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  江戸東京博物館

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  • 江戸城大広間管弦之図
    1823年(文政6年)

     幕府の年中行事のひとつに京都御使がある。これは正月13日、将軍から天皇への年頭の祝賀の使として、高家が御所に参内するものである。その答礼として勅使が江戸城を訪れるのは2月下旬か3月上旬で最も遅い年始行事といえる。この折、江戸城内では将軍と対面し、饗応の馳走および能などが行われる。
     1823年(文政6)の場合は2月27日に勅使が江戸に参着し、3月1日に江戸城に登城して11代将軍家斉と世子家慶に年頭の挨拶を行った。またこの年は管弦の家の公卿たちも一緒に下向し、翌日彼らによる管弦の演奏がなされた。
     この絵巻はその時の様子を描いたものである。中央の大広間下段左側には勅使ら3人が座り、向き合う形で楽器を奏でる公卿ら7人が着座。琵琶が2人・箏が3人、拍子木1人、謡1人である。幕に覆われた張り出し席には京都から来た楽人と幕府お抱えの紅葉山楽人が座る。
     老中や若年寄は勅使らの後ろ、譜代大名は公卿の後ろ、医師は左側などと座席も図面で示されている。描かれていないが、将軍は上段に出御している。
    (資料番号:86213141)

  • 公事宿久保田屋絵暦付引札
    落合芳幾/画
    江戸後期(1746~1841)

     これは公事宿を営む久保田屋源四朗が得意先に配布した引札(広告チラシ)である。公事宿とは、訴訟のために江戸に出府してきた地方の農民のための宿で、慣れない訴訟手続きなどを代行する商売である。
     引札の中身に目をやると新年を寿ぐ挨拶があり、「江戸に出てきたときは相替わらず当宿をご利用ください」という意味の営業フレーズがみえる。中央には裃を着て、年始回りする久保田屋の主人が描かれている。後ろに従う番頭風の男がもっているのは、扇を納めた木箱で、新年の挨拶には扇を配るのが相場となっていた。直接挨拶すべき得意先が地方にいるため、この引札をもって年頭の挨拶に代えようとしたといえる。
     注目してもらいたいのは、右端の凧である。正月から12月までの各月が少し順序をはずして描き込まれ、白地の「正」と黒地の「二」にそれぞれ「大」と「小」の文字が小さく書き込まれている。これは大小暦といって、白地の数字が大の月(30日の月)、黒地の数字が小の月(29日の月)を示している。旧暦のもとでは小の月と大の月が毎年変化するので、大小暦が必要であった。
    (資料番号:92201417)

  • 渋谷宮益千代田稲荷之図
    歌川芳員/画
    1863年(文久3年)

     「江戸に多いもの 伊勢屋稲荷に犬の糞」という言葉がある。稲荷は五穀豊穣の神として古くから信仰され、きつねは農業神のつかいとみなされた。初午の行事は、稲作の開始を意味する春の祭りとして広まったという。
     しかし、農業生産とは縁遠い江戸の地では、別の特性が展開した。江戸時代の中ごろまでは、江戸の開発に伴ってできた町や屋敷地の鎮守神としてまつられたものが多く、中ごろを過ぎると、向島の三囲稲荷や王子稲荷など江戸近郊にある稲荷が目立つようになる。背景には、商業や流通の発達と、行楽や参拝などの隆盛がある。さらに稲荷の霊験に対する人々の期待の高まりとともに流行神のようになった。そした、天然痘や腫れ物に御利益のある笠森稲荷、眼病に効果のある茶の木稲荷などが流行した。
     この千代田稲荷は、太田道灌が江戸築城にあたり、霊験を感じて請い迎えたのが始まりという。その後、徳川家康が城内の紅葉山にまつったものの、渋谷宮益へ移転する。1863年(文久3)6月ごろからはやりだし、茶店も出てにぎわった。
     幕末の混乱期、人々は家康ゆかりの稲荷にどんな霊験を期待して参拝したのだろうか。鳥居に刻まれた「天下泰平 国土安穏」の字が代弁しているのかもしれない。
    (資料番号:91210433〜35)

  • 江戸名所図会
    1834年・36年(天保5年・7年)
    斎藤幸雄・幸孝・幸成(月岑げっしん)/編著 長谷川雪旦/画

     「江戸名所図会」は、内神田雉子町(千代田区)の名主を務めた斎藤幸雄、幸孝、幸成が親子3代にわたって編纂した地誌である。
     1798年(寛政10)に出版許可を得ていた斎藤幸雄は、その翌年に亡くなり、幸孝も江戸近郊に収録範囲を広げながらも他界してしまう。弱冠15歳で遺業を継いだ幸成(月岑)は、名主の仕事をこなしながら勉学に励み、祖父幸雄の死から数えて実に35年目にようやく刊行に至る。全7巻20冊に達するこの本には、1000件を超える名所が収録され、南は金沢(現横浜市)、西は府中、北は大宮、東は船橋までの地を網羅している。江戸の範囲をはるかに超えたスケールの大きい地誌となっている。
     とりわけ注目されたのは、長谷川雪旦の描いた挿絵だ。特定の流派に属さない江戸の町絵師節雪旦は、編者とともに実際に現地に赴き、742件の名所を描いている。景勝地はもとより、神社仏閣、年中行事、盛り場、商売や生業までもが名所の対象となっている。その技法は、高い所から見下ろす鳥観図で、名所を取り巻く風景とともに概観が手に取るように描かれている。
    (資料番号:91211454〜73)

  • 「江戸東南の市街より内海を望む図(えどひがしみなみのいちまちよりうちうみをのぞむず)」『江戸名所図会 第1巻』
    1834年(天保5年)
    長谷川雪旦/画

     本図は「江戸名所図会」の冒頭から二枚目にあたる挿絵で、江戸の町を眼下に、遠く水平線の彼方から太陽が昇る旭日昇天を描いている。遠景には本牧(神奈川)、安房・上総(千葉)の山並みを描き、広大な江戸の内海を表現している。深川には永代橋が架かり、橋の左からは隅田川の水が海へと注ぎ込み、その河口には佃島が浮かぶ。
     左下手前の日本橋界隈から海岸に向かっては、甍の続く町並みが描かれている。日本橋や江戸橋の下には日本橋川が流れ、大小さまざまな船が行き交い、通りには点をちりばめたように無数の人が描かれている。日本橋から江戸橋の間の日本橋川左岸には魚河岸がある。さらに江戸橋から左には二つの橋があり、この付近には水運をうまく利用して米・塩などの大量の物資を運び入れる河岸蔵が多く立ち並んでいる。
     交通・流通の大動脈で、江戸でもっとも繁華な日本橋界隈のにぎわいがここには描かれている。この絵はちょうど江戸城の方角から江戸の町を俯瞰することになる。大江戸の繁栄と町人の勢いを象徴する一枚となっている。
    (資料番号:91211454)

  • 旗本伏見家年中行事
    1782年(天明2年)11月

     伏見家は1500石の大身旗本で、旗本屋敷が居並ぶ番町のうち表六番町に屋敷を拝領していた。江戸時代最後の当主為政は、江戸開城後の1868年(慶応4)8月に切腹して果てている。この年中行事は大身旗本の生活を垣間見ることが出来るものである。
     元旦の朝には、大福茶を飲み、菱餅・いも・いちょう大根・焼き栗・昆布・花かつお・ねぎなどが入った雑煮を食べる。雑煮を置いた膳の配置を図で示している。雑煮の手前に白い箸を置き、右にいわしを置き、松葉をしいた上に向かって右にごまめを二つ、左に昆布を二つ置く。年始のお客のための料理も用意する。昼には御掃初・御蔵開きの行事を行う。
     2日に何も行事がないのは、当主が江戸城に登城して将軍に拝謁する日だからであろう。3日には将軍家や大名家と同じように、謡初(うたいぞめ)が行われ、高砂・老松が演じられる。7日に七草粥を食べる風習は現在も変わらない。11日は鏡開きのあとその餅をお汁粉にして食べる。知行所の名主が年始の挨拶に献上物を持って訪れ、当主に挨拶する。15日に菩提寺の西迎寺へ参詣して、年始の行事は終わる。
    (資料番号:96006975)

  • 六十余州名所図会「江戸 浅草市」
    歌川広重/画 越村屋平助/版
    1853年(嘉永6年)

     江戸の人々は、12月8日の新年事始めから新しい年を迎える準備にとりかかった。13日にすす払いを終えると、寺社の境内では歳の市が開かれる。中でも、17、18日に浅草寺で開かれた市は、江戸で最大級の規模を誇った。ざる、杓子、桶などの日用品や、三方、門松、しめ飾りなどの正月の飾り物、その他にも食料品や調味料など、様々な商品を扱う露店は境内におさまりきらず、周辺地域のかなり広範囲に至るまで立ち並んで、夜更けまでたくさんの人でにぎわったという。
     この絵にも、市を訪れた人々がびっしりと描かれている。頭巾や手ぬぐいをかぶった人の頭に交じって、高く掲げられた桶や飾り物は買ったばかりの品物だろうか。明かりに照らされた朱塗りの門とは対照的に、暗い夜空には雲がわき、小雪がちらついている。大判縦1枚の画面には、年の瀬の風景が切り取られている。
     「六十余州名所図会」は、歌川広重が諸国の名所を描いたシリーズで、1852年から56年(嘉永5〜安政3年)にかけて制作された。強調された遠近感や大胆なトリミングといった特徴は、広重最晩年の「名所江戸百景」へと引き継がれている。
    (資料番号:91210393)

  • 銘仙の羽織
    昭和初期(1926〜1931)

     この資料は、昭和の初めごろに着られていた羽織。柄をよく見ると、流れ星とわかる。和服に星の模様、なぜこのようなデザインの着物があったのだろう。
     「考現学」を提唱した今和次郎らは、1925年(大正14)に銀座を歩く人びとの装いや持ち物などについて調査した。それによると、和服姿の女性のうち51%の女性が「銘仙」の着物を身につけていた。銘仙とは、平織りの絹織物で、太い糸が使用された丈夫な織物だ。価格も安かったため、大正から昭和の初めに人気が高まり、大量に販売された。
     ブームが起きた理由のひとつに、製造元が盛んな広告宣伝を行ったことがある。最も多く製造された「伊勢崎銘仙」の広告では、女優の水谷八重子がポスターや雑誌のモデルとなった。さらに、百貨店での大々的な販売が流行に拍車をかけた。ショーウインドーには華やかな銘仙を着たマネキンが飾られ、価格の安い銘仙はセールの目玉にされた。
     さて、写真の羽織も銘仙でつくられたもの。少し不思議な星模様は、アール・デコをはじめとしたアメリカやヨーロッパ風の模様がもてはやされていたからだ。様々な洋風のデザインが豊富にあったことも、銘仙ブームの理由のひとつと言えるだろう。
    (資料番号:89004197)

  • 武州州学十二景図巻
    狩野尚信/画 林羅山/詩・跋
    1648年(慶安元年)

     木挽町(こびきちょう)狩野家の祖、狩野尚信は1607年(慶安12)に狩野孝信の子として京都に生まれた。1618年(元和4)に別家していた兄探幽の代わりに父の跡目を継ぎ、のち1630年(寛永7)には江戸に召し出され、幕府御用絵師となった。尚信も探幽と同じく画才に恵まれ、特に水墨画において新境地を開拓した。
     本図は、探幽・尚信・安信三兄弟と探幽の養子、益信による合作「武州州学十二景図巻」の内、尚信筆の2枚である。「武州州学十二景」の十二景とは、江戸初期の儒者で幕府儒官林家の祖、林羅山が私塾として上野忍ヶ岡に開いた学問所から眺望される十二の名所のことである。羅山はこの景観を「武州州学十二景」と題し、詩を詠んだ。のち、羅山の子春斉が詩に応じた絵を幕府御用絵師狩野家に描かせ、1648年に羅山自筆の跋文を加えたのが本資料である。
     「金城初日図」は、初日に浮かぶ江戸城の姿である。天守を中央に配し、淡い朱色の一筋で光が天守に届き、吉兆を象徴的に表している。墨の濃淡を巧みに利用し、余白を充分にとった表現は、豊かな詩情を見事に醸し出している。
     「隅田長流図」は隅田川を描いたもので、湿潤な大気を実感させる。隅田川の真ん中に描かれた赤いくちばしの黒い鳥は都鳥であろう。
    (資料番号:88200001)

  • CROQUIS JAPONAIS『クロッキ・ジャポネ(日本素描集)』
    ジョルジュ・ビゴー/画
    1886年(明治19年)

     クロッキ・ジャポネ(日本素描集)は、フランス人画家ジョルジュ・ビゴーによる銅版画集で、明治の日本人を写生した31図を収めている。写真はそのうちの一つで、中心に前を見つめる一人の男性を描いている。ビゴーのサインと共にフランス語でl etudiant(学生)と下部にあることから、モデルは男子学生だとわかる。近代化が進んでいた当時、都市部では和洋混合のスタイルが流行し、羽織に袴、下駄履きで、ザンギリ頭に帽子を被っている学生の姿はその典型例となっている。
     ビゴーは1882年(明治15)、日本美術を研究するために来日し、御雇(おやとい)外国人として、陸軍士官学校で美術を教え、その後、政治や社会を題材にした風刺画家として広く知られた。その一方で、帰国する1899年までに、本資料を含め4冊の銅版画集を刊行し、多様な職種、娯楽、生活や年中行事の様子など、人の姿を中心に、都市や農村のさまざまな情景をスケッチした。当時の何気ない光景も、異国人の彼の目には新鮮に映ったのだろう。
    (資料番号:89975941)

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