注目のコレクション

  江戸東京博物館

go東京都写真美術館   go東京都現代美術館   バックナンバー

  • 蔓梅擬目白蒔絵軸盆(つるうめもどきめじろまきえじくぼん)
    原羊遊斎/蒔絵 酒井抱一/下絵
    1821年(文政4年)

     美しい蒔絵がほどこされた巻物を乗せるためのこの盆は、絵師や俳人として知られる大名出身の酒井抱一(さかいほういつ)が下絵を描き、蒔絵師の原羊遊斎(はらようゆうさい)が制作したものである。その絵柄は、縦長の盆の左下から右上へ蔓梅擬の枝が描かれ、枝の中程に目白が2羽とまっている。赤い実には珊瑚を用い、目白の目や羽先なども金銀などを使い分けて丁寧に描写している。
     そして一緒に伝わった抱一自身による下絵や書状、箱などによって、この軸盆が勘定所御用達をつとめた材木商森川家の依頼により制作されたものだとわかった。またこの軸盆が、狩野素川(そせん)の描いた「江都四時勝景図」2巻(森川家旧蔵、江戸東京博物館所蔵)を乗せるためものであったことも、調査の結果わかった。しかもこの図巻やその箱には、著名な学者や大名、書家が様々なかたちで字句を寄せており、当時の所有者である豪商森川家と彼らの深いつながりが想像できる。
     このように、大名や豪商、そして当時一流の文化人や絵師、蒔絵師らの親しい人間関係から誕生したこの軸盆は、まさに江戸文化の美しい結晶のひとつといえる。
    (資料番号:91210668)

  • 黒塗牡丹紋散松唐草蒔絵雛道具
    1856年(安政3年)以降

     この雛道具には、近衛家の家紋である牡丹紋と松唐草の文様があしらわれている。この家紋と意匠から、13代将軍徳川家定の御台所(みだいどころ)天璋院の婚礼道具のひとつである雛道具の可能性が極めて高い。主要な雛道具一式が揃っており、漆工及び金工の技術に優れている。写真の雛道具は、手拭掛・湯桶・盥・耳盥などである。
     天璋院は薩摩藩島津家から近衛家の養女となり、徳川将軍家に輿入れした。雛道具の中には、島津家の家紋である丸十字紋を塗りつぶし、その上から近衛家の家紋である牡丹紋を描いた跡が見られるものもある。このことから、本来の所有者は島津家から近衛家に嫁いだ近衛忠煕(ただひろ)夫人郁君(いくきみ)であり、天璋院の婚礼が決まった際に仕立て直したと推測される。
     御台所である天璋院の雛道具は、大奥の対面所に飾られた。雛は段飾りで、紅白の幕をはり、金屏風をたて、緋毛氈がかけられた。雛段の上段には数組の内裏雛が並べられ、はなやかな飾付けであった。
    (資料番号:98200232・34・37)

  • 漬物早指南
    1836年(天保7年)

     漬物の特長は、塩やしょうゆ、ぬかや味噌とあわせることで生まれる味わいと、長期保存も可能という使い勝手の良さ、そしてごはんとの相性の良さといえる。1836年に発行された「漬物早指南」には、江戸時代の食事を彩った数多くの漬物が紹介されている。
     本書に収録された漬物は、全部で64種類。その四分の一は、たくあん漬をはじめ、ダイコンを使った漬物だ。当時のダイコンは現代よりも種類が多く、それぞれの性質をいかした漬け方が工夫された。有名な練馬大根は、漬物樽に納めやすくするために、太さを均一に改良したとさえ言われている。次に多いのはシロウリ・キュウリなどのウリ類、その他に、ナスやゴボウ、ナシやカキなどの漬物も見られる。
     この本を著した小田原屋主人は麹町(千代田区)で漬物問屋を営んでいた。巻頭で、漬物は家々ごとの味覚があると述べている。漬物各種の調理方法について説明しているが、レシピとして使われた実用書ではなく、バラエティーあふれる漬物の知識を広めるための本と思われてくる。
     青梅と紫蘇を塩で漬けておくとその風味がかもし出されると、本文中の「梅干漬」の一節で紹介されている。食に関する先人の知恵と工夫は、現代にも引き継がれている。
    (資料番号:89201845)

  • 武蔵小金井桜順道絵図
    1851年(嘉永4年)以降

     小金井といえば江戸近郊随一ともいわれた桜の名所である。玉川上水に沿って植えられた桜並木の長さは、現在の小平市から武蔵野市にかけて約6キロメートルにわたった。
     この桜並木は、1737年(元文2)に、武蔵野新田の世話役であった川崎平右衛門の発案で、山桜約2000本を取り寄せて植えられたものとされる。当初は訪れる人も少なかったが、19世紀になると、様々な地誌や紀行文で紹介され、江戸市中からも多くの花見客が訪れる桜の新名所となった。
     本資料は、多くの花見客を小金井桜へ誘致するための案内図で、1851年(嘉永4)以降の作成とみられる。色刷りの大きな一枚図で、そこへの道筋や周辺の名所などが描かれているほか、小金井桜に関する碑文や俳句も紹介されている。まさに小金井桜の観光ガイド一覧といった内容だ。
     四谷大木戸を出発して西へ進み、途中で井の頭池と弁財天に立ち寄る。小金井桜での花見後は、足を延ばして府中の大國魂神社や分倍河原の古戦場跡などを巡り、府中宿で宿泊。翌日、甲州街道を通って江戸に帰る。こうした花見と名所巡りの小旅行に、多くの人々が誘われたことだろう。
    (資料番号:91221093)

  • 東京戦災スケッチ
    織田信大/画
    1945年(昭和20年)

     太平洋戦争末期の1945年5月、東京は下町中心部にとどまらず山の手地域までもが空襲に見舞われるようになった。閑静な住宅街が、たちまち焼け野原になってゆくさなか、一人の男が絵筆を取った。彼の名は、織田信大(のぶひろ)(1888〜1964)。かの戦国武将織田信長を祖とする旧柏原(かいばら)藩主家(子爵)に生まれた。1916年(大正5)東京美術学校西洋画科を卒業、さらに2年間研究生として在籍した。
     空襲当時、信大の家族は大岡山(目黒区)に仮住まいしていたが、その家も5月24日の空襲で焼けた。この日から信大は、ありあわせの葉書と画材を携え、外出先で眼にする焼け跡の東京風景を描くようになる。彼のスケッチはおよそ1年間に及び、ついに159枚という数を重ねた。作品の裏には、描いた地点が具体的に図示され、彼のコメントが記されている。
     ここに紹介するのは、そのうちの一枚。日本橋界隈を描いたもので、昭和20年6月4日の日付がある。信大が仕事で通い慣れた街並みの変わり果てた姿を、茶色と黒を基調に描いているが、画中に城東国民学校の壁をおおう葛葉の緑が冴える。信大は、廃墟の中でも生き抜いていく自然の生命力にまなざしを向けた。
    (資料番号:15000095)

  • 銭座絵巻
    1862年(文久2年)

     天保の改革で知られる老中水野忠邦は、貨幣改鋳政策の一環として、1835年(天保6)、一枚百文で通用する高額貨幣である天保通宝を発行させた。このころ幕府財政は、11代将軍徳川家斉のぜいたくな生活とききんとにより危機的状況にあった。物価高による貨幣の不足を補うためと、鋳造の手間を省くために高額銭貨が考案されたが、天保通宝は幕府の思惑通りには通用しなかった。
     幕府が発行していた貨幣は金貨・銀貨・銭貨の三種類である。銭貨の主流は一枚一文の寛永通宝である。銭貨を鋳造する銭座は、江戸時代前期においては、有力商人の請負事業として経営されたが、後期には金座・銀座がその業務を兼ねるようになった。
     この絵巻は、1862年(文久2)に金座の後藤吉五郎が、浅草の北、橋場に設置した銭座での天保通宝の鋳造過程を描いたものである。隅田川の風景から入り、銭座全景を描き、職人の衣服改め、銭貨の鋳造、諸道具の製作の様子と続き、出来上がった天保通宝を船に積む所で終わっている。本図には鋳型に銅を流し込み、小判型をした枝銭を取り出す様子がみられる。
    (資料番号:88208002~0007)

  • 大坂城石垣普請大名工区割図
    江戸時代

     大坂城は戦国時代に浄土真宗大坂本願寺があった地に豊臣秀吉によって築かれた。この時、全域を石垣で固めた大坂城は、驚きで受け止められた。
     大坂の陣によって豊臣家が滅亡し、およそ5年を経た時点で、江戸幕府は落城した大坂城の再建に着手した。北国および西国の諸大名が「御手伝普請」を命じられ、分担して築城にあたった。1620年(元和6)から29年(寛永6)まで行われた工事は3期に分かれた。外堀の西・北・東面を築いた1期、本丸の2期、外堀南面の第3期。期間ごとに工区が大名に振り分けられた。その分担を示す図がこの丁場割図である。
     大坂城再建は江戸幕府が威信をかけた大事業であったことは間違いない。事実、豊臣期大坂城の石垣は地中より発見されており、これを大量の土砂でおおいかぶせて、徳川期大坂城が建設されていたことが確認されている。
     このように幕府による大坂城再建は、秀吉が築いた大坂城を埋め立て、その装いを新たにした。加えて工事に各地の大名を動員した。すなわち、新しい大坂城は豊臣家に代わる権力者徳川家の権威を天下に示す役割を担っていたのだった。
    (資料番号:95203004)

  • ガソリン給油機
    1940年(昭和15年)

     このガソリン給油機は、1989年まで杉並区高円寺の燃料店の裏に立っていた。ガロンの目盛りを合わせて開閉弁を回すと、地下埋め込み式のタンクからガソリンがくみ上げられる仕組みである。実際に活躍したのはわずかな期間だった。日中戦争が始まって以来、市民へのガソリン供給の規制が徐々に強まり、設置された1940年には、切符配給制となっていた。さらに翌年には米英の対日石油禁輸により、旅客自動車のガソリン使用が全面的に禁止される事態となった。
     その後、給油機は、戦時中の金属供出を免れ、防空壕に入れられていたため空襲も避けられた。戦後、疎開地から戻った家族によって、崩れた防空壕から掘り出され、当時よく使われた石油コンロ用の灯油用にリットルの目盛りを書き加えて、給油機は復活した。しかし、2、3年で故障し、店の裏に置かれた。
     この燃料店は甲州街道沿いで開業した老舗で、関東大震災後道路拡張のため移転することになり、代替地として新宿区歌舞伎町が割り当てられた。しかし、これを断り高円寺に移り、この地で燃料店を続けたことにより、この給油機は残った。
    (資料番号:90000360)

  • 吹塵録(すいじんろく)
    勝海舟
    1887年(明治20年)4月

     勝海舟は、明治に入ってからしばらくの沈黙ののち、赤坂氷川下の屋敷にこもって、徳川幕府の事跡を明らかにするさまざまな史料を編纂し始めた。ここに取り上げた『吹塵録』もその一つで、1887年(明治20)に正編20冊が、続いて続編15冊が完成し、1890年(明治23)に大蔵省から刊行された。
     この書物には、当初「経済雑纂」というタイトルが付されていたことから判るように、経済関係の御触書をはじめ、財政の収支を表す御勝手方勘定帳、貨幣関係の幕府法令や金銀貨幣の一覧など、いずれも江戸時代における経済の構造と、徳川幕府の財政政策のあり方を知る上での基本的なデータが集められている。
     『吹塵録』には経済的な内容のほかに、江戸市中の町数・人口の書上げ、江戸の火災記録、江戸の古絵図に考証や、安政大地震の被災報告である『破窓記(やぶれまどのき)』なども納められている。
     とくに『破窓記』は、日本橋近くの住むひとりの文人の安政大地震の体験と、その翌日から10日の間、親族、友人の安否を尋ねて深川、本所、浅草、上野、神田、小石川と江戸市中を歩いて得た見聞を綴った手記である。裂けた地面、傾いた家屋、くすぶる焼け跡、放置された亡骸など、震災直後のルポルタージュとして興味をそそられる。
    (資料番号:89205207~42)

  • 天酒頂戴
    歌川広重(3代)/画
    1868年(明治元年)

     1868年(慶応4)上野の戦争が終わっても、まだ混乱している江戸を治めるため、町奉行所は市政裁判所となり、7月には京都(西京)にならぶ意味を込めて、江戸を東京とした。この時の天皇の言葉の写しには、東京に「とうけい」と振り仮名があり注目される。そして8月には、現在の千代田区内幸町にあった郡山藩(大名柳沢氏)の屋敷を、東京府の役所とし、市政裁判所と合体させた。これが、都庁舎の始まりにあたる。
     9月に明治と改元し、翌月、明治天皇は東京に行幸するが、まだ新政府に違和感を持つ人々もいたので、市中一同に酒が下賜された。町名主に裃を着用して明け方の4時頃に東京府に出頭し、酒を受け取るようにとの通達が出された。これを天酒(天盃)頂戴といって、市民はお祭り騒ぎをして喜んだと諸説にあるが、家業を2日も休み、酒を頂戴せよと通達したのも東京府であった。
     翌年3月天皇は再度東京に行幸し、以後事実上、東京が首都となる。
    (資料番号:91220023~25)

ページTOPへ▲