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  • 気の合う同子春の楽(きのあうどうしはるのたのしみ)
    歌川国貞(3代豊国)/画 近江屋吾平/版
    1854年(安政元年)
    盆栽
     3人の女性が炬燵を囲んで、思い思いの趣味にひたりながら、のんびりと過ごしている。これが正月の光景を描いたものであることは、ちょっとわかりにくいが、右側の棚の上に鏡餅が飾られ、注連縄と紙垂の先がのぞいているのが見て取れる。左側の窓辺には梅の植木鉢と七草のセットが置かれている。新春を祝う定番の組み合わせである。
     右側の女性は三味線を爪弾き端唄に興じており、中央の女性の手元には手紙がある。左側の女性は横になって煙管を片手に持ち、表紙の美しい合巻(ごうかん)を並べている。合巻は江戸で出版された草双紙の類で、年末から新年にかけて一斉に販売され、購読のほかに正月の贈答目的などにも使われた。これもまた、正月の様子を示している。
     3人は会話でもしているのだろうか、左側と中央の女性は右側の女性に視線を投げかけている。
     国貞は1786年(天明6)5月、本所五ツ目の渡し場を経営する亀田屋8代目角田(すみた)庄五郎の子として生まれ、後に9代目を襲名する。14歳以前に初代豊国に入門した。役者絵、美人画など幅広いジャンルで活躍し、1829年(文政12)には柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」の挿絵を描く。1844年(天保15)に豊国を襲名し、その後も数多くの作品を世に出した。この作品は古希の1年前に描かれたもので、「豊国画」と署名している。
    (資料番号:92200381〜383)

  • 絵本時世粧(えほんいまようすがた)1
    歌川豊国/画 式亭三馬/著 和泉屋市兵衛/版
    1802年(享和2年)

     歌川豊国が描いた上下2巻からなる色摺り絵本である。式亭三馬が上巻に序を寄せている。上巻と下巻の跋には歌川豊国作と記されているが、この文章にも三馬の添削が加えられたことは間違いないと見られている。
     武家・町屋・花街における女性風俗を巧みに描出しており、1700年代後半の寛政期の女性の生活ぶりを知るうえで貴重な材料である。しかし、様々な職業の人を載せるため、実際には同じところにいるはずのない人たちが同じ画面や一部屋に一緒におさまっている。
     上巻は12画面で公家の女性から始まり、大名の奥方と奥女中、町人の妻や娘、奉公人口入と書かれた人宿に集う人々、裏住まいの人、茶屋娘、外出中の姫君と御付女中などが描かれている。下巻も12画面ある。
     本画面には、中央には床の間を背に茵(しとね)にすわり脇息にもたれて、本を読む奥方が描かれ、その前には煙草盆がおかれている。奥方の視線の先には、献上物と考えられる反物を置いてその前で手をついて頭を下げている「お中老」がおり、左側の「ゆうひつ」(右筆)も同じく「お中老」に視線を向けている。右筆とは手紙や日記などを書く役職で、手に和紙と筆を持っている。右側の二人は「おそば」(御側)で、一人は役者絵の錦絵を見ており、もう一人は紙をきれいに畳んでいる。
    (資料番号:91200574)

  • 絵本時世粧(えほんいまようすがた)2
    歌川豊国/画 式亭三馬/著 和泉屋市兵衛/版
    1802年(享和2年)

     歌川豊国が描いた上下2巻からなる色摺り絵本である。式亭三馬が上巻に序を寄せている。武家・町屋・花街における女性風俗を巧みに描出しており、上巻下巻それぞれ12画面で構成されている。
    本書は大奥の図を載せたため絶版を命じられたといわれる。それに該当するのが前画面と本画面と思われる。
     本画面には、柳屋という楊枝所の前をどこかの大名家の姫君一行が通過している様が描かれている。姫君の脇には御付の女中である「おつぼね」(御局)と「若年寄」がおり、後ろから世話をする「おもり」(御守)がついてくる。その前を二人の「お小性」が歩いている。楊枝屋の娘は木槌で楊枝の先をたたいて柔らかくしており、店の脇にいる死者の声を伝える口寄せ女「いちこ」(市子)が一行を見ている。実際に姫君が駕籠を降りてこのようなところを歩いたかは、疑わしく、歌舞伎の一画面を切り取ったような構図となっている。
     歌川豊国は本名を倉橋熊吉といい、後に一陽斎と号する。芝神明前に住居した人形師五郎兵衛の息子として生まれ、芝三島町の歌川豊春の門に入り研鑽を積む。早くも1790年頃に芝神明前の版元・和泉屋市兵衛から美人画を出し頭角を現す。本書は豊国の初期の作品で、やはり和泉屋市兵衛より刊行された。顔の線などが穏やかで、妖艶な雰囲気を醸し出す後期の作品との違いがはっきりしている。
    (資料番号:91200574)

  • 善光寺如来御開帳之図并両国廣小路賑

     秘仏や霊宝を公開する開帳には神仏のあるその寺社で行う居開帳(いがいちょう)と、他の土地に運んで別の寺社で公開する出開帳(でがいちょう)があった。江戸では善光寺、嵯峨清凉寺、身延山久遠寺などの出開帳が盛んで、開帳場所(宿寺)としては回向院、深川浄心寺などが挙げられる。寺社が開帳を行う理由は、建物の維持管理、焼失後の再建などに充てる費用を捻出するためである。
     善光寺は浄土宗で尼僧を上人に仰ぐ大本願と、天台宗で男僧の貫主を仰ぐ大勧進により護持されている。善光寺の阿弥陀如来像が女性を救うという利益は唱導や絵解きなどを通して全国に広まり、女人救済の寺として認知されるようになる。
     善光寺の江戸出開帳は元禄5年(1692)・同14年・元文5年(1740)・安永7年(1778)・享和3年(1803)・文政3年(1820)と6回行われ、浅草伝法院で行われた享和3年を除き、開帳場所は回向院である。本資料には発行年が記されていないが、安永7年か文政3年のときの刷り物といえる。
    また、元禄5年は桂昌院(5代将軍綱吉生母)の住まいである江戸城三の丸に、元禄14年は江戸城に、元文5年は天英院(6代将軍家宣正室)の住まいである江戸城二の丸に、開帳後に本尊などが入った。
     安永7年の開帳は大盛況ではあったが、一方で雨天も続いたため、開帳日の延長を願い、幕府に認められた。これに対し文政3年は不振で、開帳を当て込んで両国橋辺へは見世物が多く出たが、開帳の収支は赤字であった。社寺の開帳が多すぎて新鮮味がなくなったのが原因と考えられる。善光寺はその後も出開帳を計画したがとりやめとなった。
    (資料番号:90204690)

  • 松御殿御化粧之間絵図(「元治度二丸御表大奥共総切絵図」のうち)
    1864〜65年(元治元〜2年)

     「元治度二丸御表大奥共総切絵図」は1863年(文久3)11月15日に焼失した江戸城二の丸御殿が、慶応元年(1865)4月29日に再建されたときの図面である。新造の二の丸には13代将軍家定御台所天璋院と同生母本寿院が引き移ることが決まっており、二人の住まいを基軸とした構造になっている。本図は18枚の切絵図からなり、つなぎ合わせると一枚の大きな絵図になる。
     切絵図の一つである「松御殿御化粧之間絵図」は天璋院の御殿である松御殿の平面図である。正室の御殿には梅御殿・柏御殿・新御殿など吉祥を著す漢字などが付けられ、主をその御殿名で呼ぶこともある。
     小さな庭である中坪を挟んで、右側に化粧之間と御次が、左側には上段・下段・休息・二之間・三之間・御台子之間(おだいすのま)(茶道具が置かれ、茶菓を調進するところ)がある。台子之間の隣が老女の詰所で、天璋院付老女が当番でここに詰めていた。御溜は老女以外の女中が待機するために使われたと推察できる。
     北側(図面上方)には天璋院専用の湯殿・上がり場・便所・御納戸が設けられている。南側(図面下方)には御清之間(おきよのま)があり神棚が備えられている。天璋院はこの部屋で徳川家の先祖代々の霊や家定の位牌に手を合わせたのであろう。
    (資料番号:10200116)

  • 十二ヶ月月次和歌帖(じゅうにかげつつきなみわかちょう)
    松平定信/編
    1801〜3年(享和年間)

     江戸時代、武家の教養として和歌は、男女を問わず必須であった。冷泉家など公家に師事したり、大名歌人と呼ばれ自らの歌集を編む者や、なかには歌論を出す者もいた。本資料の編者である松平定信は寛政の改革を行った老中として知られているが、老中引退後は浴恩園(現築地市場)に住み、文筆活動や読書、園内散策などをして過ごした。和歌に秀でていたこともよく知られている。
     正月の和歌を詠んでいるのは一橋(徳川)治済(はるさだ)である。政局をめぐっては定信と対立することもあった治済であるが、文事の道においては隔たりなく、二人の息子田安斉匡(なりまさ)・一橋斉敦(なりあつ)とその正室たちも歌を寄せている。
     10月「苅田鹿」を詠んでいるのが、田安斉匡の正室で閑院宮美仁(はるひと)親王の娘、裕宮(ひろのみや)である。和歌に詠まれた風景をイメージして描かれたのが「十二ヶ月月次風俗図」で、10月には黄金色の稲穂の波に鹿が戯れている様子が描かれている。この 絵の作者は幕府の御用絵師・狩野養川院惟信(ようせんいんこれのぶ)である。
     現在われわれは絵を主、和歌を従として捉えているが、当時はむしろ逆であったといえる。古来から和歌に基づく絵は、歌絵、歌意絵(かいえ)と呼ばれ、定信の著書にも歌を詠んではそれに合わせて絵を描かせる風雅な遊びを重ねたことが記されている。和歌を詠む大名が絵師を雇っているという主従関係が、和歌と絵画の立場を象徴している。
    (資料番号:88208020)

  • 明治六年癸酉頒暦(めいじろくねんきゆうはんれき)
    賀茂杉大夫/発行
    1872年(明治5)

     明治5年(1872)11月9日、「自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン」という明治天皇の詔とともに、太政官の改暦に関する「達」が出された。それによると、この年の12月3日をもって、明治6年の1月1日に改め、以後は1年を365日、12ヶ月とし、4年に1度1日の閏日を置くという内容であった。また、時刻もそれまでの不定時法を廃し、現在と同じ定時法の採用を定めていた。改暦の実施される12月3日までは、わずかに23日を残すのみで、まさに突然の予告であった。
     これには当時の人々も驚き、慌てふためいたようだ。師走が3日で変わるため、暮れが2日間しかない。新年を迎える準備も整わぬうちに、慌ただしく明治6年の正月がやってきてしまった。
     長年にわたって、身体感覚として染みついていた暦や時刻の改変は、それが人々の日常生活に密接であっただけに、大きな戸惑いと、混乱、そして反発を生んだ。改暦とともに、学制の頒布、徴兵制の導入など、急速に改革を進める政府に対し、各地で騒擾も起こった。こうした強い反発もあって、新暦の浸透は地方においてなかなか進まなかった。
     その一方、改暦に伴うさまざまなエピソードの中には、婚礼の日付を取り交わしていた花嫁が、いよいよその日と支度を整えて新郎宅に向かってみれば、相手方は旧暦の日付のつもりでいたため、高いびきで眠っていた、というような笑い話も残っている。
     これは旧暦で作られた明治6年の暦である。改暦されたため、実際にはなかった「閏六月」が記載されている。改暦の実施は、その発表まで暦を作る業者に知らされなかった。そのため、こうした旧暦のまま作られた暦が大量に返品され、彼らに大きな打撃を与えたという。
    (資料番号:90207317)

  • コンプラ瓶
    明治時代前期

     日本の醤油が江戸時代から国外へ輸出されていたことは、あまり知られていない。実は江戸時代の後期、長崎のオランダ商館を通じてはるかヨーロッパまで日本の味がもたらされていたのだ。輸送には赤道下での変質を防ぐため、木型の樽ではなく、専用の磁器の瓶が使用された。これがコンプラ瓶で、名称は、仲買人を意味するCOMPRADOORというポルトガル語に由来する。
     「JAPANSCHZOYA」とは、オランダ語で「日本の醤油」を意味する。コンプラ瓶は国内では流通せず、確認されているのは、ほとんどが長崎市内の発掘調査によるものだ。中継地点であるインドネシアやオランダでも発掘されるという。
     コンプラ瓶で輸出されていたのは醤油だけではない。酒や、からしも「ZAKY」、「MOSTAAD」と染め付けされた磁器の瓶や壺に入れられ、輸出されていた。これらは日本に滞在し、精力的な日本研究を行ったオランダ商館医師シーボルトのコレクションにも見いだされる。シーボルトは日本のからしについて、「イギリスのダーハム・マスタードよりも上質である」と評価している。
     コンプラ瓶は江戸後期から明治時代にかけて現在の長崎県波佐見町で製造された。この資料は長崎市内の工事現場から採集されたものであるが、「COMPRADOORDECIMA 長嵜金冨良商店(ながさきこんぷらしょうてん)」の意匠、型紙刷りという染め付けの技法、瓶の形などから、明治時代前期の製品であることがわかる。
    (資料番号:00003532)

  • ウテナ粉白粉オークル2号
    久保政吉商店/製
    昭和初期

     日本では古くから化粧の白粉といえば「白」一色であった。1904年(明治37)に国内で初めての無鉛白粉が発売されるまでは、白粉に鉛白が使用されていたので、使用し続けた人が、鉛中毒で亡くなる事故も起きていた。
     肌色の粉白粉が普及したのは、昭和に入り女性の洋装化が普及してきてからである。バスガールやエレベーターガールといったハイカラな制服姿の職業婦人が注目され、女性の社会進出が進んだ。また、最新ファッションの洋装で銀座を闊歩するモダンガールたちも、化粧もあわせて洋式化しなければ格好がつかなかった。
     働く女性の必需品として、携帯用コンパクト、口紅などがこの頃から一般的なものとなった。携帯用コンパクトは、ケースの中に粉白粉を移して使用した。この時代の「主婦の友」等の婦人雑誌を見ると、多様な化粧品広告が掲載されている。化粧品広告のモデルは、その時代のあこがれの的となる女性が起用されるが、大正〜昭和前期は映画・舞台女優が多かった。
     ウテナ粉白粉は、1929年(昭和4)、久保政吉商店(現在のウテナ)より発売された。商店の広告モデルには山路ふみ子、初代水谷八重子が33年(昭和8年)に起用されている。
     1920〜30年代の女性は、活動的で華やかな美しさに心をうばわれた。この化粧品のパッケージもそんな時代の空気を反映したモダンなデザインとなっている。
    (資料番号:91210980)

  • セルロイドの置物 サンタクロースとトナカイ
    大正期―昭和初期

     今では年末恒例の行事となったクリスマス。ツリーを飾り、カードを交わし、サンタクロースが子どもにプレゼントを届けるといった風習の始まりは意外に新しい。19世紀半ば、イギリスのビクトリア女王の夫・アルバート公によって導入され、その後、世界に広まった。
     日本ではイエス・キリストの降誕記念日といった宗教的意義はあまり理解されないまま、こうした風習が明治以降、裕福な家庭を中心に伝わり始めたが、一般家庭まで普及したのは戦後の高度経済成長期。日本人にとってのクリスマスは、むしろ歳末商戦の目的として利用され、サラリーマンや学生が盛り場で大騒ぎする時期となっていった。
     戦前の東京、とりわけ葛飾、墨田などの城東地区は、当時の欧米のクリスマス商戦を支えるブリキやセルロイド製がん具の供給地として栄えた。昭和初期には輸出製品の首位をセルロイド製がん具が占めたという。ここに紹介する置物もそうした輸出品のひとつである。当時、業者はクリスマス向けに輸出するため春から夏にかけて製造し、数か月かけて欧米や遠く南米まで船で運んだという。
     戦後、この季節の輸出品の花形といえば、クリスマス・ツリー電球であった。品川など城南地区の地場産業として急速に発展し、東京は日本一のシェアを占めた。ツリーには当初ろうそくを飾っていたが、次第にツリー電球にとって代わられた。
     東京は意外なところで世界のクリスマスを支えてきたのである。
    (資料番号:91211111)

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