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  • 大坂城石垣普請大名工区割図
    江戸時代(1603〜1868)

     大坂城は、戦国時代に浄土真宗大坂本願寺があった地に豊臣秀吉によって築かれた。この時、全域を石垣で固めたことから、「石山」と呼ぶようになったという説が最近だされた。秀吉による壮大な石垣づくりの大坂城は、驚きで受け止められたことがうかがえる。
     大坂の陣によって豊臣家が滅亡し、およそ5年を経た時点で、江戸幕府は落城した大坂城の再建に着手した。北国および西国の諸大名が「御手伝普請」を命じられ、分担して築城にあたった。1620年(元和6年)から29年(寛永6年)まで行われた工事は3期に分かれた。外堀の西・北・東面を築いた第1期、本丸の第2期、外堀南面の第3期。期間ごとに工区が大名に振り分けられた。その分担を示す図がこの丁場割図である。
     大坂城再建は江戸幕府が威信をかけた大事業であったことは間違いない。事実、豊臣期大坂城の石垣は地中より発見されており、これを大量の土砂で被覆して、徳川期大坂城が建設されていたことが確認されている。工事の規模がいかに大きなものであったかが推し量られる。
     このように幕府による大坂城再建は、秀吉が築いた大坂城を埋め立て、その装いを新たにした。加えてこの工事に各地の大名を動員した。すなわち、豊臣家に代わる権力者徳川家の権威を天下に示す役割を、新しい大坂城は担っていたのだった。
    (資料番号:95203004)

  • 江戸高名会亭尽(えどこうめいかいていづくし)日本橋柏木
    歌川広重/画
    1835〜1842年(天保6〜13年)

     江戸の七夕には、現在にはない風流な行事が行われていた。それは、各家が前日の7月6日未明より2日間限りで、短冊や飾りを付けた大きな竹を屋上の物干し台に出すもので、およそ明治時代末まで続けられた。七夕飾りが空高く立ち並ぶ光景は、誠に壮観であったという。
     その様子を描いた本図は、浮世絵師歌川広重による錦絵で、日本橋万町(現・中央区日本橋1丁目)の料亭・柏木からの七夕の眺めを描く。2階の座敷より眼下に日本橋が見え、空には風になびく七夕飾りが林立する。遠くに江戸城の櫓も望め、女性の一人が身を乗り出してこの日ならではの景色を楽しんでいる。
     本図を含む「江戸高名会亭尽」は、江戸の有名な料亭を取り上げた、30図からなるシリーズ作品である。一般の庶民にはうかがい知れない高級料亭の室内やもてなしの内容を取り上げたものだ。月琴、提琴、洋琴という3種の中国の楽器を用い、「明清楽(みんしんがく)」の合奏を終えたところらしい。長崎を通して伝えられた異国の音楽は、ちょうどこの錦絵が出された天保年間に江戸でも知られるようになっていた。
     風景画を得意とした広重は、すばらしい眺望と珍しい音楽という七夕の特別なもてなしを描き、情緒豊かに江戸名所の料亭を映し出した。その刊行によりこの料亭の評判は一層高まったことだろう。
    (資料番号:91210157)

  • 駿河町越後屋之景
    歌川豊国/画
    江戸後期(1746〜1841)

     表題には駿河町越後屋とあるが、本画は画題としてよく描かれる日枝神社の山王祭と三井越後屋がコラボレーションした一枚である。
     山王祭は神田明神の神田祭と共に天下祭りと称され、その様子は豪華な山車(だし)や趣向をこらした練り物が神輿を守護しながら江戸城に赴くというものであった。天下祭りは将軍も上覧したが、あまりにも派手になったことから、江戸城には山王祭と神田祭が隔年で交互に入るように決められるほど盛況を呈した。
    片や、駿河町の三井越後屋といえば、「現金無掛値(げんきんかけねなし)」、「店先売」の商法が当たり、江戸を代表する大店であった。この越後屋を扱った錦絵で比較的見慣れている構図といえば、室町側から駿河町を望んだもので、中央に描かれた道を挟み、両側に三井の大暖簾を掲げた越後屋の建物が広がる光景であろう。
    本画は江戸を代表する祭りと大店が一枚のなかにまとめられたもので、贅沢なものとなっている。画面は山王祭の行列を主体とし、その背景には左斜めの位置から越後屋を描いている。
    また、三井越後屋の看板と並び、トレードマークともいうべき大暖簾が外され、代わりに幔幕が張られていることにも注目したい。山王祭では巡行路に面する大店でも暖簾を外し、祭りを祝っていたことがわかる。
    (資料番号:89204007〜89204009)

  • 解体新書
    杉田玄白/著
    1774年(安永3年)

     杉田玄白と言えば、小中学校の教科書に必ず登場する有名人だ。そして、彼が著した「解体新書」もほとんど必ずと言っていいほど図版が教科書に掲載される。
     江戸で蘭学が黎明期を迎えた1771年(明和8年)、玄白はオランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」を手に入れ、折しも「骨ケ原」(小塚原)で行われた腑分けを見学して、西洋の医学書に記される人体図の正確さに驚いた。そして、その翻訳に挑み、ついに「解体新書」の刊行という偉業が成し遂げられた。
     まだ本格的なオランダ語の辞書がなかった時代、玄白が羅針盤のない大海にこぎ出すような思いで苦心惨憺したエピソードは、あまりにも有名だ。
     しかし、この「解体新書」が生まれる背景には、かの有名な江戸の奇才、平賀源内の存在があったことはそれほど知られていない。源内と玄白は親友同士だった。後年、玄白が書いた「蘭学事始」によると、オランダ語を解さない2人だったが、蘭書の翻訳をいつか実現できないものかと、しばしば語り合ったという。「解体新書」の挿図は、秋田藩士小田野直武の手による。小田野は、源内から油絵を指南され秋田蘭画を築いた画家だ。
     玄白も源内も、ともに西洋の技術や学問の良いところを利用して、日本の国益に役立てたいと考えていた。昔も今も、優れた発明や発見は、「人の役に立ちたい」と願うところから始まる。
    (資料番号:86200691〜86200695)

  • 吾妻新橋金龍山真景及ビ木造富士山縦覧場総而(そうじて)浅草繁栄之全図
    歌川芳盛(二代)/画
    1887年(明治20年)

     1887年(明治20年)11月、浅草公園六区に富士山を模した展望施設「富士山縦覧場」が開業した。江戸時代後期、富士山信仰に由来する富士塚が江戸の各所に築かれたが、浅草のこの「富士山」は木骨モルタル造り。大人5銭、子どもは3銭の入場料を払い、らせん状の登山路で高さ32メートルの頂上を目指した。裾野には東海道五十三次の弥次喜多など、富士山にちなんだ物語の人形が置かれ、中腹には富士山の噴火で出来た「御胎内」と呼ばれる洞穴まで再現されていた。山頂からは東京の街が一望でき、はるか西には本物の富士山が見えたという。「木造富士山」は、富士山信仰とも結びつき人気を集めたが、89年8月に暴風雨で破損、翌年2月には取り壊された。
     さて、この錦絵は富士山縦覧場が開業した年に発行された。近代化による浅草の昨今の繁栄を主題とし、86年にレンガ造りへと変わった仲見世や、87年に隅田川の橋として最初に鉄橋へと架け替えられた吾妻橋が描かれている。そんな中、実際には粗末な造りだった木造富士山が悠然と描かれたのは、眺望を楽しむという近代的な娯楽を提供した最新の施設だったからだろう。
     木造富士山が取り壊された年と同じ90年11月、浅草には倍の高さのレンガ塔「凌雲閣」が開業した。
    (資料番号:87102102)

  • 東京名所両国川開き之光景
    黒木半之助/画
    1909年(明治42年)

     毎年100万人もの人出で賑う隅田川花火大会。かつて「両国川開きの花火」として親しまれた。
     1733年(享保18年)5月28日の川開きの日に、両国橋付近で前年の飢饉や疫病の流行による死者の冥福を祈って「川施餓鬼」が行われた。その際、鎮魂の花火を打ち上げたのがはじまりといわれる。
     本資料は明治末期の両国の花火を題材にした石版画だ。夜空には色鮮やかな花火が広がり、画面左には「川開」という文字の仕掛け花火が描かれている。明治時代には、江戸時代よりもはるかに明るく、色彩に富んだ花火が作られるようになり、両国の花火は質・量ともに華やかさを増した。
     中央にあるのは両国橋。1897年(明治30年)の花火の際、見物客が橋の端に押し寄せ、当時木製だった橋の欄干が崩壊する事故が起きた。描かれているのは、この事故を機に1904年に架け替えられた鉄橋だ。
     両国川開きの花火は幕末期の混乱や戦争、交通事情の悪化を理由に数度中断したが、78年(昭和53年)、会場を両国より上流に移し、「隅田川花火大会」の名称で再開した。2011年(平成23年)は東日本大震災の影響で、通常より1か月延期され、8月に開催されている。災害や自己で得た教訓を風化させないために、そうした事実を思い出しながら今年も夜空を見上げたい。
    (資料番号:87102359)

  • パンフレット「世界一の東京タワー」
    日本電波塔株式会社/発行
    1973年(昭和48年)

     1953年2月、NHK東京テレビジョンがテレビの本放送を開始した。テレビ時代が到来したことで、新たに放送用鉄塔が必要となり、各地に電波塔が建設された。高さ333メートルの東京タワーは58年12月23日、関東一円をカバーする総合電波塔として完成した。パリのエッフェル塔の320メートルを抜いて、当時としては世界一の自立型鉄塔だった。
     本資料は、タワーの来場者に配られたパンフレットで、表紙には青空に向けてすっとタワーが伸びていく様子が描かれている。全国から集まった多くの修学旅行生も手にしたことだろう。
     東京タワーの建設は「タワー博士」として知られる内藤多仲(たちゅう)が指導した。内藤は1886年(明治19年)、山梨県に生まれ、東京帝国大学建築学科に入学。耐震構造学の権威・佐野利器(としかた)に師事し、彼から学んだ構造学をより実学的に展開した。名古屋テレビ塔や通天閣、さっぽろテレビ塔など多数のタワーを設計し、そのほとんどが今も立派に活躍している。
     中でも、敗戦からわずか13年で「世界一の構造物」として立ち上がった東京タワーは、日本中の人びとに計り知れない勇気を与えた。「エッフェル塔のまね」「建物が曲がっている」などと言われることがあったが、タワー博士はそれについての答えも、ちゃんと用意していた。
    「塔が塔に似るは人が人に似ると同じであり、また曲ること自体、朝は西に、夕は東に、太陽熱の作用でこれは物理的自然である。綿密に測定したところ何等異常はない」。さすが、日本が世界に誇るタワー博士ならではの至言といえよう。
    (資料番号:12000002)

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