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  • 青楼絵本年中行事(せいろうえほんねんちゅうぎょうじ)
    十返舎一九/著 喜多川歌麿/画
    1804年(享和4年)

     幕府公認の遊郭であった吉原には数多くの店が存在した。特に中級以上となると高い教養をもつ花魁(おいらん)を中心に人々が交流する社交場でもあり、文化が育まれる場所でもあった。そのため、独自のルールが存在し、それを心得ていないと無粋な客としてさげすまれた。
     本資料は吉原の年中行事や客の心得、慣例などを絵と文で説明したもので、写真は客への制裁の様子を描く。なじみの遊女がいる場合、客は無断で他の店へ行くことは許されず、発覚すると髷(まげ)を切られるなどの罰を受けた。
     絵に注目してみると、画面右下に立って部屋の中を見ている花魁と、左上になじみ客が見える。その客は鮮やかな女物の着物を着せられ、顔には落書きまでされている。それを見てそばに控える遊女たちが口元を袂(たもと)で隠し、笑っている。障子やふすまの陰からも人々がのぞきに来ており、ルールを破った客が店中の者に笑いものにされた様子がわかる。客への制裁を描いた資料は少なく、興味深い。
    (資料番号:88200130)

  • 江戸割烹番付
    江戸後期(1746〜1841)

     東西に分かれて上から順に大関、関脇……と格付けされた名前が記されているこの紙。相撲好きの方には馴染みのある番付と呼ばれる刷り物であるが、この番付、よく見ると順位付けされているのは「深川土橋 平清(ひらせい)」「浮世小路 百川(ももかわ)」と力士ではなく高級料理屋である。
     江戸の町で高級料理屋の文化が花開いたのは文化・文政期(1804〜1830)頃からだと考えられている。当時一流とされた店では、客はまず豪華な座敷に通されて、談笑しながら、しばしくつろぐ。そのうち風呂の用意が整ったと店の者から声がかかり、汗を流した後に料理を楽しんだ。
     馴染みの客は大店の主人や文人たちが多く、料理屋は食事を楽しむ場だけではなく、文化的な社交場としての一面も持ち合わせるようになった。むろん贅沢なひとときには相応の値段がつき、百川では、一番下の位の膳で1人前約1000文したという。市中のそば屋の相場が1杯16文程度だったことを考えると、百川がいかに高額だったかがよくわかる。
     中央の柱に行司や勧進元として連なる店名は、東西の順位付けには入らない、いわゆる別格とされていたものである。そこに配された八百善(やおぜん)は、文人たちとの交流を反映させて料理本を刊行するなど、江戸文化の発信の場でもあった。
    (資料番号:98200399)

  • 段飾雛図
    渓斎英泉(けいさい えいせん)/画
    江戸後期(1746〜1841)

    3月3日の雛祭りは、女の子の健康な成長を祈る節句として定着しているが、その起源
    は、平安時代にまでさかのぼる。節句は、紙で人形(ひとがた)につくった形代(かたしろ)に供え物をして無病息災を祈る日であった。
     紙の人形は後に雛人形となり、貴族社会で女の子の遊び道具となった。
     一般家庭に普及したのは江戸時代に入ってからで、段飾りをするようになったのは、元禄年間(1688〜1704年)以降。江戸町人の家では、三段から五段飾りが主となり、将軍家や大名家では、嫁入り道具の一つとして、婚礼調度品一式を精緻なミニチュアに仕立て、節句の日には座敷いっぱいに飾った。図版には、五段飾りの雛人形が描かれている。内裏雛やお供の随身(ずいじん)、五人の女性による囃子方のほか、三人官女に代わるものなのか、現代の雛飾りではあまりなじみのない、鯛を抱えた恵比寿、猿のお面や鈴を手にして猿曳(さるひき)を思わせる装いの子ども、段飾りの下には御伽(おとぎ)犬(犬張り子)が見られる。
     御伽犬は、室町時代にはすでに貴族階級の嫁入り道具の一つだった。安産を祈るために産室に飾られ、江戸時代には庶民の間で安産と子どもの健康を祈るものとなり、玩具として定着した。女の子の健やかな成長を祝う雛祭りに飾られるのもうなずける。
     雛飾り代わりにこの絵を飾った家庭もあったことだろう。
    (資料番号:90200060)

  • 村梨子地葉菊紋散蒔絵耳盥(むらなしじはぎくもんちらしまきえみみだらい)
    江戸末期(1842〜1867)

     大小2つの盥。まだらに金粉を蒔いた地に、厚く盛り上げた葉菊の紋章が散らされている。14代将軍徳川家茂(いえもち)の正室となった皇女和宮が使ったお歯黒の道具だ。
     今では馴染みがなくなったが、平安時代頃から歯を黒く染める化粧法があった。耳盥は染料を溶くのに活用された。
     江戸時代末期、幕府は朝廷との融和を目指して、将軍家茂と和宮の婚礼を働きかけた。その結果、1862年(文久2年)に江戸で婚儀が行われた。
     婚礼では、婚礼道具と呼ばれる、同じ文様があしらわれた多数の道具が作られた。和宮を迎える江戸側は、和宮の紋章である葉菊紋と、徳川家の家紋である三つ葉葵紋を散らした婚礼道具を準備した。
     ただ写真の耳盥には、葉菊紋だけが散らされ、三つ葉葵紋の意匠はない。どうやら幕府が調えた婚礼道具ではないらしい。婚礼に先立って京都で作られ、持参されたものだろうか。実は葉菊紋だけを散らした道具はほかにも伝わっている。京都と江戸でそれぞれ膨大な婚礼道具が作られたと考えられているが、その中で天皇家と将軍家がそれぞれの権威を主張しているようにも思える。
    (資料番号:88290070、07200136)

  • 横文字早学問
    1872年(明治5年)

     1872年(明治5年)に発行されたこれらの本には、英語の発音や綴り(つづり)方、簡単な単語・文法が記されている。現代でいう「英語入門書」だ。
     ローマ字のABCを「アベセ」とオランダ語読みし、「亜彼泄」と表記していた当時の人々にとって、この本は英語時代の到来を告げるものとなった。
     明治5年ごろは、明治政府の開化政策により、文明開化の波が押し寄せ、その波に乗り、英学塾の設立、英書の出版が相次いだ。
     このころ、福沢諭吉は「学問ノスゝメ」で、実学を身につけるために、西洋の翻訳書を用い、年少で文才のあるものは、それを横文字で読むべきだと説いた。
     英学を教授していた私塾として、福沢諭吉の慶応義塾、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の三叉(さんさ)学舎、鳴門義民の英学所、近藤真琴の攻玉塾、尺振八(せきしんぱち)の共立学舎などがある。その数は次第に増え、明治5年に最盛期を迎える。その後は塾設立も減少し、英学熱は徐々に収束に向かったが、この時期の英学隆盛により、西洋の様々な思想文化が輸入翻訳され、明治国家の建設に大きな影響を与えた。
    (資料番号:90210170)

  • 東京名所図会尾張町煉化石
    歌川広重(三代)/画
    1874年(明治7年)

     銀座が中央通りを中心とした街並みとして整備されたのは、1872年(明治5年)の銀座大火後のことである。政府は火災に強い街づくりを目指し、大規模な区画整理とイギリス人建築家ウォートルス設計による煉瓦街の建設を行った。
     本資料は、現在の銀座5丁目の通り沿いにあった恵比寿屋を描いた錦絵である。同店は、三井越後屋に並ぶ老舗の大呉服商・両替商であった。煉瓦街の建設後も、以前と同じ場所に店舗を構えた。銀座の他の建物が間口2、3間(1間は約1.8メートル)の店が数戸集まった共同棟であったのに対し、恵比寿屋は間口16間、奥行10間と煉瓦街最大の壮麗さを備えた。そのため、新名所としてこのように錦絵にも描かれたのである。
     人力車などが通る往来の奥に店内が描かれ、座敷に客が上って商談を行っている様子が見える。外観は新時代の煉瓦造りであったものの、店に一歩入れば江戸と変わらぬ接客法が行われていたのだった。
     ところが本錦絵が出された翌年、同店は金融政策のあおりを受け倒産、残された建物には「東京日日新聞」の日報社が入った。この頃から銀座は、新聞社や雑誌社が建ち並び、ジャーナリズムの中心地となっていった。
    (資料番号:99002383)

  • 児学教導単語之図
    1875年(明治8年)

    図版の明治初期の小学校の授業風景、一見すると服装などは現代と異なるものの、教師が壁掛けの教材を使って生徒に教える姿は現在の学校でもいかにもありそうだ。しかしこの壁掛けの教材、正式には掛図と呼ばれ、これ自体れっきとした教科書なのである。何故これが教科書なのかというと、話は江戸時代にまでさかのぼる。
    江戸時代に庶民の学校としてひろく普及していた寺子屋では、往来物と呼ばれる多種多様な書物が教科書の役割を果たしていた。江戸時代の教科書がかくも多様であったのは、教育が子ども一人ひとりのレベルや必要性などをふまえて、個別に施されていたことと深くかかわっている。その結果全員が同じ教科書をもつ必要はなかった。
    ところが明治維新以降、教育の世界にも近代化の波が押し寄せると、教師は国家が必要と考える内容を生徒に教え込むべきものと考えられるようになった。そのため一人の教師が同時に複数の子どもに教える効率的な一斉教授がはじまったのである。一斉教授は、同じ内容の教科書を全ての子どもが持っていなければ成り立たない。しかし、明治政府には、全ての子どもに同じ内容の教科書を配布する力はなかった。そこで活躍したのが壁掛け型の教科書、掛図であった。
    江戸時代から近代までの教科書の流れをみてみると、多様であった江戸時代の往来物から掛図をへて、最終的に1903年の国定教科書へと収斂(しゅうれん)していく過程がみてとれる。掛図は、学校教育制度の近代化の過程期にあらわれた特徴的な教科書のひとつであったと考えられるのである。
    (資料番号:89975285)

  • 焼夷弾 弾筒
    1945年(昭和20年)

     1945年(昭和20年)3月10日未明、本所、深川、浅草などいわゆる東京の下町地区は、米軍のB29爆撃機による大空襲を受けた。町は焼き尽くされ、その夜の犠牲者はおよそ十万人と言われている。
     米軍が爆撃のたびに作成した「作戦任務報告」によれば、この時実際に爆撃したB29は279機、投下したのは1665トンにのぼる焼夷弾で、そのほとんどが写真にある、幅約7.5センチ、長さ50センチ弱の六角形のM69油脂焼夷弾であった。
     この焼夷弾は、鉄製の筒の中にゼリー状にした油脂を詰めたもので、着弾すると前部にある信管が微量の爆薬を炸裂(さくれつ)させ、それが油脂に着火するというものである。
     燃え上がった油脂は尾部から噴射されるが、その際、あたかも砲弾のように本体自身も30メートルほど飛び、油脂をまき散らした。木と紙でできた日本家屋には、もっとも効果的な兵器であった。
     3月10日の空襲の投下弾の大半がこの焼夷弾であったが、ちなみに本数に換算してみると約36万本分になるとする人もいる。当時、人々はバケツリレーや火たたきでの防空訓練を重ねていたが、想定をはるかに超える圧倒的な焼夷弾攻撃の前にはなすすべがなかった。
    (資料番号:88000435)

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