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  江戸東京博物館

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  • 日光御遷坐式(ごせんざしき)図巻
    江戸末期(1842〜1868)

     1616年(元和2年)4月17日、徳川家康は駿府城にて75歳の生涯を閉じる。家康の遺骸は、雨の中その日の夜に久能山へ運ばれ、埋葬された。翌年、家康の遺命により、日光に御霊屋を建立し、神柩(しんきゅう)を久能山から日光へ移す。その様子を描いたのが本資料である。江戸時代末期に写されたものと思われるが、遷座の様子が詳細に描かれている。
     この遷座は、家康の神格化を推し進める南光坊天海が中心となって行われた。3月15日、天海は自ら神柩を金輿(きんよ)に移し、家康の側近であった本多正純や松平正綱らが供奉して、久能山を出発した。金輿を奉ずる行列は、きらびやかで、荘厳だったことが本資料からうかがえる。
     一行は、小田原や仙波(川越)、佐野などを経由し、4月4日に日光に到着した。そして神柩は、仮殿へ安置された後、正遷宮が執り行われた。将軍徳川秀忠をはじめ、諸大名や公家衆、僧侶が参列し、幕府の権威を示す儀式であった。

    (資料番号:99200001)

  • 江戸名所 亀戸梅屋舗
    歌川広重/画
    江戸後期(1746〜1841)

     古くから各地で栽培され、日本の歴史・文化・生活に深く関わってきた梅。「春告草(はるつげぐさ)」という別名の通り、梅の開花は江戸に春の訪れを告げ、人々は梅見に出かけては、花や枝ぶり、香りを楽しんだ。
     江戸には数多くの梅の名所があり、この絵はその1つ、亀戸梅屋敷の梅見の様子である。園内に設けられた茶屋とその周辺に憩う梅見客が描かれ、画面上部には「萱屋根を見越して梅の梢かな」と情景が句となって刻まれている。
    ほぼ中央に描かれている梅の木は、特徴ある樹形や、立て札があることから、江戸第一の名木との評判もあった臥龍梅だろう。
     全体的に寒色が多い画面は、余寒のひんやりとした空気を思わせるが、ひとときの暖を得てくつろぐ人々の姿に、ゆったりとした時間の流れが感じられる。樹下でにぎやかに宴を催すことが多い桜の花見と比べて、地味な印象ではあるが、春を迎える歓びをしみじみとかみ締めるような趣がある。
     江戸時代、梅干しは保存のきく日用食品として庶民に重宝された。亀戸梅屋敷では土産物に梅干しが売られ、こちらも名物と評判だったという。
    (資料番号:91210143)

  • 名所江戸百景 品川御殿やま
    歌川広重/画
    1856年(安政3年)

     「名所江戸百景」は、歌川広重の代表作として位置づけられる名所絵シリーズ。1856年(安政3年)から広重が亡くなった翌年の59年まで刊行が続けられた、当時のベストセラーである。
     江戸名所を100枚シリーズで出版するのは本邦初で、それまで名所として取り上げられていない場所を多数描く点をみても、意欲のほどがうかがえる。
     御殿山は、品川台地の南端に突き出た高台で、寛文期(1661〜73年)に吉野桜が植えられ、享保(1716〜36年)頃にはすでに桜の名所であった。江戸湾を見渡す抜群の眺望で、花見名所の中でも人気スポットであった。本図では、左上に千本桜と呼ばれた木立と多数の花見客が描かれ、賑う様子を伝えている。
     だが、主眼はそこだけでなかったようだ。正面に描かれた崖面の激しい凹凸は、米国ペリー艦隊の再来航に備え御台場(砲台)を造るために土砂を採掘した跡である。崖下はあちこちぬかるみ、木の板が架けられている。広重の詩情あふれる風景画のイメージとはかけ離れたリアルな景観である。浮世の美しさと幾度となく訪れた名所の惨状を1枚に描くことで、刻々と変化する時流を諦観しているようでさえある。
    (資料番号:83200028)

  • 萌黄羅紗地(もえぎらしゃじ)レクション羽織
    江戸末期

    黒船来航から開国へと進む不安定な世情のなか、軍事力の強化が幕府、諸藩とも必至の課題だった幕末。幕府は文久年間(1861〜64年)に大規模な軍制改革を行った。また、軍事の近代化をはかるためフランスから教官を招き、軍隊の調練を行った。1862年には、武家服制改革「服制変革ノ令」を発布。レクション羽織は、この時期に誕生した武士の調練装束だ。
     従来の陣羽織と共通する点が多いが、洋服の影響を受けた筒袖形の羽織となっている。「レクション」は、lesson(訓練)の意味とも、フランス語のl'equitation(乗馬)に由来するとも言われている。
     レクション羽織の生地は、輸入品の羅紗が多く用いられた。羅紗は、厚手のウール地で、織り目が見えなくなるほど密にして起毛し、毛羽を切りそろえ、加工を施している。防寒・防水に優れ、野外で着用する陣羽織、武家の火事装束によく用いられている生地である。
     本資料は、萌黄色の羅紗地で仕立てられ、背中央に黒羅紗で月星紋を表している。背の中心の深いスリット(背裂)は、乗馬や帯刀時を考慮し、裾が邪魔にならないよう施されたもの。従来の陣羽織の背裂から微妙に仕立てが変化しており、コートやスーツに見られるセンターベンツのように折り伏せの仕様となっている。
    (14200050)

  • 高輪牛町朧月景(おぼろづきのけい)
    小林清親/画
    1879年(明治12年)

     1872年(明治5年)、新橋―横浜間にわが国初の鉄道が開通すると、蒸気機関車は目新しい題材として数多くの浮世絵に取り上げられた。本作品もその一図で、現在のJR田町―品川間にあたる高輪海岸の光景を描いた錦絵である。
     当時の鉄道の錦絵では洋館造りの新橋駅舎の絵が最も目立つ。次に線路をまたぐ跨線橋の品川八ツ山橋や、本図のような海上の線路もよく描かれた。いずれも鉄道の開業で景観が大きく変わった場所で、人々の関心が集まり、様々な図柄が出されたのであろう。
     本図を描いた小林清親(1847〜1915年)は旧幕臣で、1876年頃から浮世絵師として活躍した人物である。彼の描く東京名所絵は「光線画」の名で売り出され、光と影を意識したそれまでにない洋風の版画はたちまち評判となった。本図でも煙突の炎や空の雲の表現に、新しい描写法が使われている。
     一方、本図には実際に路線を走っていた英国製の機関車ではなく、なぜか牛除けの「カウキャッチャー」が付いた米国型の機関車が描かれている。このような間違いの原因として、清親がアメリカ製の石版画の鉄道図を参考に本図を描いたためという説がある。多くの錦絵があるなか、清親は独自の作風を見せるため、熱心に西洋絵画を研究したのかもしれない。
    (資料番号:10200185)

  • T型フォード
    1925年(大正14年)

     二十世紀を代表する、あるいは象徴する自動車と言われているのがT型フォードだ。1908年にアメリカのヘンリー・フォードによって開発、販売され、27年までの19年間にわたり、世界各地で千五百万台も生産された大ベストセラー製品である。
     だが、「世紀のクルマ」といわれるほどT型フォードが重要視されるのは、単によく売れたからという理由だけではない。T型によって、ベルトコンベアを用いた流れ作業が取り入れられ、大量生産という画期的な生産方法が確立されたからである。これにより低コスト、低価格が実現し、一部の裕福な人々のぜいたく品だった自動車は、大衆のものになった。それだけでなく、コンベアシステムは、あらゆる製造業に応用され、二十世紀の工業の発展に計り知れない影響を与えたのだ。
     さて、T型が与えた影響にはこんな例もある。1914年(大正3年)ころの話だ。静岡県光明村(現浜松市天竜区)というところで、8歳の少年が生まれて初めて自動車というものを見た。T型フォードだった。少年はその自動車に感動し、「いつかは自分で自動車を作る」という夢を持った。その少年とは、のちの本田技研工業の創業者、本田宗一郎である。
    宗一郎は戦後、まだ従業員数十人という小さな町工場で二輪車を生産していたころから、コンベアシステムを導入して大量生産を目指した。やがて彼は夢であった自動車製造業に乗り出すことになる。
    (資料番号:94002963)

  • 大島 波浮(はぶ)之港
    川瀬巴水/画
    1937年(昭和12年)
     波の静かな港に、3隻の小舟が繋がれている。湾の向こう側には新緑の中に佇む古い家並みが見える。版画家、川瀬巴水が描いた伊豆大島・波浮港の光景である。
     波浮港は過去の地震で崩れた火口湖を開削して、江戸後期に開かれた港である。外周を崖で囲まれた湾の形状から波が穏やかで、古くから風待ちの港として栄えていた。そんな港が1928年(昭和3年)、野口雨情作詞、中山晋平作曲のレコード「波浮の港」の発売により、一躍全国からの注目を集める。島暮らしのわびしさと素朴さを歌ったこの曲は大ヒットを記録し、翌年東京と大島を結ぶ定期船が毎日運航となると、歌の舞台を求めて多くの観光客が島を訪れるようになった。1931年に8万人ほどだった定期船の乗客数は、1934年には21万人にまで増加した。
     ブームの中で観光地化は進み、三原山の砂漠に乗用のラクダやロバが導入されたり、「滑走台」と呼ばれる大型の滑り台が設けられたりと、観光地らしいアトラクションも増えていった。
     巴水が大島を訪れたのは、日記によると1936年6月28日のこと。どのような取材をしたのか定かではないが、後に描かれたのは何気ない静かな波浮港の一場面だった。島の暮らしが変わりゆく中で、変わらない美しさをたたえた港を、彼はどのような思いで描いたのだろうか。
    (資料番号:91222107)

  • 3月10日の空襲で焼け残った財布と白絹
    1945年(昭和20年)

     くすんだ布製の財布と焼け焦げた革製の財布、そして、セピア色に変色してボロ布のようになった白絹。「母が終生大切にしていたものです」と、台東区の隅沢理江さんから当館にご寄贈いただいたこれら資料には、次のようないきさつがある。
     1945年(昭和20年)3月10日未明、隅沢阿以(あい)さん(当時35歳)は、これまでの空襲とは様子が違うと感じ、同居していた義父と義母、それに7歳の二女を先に逃した。警防団員である夫の義孝さんは、真っ先に消火活動に出動していた。逃げる際、義父は「当座の生活費が入っているので、若いお前が持って逃げておくれ」と、布製の財布を阿以さんに託した。阿以さんは持ち出すべきものを確かめてから、非常用リュックをかついで外に飛び出し、3人を追って隅田公園へ急いだ。
     公園はすでに大勢の人でごった返していた。そこに焼夷弾の火の粉が降り注いだ。荷物や人に火がついた。阿以さんの防空頭巾にも火がつき、髪が燃えた。そして次の瞬間、横なぐりの凄まじい猛火が人々の上を走った。
     阿以さんも全身に火傷をおったが、九死に一生を得た。三日後、義母の遺体が隅田川に漂っているのを義孝さんが見つけた。義父と二女はとうとう見つからなかった。
     阿以さんの手元に残ったのが懐に入れていた義父の財布と、自身の焼けこげた財布、そして白絹である。この白絹は、二女がいつもマフラーがわりに首に巻いていたものだった。阿以さんの長女理江さんは、当時山形に集団疎開をしていて難を逃れた。
    (資料番号:95001066〜95001068)

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