんかく)と名付けられた5階建ての建物は、屋根の頂に金箔の鳳凰を掲げ、内装に紫檀や黒檀などの名木を使用、室内には書画、骨董が展示された。4階の回廊からは公園一帯を見渡すことができ、翌年に一般公開が始まると、大きな評判を呼んだという。
     奥山閣の移築を手がけたのは、1886年(明治19年)に花屋敷の経営を引き継いだ山本金蔵。金蔵は、もとは深川の材木商で、奥山閣の開業に合わせて花屋敷の敷地を拡張、庭園を広げて動物の種類を増やすなど、精力的な経営に打って出た。
     金蔵は、油絵と光線によって実際の風景を見ているような錯覚を作り出す「ジオラマ」の設置や、歌舞伎役者に台詞を吹き込ませた蓄音機を備えるなど、花屋敷の改革に積極的に取り組んでゆく。
     しかし浅草では、この絵が描かれた翌年の1890年(明治23年)に、日本一の高さを誇る12階建ての塔・凌雲閣が誕生、人々の興味は、この新しい遊覧施設へと移っていった。一方の花屋敷は、巨額の設備投資と金蔵の浪費癖により経営が破綻、1894年(明治27年)には、その権利が人手に渡ってしまった。
    (資料番号:87102117)

  • コイン型ダンスチケット
    フロリダダンスホール 赤坂溜池/発行
    1932〜33年(昭和7〜8年)ごろ

     戦前、赤坂溜池にあった「フロリダダンスホール」で使われていたコイン型チケット。上段は1932年(昭和7年)の刻印があるアルミ製で1枚25銭の夜用(午後7時〜11時)。
    片面には英国の詩人・バイロンの詩の一節とダンスのポーズが刻まれている。下段は33年の赤いセルロイド製で、おそらく1枚5銭のランチタイム用と思われる。
     この当時、20歳代半ばだった男性が晩年まで手元に残していたもので、娘さんが寄贈してくれた。
     この男性は、弟と2人で岩本町の和泉橋ダンスホールなどに通って、基本的なステップやマナーを習得。京橋の日米ダンスホールでもダンスを楽しんでいたが、フロリダダンスホールは規模が大きく、高級な感じがしたという。
     当時の日本のダンスホールは、1920〜30年代にアメリカの都市で流行した「タクシー・ダンスホール」方式を採用していた。入場客は10枚つづりのダンスチケットを購入し、1曲ごとに1枚、相手のダンサーに渡す。一月ごとに売り上げを集計し、経営者に60%、ダンサーに40%の割合で配分された。
     この男性は、お目当てのダンサーに10枚のチケットを渡し、独占する客も目撃していた。大卒の初任給が50円の時代に、人気ダンサーは200円以上の月収を得ていたという。
    (資料番号:13000002、13000005)

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