注目のコレクション

  江戸東京博物館

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  • 定斎屋薬箱
    1926年頃(大正15年頃)
    定斎は、暑さによる食欲不振など夏バテに効く薬のことで、「じょうさい」「じょさい」と読む。是斎の別名もあった。
     一説には、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した文禄・慶長の役(1592〜97年)に際し、日本軍との折衝にあった明の沈惟敬(しんいけい)が、処方を秀吉に献じ、それを受けた大阪の薬種商「定斎」という人物が作り始めたと言われる。
     定斎売りは夏の行商として江戸でも名物となり、日本橋新右衛門町の大阪屋藤右衛門、馬喰町三丁目のいとや又兵衛などが販売元となった。
     大きな薬箱を天秤棒で肩にかつぎ、腰で独特のリズムをとりながら、箱の引出しの取って「鐶(かん)」をガチャガチャと鳴らして到来を告げた。どんな炎天下でも日よけの笠をかぶらず売り歩く姿そのものが、薬の効能を示すパフォーマンスだった。
     1902年(明治35年)ごろに日本橋箱崎町で創業した定斎本舗大丸屋の紋丸十には、青貝細工が施されており、江戸時代からの変わらぬ姿を伝えている。
     戦後十数年は実際に薬箱をかついで売り歩いていたが、自動車の増加などにより廃止されたといわれる。定斎売りは、江戸・東京を通じ夏の風物詩だった。
    (資料番号:01002671・01650249)

  • 猫の歌舞伎 出語り図(団扇絵)
    歌川国芳/画 伊場屋仙三郎/版
    1842年頃(天保13年)
     幕末の浮世絵師、歌川国芳は武者絵、風景画など様々なジャンルで多くの作品を残した。そんな国芳のもうひとつの顔、それは無類の猫好きであったことである。家に数匹の猫を住まわせ、筆をとるときも懐に入れていたという。そして飼い猫が亡くなると、本所の回向院に葬ったとも伝わる。
     浮世絵に描かれる猫と言えば、美人画の脇役として登場するケースが多かったが、国芳は猫を主人公に描いた。猫好きの国芳ならではの作品は、どれを見てもユーモアにあふれている。
     出語りとは、歌舞伎で所作事(踊り)の時、太夫と三味線が舞台に出て演じることだが、ここに描かれているのは表情豊かな猫たちだ。目を凝らすと、絵師の細かいこだわりがそこここに見える。着物の帯や裃(かみしも)には鈴や魚の模様。舞台飾りの花は、花びらが貝で葉が鰹節のように見える。カゴに小判がついているのは「猫に小判」のしゃれが連想され、演奏者の見台は猫足で作られている。猫にまつわるものが随所にちりばめられ見る人を楽しませてくれる。また、このような団扇絵は団扇に使用されればそれきりとなる消耗品である。しかし、だからこそ個性に富んだ作品が多いようにも思う。
     国芳は、天保の改革で出版物の取り締まりがあった後も、趣向を凝らして作品を描き続けた。その自由な発想や行動は、奔放なイメージがある猫との共通点もうかがえ、とても惹かれるものがある。
    (資料番号:06200460)

  • 隅田川両岸一覧(部分図)
    鶴岡蘆水/画 
    1781年(天明元年)
    江戸東京博物館の西側を流れる隅田川では、夏には大きな花火大会が開かれ、遊覧船でのんびり東京の景色を眺めることができる。私たちの生活にかかわる様々な物を運ぶ船も行き交っている。江戸時代には今以上に人々から親しまれ、重要な働きを担っていた。
     この「隅田川両岸一覧」は、墨線の版画と彩色によって描かれた作品で、江戸中期の絵師、鶴岡蘆水の唯一の代表作だ。2巻で構成され、一方には隅田川の東岸が永代橋から上流に向かって描かれ、他方には西岸の上流から河口に至るまでの光景が描かれている。
     隅田川は江戸時代初期から数多くの絵画にその姿を残しているが、この作品はとりわけその大胆な画面構成や人々の生活感あふれる風俗描写などに特徴がある。
     水面から見上げたような橋げた、行き交う人でにぎわう両国橋、川面をゆく様々な舟。そこには、現代に残る名所や橋もあれば、人々の活気あふれる姿もある。これらの風景に、春から冬への変化が織り込まれているところにも、季節感を大事にした江戸の人々の心を感じ取ることができる。
    (資料番号:83200123)

  • 新吉原灯籠「江都四時勝景図(えどしじしょうけいず)」より
    狩野素川/画
    1816年(文化13年)
    「江都四時勝景図」は、四季折々の江戸風物を描く2巻の絵巻である。12ヶ月の行事の絵と詞書(ことばがき)は、絵師狩野素川(そせん)が自らの見聞を基に記し、序は寛政の改革の立役者であった松平定信、後記は富山藩主前田利幹(としつよ)が筆を染めた。また、孝証学者太田錦城の箱書きから、この絵は神田佐久間町の材木問屋伏見屋の所蔵であったことがわかる。化政文化の優美な一面をうかがわせる作品といえよう。
    作者狩野素川(1765〜1826)について「北里見聞録」は次のように語っている。「寛政・亭和のころ、素川は座敷絵を頼まれ吉原に通ううち、大門近くの越後屋抱えの遊女和国となじみになった。だが、絵師の懐ではたちまち金に窮しなすすべもない。そこで女は素川を廊の裏屋に住まわせ、忍び会いを重ねた。やがてそれは楼主の知るところとなり、和国は外出を禁じられ、思い思うあまり死の床に伏した。ついには主人も哀れに感じ、年季証文を返し、和国を絵師のもとに運んだが、素川に看取られ翌日息を引き取った」と。 
     格式を重んじる御用絵師にとって、それは考えられない不行跡であっただろう。狩野家の編さんした画人伝「古画備考(こがびこう)」には、理由を記さぬまま1800年(寛政12)、素川が36歳の若さで致仕したとだけある。
     図は下巻の巻頭7月にあたる「新吉原灯籠」の場面である。たそがれ時の廊、さざめく人波をゆっくりと歩む花魁の姿。背景に見える灯籠は、6月末から7月末まで死者の魂を迎えるため、一説には遊女玉菊の追善供養にともされたともいう。素川もまた、和国の鎮魂のためにこの絵を描いたのだろうか。
    (資料番号:87200523)

  • 無色ねじり提手付ちろり
    江戸時代後期
     江戸時代、ガラス工芸品は「びいどろ」「ぎやまん」などと呼ばれ、様々な用途で使用され、暮らしを粋に演出する素材の一つだった。16世紀に入り、南蛮貿易が盛んになると、ヨーロッパ製のガラス器が多く日本にもたらされ、やがて長崎で生産されるようになった。江戸後期には、江戸でも作られ、幕末には外国産に劣らないほどの発展を遂げた。
     この涼やかなガラス器は、酒などを注ぐための「ちろり」。ちろりは本来、金属製で湯に入れて酒を温めるものだが、このちろりは材質上湯かんには不向きである。冷や酒などを入れその清涼感や色を味わったのだろう。
     飴細工のような艶やかな提手部分は、ねじりが施されている。胴部は丸みを帯び、薄手。型を用いず中空で膨らませて成形する「宙吹き」で作られたことがわかる。ガラスのしなやかな特性を生かした造形美で、素地は滑らか、ほぼ無色透明である。
     当時、無色透明のガラス器を作ることは容易ではなかった。鉛を多く含むため、青や緑、黄色のごくわずかだが色がでた。そこで、色を消すために様々な工夫がなされ、その結果、無色透明で良質なガラスが生みだされた。中が透け、様々に表情を変える無色透明なガラス器は、色ガラスにはない魅力をたたえている。
    (資料番号:87200861)

  • 江戸の花名勝会 く 五番組
    歌川豊国(三代)ほか
    1863年(文久3)
    夏の風物詩、怪談の代表格といえば「四谷怪談」であろう。しかし、この芝居はもともとは大詰めの場面を冬に設定していた。1825年(文政8)の初演では「仮名手本忠臣蔵」と「東海道四谷怪談」が交互に演じられたが、義士討ち入りの場面は、やはり雪景色でなくては具合が悪かったのだろう。というのも「四谷怪談」は「忠臣蔵」の裏のストーリである。
    例えば、お岩の不実な夫伊右衛門は塩冶判官(モデルは浅野内匠頭)の元家臣、一方、伊右衛門に横恋慕するお梅は、敵方の高師直(吉良上野介)側の生まれとあるように。
     写真の「江戸の花 名勝会」は、江戸の名勝地と、その地域にゆかりの深い歌舞伎の役名をセットで描く。江戸東京博物館所蔵の69枚のシリーズのうち、「東海道四谷怪談」にちなんだ錦絵は5枚ある。右下の五代目坂東彦三郎演じるお岩の亡霊を歌川豊国が、左のお岩稲荷を橋本貞秀が描く。幕末の絵師の競作としても楽しめる作品である。
     鶴屋南北作の「東海道四谷怪談」は人間描写のリアルさと、様々に工夫された仕掛けのおもしろさで大当たりをとった。この錦絵も、お岩の亡霊が燃え尽きた提灯から突然現れ伊右衛門を驚かす「提灯抜け」を描いている。1831年(天保2)にお岩を演じた三代目尾上菊五郎が提灯を見て、自分がここから抜け出るには小さかろう、と言ったところ、大道具師に「大きければ誰でも出られるが、小さい所からどうして出るのだろうとお客に思わせねばおもしろくない」と返されたエピソードも残る。
    (資料番号:87201353)

  • 浮世美人十二箇月 七月 星まつり
    溪斎英泉/画
    1835年頃(天保中期)
    7月7日は七夕である。七夕は中国から伝わった星を祭る行事で、天の川の両岸にある牽牛星と織女星が年に1度出合う伝説に基づく。日本では古代より宮中で行事がなされ、江戸時代には五節句の一つとして、ウリやナスなどを供える風習が庶民にも広まった。現在のような七夕飾りも同じ時期に、機織りを得意とした織姫にちなみ、子どもの裁縫や手習いの上達を願って始められた。
     この資料は、七夕の行事と若い娘が描かれた浮世絵である。美人画を多く描いた浮世絵師、渓斎英泉(1791〜1848)が12か月ごとに描いたシリーズのうちの1枚である。このころの江戸の七夕飾りは家の屋根よりも高かった。娘の周りには、短冊や色紙など屋外の飾りものが、風に飛ばされたかのように散らしてある。左上の円のコマ絵には、「7月 星まつり」と書かれ、江戸の7月7日の風景を描いている。
     江戸の七夕飾りについては、4代広重こと菊池貴一郎(1849〜1925)が『江戸府内絵本風俗往来』(1905年)で回想している。「竹には色紙のほか、ほおずき、吹流し、硯・筆・算盤などにかたどった紙を結びつけた。飾りのついた竹が立ち並ぶさまは見事で空を覆うばかり、まさに大江戸の泰平と繁昌がうかがえる」と。林立する飾りを見るのも江戸の人々の楽しみで、周辺より高い日本橋などの橋上から市中を眺めた。この風物は、明治の終わりごろまで時折、見られたという。
     絵の中の狂歌では、振袖を着た娘を「初秋の華」としている。旧暦では7月7日は立秋のころ。娘が手にうちわを持っているようにまだまだ暑さは残るものの、着物の袖を揺らす風が秋を知らせている。現代の東京では梅雨の合間に空模様を気にしながら七夕を迎えるが、当時は今ほど心配することはなかったのだろう。
    (資料番号:90209676)

  • 手動式扇風機
    明治〜大正時代
    地球温暖化により「東京は亜熱帯になった」と言われるほど、ここ数年、夏は猛暑である。しかし、蒸し暑い夏を快適に過ごしたいという気持ちは今も昔も変わらない。
    国産の電気扇風機が作られたのは、1894年(明治27)で、1918年(大正7)には量産されるようになる。羽は4枚の金属製で、カバーもスタンドも鋳鉄(ちゅうてつ)が使われ、黒一色の堅牢(けんろう)なデザインだった。出てくる風も心地よいというよりは、強い風が騒音とともに噴き出すという感じだったらしい。
    紹介する資料は、手動式扇風機2台。1つは、明治時代初期に製作されたと思われる、団扇(うちわ)が4本ついた扇風機である(写真右)。後方についている取っ手で2本のひもがかかった盤を回し、団扇の羽の中心を回転させる仕掛けとなっている。
     蒔絵まで施されており、まさに高級家具といった面持ちである。さぞかし柔らかな風が送られたことだろう。
     2つ目は大正時代の物で、やはり後ろ側についている取っ手を回して滑車を回転させ風を起こすもの。その名も「軽伝旋風器(けいでんせんぷうき)」という(写真左)。わずかな力で旋風を起こせるという意味だろう。実用新案第41601号と書かれたラベルつきである。
     こちらは風雅な明治時代の団扇の物に比べてずいぶんと無骨な感じがする。スタンドの後ろ部分には墨書きで使用者と思われる名前が入っている。実際に何かを乾かしたりする作業に使われた物であろうか。ただし、2台とも回す本人は涼しくなかった。
    (資料番号:90361215・90361201)

  • 東京麦酒ラベル 
    明治後期〜昭和初期
    「ビイールト云フ酒アリ。是ハ麦酒ニテ、其味至テ苦ケレド胸隔ヲ開ク為妙ナリ。亦人々ノ性分ニ由り、其苦キ味ヲ覚翫シテ飲ム人モ多シ」と福沢諭吉は「西洋衣食住」(1867年)のなかで、ビールの特徴をこう表現した。
    日本にビールが到来したのは幕末のこと。横浜開港直後から輸入が始まり、明治初期には外国人技術者の指導のもと、国内での生産も始まった。高級品だったビールは一部の人々
    の飲み物だったが、西洋文化の広がりとともに大衆化していく。
     輸入ビールでは当初、バス・ペール・エールを代表とするイギリス風のビールが受けていたが、やがてドイツ風のビールが好まれるようになる。濃くて苦味の強いイギリス風ビールより、淡泊な味わいのドイツ風ビールの方が人々の嗜好にあったためだろう。
     国産ビールの草分けのひとつ「桜田麦酒」はイギリス風ビールの最大手だった。その後身の「東京麦酒」は、時流に合わせてドイツ風ビールの製造に乗り出す。ラベルには、夜明けを告げる真っ赤なニワトリ。再起をかけた出発だった。
     さて、気になる味の方だが、当時のビールは全体的に苦味が強く、機密性の良くない木製樽で貯蔵したためやや気の抜けた味であったという。また、アルコール度が高く、粘性の強いビールは、続けて飲むのに適した味ではなかった。「キレ」や「そう快感」をうたう昨今のビールとは趣を異にしている。だが、味こそ違え、冷えたビールに胸膈(きょうかく)を開いて語らう人々の姿は今も昔も変わらない。
    (資料番号:91010804)

  • こども遊 ほたるがり
    宮川春汀/画
    『こども遊』と名付けられた美しい装丁の画帖には、版画が12枚がはり付けられている。内容は「お手玉」「やり羽子」「雛祭」「摘くさ」「唱歌」「紙人形」「ほたるがり」「水遊」「手鞠」「綾とりとふき玉」「風船と縫とり」「お茶坊主」で、女児たちが夢中になる四季折々の遊びの様子が美しい色彩で描き出されている。12図のうち10図は1896年(明治29年)3月21日に、2図は98年12月18日に発行されている。
     江戸東京博物館が所蔵する別の画帖の中には、96年2月1日発行の「綾とりとふき玉」の図も見られる。発行年月日を比べると、先の12図は、96年2月1日発行の作品の改訂版とみるのが妥当だと考えられる。このほか、98年12月18日の発行で装丁されていない作品12枚も収蔵している。
     『こども遊』がどれだけ版を重ねたのかは、正確にはわかっていない。だが、少なくとも3種類の版が確認できたわけで、これらの作品を通して版の違いによって生じる摺りの変化が如実に見られるようになったのは大変興味深い。
     「ほたるがり」を例にとれば、96年3月版と98年12月版では右側の少女のゆかたの色が異なる。また、ほたるの光を表す銀色がより鮮明だったり、毛髪などを描く線がより明晰だったり、色彩に深みがあったりと、98年版の方が摺りの上で一段と優れていることがわかる。
     本作の筆者である宮川春汀(1873〜1914)は、渡辺崋山の息子・小崋らに師事した画家で、美人画や子供絵など、風俗を描いた作品を残している。
    (資料番号:91976087)

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